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2013年10月29日

『戦争記憶の政治学-韓国軍によるベトナム人戦時虐殺問題と和解への道』伊藤正子(平凡社)

戦争記憶の政治学-韓国軍によるベトナム人戦時虐殺問題と和解への道 →紀伊國屋ウェブストアで購入

 本書を読んで、韓国は日本の植民地支配や従軍慰安婦問題など、日本にとっての負の歴史を持ち出して批難・攻撃する資格はない、などと考える人は、これからのグローバル化した協調社会のなかで生きていくことを、自分自身で難しくしていくことになるだろう。国家においても社会、個人においても、なにかしら「負の歴史」は存在するもので、それをほじくり出して批難・攻撃すれば、互いの中傷合戦に終始し、成熟した関係を築けなくなる。著者、伊藤正子は、「あげあし」をとることではなく、そこから日本が学ぶことを本書の目的にしている。

 いっぽう、「過去にフタをして未来へ向かおう」というベトナム政府の方針も、続けていくことはもはや困難である。「ベトナム戦争で韓国軍が虐殺行為を行っていた」という事実が明るみに出たのは、1997年にホーチミン市で大学院修士課程に入学し、ベトナム史研究を始めた韓国人女子留学生ク・スジュン(具秀姃、1966年生まれ)が共産党政治局の内部資料「ベトナム南部における南鮮軍の罪悪」を入手したことがきっかけだった。韓国とベトナムの学生交流もさかんになり、2013年6月末現在韓国のベトナム人留学生は3450人で、前年同期の3044人から増加した。また、わたしが所属している留学生が8割近くを占める大学院アジア太平洋研究科修士課程で、韓国人とベトナム人が机を並べていることも珍しいことではない。このように交流の活発化したなかで、過去にフタをすることは不可能で、逆にフタをしようとすればするほど新たな負の歴史が明るみに出てくることになるだろう。

 本書の内容と目的は、帯の表と裏で的確に要約されている。表は、「「残余の記憶」の語り方、交錯、そして抗争」と大書し、その上につぎのような説明がある。「ベトナム戦争で韓国軍が虐殺行為を行っていた-『ハンギョレ21』[週刊誌]の告発は韓国世論を戦慄させ、事実の解明と謝罪を求めるNGOの活動と、「正義の戦争」に拘泥する保守派の反発を招いた。そして被害者であるはずのベトナム政府は経済発展を優先し、事件を封印している。戦争をめぐる記憶のあり方は、同様の問題をいまだ抱える日本にも新たな視座を提示する」。

 「本書の目的は(中略)韓国社会を鋭く割った言論の対立の構造を解きほぐし、自国の負の歴史を直視することの困難さについて考察することにある。(中略)「自国の負の歴史を直視すること」がいまだできているとは言い難く、国家として過去の植民地支配や戦争について、周辺国・地域との和解を成し遂げることができない日本にとっては、この問題は他人事ではないからである。『ハンギョレ21』の試み、そしてそれに続くNGOを含めた謝罪活動と未来の平和へ向けての地道な努力から学ぶべきことは多いはずである」。

 この事件を明らかにした韓国人留学生にしろ、本書の著者にしろ、迷いがあった。ともに、日本も韓国も「成熟した社会」になっていないからである。留学生は、「ベトナム側の一方的な報告書であるかもしれないので検証が必要だと考えたこと、さらには韓国人には、自分たちは外国を侵略して他国に迷惑をかけたことはないとの「神話」があるため、ベトナムで虐殺事件を起こしていたことを公表することで、社会に与える衝撃をはかりかねたこと、また日本の嫌韓右翼に利用されてしまうのではないかという懸念があったからである」。

 いっぽう、著者の迷いは、つぎのように「はじめに」で述べられている。「この問題を日本で取り上げるのは、韓国ではこの問題が依然として「扱いにくい」タブーであるからである。外敵に侵略されることが多かった歴史のために、韓国には自分たちはいつも「被害者」であったとの「神話」ができ上がっている。その歴史認識を覆し、自分たちも加害者側に回ったことがあるという事実を認めることは、相当な心の葛藤を伴うものである。加えて、この問題を否定する参戦軍人たちの団体の中には、暴力的な行動をとるところもあり、韓国人が韓国でこの問題を取り扱う場合には、実際に身の危険が生じる可能性さえあり、相当の勇気と覚悟、信念が必要である」。

 さらに、韓国側だけでなく、ベトナムにも複雑な様相があり、それを示すことが、ベトナム地域研究者としての著者の第2のより大きな目的となると、つぎのように説明している。「被害者ベトナム側も、各級行政組織(国家、省<日本では県に相当>、県<日本では郡に相当>、社<行政村>、村<自然村>、集落)や、また地域によって、そして時間の経過によっても、韓国軍の虐殺行為に対して、実はバラバラの記憶の語り方を示しているのである。それらの記憶の語り方(あるいは「語らない」という語り方も含め)は、しばしばベトナム国家の公定記憶が幅をきかせて、現在では必ずしも虐殺の生き残りの人々の意向を反映したものではなくなってきている」。具体的にいえば、「虐殺の記憶の語りが県レベルを超えて国民に共有されるようになることは望ましいことではなかったからである。「反韓」感情が国民の中で強くなり、ひいては外交・経済交流に悪影響を及ぼすような事態になることを懸念して、ベトナム国家はこの問題が全国的に継続的に報道されることを許さなかった」。

 しかし、このようなほんとうの被害者を排除したかたちでの両国家の「友好・親善」は、「真実・和解」のためにはならないと、著者は、「おわりに-「残余の記憶」を拾いつくそうとすること」で、つぎのようにまとめ、結論としている。「韓国軍が虐殺事件を多発させた地域において、韓国に対するイメージを塗り替え、ベトナム人の韓国に対する憎悪を薄め、親近感に変えて来たのは、まさに『ハンギョレ21』の報道とそれを追ったベトナムの『トゥイチェー』紙の記事、ク・スジュンやナワウリ[NGO]の活動であった。韓国のNGOや個人など民間の地道な活動が、虐殺を生き延びたベトナムの人たちの心を解きほぐし、記憶を捻じ曲げたり誤魔化したり過去にフタすることによってではなく、記憶を新たにすることで、許しと和解が生まれていく過程を本書では描いてきた。ベトナム研究者である筆者がこの問題を取り上げる目的は、「売国奴」とまでののしられたというク・スジュンたちの活動こそ、実は被害者であるベトナムの人々との真の和解を成し遂げることにつながっていることを、分裂したままの世論を抱える韓国社会に、第三者の立場から訴えるためである。「許し」・「和解」は、事実を覆い隠したり、誤魔化したりすること、また国家間の物質的援助の垂れ流しによってだけでは、決して成し遂げられないと考える」。

 そして、日本人が「ク・スジュンたちの実践から学びとるべきなのは、個々人の記憶の重要性を認識し、その掘り起こしと積み重ねによって、ナショナルヒストリーからはじき出されてしまっている、例えば先に述べたような様々な記憶、あるいはまだ大きな注目を浴びていない記憶を、丹念につないで行くこと以外にはないのではないか。それらの記憶こそ、記録していかねばならない「残余の記憶」であり、真実を含むものであろう」。

 本書では、韓国とベトナムとが、日本の戦後処理を例に議論を戦わせる場面がある。『ハンギョレ21』が告発して10年が経った2009年に、「韓国国会で審議された法律の条文の中の「ベトナム戦争参戦勇士は世界平和の維持に貢献した」という文言に、ベトナム政府がかみついたのである。二〇〇一年のキム・デジュン大統領の謝罪とは異なる韓国政府の姿勢に対し、ベトナム政府は、韓国が反発する日本の政治家の靖国神社参拝問題を取り上げて、韓国政府に再考を促した。日々経済関係が深化する中での突然のベトナム側の反発に、韓国政府は素早い事態の収拾をはかった」。この2001年の大統領の謝罪は、「日本のように曖昧にしないことを外交的に誇示したという点においては賞賛に値する」と評価されていた。

 日本人である著者が、専門であるベトナム側の資料に加えて、韓国語の基本文献を読みこなし、インタビュー調査した成果は、新たな事実と考察・分析を可能にした。インタビュー調査では、「韓国人が来たらインタビューには絶対答えない。日本人が来たと聞いたからここに来たのだ」と著者に語った者もいる。しかし、ベトナム、韓国、両国で、著者の想定外の問題が生じたことを「あとがき」で、つぎのように述べている。「ベトナムはベトナム戦争の被害者なのだから、虐殺の生き残りの人たちの証言を聞いてまわること自体、ベトナム政府の機嫌を損ねるようなことは何もないはずだ、少数民族を研究対象としていた時のように政府の警戒を生むことはありえない、などと甘い思いこみをしていたのだが、地元でのフィールド調査を始めるやいなや、ベトナムの「過去にフタをして未来へ向かおう」というスローガン(安倍晋三首相にはお気に入りのスローガンかもしれない)が大きく立ちふさがってきた。スローガンが、公定記憶以外の過去の記憶の掘り起こしと記録に対する大きな障害となっていることに、気づかざるをえなかったのである。また韓国社会では二〇〇〇年代後半から揺り戻しがあって、「負」の歴史の清算を重要と考えている人々というのは思っていたほど多くはなく、世論は鋭く対立したままで、「社会の成熟」とはとても言い切れない状況も見えてきた。しかしそれでも、「右傾化」が指摘され、失言その他で国家や政治家の歴史認識について海外での評判を著しく落としている現在の日本よりはましである、と思う」。

 朝鮮戦争(1950-53年)の結果、壊滅的な打撃をうけた韓国は、60年代初めまでアメリカの援助に頼るしかなかった。そのようななかで、1964年の韓国軍医療団などにはじまるベトナム戦争への参加、しかもベトナム共産主義との戦いは北朝鮮との戦いでもあると認識して「国防」のために戦った韓国。延べ31万人が派兵され、最盛期には5万人を数え、これらの兵士や出稼ぎ民間人の本国への送金が、その後の韓国の経済発展を支えた。いっぽう、1986年にドイモイ(刷新)路線を採択して、韓国から1991年から2008年までに総額9045万ドル、年平均503万ドルの無償援助をえていたベトナム。しかも、その援助はベトナム戦争中に災禍を引きおこした中部に集中し、「補償」の意味が込められていた。両国とも、「韓国軍によるベトナム人戦時虐殺問題」を取り上げたくない理由は、日本の「過去にフタ」をする理由の比ではない。

 このほか、本書では取り上げられていない、韓国軍兵士のベトナム人女性にたいする強姦などによって出生した子ども(ライダイハンと呼ばれる)が最大3万人いるとされる問題、2010年に首都ハノイを中心に開催された「タンロン・ハノイ千年大記念祭」にソウル市が参画を試みたものの結局失敗に終わったことなど、韓国とベトナムとのあいだには微妙な問題が存在する。歴史的には、ともに中国の属国であった時代があり、長く科挙制度の影響をうけていたので、わかりあえる共通認識もあるはずだ。また、国家間の思惑を超えて、しかも「新聞に書かれていることと現実の社会認識にはしばしばずれがあるし、NGOの設立が[一般に]認められていない」ベトナムで、事件調査をした韓国のNGOの活動も、それに協力しNGOのメンバーとなったベトナム人の活動も、「成熟した社会」への一歩となる。日本の歴史認識問題も、市民が成熟し「成熟した社会」をつくることによって「和解への道」が開かれることが、本書からわかる。偏狭なナショナリズムは、これだけグローバルな交流があるなかで、ナショナリズムの負の面が明らかになり、逆にナショナリズムの危機を招いてしまうことになるだろう。

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2013年10月22日

『国民語の形成と国家建設-内戦期ラオスの言語ナショナリズム』矢野順子(風響社)

国民語の形成と国家建設-内戦期ラオスの言語ナショナリズム →紀伊國屋ウェブストアで購入

 「ラオス人民民主共和国、通称ラオスは、東南アジアに位置する共和制国家。国土面積は236,800平方㎞。内陸国であり、北に中華人民共和国、西にミャンマー、東にベトナム、南にカンボジア、タイと国境を接する。首都はヴィエンチャン。東南アジアの国では唯一海に面していない」。ウィキペディアでは、こう説明している。人口は656万人(2011年)。だが、本書が扱う1975年までの「三〇年闘争」ともよばれる内戦期には、200~300万と推定されている。本書で考察する国民語ラオ語とタイ語の違いは、「方言ほどのものでしか」ない。日本の約3分の2の面積に、内戦期に日本の数十分の1の人口が暮らす。多民族社会で、居住地の高低差で民族も文化も違う。そんな地域の人びとが、独立国家のよりどころを国民語に求めた。本書は、国家と社会のあり方を問う、考えさせられる1書である。

 第一次世界大戦中に民族自決が唱えられ、第二次世界大戦後アジア・アフリカでつぎつぎに民族国家が成立した。そのなかのひとつ、ラオスは1953年にフランスから独立したものの、右派、中立派、左派にわかれて内戦状態が続き、ようやく75年に左派のパテート・ラオを中心にラオス人民民主共和国を樹立し、今日まで人民革命党一党独裁体制が続いている。国として独立し、それを維持し続けるのは、なぜなのか。その疑問に、本書は、ほんのすこしだけ、答えてくれている。その「ほんのすこし」を明らかにするだけでも、いかに困難であり、著者矢野順子が苦労したか、この地域の歴史や文化、先行研究のなさを知っている者は、容易に気づくであろう。

 「「国民語」とは、どのようにして「つくられる」のだろうか。そしてそれは、国家建設の過程にいかにしてかかわるものなのであろうか。これが本書の根源にある問いである」と、著者は「はじめに」冒頭で述べている。そのために、「本書では、国民語をつくるにあたって象徴性への要求がコミュニケーション手段としての言語の「あり方」にどのような影響を及ぼすのか、二つの機能のかかわりに注目し、「ラオ語」の境界とともに「ラオス国民」の境界が生成されていく様子を描き出す。そして植民地時代、フランスによって着手されたラオ語を「つくる」作業がパテート・ラオと王国政府にどのように継承されていったのか、両者の比較をとおして明らかにしていく」。

 本書の結論は、先取りして「はじめに」でつぎのようにまとめられており、読者にとってひじょうに助かる。「ラオ語の形成はタイ語、フランス語からの言語的独立をはかるかたちで進められていった。メコン川を国境線とする条約が締結された後も、タイはメコン両岸の住民の民族的同質性を根拠にメコン左岸の「失地」回復を主張していた。フランスはタイの「失地」回復要求をしりぞけ、ラオスを植民地として維持していくため、ラオ語とタイ語の境界を明確化する方向でのラオ語の標準化に乗り出していく。この方針は独立語、王国政府、パテート・ラオの双方に受けつがれ、現在に至るまでラオ語の形成はタイ語からの差異化を第一に進められることになった。一方、独立後も王国政府においてフランス語が重用され続けたことは、言語能力を要因とした社会階層の分化を招き、王国政府の人びとの間でラオ語の独立を求める言語ナショナリズムが高まりをみる。パテート・ラオは、フランス語に依存した王国政府の教育制度を「奴隷的・植民地的」であると批判し、王国政府の人びとに対してラオ語を教授言語とする自らの教育制度の「国民的特徴」を強調したプロパガンダを展開していった。王国政府の人びとの言語ナショナリズムを巧みに利用したパテート・ラオのプロパガンダは学生を中心に支持を集め、パテート・ラオ勝利の一因ともなったと考えられる」。

 このような結論を導くため、著者はつぎの4つの視点を重視して考察をおこなっている。1点目は、「ラオス人エリートたちがフランスによって与えられた評価をどのように克服し、タイ語とラオ語の地位逆転を図ったのかという点に着目する」。2点目は、「植民地時代から内戦期、王国政府とパテート・ラオのそれぞれの体制下での正書法や語彙に関する議論に焦点を当てる」。3点目は、「二点目が対タイ語の言語ナショナリズムの分析であったのに対し、先行研究でほとんど扱われてこなかったフランス語との関係に着目する」。4点目は、「パテート・ラオの国民形成におけるラオ語の位置づけを検討する」。

 それぞれを受けて、最後の「第五章 言語ナショナリズムの展開」の「おわりに」で、つぎのようにまとめて、本書全体の総括としている。1点目で、明らかになったのは、「植民地時代、フランスによって打ち出されたタイ語からの言語的独立という方針が、独立後も王国政府、パテート・ラオの双方において維持され、現在に至るまでラオ語を形成していくうえでの根本方針となってきたことである。しかしこれは、フランスによって与えられた枠組みをそのまま引きうつしたものではなく、ラオス人エリートたちが音韻型正書法の「進歩性」を構築し、そこに独自の伝統を見出すという過程を経てきたものであった」。2点目では、「実際には言語の境界線など存在しないなか、「ラオス国民」の境界に「ラオス語の境界」を一致させようとし」、その「一連の過程はまた、コミュニケーション手段としての言語の形成が、象徴性への要求によっていかに左右されるものである」かを明らかした。3点目では、「一九六〇年代以降に高まっていく、ラオ語を真の国民語へという言語的要求からは、タイ語とともにフランス語もまたラオ語とラオス国民の形成をうながす、「否定的同一化」の契機を提供していたこと」がわかった。4点目では、パテート・ラオの「教育政策の進展とともにラオ語は解放区を代表する唯一の国民語としての地位を獲得し」、「「愛国心」の伝統を前面に出すことで通時的に少数民族をラオス国民に統合する試みもなされ、ラオ語はラオ族を主軸とする国民統合を通時的・共時的に支えるものとなっていった」ことを明らかにした。

 本書は、1975年までの「30年にわたる内戦期」を扱っているため、当然、近代の論理で議論が展開され、「はじめに」でも「想像の共同体」がモデルのひとつになっている。したがって、ラオスでは、いち早く近代国家の形式を整え、ラオ族のタイ化を図るタイ王国との差異化をすることが重要になった。しかし、その差異化は、ラオス国内にかかえる「少数民族」のラオス化と矛盾するものであった。ラオス国内には、独自の文字をもつ同じタイ系の黒タイ、タイ・ルーなどの民族がいる。国家を形成する望みの少ない民族は、国民国家の成立と同時に、国民化と独自の社会・文化の維持という難問を突きつけられた。そして、いまグローバル化やアセアン統合にも対応しなければならなくなった。数百万が使用する国民語は、近代とはまた違った意味をもってくるのか、新たな問題が生じてきていると想像される。そのことを考えるためにも、「国民語形成へと至る道程と意味を考究」することは、今後のラオスのことを考えるためにも、国民国家が支配的であった近代からの離脱を考えるためにも、基礎研究として重要な意味をもつ。

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2013年10月08日

『戦争のるつぼ-第一次世界大戦とアメリカニズム』中野耕太郎(人文書院)

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 「国籍の異なる12名のヨーロッパ人歴史家たちが何度も討議を重ね、その上で共同執筆されたヨーロッパ史の教科書」である『ヨーロッパの歴史』(ドルーシュ編、東京書籍、1998年)では、第一次世界大戦後のヨーロッパに訪れた新しい時代を、つぎのように記している。「ヨーロッパの人々が初めてアメリカの生活様式を発見したのは、まさにこの1920年代であった。多くの人々がこのとき、これを理想的モデルと見なすようになった。古くからあった階級、習慣、趣味の相違はしばしば投げ捨てられ、大西洋の彼方から到来するものは、ことごとく熱狂的に受け入れられた。なかでも20世紀初頭にニューオーリンズで生まれた音楽、ジャズの人気はすさまじかった」。このように理想化されたアメリカは、ヨーロッパ人が羨むような国民国家を形成していたのだろうか。著者、中野耕太郎は、「世界の民主化という大義を掲げて戦われたアメリカの第一次世界大戦」、「その未曾有の実験を「国民形成」という観点から考察」している。

 著者にとっての第一次世界大戦研究は、「あとがき」で、つぎのように述べられている。「私の研究生活はどこか第一次大戦の呪縛のうちにあるようだ。私にとって、この戦争は常に視界から消えることのない大きな山のようなもので、意味のある現代史上のテーマに取り組めば、必ずどこかでこの戦争が姿を現す。ナショナリズム研究、福祉国家論、人種関係史、いずれを探求しても、道はいつか第一次大戦という山にぶち当たる。やはり、この戦争は「現代」を生んだ母胎だったと確信できるが、同時にそれは、真正面から研究対象とするには巨大すぎる山塊でもあった。あまりに大きな暴力、あまりに広大な領域、あまりに凄まじいダイナミズム-私は長く第一次大戦史を書くことを怖れ躊躇(ためら)ってきた」。

 そこに、現在に続くアメリカの「人種・エスニック問題」「正義の戦争の論理」など、100年ほどの前の歴史的問題として片づけることができない深刻で、永遠に解決できないと思われる複雑な問題が横たわっているからだろう。したがって、著者は、細心の注意とともに、「国際、国家、社会、コミュニティといった異なる位相を十分に意識しながら、なおその間を縦横に越境するものとして戦時アメリカニズムの「るつぼ」の歴史的な意義を考察していく」。

 「具体的に第1章では、第一次大戦中立期のアメリカで展開された「国家の役割とナショナリズムに関する諸論争を概観し、あわせて、これと密接に関わりながら形成されたアメリカの国際的コミットメントを考察する」。「第2章では、参戦後展開される政府による国民動員を検証する。特に国民形成に関係の深かった、選抜徴兵制度と戦時広報に注目し、戦時下に変容する国家と地域、個人の関係を明らかにする」。「第3章では、戦時の国民化政策の主たる対象であった外国系住民に注目する」。「第4章は移民と同じく、アメリカ社会のマージナルな存在であった黒人を取り上げる」。そして、「以上の検討を通して、「おわりに」では、戦後に続く展開を概観し、第一次大戦がはじまったばかりの現代史にどのような永続的な刻印を残したのかを考える」。

 ここで注目したいのは、第4章の目的のひとつが、つぎのように述べられていることである。「戦争と人種の問題を検討し、第一次大戦期の国民統合が内包した人種隔離の実態を考察することである。総じて戦争を機に進行する、ヨーロッパ移民の国民化がなぜ非白人の社会的排斥と同時に進行するのかという二〇世紀のアメリカニズム最大の論点にアプローチを試みたい」。当時のアメリカは、「一億弱の総人口のうち約一〇〇〇万人を黒人が、約一四〇〇万人をヨーロッパ生まれの移民が占めた」「るつぼ」であった。

 「ヨーロッパ移民のアメリカ国民への包摂は、排外的ナショナリズムと奇妙な並走関係を続けながら、大きく前進していく」。「アメリカに住むポーランド系やチェコ系はますます多く帰化申請をし、ますます広くアメリカ社会に受け入れられていった。敵性外国人として迫害を受けたドイツ系ですら例外ではない」。しかし、「ヨーロッパ移民の国民化のコンテクストは、黒人やアジア移民には当てはまらない」。そのなかに、日本人移民も含まれている。「民主主義の戦争に差別撤廃の夢を託した黒人達の期待」はみごとに裏切られ、「戦後、人種間の暴力が全国に蔓延した」。休戦翌年の1919年だけで、「シカゴやワシントンをはじめとする二五の大都市で人種暴動が勃発した。その発端は、多くの場合、総力戦が生んだ共同体的暴力の残滓(ざんし)といえるものだった」。

 そして、著者は、「おわりに」を、つぎのように記して結んでいる。「たしかに、戦後、戦争を支持した知識人や黒人指導者の間には、ある種の虚無的な失望感が広がっていた。戦争は本当に世界と国内の民主的改革を伴うものだったろうか? 同時代人の近い過去に対する評価は、決してポジティヴなものばかりではなかった。だが、それにも拘わらず、普遍的価値を掲げた国際主義を追求するという振る舞いにおいて、アメリカの歴史は不可逆的だった。一九四〇年代に二度目の世界大戦を迎えたとき、アメリカは再び理念の戦争-「四つの自由」[言論の自由、信仰の自由、恐怖からの自由、欠乏からの自由]-を構築するであろう。そして、やはりこの戦争目的は、国際関係だけでなく各国内政の改革をも目指す理想となろう。アメリカは、再び国内のマイノリティから市民としての承認を求める声を聞き、普遍主義の例外として囲い込まれた中米・カリブ海問題の矛盾に直面する。それは、ある種の既視感覚を歴史研究者に抱かせよう-すでに二〇年前の戦争で見たなにか。第一次大戦のるつぼは二〇世紀のアメリカ国民国家と国際社会を規定する、ひとつの政治の様式を鋳出していたのであった」。

 アメリカにとっても、第一次大戦は第二次大戦へと続く戦争であった。と同時に、第二次大戦でも解決できなかったアメリカの根源的な問題が引き続いたという意味で、「現代の起点」ということができる。また、「世界の民主化という大義を掲げて戦われた」ことから、世界の動向と国際関係の理解抜きに、アメリカという1国の歴史と社会を語れなくなったということで、アメリカ研究にとっても大きな転換点となった。アメリカだけを対象とするアメリカ研究が成り立たなくなったのである。

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2013年10月01日

『隣人が敵国人になる日-第一次世界大戦と東中欧の諸民族』野村真理(人文書院)

隣人が敵国人になる日-第一次世界大戦と東中欧の諸民族 →紀伊國屋ウェブストアで購入

 第一次世界大戦中に民族自決が唱えられ、帝国から解放された民族を中心とした近代国民国家が成立して「めでたしめでたし」、という国民教育のための近代史が単純に語れないことが、本書からわかる。

 オーストリア=ハンガリー二重帝国、ロシア帝国、オスマン帝国といった多民族社会のなかでマイノリティとして生きていた人びとのなかには、すぐに民族国家を思い描くことのできた人びともいれば、しばらくして思い描くことができた人びと、いつまでたってもまったく思い描くことができなかった人びとなどがいた。近代国民国家の形成に翻弄された人びとがいたにもかかわらず、EUの成立、グローバル化のなかで、その意味がなくなろうとしている。第一次世界大戦を契機として、近代とはなんであったのかを問うことのできる地域として東中欧があることを、本書は教えてくれる。

 著者、野村真理は、つぎのように「はじめに」で述べる。「ロシア帝国の後継国家はロシアであり、オーストリア=ハンガリー二重帝国の後継国家はオーストリアとハンガリーだが、いまのロシア人やオーストリア人、ハンガリー人は、第一次世界大戦の共同通史を書くことにほとんど「国民」的意味を見出さないだろう。細かいことをいえば、そもそも第一次世界大戦が始まったとき、オーストリア人など存在しなかった。当時のオーストリアで、ドイツ語を日常使用言語とする者はドイツ人であり、現在のオーストリアで、ドイツ人とは異なるオーストリア人というアイデンティティが一般化するのは、第二次世界大戦後しばらくたってからである」。

 「ドイツやフランスでは、第一次世界大戦の戦没者は英霊となり、戦争墓地や戦争記念碑は国民的崇拝を集める聖地となったが、東中欧の諸国家では、第一次世界大戦それ自体は「国民」的記憶とはなりえない。むしろ東中欧の第一次世界大戦は、西ヨーロッパに遅れること一世紀にして、そのような記憶の担い手となるべき国民と、その国民の国家創設史の最初に記されるべき出来事と位置づけられよう」。

 本書では、「オーストリア帝国領ガリツァアの、とくに東ガリツァアに限定」し、「論述の整理上、そこでのポーランド人、ウクライナ人、ユダヤ人の経験を別個に追う」が、つぎのような人がごく普通にいたことを忘れてはならない、と著者はいう。「東ガリツァアの寒村でポーランド人の父とフツル人[おもにカルパチア山脈南東部に居住する少数民族]の母から生まれた」彼は、「ポーランド語とウクライナ語を話し、父はカトリックのポーランド人だったが、自分はギリシア・カトリックの信者だからウクライナ人だと、何となく思っている」。

 ポーランド人やウクライナ人にとって大切だったのは、独立して「国民」になることより、民族文化を守ることだった。第一次世界大戦の前夜、三分割されたポーランドの再興をめぐって三派にわかれたとき、親ロシア派も親オーストリア派も、まず民族文化を守ることを考えていた。親ロシア派は、「万一ロシアが敗北してポーランドがドイツの支配下に入った場合、ドイツ領ポーランドで強行されたドイツ化政策がポーランド全土におよび、政治的、経済的のみならず、文化的にもポーランド民族の破滅を招くという強い危機感を抱いていた」。親オーストリア派は、「ドイツ領やロシア領と異なり、オーストリア領ポーランドでは一八六七年からポーランド人の大幅な自治が実現し、クラクフとルヴフに大学を擁して、ポーランド語による学術・文化活動も制限を受けることなく開花した」ことを思い起こしていた。

 しかし、ユダヤ人にとっては、ポーランド人やウクライナ人のように「ユダヤ人国家を設立することなど、考えられない選択肢だった。ユダヤ人は、まとまった居住地域をもたず、点々と、東中欧のさまざまな都市や町にかたまり住む人々だった」。したがって、「あくまでも現在の居住国でユダヤ人に民族自治の権利が与えられることを求めた。そのさい、まとまった居住領域をもたないユダヤ人の自治の重点は、ブンド[リトアニア・ポーランド・ロシア全ユダヤ人労働者同盟の略称]がユダヤ人の民族言語と見なすイディッシュ語で教育を受ける権利など、文化的自治におかれた」。「だが、彼らの空腹を満たすには、イディッシュ語で教育を受けるより、帝国の支配言語であるドイツ語か、ガリツィアの行政言語であり、文化的支配言語でもあるポーランド語を習得した方が、はるかに大きなチャンスを手にすることができた。ガリツィアからウィーンに出たユダヤ人は、必死に働いて子どもたちにドイツ語教育を受けさせ、やがて彼らがウィーンで一流の商人や、博士の称号をもつ弁護士や医者になる日を夢見た」。

 「未完の戦争としての第一次世界大戦」は、ポーランド人やウクライナ人が求めたような結果をもたらさず、「第二次世界大戦後の国境の引き直しと住民交換、住民追放により、第1章で述べたポーランド問題とウクライナ問題は最終的に解決された。ユダヤ人という、東中欧で領域的解決のしようがない少数民族問題についていえば、それがホロコーストによるユダヤ人ディアスポラ社会の消滅によって解決をみたことは、説明を要しまい。さらにユダヤ人社会の消滅は、戦後ポーランドの反ユダヤ的暴力によってその完成度を増す」。

 「戦間期に小多民族国家であったポーランドは、第二次世界大戦後は、国民のほとんどがカトリックのポーランド人という、単一民族国家に近い国家となる。他方、西ウクライナの中心都市リヴィウ(ウクライナ語称)の一九八九年の人口構成は、総人口七八万六九〇三人のうち、ウクライナ人が六二万二七〇一人(七九・一パーセント)、ロシア人が一二万六四五九人(一六・一パーセント)で、ユダヤ人は一万二七九五人(一・六パーセント)、ポーランド人は九七三〇人(一・二パーセント)である。ここでのユダヤ人のほとんどは、旧東ガリツィアでホロコーストを生き延びた者たちではなく、戦後ロシアからの移住者である」。

 多数決による統治が機能する近代民主主義国家は、「国家が最も安定しやすい」という。しかし、その「民主主義国家」を形成するために、どれだけの犠牲者が出たことか。そして、いまEUに加盟した国ぐにのあいだでは、まったく意識することなく国境を越えることができる。これだけの犠牲を出して成立した近代国家とは、いったいなんだったのか。フランス、ドイツを軸とする国民国家形成だけでは語れないヨーロッパの歴史がある。 

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