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2013年10月22日

『国民語の形成と国家建設-内戦期ラオスの言語ナショナリズム』矢野順子(風響社)

国民語の形成と国家建設-内戦期ラオスの言語ナショナリズム →紀伊國屋ウェブストアで購入

 「ラオス人民民主共和国、通称ラオスは、東南アジアに位置する共和制国家。国土面積は236,800平方㎞。内陸国であり、北に中華人民共和国、西にミャンマー、東にベトナム、南にカンボジア、タイと国境を接する。首都はヴィエンチャン。東南アジアの国では唯一海に面していない」。ウィキペディアでは、こう説明している。人口は656万人(2011年)。だが、本書が扱う1975年までの「三〇年闘争」ともよばれる内戦期には、200~300万と推定されている。本書で考察する国民語ラオ語とタイ語の違いは、「方言ほどのものでしか」ない。日本の約3分の2の面積に、内戦期に日本の数十分の1の人口が暮らす。多民族社会で、居住地の高低差で民族も文化も違う。そんな地域の人びとが、独立国家のよりどころを国民語に求めた。本書は、国家と社会のあり方を問う、考えさせられる1書である。

 第一次世界大戦中に民族自決が唱えられ、第二次世界大戦後アジア・アフリカでつぎつぎに民族国家が成立した。そのなかのひとつ、ラオスは1953年にフランスから独立したものの、右派、中立派、左派にわかれて内戦状態が続き、ようやく75年に左派のパテート・ラオを中心にラオス人民民主共和国を樹立し、今日まで人民革命党一党独裁体制が続いている。国として独立し、それを維持し続けるのは、なぜなのか。その疑問に、本書は、ほんのすこしだけ、答えてくれている。その「ほんのすこし」を明らかにするだけでも、いかに困難であり、著者矢野順子が苦労したか、この地域の歴史や文化、先行研究のなさを知っている者は、容易に気づくであろう。

 「「国民語」とは、どのようにして「つくられる」のだろうか。そしてそれは、国家建設の過程にいかにしてかかわるものなのであろうか。これが本書の根源にある問いである」と、著者は「はじめに」冒頭で述べている。そのために、「本書では、国民語をつくるにあたって象徴性への要求がコミュニケーション手段としての言語の「あり方」にどのような影響を及ぼすのか、二つの機能のかかわりに注目し、「ラオ語」の境界とともに「ラオス国民」の境界が生成されていく様子を描き出す。そして植民地時代、フランスによって着手されたラオ語を「つくる」作業がパテート・ラオと王国政府にどのように継承されていったのか、両者の比較をとおして明らかにしていく」。

 本書の結論は、先取りして「はじめに」でつぎのようにまとめられており、読者にとってひじょうに助かる。「ラオ語の形成はタイ語、フランス語からの言語的独立をはかるかたちで進められていった。メコン川を国境線とする条約が締結された後も、タイはメコン両岸の住民の民族的同質性を根拠にメコン左岸の「失地」回復を主張していた。フランスはタイの「失地」回復要求をしりぞけ、ラオスを植民地として維持していくため、ラオ語とタイ語の境界を明確化する方向でのラオ語の標準化に乗り出していく。この方針は独立語、王国政府、パテート・ラオの双方に受けつがれ、現在に至るまでラオ語の形成はタイ語からの差異化を第一に進められることになった。一方、独立後も王国政府においてフランス語が重用され続けたことは、言語能力を要因とした社会階層の分化を招き、王国政府の人びとの間でラオ語の独立を求める言語ナショナリズムが高まりをみる。パテート・ラオは、フランス語に依存した王国政府の教育制度を「奴隷的・植民地的」であると批判し、王国政府の人びとに対してラオ語を教授言語とする自らの教育制度の「国民的特徴」を強調したプロパガンダを展開していった。王国政府の人びとの言語ナショナリズムを巧みに利用したパテート・ラオのプロパガンダは学生を中心に支持を集め、パテート・ラオ勝利の一因ともなったと考えられる」。

 このような結論を導くため、著者はつぎの4つの視点を重視して考察をおこなっている。1点目は、「ラオス人エリートたちがフランスによって与えられた評価をどのように克服し、タイ語とラオ語の地位逆転を図ったのかという点に着目する」。2点目は、「植民地時代から内戦期、王国政府とパテート・ラオのそれぞれの体制下での正書法や語彙に関する議論に焦点を当てる」。3点目は、「二点目が対タイ語の言語ナショナリズムの分析であったのに対し、先行研究でほとんど扱われてこなかったフランス語との関係に着目する」。4点目は、「パテート・ラオの国民形成におけるラオ語の位置づけを検討する」。

 それぞれを受けて、最後の「第五章 言語ナショナリズムの展開」の「おわりに」で、つぎのようにまとめて、本書全体の総括としている。1点目で、明らかになったのは、「植民地時代、フランスによって打ち出されたタイ語からの言語的独立という方針が、独立後も王国政府、パテート・ラオの双方において維持され、現在に至るまでラオ語を形成していくうえでの根本方針となってきたことである。しかしこれは、フランスによって与えられた枠組みをそのまま引きうつしたものではなく、ラオス人エリートたちが音韻型正書法の「進歩性」を構築し、そこに独自の伝統を見出すという過程を経てきたものであった」。2点目では、「実際には言語の境界線など存在しないなか、「ラオス国民」の境界に「ラオス語の境界」を一致させようとし」、その「一連の過程はまた、コミュニケーション手段としての言語の形成が、象徴性への要求によっていかに左右されるものである」かを明らかした。3点目では、「一九六〇年代以降に高まっていく、ラオ語を真の国民語へという言語的要求からは、タイ語とともにフランス語もまたラオ語とラオス国民の形成をうながす、「否定的同一化」の契機を提供していたこと」がわかった。4点目では、パテート・ラオの「教育政策の進展とともにラオ語は解放区を代表する唯一の国民語としての地位を獲得し」、「「愛国心」の伝統を前面に出すことで通時的に少数民族をラオス国民に統合する試みもなされ、ラオ語はラオ族を主軸とする国民統合を通時的・共時的に支えるものとなっていった」ことを明らかにした。

 本書は、1975年までの「30年にわたる内戦期」を扱っているため、当然、近代の論理で議論が展開され、「はじめに」でも「想像の共同体」がモデルのひとつになっている。したがって、ラオスでは、いち早く近代国家の形式を整え、ラオ族のタイ化を図るタイ王国との差異化をすることが重要になった。しかし、その差異化は、ラオス国内にかかえる「少数民族」のラオス化と矛盾するものであった。ラオス国内には、独自の文字をもつ同じタイ系の黒タイ、タイ・ルーなどの民族がいる。国家を形成する望みの少ない民族は、国民国家の成立と同時に、国民化と独自の社会・文化の維持という難問を突きつけられた。そして、いまグローバル化やアセアン統合にも対応しなければならなくなった。数百万が使用する国民語は、近代とはまた違った意味をもってくるのか、新たな問題が生じてきていると想像される。そのことを考えるためにも、「国民語形成へと至る道程と意味を考究」することは、今後のラオスのことを考えるためにも、国民国家が支配的であった近代からの離脱を考えるためにも、基礎研究として重要な意味をもつ。

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