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2014年04月19日

『現代の起点 第一次世界大戦』山室信一・岡田暁生・小関隆・藤原辰史編(岩波書店)

現代の起点 第一次世界大戦 →紀伊國屋ウェブストアで購入

 2014年は、第一次世界大戦開戦100年目にあたる。ヨーロッパを中心に、それにちなんだ企画が、つぎつぎにおこなわれはじめている。日本でも、いくつもの出版が出はじめている。本シリーズ全4巻は、7年間に100を超える研究会の成果を凝縮したものであり、「日本初の本格的論集」にふさわしい内容になっている。各執筆者は、個々の専門領域を背景にしているとはいえ、研究会で議論されてきたことを踏まえて、それぞれの役割を果たしている。

 2007年にはじまった京都大学人文科学研究所における共同研究班「第一次世界大戦の総合的研究」では、「第一次世界大戦のもった歴史的な意義とその現在性を二一世紀の日本という時空間から探って」いった。編者を代表して、山室信一は巻頭の<シリーズ総説>で、つぎのように説明している。「しかしながら、それは議論を「日本とアジアにおける第一次世界大戦」という問題に限定するということを意味するものではない。ましてや、ユーロセントリズム史観を日本中心主義史観やアジア中心史観に置き換えようとするものではない。私たちが志向しているのは、第一次世界大戦を日本とアジア、ヨーロッパ、アメリカそしてイスラーム世界やアフリカといった空間範域間の相互交渉過程のなかで捉えたいということなのである」。

 さらに、「欧米の学界においても第一次世界大戦をヨーロッパ戦争とだけ捉える見方に対して異論が唱えられ、グローバルな、あるいはトランスナショナルな戦争としての側面に着目する必要があるとして、世界的な研究交流体制を組織する動きに拍車がかかってきている」状況を踏まえて、「第一次世界大戦前後の世界を共通の分析対象としながら、それぞれのテーマに即して仮説と結論を結ぶ論証のプロセスを示すことが、本論集の課題」であるとしている。その前に、つぎのような説明がある。「こうした国際的な研究交流が進むなかで、私たちは第一次世界大戦を経験した日本において、戦争と平和に対するスタンスという問題だけではなく、政治や経済をはじめとして文学・芸術・学知さらには生活世界などのありようが総体としてどのような衝撃をうけ、それが現在に至るまでいかに持続しているのか、を明らかにすることを期してきた。総力戦という様相を時間の経過とともに強めていった第一次世界大戦は、それが総力戦化という、まさにその途上のプロセスにおいて人間のあらゆる活動に影響をあたえざるをえなかったからである。だがしかし、あらゆる問題を第一次世界大戦の衝撃に還元して捉えることは、また違った新たな偏見を生むことになる。第一次世界大戦以前に既に生じ、それが第一次世界大戦を経ることによって加速されただけの変化もあったかもしれないし、あるいは大戦の時期に単なる並行現象として起きたにすぎない変化があったかもしれないからである。そうした因果関係や影響関係を見きわめるために、私たちは「世界性」とともに、「総体性」と「持続性(現代性)」という基軸をもって、それぞれの研究対象に迫ることを自らに課してきた。もちろん、「世界性」「総体性」「持続性(現代性)」という三つの基軸をもって対象に向き合うということは、すべてをそれに当てはめるという意味ではない。第一次世界大戦には、未だ世界性がない、総体性に欠ける、現代性は大戦以前に始まっていた、といった結論に導かれる対象や分野もあるかもしれない。その意味で三つの基軸は、リトマス試験紙ないしは分光器といった機能をもつ印照基準(フレーム・オブ・レファランス)として設定されるのであって、結論そのものを拘束するものでは決してない」。

 「編集にあたって」では、つぎのように別の表現で、本論集の目的が述べられている。「第一次世界大戦はヨーロッパ内戦でもなければ、第二次世界大戦への前哨戦でもない。それは人類史上最初の世界を巻き込んだ戦争であり、社会のすべてを動員せんとした戦争であり、人の精神のありようを根底から変えてしまった戦争でもあった。そして二一世紀に至って、私たちは様々な位相において、第一次世界大戦が残した負の遺産に呪縛され続けている。このシリーズは、現代世界の幕開けを告げる出来事としての第一次世界大戦を、「世界性」「総体性」「感性」「持続性」という四つの視点から、勃発より百後の今日、改めて問い直そうとするものである」。

 そして、「群集心理のなかで、戦争は避け難い宿命と観念され、「ものすごい数の無意味な死」が積み重ねられていった」にもかかわらず、「現代」も戦争は絶えることはない。なぜかを問いながら、つぎのように述べて<シリーズ総説>を締め括っている。「第一次世界大戦において「戦争宣伝」が利用され、繰り返し幻滅を味わったにもかかわらず、人々はそれを信じ続けるように仕向けられた。それは「個人の一人一人においてであれ、民族においてであれ、強烈な感情は無限に引き延ばされるものではない」ことを知悉している軍隊によって、人工的な煽動が持続的な「投薬(ドーピング)」として施し続けられたからである。そして、数カ月で終わるはずの戦争が長期化するにつれ、前線の兵士も銃後の国民も人工的な煽動と刺激を受け入れ、それを娯楽の糧に転ずることによって苦難から逃避しようとしたからでもあった」。「もちろん、四年三カ月に及んだ第一次世界大戦において、人々は何百回も「戦争宣伝」に幻滅したはずである。しかし、そうであったからこそ、第一次世界大戦の教訓を得て「戦争宣伝」は総力戦を遂行するために、絶対不可欠なものとして洗練されていった。それは宣伝戦・思想戦として第二次世界大戦へと人々を誘っただけでなく、現在ではさらに巧妙に練り上げられ、安全保障と自由の名の下で戦争の絶えない世界を奇異とも思わない心性を育み続けている。そうした「現代の起点」となった第一次世界大戦の諸相を、全四巻の本論集で明らかにしていきたい」。

 第一次世界大戦を欧米の学界がグローバル/トランスナショナルにとらえようとしていることは、歓迎すべきことだが、実際の研究/教育の現場でナショナル/リージョナルな歴史観から脱することは、それほどたやすいことではない。主戦場とならなかった日本などのほうが、グローバル/トランスナショナルに考察することがたやすいかもしれない。100年が経って、欧米と日本などとの研究の交流を通して、いま第一次世界大戦研究は、「世界大戦」としての研究がはじまったといえるだろう。

 第二次世界大戦が日本の敗戦をもって終了してから、70年が経とうとしている。その間、日本人は「巧妙に練り上げられた戦争宣伝」に惑わされることなく、平和を維持してきた。いまわたしたちは、国家安全保障会議(日本版NSC)設置法や特定秘密保護法の成立、国家安全保障戦略と防衛大綱の閣議決定の問題などに直面し、第一次世界大戦から学ぶことによって、改めて「巧妙に練り上げられた戦争宣伝」に惑わされない知恵と術を身につけなければならない状況になっている。なんともむなしい。


【読者のみなさんにご挨拶】

 丸9年間続いたこの「書評空間」も、システムの老朽化などで、4月20日をもって更新作業が停止されることになりました。この9年間、いろいろと支えてくださった読者のみなさんに感謝申しあげます。

 「書評空間」に参加することを勧められて、お引き受けしたのは、昨今まったく本を読まない文学部の学生の存在があったからです。文学部の学生が社会に出て戦力になるのは「読み書き」ができることで、最低、週に1冊を読むのは当たり前だ、と学生に常々言っていたからです。もう何年も言っても無駄だとむなしさを感じていたときだったので、自ら実践して示そうと思いました。最初の1年間、毎週更新をしたのは、そのためです。しかし、それまでの蓄積がある1年目はなんとかなりましたが、2年目には息切れがし隔週にしました。4年目になって、ようやく力が抜け、書けるときに書けばいいと思うようになりましたが、9年間、2週間以上空けることはまったくありませんでした。片道2時間の通勤時間を利用して、読書を重ねました。

 学生に「週1冊」のほかに言っていたのは、いまの時代に必要なのはスペシャリストであってジェネラリストでなければならない、ということです。文学部の歴史学教室に所属していた関係で、読書習慣が身についている学生のなかに、自分の専門分野の本しか読まない者がいることを知っていたからです。したがって、それも実践して示そうと思いました。なかには、最後まで読んでも理解できない本がありましたが、投げ出さずに最後まで読んだことで多少理解できたものもありました。もうひとつ、学生に伝えたかったことは、学ぶ姿勢です。本から学んだことを主体に書くようにし、批判はおさえることにしました。はじめは、著者目線で理解した後、本の内容を自分のことばで要約し、コメントを書くようにしました。草稿を書いてから2~3週間かけて改稿しアップしていましたが、だんだん引用文だらけで、書いてすぐにアップするという状況になってしまいました。引用文は1字1句照合して、原文通りにするよう努めていたのですが、それも2008年秋に右眼が硝子体剥離し、満足に校正ができなくなりました。充分なものを読者にお届けできない後ろめたさがありましたが、若い人たちが初めて書いた本を送ってくれると、紹介せずにはおられませんでした。励ますつもりだったのですが、逆にわたしが励まされていたようです。

 お蔭さまで、初対面の人になんども「書評ブログ読んでます」と言われ、自宅の前で撮った琵琶湖と比叡山を背景にした写真から、すぐにわたしに気づいてくれました。1年前に、職場が「都の西北」に変わり、自宅も池袋の繁華街の一郭に移って、通勤時間を利用した読書もできなくなりました。学生も大学院生だけ、7~8割が留学生で、国際関係学や地域研究を専攻、と激変しました。それでも、毎週または隔週にアップし、引きつづき生活の一部になっていました。更新停止にともない、今後どうするかについては、まだはっきりしません。もはや書評とよべないものですが、本の紹介は続けていきたいと考えています。書くことを前提に読むことと、ただの読みっぱなしだけとでは、理解力がまったく違うということを学んだからです。この体験から、学生に伝えたいことがもうひとつ増えました。「本を読んだら、ひと言でもいいから、なにか書く習慣を身につけてください。そうすれば、読み方がまったく違ってきます!」。

 長いあいだ、どうもありがとうございました。また、いつかどこかでコミュニケーションできることを願っています。

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『外交官の誕生-近代中国の対外態勢の変容と在外公館』箱田恵子(名古屋大学出版会)

外交官の誕生-近代中国の対外態勢の変容と在外公館 →紀伊國屋ウェブストアで購入

 日本とアメリカのTPP(環太平洋経済連携協定)交渉が、長引いている。かつて、交渉力のない国は不平等条約を押しつけられたり、拒否して軍事力で受け入れさせられたりした。しかし、それが将来の紛争の原因のひとつになったことは、その後の歴史が物語っている。互いが納得して締結するためには、交渉に携わる人びとの知識と信頼関係が重要になる。だが、そのような人材は、はじめからいたわけではない。

 近代に欧米列強がアジアに進出したとき、日本(徳川幕府)にみられるように、はじめアジア各国は欧米と同じ土俵(近代法)で交渉することを拒否した。しかし、それがいつまでも通用しないことがわかると、近代法を学び欧米列強と対等に交渉しようとした。いち早く対応した日本は、近代法への対応が遅れていた朝鮮やシャム(1939年からタイ)に不平等条約を押しつけた。では、中国はどうだったのか。1880年前後に、日本と清国は、奄美から尖閣諸島を含むはずの先島諸島まで、琉球列島の帰属問題について交渉した。そのとき実際に交渉した人びとはどのような人で、それは今日の問題にどう繋がるのか。そのようなことも、わかるのではないかと期待して、本書を読みはじめた。

 本書「序論」冒頭で、著者、箱田恵子は、つぎのように本研究のきっかけを述べている。「科挙制度の長い歴史を有する中国において職業外交官はいかにして誕生したのか。本書は坂野正高が投げかけたこの問いに答えようとするものであり、またこの問いに答えることが近代中国外交史研究に対して有する意義を明らかにせんとするものである」。

 外交官試験制度がなかなか確立しなかった中国で、著者が注目したのは「一八七〇年代半ばから主要国に設置された清国在外公館」であった。その理由は、「在外公館こそが、清末の中国において西洋国際関係の受容に主導的役割を果たし、民国外交部の基礎を築いた職業外交官が誕生する母体となったからである」。「一国の代表機関である在外公館の位置づけが改めて問われなければならないのは、清末中国における外交のあり方が関係して」おり、「中国における外交のあり方、あるいは対外態勢の変遷については」、すでに「清末の三つの段階、つまり「夷務」「洋務」「外務」の時代を経て、民国の「外交」につながっていくと指摘」されている。それを踏まえて、著者は「清国在外公館と「洋務」との密接な関係」に注目し、つぎのように説明している。「ここで言う「洋務」とは先ほど述べたように、通商や軍事、そして外交を含む対外関係の総体を指す。「洋務」という近代化を目指す政策は本来、読書人や政府当局によって担われるべき政策であったが、伝統的支配原理に抵触するがゆえに、実際には中央政府ではなく、地方の総督・巡撫の主導のもとに展開され、それが近代中国の最大の特徴である地方分権化をもたらしたことはよく知られている」。

 「序章」では、先行研究の成果を整理し、本書の課題を最後につぎのようにまとめている。「国家の代表機関である在外公館も、実質的には地方の洋務機関である「局」と同じ体制外的機関としての性質を帯びており、特に両者は人材面で基盤を共有していた。馬建忠がそうであったように、在外公館の構成員の多くは地方督撫(総督・巡撫)のもとで「洋務」に従事していた人材であった。この体制外的機関が、二〇世紀初頭にいかにして正規の制度の中に定置されたのか、地方分権化をもたらした「洋務」と出自を同じくしながら、この在外公館からいかにして国家の統合を象徴すべき職業外交官が誕生したのか、この過程の中に中国において形成され始めた近代外交の特徴が反映されているだろう」。「本書では、以上のような問題関心に基づき、「洋務」の一部として始まった清国在外公館において、外交それ自体の価値が認識されていく過程と、この外交交渉の現場において外交人材が養成され、その中から民国外交部の基礎を築く職業外交官が誕生する過程を明らかにしていきたい」。

 本書は、序論と3部8章、補論、結論からなり、各部の冒頭に簡略な説明がある。「第Ⅰ部 清朝在外公館の設立」では、つぎのようにまとめている。「清朝による常駐外交使節および領事の派遣に至るまでの過程とその意味を改めて問い直し、徐中約の見解との差異を示したい。それにより、在外公館の開設を、中国による国際社会への仲間入りの最終段階ではなく、むしろその起点と捉え、それ以降の変化に重点を置く本書の問題意識を明らかにすることとする。これまでの研究史を方向づけてきた徐中約の研究を批判的に継承すると同時に、在外公館をめぐる研究の新しい方向性を提示したい」。

 「第Ⅱ部 一八八〇年代以降における中国外交の変化」では、3章にわたって駐米公使による在米華人襲撃事件に関する交渉、駐英公使の滇緬界務交渉を取りあげ、「一八八〇年代以降の清国在外公館では、西洋の国際関係を積極的に受容し、清朝をその中に位置づけようとする外交活動が展開されていたことを確認した」。「第Ⅲ部 「外交官」の誕生とその特徴」では、「民国における職業外交官の活躍に道を開いたとされる一九〇六~〇七年の外交人事制度改革を、一九世紀後半以来、在外公館で進められていた外交人材養成の流れとの連続性において捉え、職業外交官が誕生する過程を明らかにする」。

 そして、「結論」で、つぎの3点などを明らかにしたと述べている。「本書は、科挙の伝統を有する中国においていかにして職業外交官が誕生したのかという問いに答えるため、清国在外公館に注目し、常駐使節の派遣に至るまでの経緯から、設立後の在外公館において西洋国際社会に対する意識の変化と外交人材の養成が進み、そうした在外公館での変化を基礎として職業外交官が誕生するまでの過程を明らかにした」。また、「本書では個々の外交交渉をつなぎ中国外交の変容過程を総体的に捉えるため、在外公館の組織と人事に注目し、民国外交部の基礎を築く職業外交官が誕生するまでの外交人事制度の展開を動態的に論じた。その中で、日清戦争前から民初に至るまでの外交人材の人的連続性が明らかとなると同時に、連続していたのは人的構成だけでなく、国際認識や外交観においても連続性があることが認められた」。そして、「本書は在外公館を洋務機関と同様の性質を有するものとする観点を出発点とし、外交における「洋務」の位置を明確にせんとしたことで、これまで「夷務」の観念と「民族主義」的「外交」の観念によって分断され見落とされてきた清国在外公館の役割と、その中国外交における位置づけを明らかにした」。最後に、「このように、在外公館における職業外交官の誕生過程は、清末における中国の対外態勢の変容とその特質を端的に示しており、ここに職業外交官の誕生を問うことの中国外交史研究における意義があるのである」と、結んでいる。

 冒頭の日本との領土問題・国境問題について、具体的な回答を得ることはできなかったが、当時の清朝外交については、基本的なことが得られた。交渉相手国や対象国・地域でも、対応が違っていたことが、つぎの説明からわかる。「清朝の在外公館が主要国に設立された一八七〇年代後半以降、中国の周辺では危機が連続して起こる。いわゆる「辺境の喪失」である。それは、清朝中国を中心とする伝統的な国際秩序が「条約体制」の原理に基づく再編を迫られ、緩衝地帯たる朝貢国が清朝の宗主権から切り離されていく過程であった」。「だが、琉球やベトナム、朝鮮に関しては、清朝とこれらの国々との宗属関係をめぐり、日本やフランスとの間で激しい対立に発展したのとは対照的に、ビルマに関しては、清英間で締結された協定において、イギリスはビルマ人による清朝への朝貢継続を承認した」。

 また、「在外公館における外交人材の養成において、駐在地域によって差異が生じていた点も重要である」とし、そこから日本と中国の外交関係の歴史的原点の特殊性をつぎのように明らかにしている。「ヨーロッパの公使館では職業外交官の養成が進んだ一方、駐日公使館からはそのような人材がほとんど現れなかった。日本の脅威を契機として海防論議の中で常駐使節の派遣が決定されたにもかかわらず、当初は日本語通訳を養成するシステムさえ整ってはおらず、最初の日本語学校は中国国内ではなく、駐日公使館に併設された。駐日公使館で職業外交官が誕生しなかったことは、日本と中国の関係が結局は近代西洋的な外交関係とは異なるものであったことを端的に表していよう」。

 このように日本と中国の近代外交史の特色を明らかにすることによって、今後の外交関係がみえてくる。また、中国と国境を接する東南アジアの国ぐにとの歴史的な外交関係から、現在起こっていることが読み解けるような気がした。「あとがき」では、「次の目標」として「清末・民初の外交官たちの具体的な外交活動を検討すること」が掲げられており、そこから学ぶことも多いと期待している。

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2014年04月15日

『人の移動事典-日本からアジアへ、アジアから日本へ』吉原和男編集代表(丸善出版)

人の移動事典-日本からアジアへ、アジアから日本へ →紀伊國屋ウェブストアで購入

 この事典は、項目の性格からすくなくとも二通りの利用の仕方がある。ひとつは、これまでの研究成果を理解するために読む、ストックの情報としての利用の仕方である。もうひとつは、現状を理解するために読む、フローの情報としての利用の仕方である。前者の有用性については語るまでもないだろうが、後者は今後どう変わるか、何年後かに読むとまた違った読み方ができる楽しみもある。加えて、巻末の28の付録(4つの法令、18の統計、6つのアソシエーション)が役に立つ。眺めているだけでも、いろいろイマジネーションがわいてくる。

 本事典の重要性は、今日のグローバル化のなかで人の移動が活発になってきていることから容易に想像がつく。「刊行にあたって」では、つぎのように説明している。「<人の移動>を包括的にとらえて総合的に研究することは、このような時代にあって日本の現代および近未来の人口構成に起因する諸問題に関わる多くの議論に貢献できるであろう。ここでいう<人の移動>とは、従来は国際移住・国際労働力移動・移民、さらに観光(ツーリズム)に伴う移動など、学問分野あるいは方法論の違いからさまざまな用語で表現されてきた現象を包括的にとらえようとする試みであり、英語ではおそらく<マイグレーション>が相当する。日本では「移民」という用語をその名称に含む学会や研究組織がいくつもあるが、基盤になる学問分野の違いから「移民」という用語の含意にはズレがみられることがある。また、「移民」という用語にこだわらずに進められる研究も多い」。

 「<人の移動>は他の社会現象にもまして単一の学問分野からだけでは解明しにくいため、基礎的な総合研究をめざす複数の分野での<人の移動>についての先端的な課題を、本事典では六つの部門に分けて取り上げる」。第Ⅰ部「近現代日本と人の移動」では、「日本人が海外のアジア諸国へ出かけて行った結果として、それ以降の日本へのアジア諸国からの一定規模の人の移動が生まれたことに注目し」、歴史的に4つの時代に分けて論じられる。第Ⅰ部にたいして、第Ⅱ部から第Ⅴ部までは、「アジアから日本へ来た人々に関わる現状を主に考察している」。「第Ⅱ部「グローバル化と移民労働者」ではアジアからの外国人の主な来日目的である経済活動が取り上げられるが、グローバリゼーションの概念やその関係での<人の移動>が多面的に論じられる」。「第Ⅲ部「現代アジアの人の移動と日本の対応」では、アジアから来日した人々に関わる入国管理政策と彼らを受け入れるわが国の制度的対応や国民統合について論じられる」。「第Ⅳ部「アジア系コミュニティと構築されるエスニシティ」では、日本国内で形成されるアジア系住民と彼らのエスニシティおよびその表象のされ方が論じられる」。「第Ⅴ部[変容する移民コミュニティと多重化するメディア」では、日本におけるコミュニティやネットワークの形成と変化、生活実態およびコミュニケーション媒体の発達と多様化が論じられる」。そして、「最後の第Ⅵ部「観光とライフスタイル移住」では、出入国目的としての観光および近年の日本人にもみられるようになったライフスタイル移住が考察され、アジアにおける<人の国際移動>が論じられる」。

 冒頭で述べたように、第Ⅰ部はストックの情報として、オーソドックスな事典の読み方ができる。だが、第Ⅱ~Ⅵ部はグローバル化の進展にともなって、大きく変わるものもあるだろう。巻末の付録とあわせて、2013年時点の「人の移動」を理解したうえで、今後の変化に注目したい。そのためにも、本書の出版はひじょうに有意義なことであり、第Ⅱ~Ⅵ部の追跡情報も欲しいのだが・・・。

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2014年04月08日

『自民党と戦後史』小林英夫(KADOKAWA)

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 「なぜ、自民党は長期にわたり政権を担当できたのか」という幅広の帯にある問いに、著者、小林英夫は「はじめに」で、つぎのように答えている。「まずは保守系の多彩な人材を抱えてきた、あるいは吸収しつづけた、その力をあげねばならない。そしてその人材吸収の範囲は幅広いし、党史の人脈をたどっていくと、その力は戦後突然に始まったものではなく、戦前、否、さらには明治の日本憲政史出発時から蓄積されてきたものなのである」。

 著者は、専門の満洲史や日本企業史の研究実績をいかして歴代政権を評価し、現代日本政治のこれからを読み解こうとしている。まず、戦後の日本の長期の高度成長を保障したのは、東南アジアという安定した海外市場を新たに得たことであるとし、そこには岸信介の「満洲組」人脈と満洲での見果てぬ夢があったことを、つぎのように述べている。「岸の組閣後の動きを追ってみると、明らかに一つの高度成長プランが浮かびあがる。それは、戦前の満洲国での官僚主導による戦時高度成長の見果てぬ夢を戦後のなかで実現しようという動きである。石橋内閣時代にその端緒がみられ岸内閣のもとで「新長期経済計画」として結実したその政策は、官の強力な支援体制下で、金属、機械、化学といった重化学工業を成長させるという意味では大いなる共通性を有していたといえる」。「中国やソ連との経済関係を断って、その代替地を東南アジアに求め、賠償を解決することでその足場を築いた政治家が岸信介である」。そして、「岸の東南アジアへの経済外交を具体化させる機構として活動」したのが、アジア問題調査会である。その事務局長が、岸をとりまく「満洲組」のひとりであった藤崎信幸で、アジア問題調査会はのちに通産省所管の特殊法人アジア経済研究所に繋がる。「岸や椎名[悦三郎]らの「満洲人脈」が中枢を占めた一九五五年から六〇年前後までは、次官、局長クラスはほとんどが「満洲人脈」の息のかかった、いわゆる「椎名門下生」で固められていたという」。

 岸についで東南アジアを重視したのは、福田赳夫であった。「彼は経済政策では、池田勇人、田中角栄とは対照的に、安定経済成長を唱えて軌道を修正し、外交政策では対アジア平和外交を推進した。一九七七年八月に福田は東南アジア歴訪の旅に出発し、マニラで「心と心のふれあい」をうたった「福田ドクトリン」を発表した。福田の東南アジア訪問は、三年前の田中角栄の訪問時とは様相を異にしていた。田中は、反日暴動の嵐にさらされたが、福田は東南アジアでは好感をもって迎えられた。この間の、田中訪問時の反発以降の企業の現地とけこみの努力もさることながら、東南アジアでも七〇年代前半の「民主化の時代」は終わりをつげ、後半は経済成長の重要性を認識する時代へと変わり、日本の経済力が必要な時代が到来してきていたことが大きかった。さらに中国に対しては、翌七八年八月に日中平和友好条約に調印した。ソ連の覇権主義に反対する「反覇権主義」を掲げて、尖閣諸島問題を棚上げにしての条約調印を行った」。

 著者は、「自民党の衰退は田中内閣をもってはじまり」、「「角影」の下では中心派閥が力をふるえず、また新規の人物が登場し実力をふるうことができないこと自体が自民党の衰退過程にほかならなかった」と結論している。「中曽根内閣が打ち出した内需拡大はバブル経済を生み出し、九〇年代以降の「失われた一〇年」の原因をつくりだした。日本経済が元気な中曽根内閣の時代にIT産業などの二一世紀型新産業への移行を準備できていたら、その後の日本経済がかくも苦しむことはなかったであろうと思われる」。「中曽根内閣同様、グローバル化の波がひたひたと押しよせ、社会主義体制が崩壊する前兆が随所にみられるこの時期[竹下内閣]に、なんらの対策も政策も打ち出せず、他の韓国や台湾などのアジアの国や地域が必死で二一世紀型産業ともいうべき半導体産業の育成を模索し、日本へのキャッチアップを官民あげて推進しているとき、アメリカからのプレッシャーがあったとはいえ、自民党の指導者が、かくも無邪気で牧歌的な国内需要優先型政策を実施していたというのは驚きというほかはなかった」。

 その自民党が、2度政権を失いながら復活できたのは、長年培ってきた底力ゆえか? 著者はそれをつぎのように否定し、民主党に期待を寄せている。自民党は八〇年代になると、「これまであった派閥間の抗争を通じた柔軟力の育成は影を潜め、政策の幅は著しく狭まり柔軟性を喪失し、派閥の強靱性も喪失していった。他方、非自民の中核である社会党でも七〇年代までの思想分岐は希薄となり、国対族が次第に力をつけはじめ議会ルール化の一翼に社会党も包摂されはじめていた。全体として自民党の初期にあった強靱性も柔軟性も失われていったのである」。そして、二〇一二年に自民党は再々度政権に復帰したが、「もはや旧派閥の力はなく、官邸主導の一極集中の強靱性のみが前面に登場し、かつての柔軟性は微塵もみられない状況となっている。したがって、一見強靱そうにみえるが、内外の変化に即応できる柔軟性は具備していない。したがって、経済成長の見通しが狂ったとき、あるいは予期せざる国際関係の変化(日中関係の激変など)が生じたとき、これに対応できるシステムが整っているわけではない。そのときは受け皿を失ったまま崩壊の姿が日本政治の前途に広がっていくのである」。

 それにたいして、1996年の結党から18年、「さしたる成果をあげることなく終わった三年三か月に及んだ」政権を経験した民主党の課題は、「一つは民主党らしい具体的なマニフェストづくりであった。当面の選挙目当ての口当りのよいスローガンだけではなく、財政的に裏づけをもった日本の将来展望を見通したプランづくりが求められたのである。そのためには、党の指導部の若返りと純化、政策で一致する必要性、党内の統一性が必要とされた」。「二つには、政治家として必須な研究と勉強と体験であった。・・・寄合世帯は出発時点から明らかだった。しかしその体質からの脱皮が課題だったのである。さいわい全体の六〇%を超える議員は、民主党が誕生したのちに入党し議員となった比較的若い世代の人々である。彼らがこれまでの経験を踏まえ失敗の原因を検討し、総括して再出発したときに、民主党は自民党と対決できる政党となるに相違ない」。「結党以降、年を経ていない民主党が、二〇一二年暮れの下野の経験を総括して生まれ変わることが、二一世紀の健全な政治経済軍事外交展開の重要な鍵であることは疑う余地がない」。

 「おわりに」で、著者は「多くの日本国民が拭い難い安倍総理の時代錯誤意識を感ずるのである」と批判する。本書を通読した者にとってはよくわかるが、安倍政権支持率からさらに多くの日本国民がそうは感じていないだろうことが想像される。貿易赤字の肥大化、財政赤字のますますの深刻化のなかでの「日本経済の建て直し」戦略に疑問をもつのはたやすいが、国家安全保障会議(日本版NSC)設置法や特定秘密保護法の成立、国家安全保障戦略と防衛大綱の閣議決定の問題は、少しは勉強しないと歴史と国際情勢の把握が充分でないことからきていることがわからない。疑問をもっても経済状況がさほど悪くなければ黙る、時間的にも空間的にも視野の狭い国民に、「安倍総理の時代錯誤意識」をわかってもらうことは難しい。残念ながら、その術は本書に書かれていない。

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2014年04月01日

『9・30 世界を震撼させた日-インドネシア政変の真相と波紋』倉沢愛子(岩波書店)

9・30 世界を震撼させた日-インドネシア政変の真相と波紋 →紀伊國屋ウェブストアで購入

 「9・30」と聞いて、すぐにわかる人はそれほど多くないだろう。それが、「世界を震撼させた日」であると言われても、怪訝に思うだけである。本書の核心は、そこにある。これほど重要な日であるにもかかわらず、事件が起こったインドネシアでも多くが語られず、それが日本を含む世界に大きな影響を与えたことがほとんど知られていないのはなぜか。本書は、そのなぞに挑もうとしている。

 9月30日に、なにが起こったのか。本書表紙見返しに、簡潔にまとめられている。「一九六五年一〇月一日未明に、ジャカルタで軍事政変が勃発、半年後の一枚のスカルノ大統領が発したとされる命令書により、権限はスハルトへと移った。中国では文化大革命が起き、東南アジアにアセアンが成立し西側反共主義陣営の結束を固め、日本は大規模な経済進出の足掛かりをつかんだ。政変を主謀したとされたインドネシア共産党は非合法化され、党員は逮捕され殺され政治犯にされた。国内全土に大虐殺の嵐が吹き荒れ、インドネシア経済を担っていた華僑への迫害がエスカレートしていく。膨大な一次史料と先行研究を踏まえ、いまだ謎に包まれた事件の真相を追求し、インタビューと現地取材を通して、事件の波紋の全体像を活写する」。日本では、「9・30事件」として知られる「事件」は、実際には10月1日に起こっている。にもかかわらず、「9・30」と呼ぶのはなぜか。この呼称にも、この事件の「真相」が隠されていることが、本書からわかる。

 著者、倉沢愛子は、本書執筆の背景をつぎのように説明している。「この一連の虐殺事件に関しては、インドネシアではまったく抹殺され続け、「あたかも何もなかったかのように」沈黙が強いられてきた。そして欧米諸国もそれを支えた」。「そのような状況が大きく変わったのは、一九九八年に、虐殺の責任者であるスハルトが三二年間の独裁の末に倒れ、「民主化」が始まってからである」。「筆者も二〇〇二年から、自らの足で虐殺者、被害者、そしてそのすぐ周辺にいた一般市民たちに対して集中的な聞き取り調査を始めた。それまで三〇年間にわたってジャワ農村の社会史を研究してきた筆者は、そのフィールド調査の過程で、村落の当局者によって調査の対象からは常に排除され、接触もままならない人たちが村のいたるところに数多く存在することが無性に気になっていた。事件の犠牲者の家族や元政治犯たちである。それは「喉に刺さった小骨」のように不愉快に私の体に残り、いつか九・三〇事件を大々的に明るみに出していかないと、村落の社会史は理解し得ないことを常々痛感するようになっていた」。

 この大きな変化を享受したのは、著者だけではなかった。本書を通読すると、ごく最近書かれた参考図書・論文が目につく。事件から50年が経とうとしている現在、アメリカ国務省文書をはじめ、各国の公式文書の解禁時期が重なったことも執筆を容易にした。だが、「著者からのメッセージ」で、「その真相をいまここに解き明かしたい」という意気込みを挫くように、まだまだ公開されていない資料があり、沈黙を守る人びとがいる。本書は、最新の研究状況を踏まえ、「真相」への第一歩を踏み出しただけかもしれない。しかし、その一歩はひじょうに意味ある重い一歩であることが、本書を通じて伝わってくる。

 そして、この事件の真相の解明は、わたしたち日本人にとって無縁ではない。著者は、「あとがき」をつぎのように締めくくっている。「この本を通じて私が訴えかけたかった一つのことは、多くのインドネシアの住民がこのようなとてつもない苦しみを被っている中で、「内政干渉」という便利な言葉を理由に日本も欧米諸国と横並びで口を閉ざしたことである。共産主義者であるポル・ポトの虐殺に対しては大声をあげて批判した国々が、である」。「九・三〇事件のあとインドネシアでスハルト新体制が確立するとともに、この国への大規模な日本の経済進出が始まった。高度成長を遂げた日本の経済がその余力のはけ口を必要としていたとき、インドネシアは日本企業にとってかっこうの投資市場となり、それを支えるための政府の経済援助(ODA)も大量に投入された。これを契機に、やがて日本は世界の経済大国へと上り詰めていくことになるのである。共産主義者が逮捕・虐殺され、強いナショナリストであったスカルノが排除されたことによって初めて可能になった大転換であった。そのように考えるとき、この事件は私たちが長いあいだ享受してきた富や繁栄と無関係ではなかったのだということを改めて痛感し、深いため息を禁じえない」。

 当時大学生だった著者にとって、九・三〇事件は「決して「歴史」ではなく、「同時代の」出来事で、しかも遠い世界のことではなく、自分たちの住む日本と深く結びついた出来事だった」。だが、当時小学生だったわたしにとって、同じ年に始まったアメリカによるベトナム北爆は、週刊漫画雑誌の巻頭を飾っていたこともあって「同時代の」出来事であるが、九・三〇事件は「歴史」で、しかも東南アジアに関心がなければ見すごしていた事件だろう。この差は、わたしたちにとってひじょうに大きく、問題としなければならない。わたしたちは、じつに都合よく自分たちの勝手で、記憶する歴史と忘れる歴史を選別し、次世代へ繋げている。日本と中国や韓国とのあいだの歴史認識の違いは、その選別の結果であり、問題となることで歴史を見直す機会を与えてくれた。しかし、九・三〇事件は、すくなくとも日本でも見直す機会があまりなかった。1965年という年は、アジア太平洋戦争敗戦後20年目にあたる。戦後再編成の時期と一致し、日本だけでなく世界が仕切り直しした時期でもある。この事件をインドネシアの「内政」だけで見ることができないことは、本書を通じてわかる。世界史のなかで本事件を考えるためにも、デヴィ夫人をはじめ生き証人がいる日本からこの事件を捉えることは、日本人の責務と言っても過言ではないだろう。著者は、それを自覚し果たしている。

 本書で取りあげられた虐殺事件が、長編ドキュメンタリー映画「アクト・オブ・キリング THE ACT OF KILLING」になった。日本でも、今月から全国で順次公開される。そのパンフレットには、つぎのような説明がある。「男は粋なスーツに身を包み陽気に微笑んでいる。残虐なシーンのないこの映画が、しかし、私たちを最も慄然とさせる映画になった-」。「これが“悪の正体”なのだろうか-。60年代のインドネシアで密かに行われた100万人規模の大虐殺。その実行者たちは、驚くべきことに、いまも“国民的英雄”として楽しげに暮らしている。映画作家ジョシュア・オッペンハイマーは人権団体の依頼で虐殺の被害者を取材していたが、当局から被害者への接触を禁止され、対象を加害者に変更。彼らが嬉々として過去の行為を再現して見せたのをきっかけに、「では、あなたたち自身で、カメラの前で演じてみませんか」と持ちかけてみた。まるで映画スター気取りで、身振り手振りで殺人の様子を詳細に演じてみせる男たち。しかし、その再演は、彼らにある変化をもたらしていく…」。その字幕監修を、本書の著者がおこなっている。

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