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2013年06月25日

『国際海洋法』島田征夫・林司宣編(有信堂)

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 「歴史的には、海洋法は、近代主権国家成立のはるか以前における、海を媒介した海運・商事関係に関する慣習法からの影響を強く受けている」。「条約の締約国と非締約国との間では慣習法が適用される。ただし、国際社会全般に広く受け入れられる条約は、その全体または一部が慣習法化し、すべての国を拘束するに至ることもある」。

 「海を利用する人々や都市、国家等が守るべきものとされた一連の法規則の歴史は古く、古代ギリシャ時代にまでさかのぼる」。「ローマ時代には海は万民法(略)において、「万民の共有物(略)」とされ、すべての人々に自由に開放され、私的な所有や分割が禁止されていた」。「中世においては、ベニス、ジェノバ、ピサ、マルセイユなどの地中海の都市国家が海洋にも勢力をのばし、各都市が法を公布し、一部は近くの海への支配権を行使した」。

 さらに、近世、「イギリスの海洋主権論、そしてスペイン・ポルトガルの海洋支配に正面から理論的に立ち向かった」「近代国際法の父」といわれるオランダのグロティウスは、1609年に出版した『自由海論』で、「海はすべての人類にとって自由なものであり、いかなる者も領有し得ないことを説いた。そして、聖書、自然法、発見、先占、慣習等もこれを否定し得ないとした。また、国家間の法によって海はすべてのものの自由な貿易のために開放されていると説き、ポルトガルによる海上通商の制限は根拠のないものであるとし、さらに海は無限であり、漁業資源に関しても、それは海が領有の対象にならないことから当然に、独占の対象とはなり得ず、再生産可能なこれら資源はすべてのものの利用のために開放されていると主張する」。「『自由海論』は、古代からの多くの先例・書物や、国際法の先駆者の理論にも頼りつつ、海洋の自由をはじめて体系的に論じ、今日の公海自由の原則の基盤を築いた」。

 海洋法は、ヨーロッパだけで通用した概念ではない。「海洋航行・通商の自由の原則は、インド洋や他のアジア諸国の間においても、古くから存在していたことも忘れてはならない。古くは紀元1世紀より、ローマとインド洋諸国の間には海上通商があり、西欧諸国のアジア進出以前に海洋と通商の自由の原則はすでに慣習法となっていた。また、13世紀末のマカッサルやマラッカの海事法典のように、こうした慣習法が法典化されたものもあった。グロティウスはこうしたアジアの伝統からも学び、その海洋自由論にも利用したと言われる」。

 以上のような歴史をみると、時代時代の「グローバル化」とともに、海洋法が重視されたことがわかる。現代のグローバル化においても、海洋法が重要になってきており、本書は近年の諸問題に応えるべく、「国際法の枠組みや基本的な原則・規則の体系的な解説を提供する」ために、また大学の授業でも使えるよう、編集・発行された。そのことを、「はしがき」冒頭で、つぎのように述べている。「われわれ両編者が、当時現行の海洋法全般にわたる手頃な入門書の不足を埋めるべく『海洋法テキストブック』(有信堂、2005年)を出版して以来、すでに5年以上が過ぎた。この間、ことにわが国ないしわが国の周辺海域に関連する海洋法関係の諸問題はめまぐるしく展開した。海賊や海上武装強盗の激増、わが国の調査捕鯨に対する過激な反対運動や国際裁判への提訴、漁業資源のさらなる乱獲・違法操業、マグロ等漁業資源の急速な減少、大陸棚の延伸や境界画定問題等々である。さらに、わが国としても、2007年には海洋基本法が制定され、それに基づき、内閣総理大臣を本部長とする総合海洋政策本部と海洋政策担当大臣がはじめて設置され、新たな「海洋立国」をめざす積極的政策が推進され始めた。またその一環としてレアメタルやメタンハイドレートなどの大陸棚の新鉱物資源の本格的探査が行われ、海賊行為対処法や領海等における外国船舶の航行に関する法律等が制定された」。

 この「基本的な原則・規則」をもってしても、海洋法が「慣習法」に基づくことから、今日の海洋諸問題に容易に応えることができないことは明らかである。たとえば、「人の居住または独自の経済的生活を維持できない岩は排他的経済水域や大陸棚を有することができない」と、海洋法条約121条3項で規定されながら、日本政府はどう見ても岩としか思えない沖ノ鳥島を「島」であると主張している。いっぽう、フィリピンとマレーシアの国境の島シタンカイ島では、珊瑚礁の浅瀬に杭上家屋が数千建ち並び、万を超える人々が「経済的生活を維持」している。「島」かどうかの明確な基準はなく、国際的に「認めてもらう」以外にない。

 昨日(6月24日)のNHKBS1のオーストラリアのニュースで、日本の調査捕鯨を厳しく批判していた。鯨につづき乱獲などで急減しているマンタ漁も「残酷」だと批判されるようになった。本日(6月25日)の『朝日新聞』では、「生活の糧」としてマンタ漁をつづけるフィリピンの島のことが取りあげられている。その記事は、現地調査をしている赤嶺淳(名古屋市立大学)のつぎのことばで終わっている。「絶滅が危惧されている種について保護の取り組みがなされるのは当然だ。だが、地域に根付いている食文化を否定したり、生活の手段を完全に奪ったりするような規制は適切ではない。漁師の生活や地域のアイデンティティを尊重しながら、より現実的な環境保護策を模索していくべきだ」。

 オーストラリアが、「害獣」であるカンガルーを何百万も「虐殺」していると批判し、反捕鯨をいう資格はないといっても、生産性のある議論にはならないだろう。慣習法は、時代や社会の変化とともに変わる。時代や社会のニーズに従うといえば、それまでだが、歴史や文化を抜きにすることも考えられないだろう。そして、いま環境問題など、未来を見据えて、地球規模で考えなければならない時代になった。国益を越えて、守るべきものはなにかを考えるためにも、本書から基本的な原則・規則を理解しておく必要がある。

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2013年06月18日

『戦う女、戦えない女-第一次世界大戦期機のジェンダーとセクシュアリティ』林田敏子(人文書院)

戦う女、戦えない女-第一次世界大戦期機のジェンダーとセクシュアリティ →紀伊國屋ウェブストアで購入

 本書は、「大戦の勃発を機に顕在化したイギリスにおけるジェンダー問題を、プロパガンダ、制服、モラル・コントロールをキーワードに読み解いていく」。

 大戦という非常事態は、女性にとってプラスにはたらいたのか、マイナスにはたらいたのか、よくいわれる社会進出のきっかけになったのか、そんな単純なことではなかったことが本書からわかる。それを的確に簡潔にまとめたのが、「あとがき」のつぎの一文である。「大戦は女性の暮らしをどう変えたのか。従来のジェンダー概念にいかなる変更を迫ったのか。大戦とジェンダーを扱った研究が格闘してきたこのシンプルな問いへの答えは、視点を変え、スパンを変えることによって、いかようにも変化する。女性の目覚ましい社会進出と新たなジェンダー秩序の形成。しかし、その陰には常に、限界と揺り戻しがあった。執筆当初は「問い」に対する答えをさがしあぐねて袋小路に入ってしまったが、しだいに、光のあて方によってまったく違う像を見せるその多面性こそに意味があるのではないかと思うようになった。大戦期の女性の前には、おどろくほど多くの道がひらかれていたと同時に、ただ一つの選択肢が決定的に欠けていた。大戦が女性に与えた豊かな選択肢と、同じく女性に課した重い足かせ。そこに生じる軋轢や矛盾、両義性こそが大戦期のジェンダー問題の本質なのだとあらためて思う」。

 戦時に戦う選択のある男性に比べ、女性はより複雑だったことを、著者、林田敏子は「おわりに」でつぎのように述べている。「戦時においては、男性が自らの存在価値を証明するには、軍隊に入隊しさえすれば十分であった。男性に与えられた選択肢は、兵士になるか、ならないかというきわめて単純なものだったからである。しかし、(自国の)兵士になるという選択肢を奪われたイギリスの女性たちは、国民/市民としての価値を男性とは違う形で示さなければならなかった。白い羽運動をはじめとする募兵活動に取り組んだ者、軍需工場で兵器の製造に携わった者、男手の不足する農地で農作業に従事した者、そして、軍の補助要員として戦場へ向かった者。女性たちはさまざまな形で戦争に協力することで、自らの愛国心をかたちにした」。

 その複雑さは、普通、節のない「はじめに」と「おわりに」にそれぞれ4節、3節があることで現されている。「はじめに」の4節のタイトルは、「1 カーキ・フィーバー」「2 大戦がひらいた世界」「3 制服の時代」「4 生産か生殖か」、「おわりに」の3節は「1 セクシュアリティの戦争」「2 大戦が変えたもの、変えなかったもの」「3 「空」への扉」である。そして、具体的事例は、4章からなる本文(「戦いを鼓舞する女」「ベルギーの凌辱」「愛国熱と戦争協力」「「戦う」女たち」)で、各章扉および62枚の図版とともに語られている。

 男性のように単純なものではなく、兵士になるという選択肢を奪われただけに、女性には反戦・非戦のための選択余地があった。にもかかわらず、白い羽運動のように無責任に男性を戦場へと駆り立てる選択をしたのは、なぜか。そう仕向けたのは、なにか。男性からでは見えてこない、時代や社会に潜むものが見えてくる。戦争という非常時の研究から、日常の基本的問題が見えてくる。

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2013年06月11日

『南極条約体制と国際法-領土、資源、環境をめぐる利害の調整』池島大策(慶應義塾大学出版会)

南極条約体制と国際法-領土、資源、環境をめぐる利害の調整 →紀伊國屋ウェブストアで購入

 南極条約は、1959年に作成され、61年に発効した。その後、人の住まない宇宙や深海底などにかんする条約(67年宇宙条約、82年国連海洋法条約など)に影響を与えたという点で、ひじょうに重要な意味をもつだけでなく、平和という意味で63年の部分的核実験停止条約、68年の核兵器拡散防止条約など軍縮にも大きな貢献した。まだ世界大戦の傷が癒えず、冷戦のなかで戦争回避を真剣に考えた結果だともいえる。その南極条約採択時の精神は、南極にたいしては今日まで続いているように思われる。しかし、近年、無人島や暗礁など、通常では人の住めない空間への排他的権利の主張が、ここかしこで聞かれるようになった。今一度、南極条約採択時の精神に戻れば、このような主張はしないはずである。そんなことを考えながら、すこし古い2000年発行の本だが、南極条約採択時の状況を知りたくて手に取った。

 「本書は、我が国において初めて、南極に関わる国際法の発展の歴史と南極条約体制全体を総合的かつ包括的に研究したものであり、その全体が、南極条約成立までの歴史的経緯(第1部)、南極条約の概要及び基本原則(第2部)、南極条約体制の成立・発展の過程とその内容(第3部)、及び同体制の抱える課題(第4部)の計4部で構成されている。全体としては、領土、資源(生物資源及び非生物資源)及び環境に関わる利害の対立を、南極条約当事国が中心となって、どのように調整し、南極という場所及び南極に関わる諸事項を管理してきたか、という点を国際法の生成・発展という視点から考察することに主眼が置かれている」。

 国際法を専門とする著者、池島大策は「南極に関する国際法の発展において特に顕著なことは、当該区域に固有の法として発展してきたその歴史と制度である」とし、つぎの2点を挙げている。「第1に、南極大陸だけが人類の領土獲得競争において地球上で唯一取り残された場所であるという点である。確かに、宇宙空間や深海底区域などの場所も国家による領域権取得の対象として考えられたこともあったが、これらの場所は、現実的には人間が通常、居住し、活動を行う場所としては時期尚早であるとみられている。自然条件による制約を別とすれば、南極は人間の居住や活動の可能な場所として、政治的にも法的にもその占める重要性は決して低くない」。

 「第2に、南極が世界の注目を集めてきたのは、領土問題、科学上の関心、資源問題、そして環境問題という順に、南極をめぐるトピックが変遷を遂げてきたことに主な理由があるように思われる。南極については、科学的にも未知の部分が少なくない。しかも、南極が置かれている状況は、その未知の部分をめぐって国際社会を巻き込み、何らかの国際的な対応を我々人類に迫るものであるといえよう。まさにこの局面において、国際法が作用する余地を生じることになる」。

 また、南極を研究するにあたって、つぎの3点の問題が生じると述べている。「第1に、南極という特殊な場所をめぐる歴史とはどのようなものであったのか、である。第2に、南極を現在規律している法制度、すなわち現行法は何か、である。第3に、現在どのような課題をもち、将来いかなる展望をもちうるか、である」。

 南極の領土権を主張する国ぐには、つぎの3つに分類されている。まず、歴史的経緯から領土権を主張している7ヵ国(英国、ニュージーランド、フランス、ノルウェー、オーストラリア、チリ、アルゼンチン)を「クレイマント」と呼ぶ。つぎに、「クレイマントの領土権又はその請求権を否定しながら、他方で、自国の領土権又はその請求権を慎重に留保する姿勢をみせてきた」米国、(旧)ソ連を「潜在的クレイマント」と呼ぶ。そして、日本、ベルギー、南アフリカ共和国など、「クレイマントの主張や請求権を否定し、認めない」国ぐにを、「一般に、潜在的クレイマントとともに、「ノンクレイマント」」と呼ぶ。

 このようにそれぞれ考えの違う国ぐにが、妥協しながら、南極条約に合意したことの意義を、著者は「締結交渉のプロセス」のなかに見いだし、つぎの5つにまとめている。「第1に、クレイマント、潜在的クレイマント及びノンクレイマントのすべての関係国を含む国家が、国連の枠外で合意に達したことである。南極条約は、南極の領土権紛争を始めとして、様々な事態に関わる国をもれなく当事国として内包している。また、これらの当事国には、国連安全保障理事会の常任理事国でありかつ核保有国である米、旧ソ連、英、仏の大国4ヵ国が含まれている。さらには、同条約は、国連を通じたいくつかの国際化の提案があったものの、結局は国連との関わりを経ることなく、作成され、締結された。この点は、後に、第三世界の国々が国連という場を利用して、主として南極条約によって規律されている南極の現状を批判する原因の1つにもなっていると考えられる」。

 「第2に、冷戦という東西対立を乗り越えた合意であったことがあげられる。第2次世界大戦の終了後に現れた冷戦構造の下では、米国と旧ソ連をそれぞれの陣営の盟主とする西側諸国と東側諸国との対立が厳しかった。その中で、旧ソ連が南極の問題に関わっていたことは、領土権をめぐる対立をさらに悪化させ、南極を国際紛争の表舞台に引きずり出すおそれもあったことを想起させる。しかし、条約締結に至る当時の国際情勢が一時的な緊張緩和の雰囲気に包まれていたことも手伝って、東西対立の余波を受けずに済んだだけでなく、同条約が軍縮条約の中でも評価の高いものであることなどは、注目すべきことである」。

 「第3に指摘できることは、クレイマント内部の強硬派を抑えての国際化に成功したことである。アルゼンチン及びチリの南米2国は、「アメリカン・セクター」の設定に代表されるように、共同歩調をとって南極の国際化に強硬に反対し続けてきた。セクターの重複する英国との度重なる摩擦は、既に指摘したとおりである。しかし、最終的には、両国も、クレイマントの地位を害さないことを確認することで、条約の当事国となった。そして、政治的な妥協によりこれらの2国を含めて、条約は成功裏に締結された」。

 「第4に、科学的協力を契機とする合意であったことも指摘できる。IGY[地球観測年]による国際的な科学協力への呼びかけが、南極条約作成の気運をもたらした根底にあったことは既に述べた。科学という学問及びその実践(知識の追求)が、1つの国にとどまるものではなく、国際社会全体に関わることは改めてここで指摘するまでもない。科学の分野における国際協力という、一見中立的な性格のように思われる事業であったことは、たとえ各国の本心がどうであれ、結束を容易にし、協力を加速させるに十分であったといえよう」。

 「第5に、国際化の動きが生じてから比較的短期間に合意に至ったことにも注意したい。上述したように、南極における領土紛争は、約半世紀の歴史を有するものであるが、国際化の本格的な動きは1950年代後半以降から末にかけてであったことに鑑みると、わずか2、3年のうちに合意に達したことは、非常に興味深い。領域的国際化の例によくみられるように、戦後処理の慌ただしい中で領土決着が短期のうちに行われることは少なくない。これに対して、南極条約の場合は、短期間ではあったが、一方的な圧力により慌ただしい雰囲気の中で強制的に締結されたという事情はあてはまらない、と言わざるを得ない」。

 だが、南極条約には曖昧な箇所が多く、微妙なバランスのなかで、守られてきたということができる。著者は、つぎの4つの点を指摘して、全体の結論に代えている。「第1に、国家の領土主権は、国際法上、最も重要な事項であり、最大限尊重されるべき価値であるが、南極の場合には、領土権の問題を棚上げにすることによって、一定の地域ないし区域を国際的に管理することを可能とした、という点に特色がある」。

 「第2に、南極条約体制は、ある特定の場所及び事項を規律する条約を中心に拡大し発展し続けた条約レジームであるという意味で、国際法の歴史の中でも非常に珍しい法現象であるということができよう」。

 「第3に、確かに、南極条約体制も国家間の条約を中心とした合意に基づく制度であり、一般的には条約の非当事国を拘束するものではない。しかし、実際には、南極に関して利害関係を有する国々がほぼすべて南極条約の当事国となっていること、米国やロシア(旧ソ連)のみならず、国連安全保障理事会の常任理事国のイギリス、フランスが原署名国として加わっており、中国も南極条約協議国会議の構成国となっていること、開発途上国の中でも中心的な存在といわれるインドやブラジルも同協議国会議を構成していること、などの事実は軽視できないであろう」。

 「最後に、南極条約体制の今後の展望については、内部的調整のみならず、外部的調整を含む、人類全体の英知に懸かっているということができよう。南極をとりまく自然環境は、南極だけに関連するわけではなく、今日では、地球規模の影響を及ぼすことが広く知られている。南極の環境保護は、ひいては、地球全体の環境保護に関わる問題であることに鑑みれば、南極条約体制内部の問題にとどまらず、国際社会全体が一致団結して取り組まねばならない課題であろうと思われる」。

 ここで注目すべきは、南極と対極にある熱帯の東南アジアから、1982年に採択された国連海洋法条約を契機として、「共通利益地域」としての南極にかんする主張があったことである。マレーシアのマハティール首相は、1982年の国連総会で、つぎのような一般演説を行った。「今や我々は海洋法についての合意を得たのであるから、国際連合は非定住地域の問題を明らかにするために会議を招集すべきであり、この地[南極大陸]に対してはあらゆる国が権利をもっていることを明確にしなくてはならない」。これより四半世紀前の1958年には、第1次海洋法会議の議長であったタイの皇太子、ワン・ワイタヤコンが、「開会の辞の中で、海域として採用されるべきすべての法的レジームは、「すべての者の利益のために」海洋及びその資源の保存を確保しなければならない」と述べている。多くの人びとが居住し、また行き交う東南アジアでは、古くから海を共有のものとし、排他的な占有を拒んできた。したがって、海洋と通商の自由の原則を慣習法としてもっている東南アジアの国ぐには、条約を結ぶまでもないと考えているかのように、南極条約を締結していない(2013年2月現在、協議国28、そのほかの締結国22)。

 このような万民共有物、国際広域、トラストといった人類の共同の財産としての概念に加えて、グローバル・コモンズという概念が、国際法上、脚光を浴びるようになったのは、1987年に「環境と開発に関する世界委員会」が国連に「ブルントラント報告書」を提出してからだった。この報告書では、「「地球は一つ」から「世界は一つ」へと意識の転換をすること(From One Earth to One World)が重要であると述べ、中でも共有する資源の管理をいかに行うかを論じ」た。たとえば、「伝統的な国家主権の形態から、『グローバル・コモンズ』とその共有する生態系-海洋、宇宙、南極-の管理において固有の問題が生じる。」と述べた上で、海洋法については、国連海洋法条約の批准をすべての国々に促し、乱獲防止のために漁業協定の強化を提唱する一方で、宇宙空間においては、静止衛星軌道の最も有効な利用と宇宙廃棄物の量の制限をめざして、宇宙の平和的利用のための体制の構築と運営の必要性を訴えている。最後に、1959年の南極条約に基づいて管理されている南極についても、将来に向けた新たな体制づくりを勧告している」。

 このグロバール・コモンズという概念は、人類の共同の財産に代替するものとして期待されるが、つぎのような限界があることも指摘されている。「人類の共同の財産は、非国家領域の場所(領域)や資源の占有や経済的な開発、それに対する国際的な管理・規制、及び開発途上国への配慮という側面を強調して、特に深海底及びその資源に関して国際社会に導入された概念であるところに特色があるといえよう。これに対して、グローバル・コモンズは、人類の将来の世代を考慮に入れて、非国家領域の環境保護の側面をより一層強調して、大気や気候などの地球的規模の事象までも広く含む概念として唱えられるようになった点に特徴がある。しかし、非国家領域の場所(領域)、資源及びその環境を指し示すために用語を様々に駆使してみても、これらの対象が具体的に何を指すのか、これらをいかにして国際法を根拠に規律するか(保護法益の特定、保護の方法、履行確保の方式などを含む)が明確にならない限り、グローバル・コモンズの概念も法的概念としてまだ発展途上にあるといわざるを得ない」。

 南極条約が合意したのも、曖昧さを残したからであり、そこにはいつ問題が発生してもおかしくない状況が存在する。それだけに、問題を発生させない努力がつねに必要となる。本書の副題である「領土、資源、環境をめぐる利害の調整」のための絶えざる対話が必要であり、いわゆる「靖國問題」や「尖閣諸島の国有化」は、いずれも対話を遮断する行為であったことがわかる。国際条約は国同士の信頼関係にもとづく「紳士協定」のうえに成り立っている。さらに、グローバル・コモンズを成り立たせるためには、「世界は一つ」の下、国が暴走しないために個々の地球市民が努力を積み重ねていく必要があることが、本書からわかる。

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2013年06月04日

『多民族国家シンガポールの政治と言語-「消滅」した南洋大学の25年』田村慶子(明石書店)

多民族国家シンガポールの政治と言語-「消滅」した南洋大学の25年 →紀伊國屋ウェブストアで購入

 シンガポールのことを、「明るい北朝鮮」と言った人がいる。本書を読めば、その意味がわかる。1965年の独立以来、リー・クアンユーの指導の下、人民行動党が一党独裁を続け、その独裁を批判すれば、国内治安維持法で無期限に収監される。野党も存在するが、選挙区ごとに第1党が議席を総取りするため、野党議員は当選しにくい。

 本書は、そのような独裁体制下で「権力に祝福されない大学」として、1955年の開学からわずか25年で幕を閉じた南洋大学(南大)の歴史を辿る。著者、田村慶子は、その歴史をつぎのように要約している。「数では圧倒的に英語派に勝るものの、政治権力から遠かった華語派華人が、英語派との抗争の末に社会の周縁に追いやられていく過程であり、権力の側から見れば、多民族多言語の社会において民族の言語や文化をどのように政治的に管理するのかという政治と言語の葛藤の歴史である」。

 シンガポールは、淡路島ほどの面積に400万弱の国民が暮らし、その内訳は華人75%、マレー人14%、インド人9%で、中国語を教授用語とする大学があっても、なんら不思議ではない。ところが、この「権力に祝福されない大学」は、「多言語、多文化、多民族社会に生きる多様な人びとをどのようにして単一な国民にするのかという国民統合の考え方が、大学創設者と権力側で大きく異なっていたことと、東西冷戦という時代ゆえ」に、「大学設立構想が発表された一九五三年当時から、イギリス植民地政府と隣国マラヤ連邦政府、当時はまだイギリス植民地であったシンガポール政治指導者にとって、とてもやっかいなものであった」。

 そのため、「イギリス植民地政府は構想を断念させるべくさまざまなことを画策し、マラヤ連邦のマレー人政治指導者は声高に反対した。大学は有限会社として認可を受けて出発したものの、その学位は承認されなかった。シンガポールがマレーシア連邦の一州となった直後の一九六三年には学生や卒業生が大量逮捕され、大学創設者でもあった理事長の市民権を剥奪された。シンガポールが独立国家となって三年後の一九六八年にようやく学位は政府によって承認されたものの、南大は徐々に華語大学から英語大学に再編され、英語大学として一九四九年にイギリスが設立したシンガポール大学と八〇年に合併して、シンガポール国立大学となった。その直後、校舎や講堂、寄付者の名前が刻まれた石碑など、南大を思い出させるものはほとんど壊されてしまい、跡地には南洋理工学院が設立された。学院は一九九二年に南洋理工大学に昇格し、現在に至っている」。

 いっぽう、ときの「権力者」、リー・クアンユーは、2012年に出版した回顧録のなかで、南大を「創設者と学生の多くは共産党の影響を受け、国民統合を阻害した大学」とみなし、つぎのように評価した。「南大は最初から失敗を運命づけられていた。歴史の流れに逆らって創設された大学であった。共産中国の影響力が南大を通して華人に及び、親中国の若者を生み出すことを恐れたため、地域を支配する大国イギリスとアメリカが大学の創設を認めない結果になることを、創設者タン・ラークサイは予測できなかった。タンはさらに東南アジア諸国の国内政治も理解できなかった。親中国のビジネスマンによって創設された大学は、最初から近隣諸国に疑惑の眼で見られた」「南大は一九七〇年代中葉まで二言語で教育を行うことを拒みつづけた」。

 滑稽なのは、徹底的に弾圧された南大が消滅したと同時に、中華人民共和国との関係が好転しはじめ、密接に交流する必要性から、政府が華語奨励運動を展開し、南大の復権さえ取りざたされたことである。このような独裁政権を批判することはたやすい。しかし、小国ゆえに、時代を先読みし、生き残りのために、国民を導く務めが国家指導者にはあった。ましてや、1948-60年は共産主義の脅威から、非常事態が布告されていた。リー・クアンユーは、「断固として物事を進める政府がなければこの国は混乱する」と述べ、強い決意を示した。劣化した民主主義の下で、決められない政治で混乱する国ぐにからみれば、羨ましい面があるかもしれないが、本来あるべき姿ではない。

 救いは、政府からの補助金がおりず劣悪な環境の下で学んだだけでなく、度重なる弾圧で大きな心に傷を負った学生が、その後その経験を生かして活躍していることだ。つぎのように、「おわりに」で紹介されている。「深い心の傷を追ったがゆえに、卒業生の絆は強い。南大がなければ進学することが出来ずに将来どうなっていたかわからない学生たちは、貧弱な大学施設で文句もいわずに助け合って勉学に励んだ。第二章で紹介したように、南大の新入生歓迎会は学生サークル、学科、学部、全学レベルで何度も行われ、学生どうしの絆を深めた。母校を失ったことがその絆をいっそう強め、一九九二年からは国際同窓会が毎年あるいは隔年で開催され、多くの卒業生が家族とともに参加している。一九六八年まで学位が承認されなかったから、南大を卒業後に欧米の大学に留学して学士号を取り、さらに大学院に進学する学生も多かった。経済的に余裕のない卒業生も何年か働いて留学資金を貯めて欧米に渡った。一九六〇年から六七年の卒業生三三二四人のうち一二・六%が海外で修士、博士号を取得している。新設の私立大学としては驚くべき数字である」。

 半世紀以上にわたってシンガポールという国家を率いてきたリー・クアンユーが、2011年に閣僚と人民党の中央執行委員を退いた。人民党の独裁にも陰りがみられるようになってきている。「明るい北朝鮮」から変わる日も近いかもしれない。それは、南大が復権する日を意味する。著者は、つぎのような文章で本書を終えている。「一九六〇年代に「共産主義者」として逮捕、除籍された多くの学生や市民権を剥奪されたタン・ラークサイの名誉回復、南大に「二流の大学」の烙印を押して「消滅」に追いやった政府の強引なやり方の是非が問われるに違いない。そのとき初めて南大は復権するのであろう」。

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