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2013年07月30日

『一つの太陽-オールウエイズ』桜井由躬雄(めこん)

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 「大緊張をもって読ませていただきました。最も強く感じた事は、結局、貴君だけが、まともに地域学をやったのだ、ということです」。本書は、タイ国日本人会の会報紙『クルンテープ』2010年11月号~2012年11月号に連載された「一つの太陽-オールウエイズ」をまとめたもので、読み終えた高谷好一先生が11月19日付け書簡冒頭で、このように述べている。それから1ヶ月もしない12月17日に、著者桜井由躬雄は急逝した。67歳。

 連載のきっかけは、著者が師とする石井米雄先生(1929-2010)を亡くしたことで、本書「はじめに」はつぎの文章ではじまっている。「二〇一〇年二月一二日の石井先生の死は、戦後の日本で生まれ育った東南アジア研究の、太陽の早すぎる落日であった。そのとき、この落日が東南アジア研究の死に至らないかという不安を持った。このエッセイは、結局、その不安の分析にあてられるかもしれない。それは先生がもっとも悲しむことである。先生の死を乗り越えて、世界一を誇る日本の東南アジア研究をさらに輝かせる。それが私たちの、若い世代への新たなマニフェストのはずだ」。「そのために、ここで石井先生の死に至るまでの日本の東南アジア研究が歩んだ道について語ることにした」。

 強気で他者の発言を封じるように、大声で威圧して自己主張する著者の生前の姿を知っている者は、その姿そのままの文章のなかに、著者の「本音」を聞き、著者の魅力を思い起こしているかもしれない。強気のなかに「弱さ」があって、その「弱さ」を打ち消すために、大声で「虚勢」を張る。その「魅力」に、多くのベトナム人も学生も虜になった。

 ベトナム人は、2009年第1回国際ベトナム学賞に、著者を選んだ。その受賞演説は、つぎのことばで終わり、満場総立ちで万雷の拍手を得たという。「現在、私は地域学者であります。地域学とはなんでしょうか。私の最初の答えはこうです。地域学は、地域を敬愛する心の表現である。私が死んだら、ぜひ天上でホーチミン氏に会いたいと思っています。私はホーチミン氏に報告します。『私は日本人です。それでも私の人生と私の科学的事業のすべてをベトナム地域研究に捧げてきました。この四四年間の私の研究の結論は、以下のとおりです。私はこよなくベトナムの大地を敬愛しています、私はこのうえなくベトナム人が好きです』。ベトナム、ありがとう。皆さん、ありがとう。」

 その翌年、重篤の心不全に陥った著者のベッドには、内外の学生が折った千羽鶴1500羽が飾られ、旧友に「桜井さんのまわりをご家族と学生さんが、固い輪を作って守っている」と手紙に書かせた。その死の生還時に描いた3つの残業(バックコックムラ調査報告書出版、『ベトナム概説』出版、ハノイの歴史の再構成)を、生きてかたづけることはできなかった。できていれば、もっと大きな顔をして天上に行くことができたと、悔しがっていることだろう。

 本書(連載)は、つぎのことばで終わっている。「長い、長いこの連載、この回で終わる。「オールウエイズ」、また「一つの太陽」というタイトル、いかにも評判の映画のもじりに見えて安っぽい。しかし、この題名で伝えたいことは、映画の「昭和伝説」とは関係ない」。「この六七年間、人並みに挫折もし、鬱にもかかった。失業もし、貧乏に苦しみ、逮捕拘禁もされた。大学の職を失いかけた夜、妻と子供たちの寝顔を見ながら、一家心中というのはこういうときにするのだな、としみじみ思ったこともある。人間関係に深く傷ついて押し入れの中で呻吟したこともある。その度に、内にあってはよき親、よき兄姉、よき妻、よき子、外にあってはよき師、よき友、よき学生に引っ張り上げてもらった。海外でなにごとかあれば、必ずよきサマリア人が現れた。人生は人々の恩愛で、満ちあふれている。そして私自身の上空には、いつも「地域学」という一つの太陽があった」。「オールウエイズ(いつもいつも)」、浪高しといえど、天気は晴朗である。今は漕ぎ出でん」。いつもなにか大きなものに頼りながら「自信」をつけた言動に、助けざるを得ない雰囲気をつくっていた。

 二人三脚で東南アジア研究をリードしたふたりの「巨人」(石井・桜井)の死は、ひとつの時代の東南アジア研究の終わりであろう。それが、新たな時代の始まりになるのか、死に絶えるのか。著者は、東南アジア史学会から東南アジア学会に2006年に名称を変更したことで、「東南アジア学の中の東南アジア史、地域学の一部としての東南アジア歴史研究が日の目を見た」とし、「東南アジア研究再興の連合拠点ができた」と自負している。歴史空間としての東南アジアを大切にし、地域研究としての東南アジアは井の中の蛙やお山の大将になることなく、もっと広い場で議論すべきだという意見に聞く耳を持たず、リーダーシップをとる気もその実力もないと自覚している歴史研究者を批判し、「歴史学者のおごり」と曲解した。名称変更という安易な手段をとり、新しい学会をつくるという産みの苦しみを経なかったことで、地域研究学会としての東南アジア学会は、著者が考えたような「東南アジア研究のすべての領域をカバーし、吸収し、発展させるもの」にスムーズに移行できたか、天上から石井先生とホーチミンと見ていることだろう。合掌。

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2013年07月23日

『パプア-森と海と人びと』村井吉敬(めこん)

パプア-森と海と人びと →紀伊國屋ウェブストアで購入

 今年、白木蓮が散りはじめた3月23日、家族らが見守るなか、著者の村井吉敬は息を引き取った。69歳。その1ヶ月前の2月22日に、著者はカトリックの洗礼を受け、洗礼名フランシスコ・ザビエルを選んだ。4月8日、葬儀ミサ・お別れ会がおこなわれた聖イグナチオ教会主聖堂は、著者の死を悼む「仲間」で埋め尽くされた。本書最後のページに略歴が載っている。しかし、1ページではとても書ききれない活動の広がりと奥深さは、参列した人びとの数と多様さが物語っていた。

 本書に挿入された「「小さな民」とイワシ研究」によると、1月末に膵臓がんの転移と余命宣言を受けたと聞いた「仲間」は、著者が1993年以来20回にわたって訪問したパプアの友人に、「噛めば癌細胞が消えるという木の皮」を求めた。「癌細胞を溶かして体外に出す効果のある」薬草は、つぎのメッセージ(2月8日付)とともに送られてきた。「・・・わたしたちパプアの友人は、村井さんを尊敬し愛しています わたしたちの闘いはまだ終わっていません わたしたちの望み、夢はすべて、村井さんの勇気から生まれました 村井さんは、わたしたちパプアと日本をつないでくれました わたしたちは、村井さんの思想、村井さんの行動を忘れることがないでしょう パプアは村井さんの家です 村井さんが元気になり、パプアに戻ってきてくれるのを祈っています」。

 そんなパプアの人びとと著者の関わりが、多数の写真とともに紹介されているのが本書である。「はじめに-トリバネアゲハ、ビンロウジ、パペダ、OPM」は、つぎの文章で終わっている(トリバネアゲハは蝶愛好家が垂涎の絢爛豪華な蝶、ビンロウジは椰子の一種でコショウ科の植物キンマの葉や房と石灰と一緒に噛む、パペダは主食のサゴヤシの料理、OPMは独立のためのゲリラ組織である自由パプア運動である)。「パプアにはさまざまな切り口、見方がある。わたしは二〇年ほどパプアを行き来してきた。パプアのとりこになったからである。日本より広いパプアだからまだ行っていないところもたくさんある。しかしこのあたりでわたしの見た、わたしをとりこにしたパプアを写真とともにここに報告しておきたい。写真はすべてわたしの撮った写真で、二〇〇二年以後はほとんどがデジカメの写真である」。

 著者をとりこにした理由は、「学ぶ」ことにあった。そのことを「あとがき」で、つぎのように述べている。「パプアの大きな自然はちっぽけなわたしたちの近代科学観すら簡単に凌駕してしまうような気がする。パプアに二〇回ほど出かけながら「学ぶ」というのはこういうことなのかと思う」。「パプアでわたしが行きついた問題もアイデンティティや国民国家の問題ではあるが、それ以上に人を取り巻く自然の問題がそこにはある。ややこしいことではない。パプアにいるといつも自然に囲まれ、その雄大さ、その厳しさ、その優しさ、美しさを感じざるを得なくなる。わたしは世界の大都会近郊にいるのでその思いはひときわ強い。人びとの基礎にもこの自然があるように思える」。

 そんな自然を日本軍が破壊した痕跡が、ここかしこにあることも、本書は伝えている。著者は、つぎのような感想を述べている。「日本軍や米軍の犠牲者についてはある程度の数がわかるが、パプアの人の犠牲の実態はほとんど何もわからない。日本の慰霊団の人びとの慰霊ツアーに「文句」を言うつもりは毛頭ないが、まずパプアの人の犠牲に思いをはせるべきではないだろうか」。

 著者のまなざしは、つねに「小さな民」にあった。その「小さな民」のすごさについて、つぎのように語り、それを理解していない開発を嘆いている一節があった。「パプアの山の人びとが、どれほどかサツマイモの栽培に長けているか、狩猟民のマリン(Marind)の人びとの鹿笛を使った猟がいかに優れているのか、タブラヌスの刳(く)り舟に彫られた彫刻がどんなにか抽象図案を巧みに使うか、こうしたことはほとんど伝わっていない。暮らしの知恵や技術、そして芸術性をいかに持ちあわせようとも、パプアは「未開」で、開発の対象でしかない」。

 学ぶ姿勢を持っている者から、学ぶことは多い。とりわけ著者のように、「小さな民」とともに学ぶという発想のある者は、全身で学ぶことができる。本書は、題名の通り、著者がパプアの森から、海から、人びとから学んだ報告である。「そんなパプアにまだ何度も行きたいと思っている」願いは、パプアから届いた「泥臭く苦いタブラヌスの「秘薬」をしかめ面で、しかしうれしそうに飲んで」も叶わなかった。

 本書「あとがき」は、つぎのことばで締めくくられている。「多くのパプアの友人たちに助けられてわたしのパプア浸りが成り立っている。この人たちがみないつまでも元気でいることを願って本書の幕を引くことにする」。著者の人生の幕は引かれたが、その「まなざし」は葬儀に参列した人びとはじめ多くの人びとに受け継がれている。合掌。

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2013年07月16日

『新・ローマ帝国衰亡史』南川高志(岩波書店)

新・ローマ帝国衰亡史 →紀伊國屋ウェブストアで購入

 「これはすごい!」、まずそう思った。本書のタイトルの「新」の後に「・(ナカグロ)」がある。その意味を問い、理解することが本書の価値を知ることになるとも思った。

 表紙裏開きに、つぎのような要約がある。「地中海の帝国と言われるローマ帝国は、実は「大河と森」の帝国だった? 衰亡の最大原因とされる「ゲルマン民族」は存在しなかった? あの巨大な帝国は、わずか三〇年で崩壊した?-歴史学の最新の知見から<二一世紀の衰亡史>を語り、栄えた国が衰えるとはどういうことか、国家とはそもそも何なのかを考えさせる、刺激的な一書」。たしかに「刺激的」だった。本書は、「歴史学の最新の知見」を要領よくまとめた概説書ではない。著者、南川高志は欧米を中心とした最新の歴史学を踏まえて、「独自の考え」のもとに新たな歴史像を提示している。

 まず、1970年代以降に歴史学界で新しい解釈の傾向が生じ、90年代に有力になったローマ帝国史を、つぎのように説明している。「古代の終焉期に関する新しい研究においては、ローマ帝国の「衰亡」や西ローマ帝国の「滅亡」を重視しないのである。「変化」よりも「継続」が、政治よりも社会や宗教が重視されるようになり、「ローマ帝国の衰亡」を語るのではなく、「ローマ世界の変容」が問題とされるようになった」。「こうした新しい研究傾向と並行して、ゲルマン民族の大移動の破壊的な性格を低く見積もり、移動した人々の「順応」を強調する学説が提唱されるとともに、ギリシャ人、ローマ人以外の古代世界住民の歴史と文化をより重視しようとする動きも見られた」。

 しかし、著者は、「こうした学界の傾向とは異なり、ローマ帝国という政治的な枠組みの意義を重視する」。そして、つぎのような希望を述べる。「この国家の枠組み、およびそれによって作られていた世界が衰退し崩れ去る局面を取り上げたい。二一世紀に入って、欧米の学界で「ローマ帝国の衰亡」を重視すべきという主旨を持つ著作がいくつか発表されるようになって、今後の学界の動向が注目されるが、それらを参考にしつつも、この書物では私の独自の考えで「衰亡史」を語ることとする。「独自の考え」とは、衰亡の過程の史実に関する創見を意味するのではなく、ローマ帝国の本質に関する見方のことである。長らくローマ帝国の最盛期を研究してきた成果を踏まえて、衰亡史を書いてみたい」。

 「ローマ帝国は、イタリアに発し、地中海周辺地域を征服して帝国となった。そのため、ローマ帝国は一般に「地中海帝国」と理解され、性格づけされている」。しかし、著者はつぎのように別の角度から衰亡史を見ようとしている。「国家生成期はともかくとして、最盛期以降の帝国をも「地中海帝国」とみなせば、ローマ帝国の重要な歴史的性格を見誤ると私は考えている。イタリアや地中海周辺地域だけでなく、アルプス以北の広大な帝国領を念頭に置く必要がある。イタリアに中心を置く立場からは辺境と呼ばれるようなこの地域こそが、最盛期から終焉期にかけて、ローマ帝国の帰趨を決めるような歴史の舞台になったところにほかならない」。

 さらに、つぎのように、その理由を述べている。「私は、イタリアやローマ市といった帝国の「中核」地域から論じる伝統的なローマ帝国論よりも、帝国の辺境から考察するローマ帝国論のほうが、新しい研究と解釈の可能性を秘めていると感じている。辺境地域は、帝国の外の世界との対立や交流を通じて、軍事面でも社会文化的な面においても帝国の本質が顕現する場である。私はここしばらくブリテン島やライン川、ドナウ川周辺の帝国領の研究をしてきたが、こうした辺境属州の実態や動向を知ることで、ローマ帝国の統治や生活・文化の形式について、その特質をより深く理解できると考えている。本書ではそうした視角から見た独自の帝国論を、衰亡を語る基礎としたい」。

 このような著者独自の「ローマ帝国の衰亡の理解、扱いもまた、時代の子」で、本書の目的を「序章 二一世紀のローマ帝国衰亡史」の最後で、つぎのように述べている。「栄えていた国が衰えるというのはどのようなことなのだろうか。それまで当たり前の存在と思われていた世界が動揺し、やがて崩壊してゆくのはどのように理解されるべきだろうか。この重い問いに対して、黄昏ゆくローマ帝国について語りながら、歴史と未来を考える素材を読者に提供すること、これがこのささやかな書物の目的である」。

 著者のいう「ローマ帝国の本質」とは、帝国を支えた「ローマ人」のことであり、その「ローマ人」が増え、「ローマ人」の居住空間の拡大がローマ帝国の拡大となった。そして、その「ローマ人」には、「ローマ国家の約束ごとに従い、その伝統と習慣を尊敬する者なら誰であろう」となれた。属州の民や外部世界から属州に入って生きていこうとする「新しいローマ人」は、「ラテン語を話し、ローマ人の衣装を身につけ」、「ローマの神々を崇拝し、イタリア風の生活様式を実践」すればよかったが、実際には「ローマの生活様式、文化の浸透は緩やかで、都市市民など限られた人々に行き渡った」にすぎなかったようだ。それでも、「ローマ人である」というアイデンティティが、「多様な人々を、排除ではなく、統合する機能を与えて」いるかぎり、帝国は安泰だった。

 著者は最盛期のローマ帝国を、つぎのようにまとめている。「担い手も領域の曖昧な存在であったにもかかわらず、一つの国家として統合され、維持されていた。そして、その曖昧さこそが、帝国を支える要件であったのは、本書で見てきたとおりである。そうした曖昧さを持つローマ帝国を実体あるものとしたのは「ローマ人である」という故地に由来するアイデンティティであった。アイデンティティなるものは本来、他と区別して成立する独自性を核としている。にもかかわらず、最盛期のローマ帝国がこのアイデンティティの下で他者を排除するような偏狭な性格の国家とならなかったのは、それが持つ歴史とその記憶ゆえであった」。

 ということは、「ローマ人である」というアイデンティティが失われたとき、帝国はその存在意義を失い、あっけなく崩壊することを意味した。「四世紀の後半、諸部族の移動や攻勢の前に「ローマ人」のアイデンティティは危機に瀕し、ついに変質した。そして、新たに登場した「ローマ」を高くかかげる思潮は、外国人嫌いをともなう、排斥の思想だった。つまり、国家の「統合」ではなく「差別」と「排除」のイデオロギーである。これを私は「排他的ローマ主義」と呼んだが、この思想は、軍事力で実質的に国家を支えている人々を「野蛮」と軽蔑し、「他者」として排除する偏狭な性格のものであった。この「排他的ローマ主義」に帝国政治の担い手が乗っかって動くとき、世界を見渡す力は国家から失われてしまった。国家は魅力と威信を失い、「尊敬されない国」へと転落していく」。

 そして、著者は、「終章 ローマ帝国の衰亡とは何であったか」を、つぎのような文章で締めくくっている。「ローマ帝国は外敵によって倒されたのではなく、自壊したというほうがより正確である。そのようにローマ帝国の衰亡を観察するとき、果たして国を成り立たせるものは何であるのか、はるか一六〇〇年の時を隔てた現代を生きる私たちも問われている、と改めて感じるのである」。近隣諸国の人びとを「他者」ではなく、ともに新たな地域社会をつくっていく「仲間」ととらえることで紛争を抑え、また、そういう思潮をかかげることで、日本という国家は魅力と威信を保ち、「尊敬される国」になることができる、と本書から学ぶことができた。

 本書を読んでいて、たびたびうれしくなった。「辺境」や「曖昧さ」、「可変的」などということばは、歴史学ではこれまであまり重視されなかった。東南アジアを語る場合、これらのことばを抜きにすることができなかっただけに、古代ローマも東南アジアも、同じ次元で語ることができると思った。東南アジアのような「辺境」から、世界や時代を見ることができることを本書は、実証している。「ローマ人」という曖昧さは、東南アジアの集団を語るときに有効である。また、「集団のアイデンティティも可変的である」というのも、東南アジアにあてはまる。これらのことは、近代に発展した固定的な概念で、前近代も現代(ポスト近代)も語られてきたことを意味し、近代化が遅れたり、未発達な国や地域、人々を軽視してきた歴史観に変更を迫るものである。ようやく歴史学も、近代を乗り越えようとしていると感じた。しかも、ヨーロッパを主戦場としてきた古代ローマ帝国史研究に、日本人が新しい見方を提示したことに誇りを感じる。

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2013年07月09日

『捕虜が働くとき-第一次世界大戦・総力戦の狭間で』大津留厚(人文書院)

捕虜が働くとき-第一次世界大戦・総力戦の狭間で →紀伊國屋ウェブストアで購入

 「第一次世界大戦を通じて捕虜の数は九〇〇万人ほどと考えられている」。そして、帯には、「敵国のために働くとは?」とある。これまで考えが及ばなかった領域に足を踏み入れる予感があった。

 「おわりに」で、本書の意義について、つぎのように説明されていた。「本書は第一次世界大戦の捕虜について、特にその労働について詳しく論じたものである。第一次世界大戦の捕虜の労働について一冊の本の形で論じたものは国際的に見てもこれまでなかったものである。第一次世界大戦が終わって一〇〇年が経過して初めて研究の水準がそこまで達したということになるだろう。大戦が終わってすぐには参戦国の政府、軍、外交当局が自国の勝利(敗北)に向けて取った政策や戦略が問われた。またそれとは視点を変えて、いかに平和を維持するかという問題意識から行われたとは言え、カーネギー財団の支援による大戦の研究も、国家の政策に力点が置かれたという点では、同様であった。ただし個人的な経験としての大戦に関する記録は大戦間期に大量に出版されており、それがその後の研究の進展を支えることになったことも事実である」。

 なぜ捕虜兵の労働について語られなかったのか、著者、大津留厚はつぎのように説明している。「大戦の開始とともに一国の総動員体制の中に組み込まれ、それぞれの労働の場から切り離されて戦場に投入された兵士が、戦いの中で捕虜になり、いったん総動員体制から排除される。その後捕虜は敵国の総動員体制の中で労働力として再登場することになる。総力戦体制が一国の人的、物的資源を総動員する体制と考えたときに、「働く捕虜兵」の存在はその狭間に置かれた存在だった」。「第一次世界大戦が人類が経験する最初の総力戦だったとすれば、それは狭間としての働く捕虜兵の存在を前提にして初めて可能になるものだった。なぜなら交戦各国は戦争が長期化し、国家の人的、物的資源を総動員しなければ戦争を遂行し得ないことに対して備えができていなかったからだ。そこで捕虜兵の労働力が不可欠なものとなった」。「しかし「次の」総力戦をもし戦うとすれば、それは始めから準備をしていなければならなかった。そのときに敵国の総力戦体制を支えることになる可能性のある「捕虜」の存在は排除されることになる。働く捕虜兵の存在は歴史から抹殺されることになった」。

 しかし、それは国家から見たときのもので、個々の捕虜兵には、生活があり、経験があった。本書の「記述の中心は、第一次世界大戦の間にほぼ二〇〇万人の自国兵士を捕虜として失うと同時にほぼ同数の敵国兵士を捕虜として収容したオーストリア=ハンガリーに置かれる。すなわち、シベリアを中心にロシア各地に収容されたオーストリア=ハンガリー捕虜兵とオーストリア=ハンガリーに収容されたロシア人、イタリア人、セルビア人捕虜兵約四〇〇万人がその対象となる。日本で収容されたドイツ、オーストリア=ハンガリー捕虜兵約四六〇〇人は四〇〇万人に比べればわずかな数でしかないが、そこには四六〇〇人それぞれの経験があり、その一千倍の世界を覗く貴重な窓の役割を果たしている」。

 個々の捕虜兵には、生活があった。当然のことが、思い浮かばないのも、戦争という非常時のせいだろうか。そこに生活があれば、戦争が終わり捕虜でなくなったとしても、その地に留まる者がいても不思議ではない。いったん帰還した旧捕虜が、元の収容地に戻ることも珍しいことではない。国家としての戦争は終わっても、「戦時」が続く者がいる。未帰還兵などである。第一次世界大戦中の「一九一七年のロシア革命の発生は一部の捕虜にとっては自発的な帰還を可能にしたが、多くの捕虜が衣食住の保障も失ってシベリアに取り残されることになった。その中には「残る」ことを選択するものもあったし、帰還する意志も失って留まっているものもあった。そこには無数の「戦時」があった」。  これだけ、戦争について長年語られながら、語られないことのほうがはるかに多いことを、改めて考えさせられた。「脱走兵、捕虜、難民、民間人の抑留、自国民政治犯の収容、住民の強制移住、外国人労働者など一国的総力戦論では捉えきれない」多くの重要な課題が残されていることも、本書から学んだ。

 いっぽうで、この第一次世界大戦時の問題は、第二次世界大戦にどのように引き継がれたのだろうか気になった。日本でも、約4600人の捕虜を収容したことが、その後の捕虜の考え方にどのような影響を与えたのか? 「生きて虜囚の辱めを受けず」という戦陣訓への影響はなかったのか? 「引き続く世界大戦」としての捕虜の問題が語られると、第一次世界大戦に「疎い」日本人にも、より身近になってわかりやすくなる。この点について、本書ではつぎのように語られている。

 「日本政府はハーグの陸戦条約を改定した一九二九年のジュネーヴ条約を批准しなかった。その論理は、内海愛子が『日本軍の捕虜政策』で的確に指摘しているように、「相互性」の否定にあった。「帝国軍人の観念よりすれば俘虜たることは予期せざるに反し外国軍人の観念に於ては必しも然らず従て本条約の形式は相互的なるも事実上は我方のみ義務を負う片務的のものなり。」捕虜の「尋常な」労働を保障する国際条約を否定した日本陸軍には捕虜の「強制的な」労働への道しか残されていなかった。国際的に見ても第二次世界大戦における過酷な捕虜体験は戦後にPOW(prisoner of war)研究を大きく進展させたが、第一次世界大戦の数百万人に及ぶ捕虜の「尋常な」労働体験は、「総力戦」と「総力戦論」の狭間で忘れ去られてしまった。本書はこの歴史の欠落を埋めようとするささやかな試みである」。

 本書によって、「総力戦」研究の新たなページが開かれた。

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2013年07月02日

『日中対立-習近平の中国をよむ』天児慧(ちくま新書)

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 「中国とどうつき合うか?」 著者、天児慧は、2010年9月の「中国漁船衝突事件」以来、「大学の仕事以外に、日中問題を考え、書き、喋ることが筆者の日常で最も大きな比重を占める仕事となった」。それまでの数年間、「日中関係の前途に大きな希望を膨らませ始めていた」だけに、「できるだけ早く行き詰まった日中関係を打開する一石を世に投じたいとの思いが強くなった」。

 本書の概略は、表紙裏開きに、つぎのように記されている。「転機は二〇一〇年だった。この年、中国は「東アジア共同体」構想を放棄し、「中華文明の復興」を掲げて大国主義へと突き進みはじめる。領土問題で周辺国との衝突をためらわず、とりわけ尖閣諸島をめぐって日本との対立が先鋭化した。変化の背景には、共産党内部での権力闘争があった。熾烈な競争を勝ち抜き、権力を掌握したのは習近平。G2時代が現実味を増すなかで、新体制の共産党指導部は何を考えるのか? 権力構造を細密に分析し、大きな変節点を迎える日中関係を大胆に読み解く。内部資料などをもとに、中国の動向を正確に見究める分析レポート」。

 著者は、中国を専門とする研究者として、まず、中国が直面しているジレンマを、つぎの4つに整理している。「第一に、経済成長優先路線とそれが生み出した経済格差、蔓延する腐敗、劣悪化する環境公害などさまざまな分野での不平等社会のジレンマである」。「第二に、中国がこれまで重視してきた国際協調路線と、急激な台頭に伴って生まれてきた「大国主義」的思考にもとづく対外強硬路線の間のジレンマである」。「第三には、「中国的特色」「中国モデル」論などにみられる伝統的文化歴史へのこだわりを強める中国特異論と、世界のリーダーとして世界が共有する価値や国際公共財への積極的な関わりが求められる普遍主義とのジレンマである」。「第四は、中間層、市民の台頭、各階層の利益の多様化などに見られる多元社会・開放社会と、統治に関しては共産党体制を堅持し政治の多元化を認めようとしない一党体制のジレンマである」。

 つぎに、中国の日本にたいする複雑でデリケートな感情問題を、つぎのようにまとめている。「古来から周辺国・日本に多大な影響を与えてきた大国としての優越意識、近代史の中で台頭するアジアの大国・日本に追い越され屈辱・犠牲を強いられたという意識、第二次世界大戦以後は急速に復興・発展を実現し、アジアの大国として蘇った日本に警戒し脅威を感じる意識、改革開放時代は発展のために支援を受け「学ぶ対象」としてみとめざるをえなかった意識、そして今日台頭しGDPで日本を追い越した中国が、「失われた二〇年」と言われる日本に対して、ある部分でようやく「見下ろす」ことができるようになったという意識、しかしなお社会の「成熟」という面からみればなお大きく遅れているという意識、これらの意識が渾然一体になった状態こそが、中国の対日意識といえるだろう」。

 そして、「新しい日中関係を築くために」、つぎの4点を提起している。「①日中の多層的な相互依存関係、多重的な利益共有構造を構築し、ゼロ-サム的な武力行使は自らも手痛い打撃を受けるという認識を共有する。経済ではすでにプラス-サムの関係が生まれているが、他の領域、とくに安全保障領域でもこのような関係を構築していく必要がある」。「②政府間レベルでは実利思考をとくに最優先し、「挑発しない、挑発に乗らない」という姿勢をはっきりさせ、そのことを相手側にも常に発信する」。「③日中政府間の「危険管理枠組み」を構築し、日常的に機能させる。とくに、相互の立場を主張する「場」にしないで、立場の相違はあっても「相互抑制」「紛争未然防止」を重視し、その実現を目的とした情報の交換、率直な意見交換などを行なう」。「④メディアによる安易な反中、反日の雰囲気を煽る報道をできるだけ慎み、尖閣諸島問題とナショナリズムの癒着をできるだけ避ける努力をする。とくに、危機管理の枠組みでは、非公式メディアを含め動向をしっかりと把握・分析し、「衝突回避」のための事前対応を怠らないようにすることである」。

 さらに、中国が直面している4つのジレンマの克服のために、日本の存在が大きな意味をもっていることを、つぎのようにまとめている。「第一に、経済成長路線とそれが生み出した「社会的負」のジレンマである。...日本は税制度、医療保険制度、普通教育制度、省エネ対策、循環型社会システムなどの充実により、また自然環境保護の重視、法制度の充実などによって、長きにわたって「調和社会」を実現してきた。しかも、一九六〇年~七〇年代の日本は、現在の中国と同じような事態に直面し、それを克服してきた経験と知識をもっている」。「第二に、大国化と国際協調のジレンマである。そして第三に、中国特異論と普遍主義のジレンマである。これらのジレンマに関しても、日本の高度経済成長期に、「エコノミックアニマル」「日本型経営」などの日本特異社会論がはびこったが、やがて国際協調、普遍主義への融合を主としながら、逆に日本特異論の優れた側面を十分に活用しながら、国際社会に適合してきたことが参考になる」。「さらに第四の開放社会と一党体制のジレンマに関しても、「戦後五五年体制」と呼ばれる自民党の事実上の一党体制が一九九一年まで続いた。それでも、「表現の自由」「野党勢力の役割増大」など安定的漸進的に民主の実質化が進んだ。これらの日本経験は、もちろんすべてではないにせよ、多くの重要な部分でこれからの中国にとって、とりわけ将来「成熟社会」に向かうために大いに参考になるだろう」。

 他方、日本にとっても、中国はなくてはならない存在になってきていることを、3点あげている。「一つ目は、いうまでもなく日本の製造業の生き残りとして、比較的安価で優秀な労働力が確保できる中国の重要性である」。「二つ目には、日本にとっての巨大な「市場」としての中国である。そして三つ目はポジティブで創造的で優秀な中国人若手人材の活用である」。

 最後に、「あとがき」で「肝心なことは、双方とも自分の主張を一方的に繰り返すだけでなく、相手の主張にも耳を傾け、あるいは国際社会を意識しながら日中関係のあるべき姿を考え、展望することであろう」と述べ、「両雄並び立つ」創造的な両国関係の実現を目指すために、今後の重要な課題として考えておくべき3点をあげている。「第一に、こうした中国以外の国との関係改善・強化を進めることは日本の外交基盤を強化することになり重要であるが、そのことで日本が率先して反中国包囲網の形成を進めているとの印象を絶対に与えないことである」。「第二に、現在日中関係の最大の障害になっている問題は本論でも繰り返した尖閣をめぐる「主権問題」であるが、中国側はこれを第二次世界大戦の「歴史問題」と関連づけることにより、韓国、台湾、ひいては米国の賛同を得て、日本への攻勢を強めようとしている。...日本外交にとって微妙で重大な段階にある現在、歴史問題に関わる言動は慎重にすべきであろう」。「第三に、これからの日中関係を考える場合、さまざまなインフォーマル・ネットワークを強化・発展させ、その上で、そうしたネットワークの情報や意見が、直接・間接に政策決定者(機関)にとどき、政策に反映できるよう、意思疎通のパイプを開拓し充実させていくことである」。

 「尖閣問題」について、著者は、つぎのような「長期的な視野に立った解決のためのアイデアを提起」している。「日本が「尖閣諸島は歴史的にも国際法的にも日本の領土」という主張は譲らない。中国も台湾も「中国の固有の領土」ということも譲らない。ならばいっそのことこの両者を包み込むアイデアを考え出したらどうだろうか」。「一つの島嶼を、日本側は「尖閣諸島」と呼び、中国・台湾側は「釣魚列島」と表現する」。「漁業・資源開発など経済活動に関しては当事者間で相談して決定する」。「海底資源に関しては「共同開発」を原則的に推進し、さらに領海の航行は双方が特別に配慮する」。このアイデアのおおかたは同意するが、巨額の資金と高度な技術が必要となる海底開発については、再考の余地があるかもしれない。日中関係だけでなく、資金も技術力も充分でない東南アジアの国ぐになどと中国との問題を考えると、資金も技術力もある中国が圧倒的に有利になる。巨額の資金と高度な技術を必要とする開発はおこなわないことを原則とし、開発する場合は当事国以外の国ぐにが主体となっておこない、開発しようとする資源の乏しい国が優先的に使うことができる、というのはどうだろうか。当事国同士の共同開発は、紛争の種になる危険性が高いし、事故が起き自然・環境破壊が起こる可能性も大きいように感じる。

 著者が何度も強調するように、「双方にとって、相手側は必要不可欠な存在であるとの認識をしっかりもち、相互信頼関係をはぐくみ、強めていくことこそ重要であるという認識を基本的な立脚点に据えるべき」であり、そのためには「現状維持が最善の策」であろう。

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