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2013年08月27日

『「大東亜共栄圏」と日本企業』小林英夫(社会評論社)

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 本書は、序章と7章からなり、書き下ろしの序章と補足した第七章を除いて、大幅な書き換えをおこなっていない論文集である。著者、小林英夫は、本書の目的を、つぎのように説明している。「一八九五年の日清戦争後に台湾を領有して以降、一九四五年にアジア太平洋戦争に敗北するまでの約半世紀間、日本は東アジア植民地帝国として、この地域の政治・経済・社会生活に大きな影響を与えてきた。本書の目的は、植民帝国として活動した約半世紀間の日本植民地(朝鮮・台湾)、占領地域(満洲国・中国・南方地域)の経営史を総括することにある」。

 著者は、「約五〇年間にわたり東アジア地域を植民地化してきた日本帝国の歴史を振り返るとき、以下の二つの問題をまず考えたい」という。「一つは、日本帝国の植民地支配を可能にし、かつ一九四五年までその支配を継続させたその条件は一体何か。二つには、その間、日本帝国は、いかなる課題を植民地や占領地に課し、誰がそれを推進したのか、それに対していかなる勢力がそれに抵抗したのか、その抵抗の条件と基盤は何だったのか、という点である」。

 本書では、大きく三つの時期にわけて考察している。「第一期は日清・日露戦後期である。第二期は第一次世界大戦前後期、そして第三期は満洲事変から日中戦争、そしてアジア太平洋戦争期である」。著者がこだわったのは、戦後の「東アジア経済圏」と戦前・戦中の「東アジア植民地体制」「大東亜共栄圏」とのあいだに、連続性があるかどうかである。その点について、著者は、第七章の最後の注(35)で、既刊自著の一節を引いて、つぎのように述べている。「今日につらなる『東アジア経済圏』の起点、それを探し出すとすれば、東アジアの親米諸国が、アメリカの指導下で、いっせいに外資導入を軸に『自立経済』体制構築にふみきった一九六〇年代初頭の時点にもとめることができよう」。この戦前と戦後の断絶面を強調した著者の主張にたいして、堀和生氏はそれを批判し、その連続面を強調した。著者が、本書をまとめたのも、この「誤解だけは解いておきたい」という考えからであった。著者の堀氏への反論は、つぎの文献により詳しく記されている:小林英夫「東アジア工業化の起点-堀和生氏の著作をめぐって-」『アジア太平洋討究』第19号(2013年1月)、45-52頁。

 したがって、本書でもっとも重要な章は、「第七章 日本の植民地経営と東アジアの戦後」になる。本章では、それまで各章で検討してきた日本の植民地経営の実態を踏まえ、その歴史的位置を考察している。「その際の基本視点は、戦前の日本の植民地経営が、戦後の動きの中で、いかような変容を遂げたのか、或いは遂げなかったのか、その視座を明確にすることである」とし、3節(「東アジア植民地体制の成立と崩壊」「「大東亜共栄圏」と「東アジア経済圏」」「「東アジア経済圏」の再編」)にわたって考察している。

 その結果、断絶面がもっとも明らかになったのが工業化で、つぎのように説明している。「同じ工業化とはいっても、排他的経済圏を前提に軍需中心の工業化を展開した戦前のそれに比較すると、戦後の工業化は開放経済を前提に対米市場向け民需品輸出産業の育成を課題にしており、この点で戦前と戦後では決定的に違っていた」。「戦後の工業化は日本に代わり権力の頂点に立った親米政権によってアメリカの極東戦略と連動しつつ推し進められた。日本の場合には、戦後一時期のアメリカ占領下の間接統治下と講和後の独立下で、政治勢力の継続性とともに戦中の総力戦体制の連続性が顕著であったのに対して、韓国や台湾の場合には日本の政治勢力の引き揚げと断絶により、総力戦体制は戦後新たに生まれた親米政治勢力に活用されたため、戦前との断絶面が著しく現れた」。

 日本が帝国となって形成した「東北アジア交易圏」と、イギリス領マラヤを中心にタイ(シャム)、オランダ領東インド、フランス領インドシナまで包括した「東南アジア域内交易圏」とを結びつけて、「大東亜共栄圏」を理解することは、それほどたやすいことではない。そこには、「広い意味で政治、経済、軍事的協力関係を内包する」からであり、両者は基本的ネットワークをつくるシステムが異なっていた。本書では、マクロからミクロまで具体的に事例を挙げて、その相違点と共通点を明らかにしている。本書で明らかにしたことは、2015年に経済共同体を目指すASEAN、さらに東アジア共同体を考える基礎となる。本書から、経済だけで共同体を形成することは困難で、総合的に考えなければならないことがわかってくる。

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2013年08月20日

『はじめて学ぶ日本外交史』酒井一臣(昭和堂)

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 本書を読むキーワードは、「文明国標準」と「社会外交史」である。著者、酒井一臣は、「序 外交史をまなぶ【「今」を理解するために】」で、それぞれの見出しの下に、つぎのように説明している。

 「文明国標準」:「19世紀には、西欧地域の優位が決定的になり、西洋文明こそが「正しい」人類の発展経路であり、西洋人=白人がほかの人種より優れているという認識が定着していった。西欧諸国は、西洋文明をうみだした自分たちを「文明国」とし、西洋文明に適応できない地域を遅れた「未開国」とみなした。その際、文明国と未開国を区別する基準となったのが、「文明国標準」(the standard of Civilization)だった。これは、法律・社会・経済制度にくわえ、制度の背景にある価値観・宗教、はては生活様式にいたるまで、西洋文明国の基準で文明化の度合いを判別する考え方である」。

 「社会外交史」:「現在の日本はもちろん、世界中のどこの人びとも、ヒト・モノ・カネのグローバルな動きに関わっている。つまり、外交官や貿易業者でなくとも、わたしたちは世界の動きに影響をうけているのである。よって、外交や国際関係の視点から、社会の変動や人びとの思考様式を考察することが重要になる。外交や国際関係から日本社会のありかたを考えること。これを私は「社会外交史」と呼びたい。外交史というと、条約の難解な解釈論、もしくは戦争の歴史と思われるかもしれないが、身近なできごとも外交史の延長線上にある。この本は、日本の明治から現代までの社会外交史を45の項目にわけて考察する。それは、決して遠い時代の別の世界のことではなく、今につながるドラマなのだ」。

 本書は、著者の2年間の高校常勤講師の2つの経験から生まれた。ひとつは、授業からつぎのことを考えた。「高校の授業と大学の授業は、位置づけも意義も違う。それでも、現在の大学の学習と高校の学習は違いすぎるのではないか。多くの大学生は、研究者になるわけではない。それなのに、大学では研究者の世界の論理が優先される傾向にある。もちろん、専門的で高度な内容の授業も必要だ。しかし、入門段階は、もっと簡単にしなければならないのではないか」。

 もうひとつは、高校教師の生活から考えたことである。「高校の先生は、大学のように研究する時間が与えられるわけではない。また、歴史に興味がある多くの方も、ゆっくり研究書を読む時間はない。でも、研究者は難解な専門用語を使い、注がたくさんついた論文や本で情報を提供しようとする。自分自身も高校の教員をしていて、「そんな難しい本をのんびり読む時間はない!」と叫びたくなる」。「日本をとりまく国際情勢は厳しさを増しています。また、日本人の歴史認識の問題が深刻な外交問題を引きおこしています。近現代の日本外交史に関心を持つ方が増えているのではないでしょうか。「忙しい方々に、ちょっとした時間の合間に、簡単に読んでもらえる本を書いてみたい」」。

 そんな2つの「想い」から生まれた本書は、「1エピソード4頁構成」で読みやすく、エピソード毎に基本的な語句解説と「さらに学びたい人のために」参考文献を1冊だけ付し、巻末には「各国の経済力の変遷」「戦後日本経済表」「日本の領土地図」「内閣総理大臣および外務大臣一覧表」、「もっと学びたい人のために」参考文献3頁がある。エピソードの頁の下には、年表軸も付されている。

 エピソードの内容も、高校の教科書で書かれていることを念頭に置いて書かれているのでわかりやすく、田口卯吉の「日本人白人論」などの意表を突くものもあれば、「軍の暴走を許した国民意識の暴走」など、国民の責任を問うものもありで、読者に外交が自分たちの生活と無縁ではないことを意識させている。

 一般書を書くのは、ある意味で専門書を書くより難しい。本書のエピソードで疑問にもった箇所があり、自分ならこう書くと思った読者がいたら、著者の目的は達成されたことになるだろう。本書は、書かれたことを鵜呑みにする「学ぶ」ための「教科書」ではない。副題にある「「今」を理解するために」、「序」にある「まなぶ」から自分にとっての「外交史」を考えるためのものだろう。

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2013年08月13日

『海のイギリス史-闘争と共生の世界史』金澤周作編(昭和堂)

海のイギリス史-闘争と共生の世界史 →紀伊國屋ウェブストアで購入

 ずいぶん挑戦的で、挑発的な本である。このような本が編集できるようになったのも、日本の西洋史研究がヨーロッパから学ぶ段階から脱し、独自の西洋史観をもって歴史学を語ることができるようになったからだろう。それは、歴史学の基本を踏まえて、世界史のなかでヨーロッパを語ることを意味している。この当たり前のことを、ヨーロッパ人の西洋史研究者のみならず、かれらから学んできた日本の西洋史研究者も、なかなか気づかなかった。これまで、ヨーロッパ史はヨーロッパ世界のなかだけで語られ、ヨーロッパ外のことに関心がなかった。

 本書の「総説 海の歴史のルネサンス」は、まず「歴史学の定義」から入る。編者、金澤周作は、つぎのように本書で共有する定義を説明している。「歴史学、それは、知られざる過去の人間の営みを、現在の地点から、可能な限り確かな証拠と可能な限り飛躍のない論理に基づいて再構成した上で、現在を生きる私たちの歴史像に一石を投じる学問である」。

 そして、おもしろいはずの歴史をつまらなくしているのは、この「定義からの逸脱が原因である」、「つまらないと感じる歴史は、現在の自分にも既存の歴史像にもなんら響かないものなのかもしれない」という。つまり、歴史を現代の目で見ていないからつまらないのである。とすると、イギリスの歴史も、イギリスが世界の超大国として繁栄した時代のひとりよがりの歴史観でみているからつまらないのであって、現代の日本人の目から見れば、おもしろくなるということだろう。

 イギリス史を「とてもおもしろい」ものにするために、編者は「人と海の歴史的な関わりを多面的に扱う海の歴史」(海事史)に注目した。「海の歴史は、一方で、イギリス近世・近代史のバランスのとれた、多面的な姿を描き出す上で非常に適し、他方で、「イギリス」を主要なアクターないし背景にするグローバルな人間行動を再構成する前提として不可欠な視角なのだ」。さらに、海の歴史は、イギリス史叙述を引き裂いてきた「三つの「二重性」-微視的/巨視的、陸的/海的、強い/弱い」を、3つながらに統合する可能性を秘めているという。

 おもしろい「海のイギリス史」を書くために、「本書の提案」として「四つの心構え」をあげている。まず、「海の歴史に関わる主体をなるべく多くすくい上げること」、つぎに「誰かのイメージとして、あるいは交流の事実の集積の結果として、独特な個性を持った海域ができるという」こと、「より曖昧で不正確な表象や言説にも注意を払っていく」こと、そして4つめとして、「イギリスの海事は、ナショナルな条件の下で展開したが、やはりグローバルな舞台を忘れるわけにはいかない」ことをあげている。

 本書は、「イギリスの海の歴史「研究」の全貌をまとめ上げ、基礎的事実とともに多彩な研究動向とこれからの方向性を提示する、イギリスでも日本でもおそらく例のない「研究入門」のための書」で、つぎの3部構成をとっている。「第1部では海の歴史の光の面、すなわち概してイギリスの強さをあらわす側面を扱う」:「第1章 探検・科学」「第2章 海軍」「第3章 海と経済」「第4章 港」。「第1部とは対照的に、第2部は、影の面、すなわちイギリス史の本流から外れるような、イギリスの弱さを示す側面を扱う」:「第1章 海難」「第2章 密貿易と難破船略奪」「第3章 海賊」「第4章 私掠」。第3部では、「網羅的に整理したイギリスの状況を、他地域の事例から相対化する」ため、第3部の執筆者は第1部・第2部の執筆者たちと対話を重ねた上で執筆している:「第1章 近世フランス経済と大西洋世界」「第2章 近世フランスの海軍と社会」「第3章 ポルトガル・スペインと海」「第4章 オランダと海」「第5章 近代中国沿海世界とイギリス」。さらに、本書には20のコラムが挿入されている。

 「総説」の「おわりに-メッセージ」には、本書の目的が「本書が開く世界」の見出しのもとに、つぎのように述べられている。「まず、イギリス近世・近代という、世界の歴史において特筆すべき存在感を示した対象を、今までよりも深く、また違った仕方で理解するために、海の歴史にまつわる基本的な史実や論点を整理すること。しかし、イギリス近世・近代だけを見てイギリス近世・近代の「個性」を描いてしまうような愚を避け、同時代の西欧諸国、そしてアジアの海の歴史の成果と対話しながら、より相対化された像を提供することも目指している。これは同時に、イギリス史にとって鏡の役割を果たしてくれる当の諸外国の歴史を相対化することにもなろう。さらに、過去というそれ自体混沌としかいえない対象に、どこからどうやってどのような網をかけ、その混沌を「歴史」という物語として再構成していくかについての、アイデアの数々を提供することも本書が意図していることである」。

 そして、最後に、「読者の皆さんへ」「この本が、斬新な研究の炎を諸所で燃え立たせることができるような、消えない埋め火であらんことを願いつつ、あなたを以下の本編が描き出す万華鏡のような海の歴史の世界に送り出したい」と結んでいる。ここまで書くのであれば、読み終えた読者に、編者の思いと同じだったか、問いかけてほしかった。読者は、編者の思いを越えて、あるいはとんだ思い違いをして読んだかもしれない。短い「あとがき」でもあれば、読者は編者と思いを共有できたことを確認して、本書を安心して閉じることができただろう。

 歴史をつまらなくしている原因のひとつに、いまだに近代をリードしたヨーロッパを中心とした歴史観がある。編者もそのことに充分気づいているから、第3部第5章の「近代中国沿海世界とイギリス」があり、同部第3章や第4章などもヨーロッパ世界にとどまらず世界を扱おうとしている。それで充分でない部分は、コラムで補っている。しかし、残念なことに西ヨーロッパや東アジア以外は、「海の歴史」に関心のある研究者が少なく、研究があまり進んでいない現実では、補いようがない部分もある。西洋中心史観が時代にふさわしくない歴史観であることは、近代の終焉を感じ始めたかなり以前から気づいていたにもかかわらず、それにとってかわる歴史像が描けないために、時代遅れなままの状況が続いている。

 もうひとつ、歴史をつまらなくしているのは、陸地中心史観で、陸の概念で陸から海を一方的に見てきたからだ。これについては、まだ気づいている人が少なく、研究はまったくないといっていいほど少ない。陸から海へ・海から陸へ、双方向から見る視点がないのは、海を主体的に見る発想自体がなく、海を陸の従属物と見ているからだろう。今日、海を陸地の延長だと見て、紛争の海にしているのも、一方的な陸地中心の見方からだ。古来から、海は、グロティウスが唱えたように、利用する者にとっての「公海の自由」がある。陸地の支配者が占有するものではない。大切なことは、海の歴史研究の発展を、紛争の海を助長するために利用されることなく、平和な海に戻すために役立てることだ。そうしなければ、現実の問題に役に立たない歴史は、つまらない「趣味」の世界のものだと思われてしまうだけでなく、紛争の種になる有害なものになってしまう。

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