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2013年05月07日

『フィリピンBC級戦犯裁判』永井均(講談社選書メチエ)

フィリピンBC級戦犯裁判 →紀伊國屋ウェブストアで購入

 日本と日本が植民地にしたり占領したりした国や地域との歴史認識問題は、なぜいつまでもつづくのだろうか。その理由の一端が、本書からわかる。それは、日本とそれらの国・地域の責任の考え方が違うからである。日本人は戦争に加担し、害を直接加えた人に責任があると考えている。しかし、害を受けた人びとは、それを止められなかった人や社会にも責任があると考えている。たしかに一般の日本人も被害者という側面があることは事実だが、軍国主義社会を意に反してであっても結果的に容認した日本人ひとりひとりが、間接的加害者になっていたことも自覚しなければならないだろう。ましてや実際に戦場にいた指揮官や加害の現場にいた者は、その責任から逃れることはできないだろう。ところが、戦後の日本では、早くから戦犯に問われた者も、個人的には立派な人たちであったという「物語」が語られるようになり、責任が問われるどころか、英雄視されるようになった。

 そのあたりのことを、本書ではつぎのように説明している。「一九五二年の戦犯釈放の嘆願署名運動で一〇〇〇万人を超える署名が集まったとされるように、主権回復を境に、日本国内では戦犯を「犯罪人」ではなく、「戦争犠牲者」と見て同情を寄せるムードが広まっていたのである」。いっぽう、刑死した戦犯の遺体を荼毘に付して日本に持ち帰ることに、「フィリピン政府は、日本側が「遺骨を引取つた後これにmilitary honor〔軍人としての名誉〕を与え英雄視するようなことはないか」と懸念を抱いて」いたのである。害を受けた者から見れば、天皇も一般国民も責任を一部の軍国主義者に押しつけ、その軍国主義者を英雄視するのであれば、だれも責任をとらず、戦争への反省がないと思えてしまう。ましてや、そういう軍国主義者を生んだ社会的責任を当時の日本人が感じず、そういう社会にしないように子孫を教育しないのであれば、日本人は正しく歴史を理解せず、軍国主義が復活してふたたび近隣諸国に脅威を与えると、考えられても仕方がないのだが、そのことに思い至る日本人、なかでも政治家が少ないので、歴史認識問題がつづくのである。

 フィリピンでは、一般市民を含め100万以上が理由もなく殺害され、しかも多くのフィリピン人が銃剣などで直接日本兵が身近な人びとを殺すのを目撃した。そのひとりが、1953年にフィリピンで服役中の日本人戦犯に恩赦を与え、帰国を許したキリノ大統領で、かれは1945年2月のマニラ市街戦で妻や子どもを殺害され、目の前の子どもの遺体を収容して葬ることさえできなかった体験をした。

 いっぽう日本では、兵50万以上の戦死者を出したといわれるフィリピン戦線で、その多くが敗走中の病死・餓死者などであったこともあり、戦闘の壮烈さより悲壮感があった。そして、戦後捕虜収容所生活を送り、帰国することになった「日本兵の多くは、フィリピン人の罵声と投石にさらされ、「敗戦の悔しさや「捕虜」の惨めさが身に沁み」る中で、激怒するフィリピン人の気持ちになかなか共感できず、戸惑いや反発心の中にいた」。そのため、「少なからぬ日本人たちが「二度ともうフィリピンなんかに来るものか」と、恨みに近い感情を抱いてフィリピンを後にした」。しかし、なかにはフィリピン人の気持ちが個々の日本兵ではなく、日本人全体に向けられていることを感じとっていた者がいた。「戦犯者の首実検」のために無実の罪で戦犯容疑をかけられたことについて、ある日本兵捕虜はつぎのように語っている。「〔家族を殺されたフィリピン人が〕「この人だ」って言えばすぐ連れてかれる。いやあ、それはよ、「俺でねえ」と、「違う」となんぼ泣いてしゃべっても、「この人だ」って言ってしまえば、片っ端から連れていかれる。やっぱり、フィリピンの殺された人のその家族であれば、たとえば人違っても、その代わりに(別人を)連れていって殺してしまうと。そういう気持ちになっているからよ、だから恐ろしいんだよな。自分で「やらねえ」つったってあとは駄目や」。

 著者、永井均が本書を書こうとした動機も、日本人の知らないフィリピン側から日本人戦犯を見ようとしたところにあり、「はじめに」でつぎのように説明している。「日本側の人々が描く物語からは、モンテンルパ[日本人戦犯が収容されていた刑務所]のもう一方の主役であったフィリピン人たちの「顔」は見えにくく、フィリピン側の思考やふるまいについて、具体的な像を結ぶことは難しい。日比両国民を当事者とする歴史的な出来事の見方は、半世紀余りを経ても、いまだバランスを欠いたままだ。戦犯裁判や受刑者の収監に関わったフィリピン人の考え方や態度などを具体的に知ることで、日本人戦犯問題史をより深く、より広い視野から見る可能性が開かれるのではないか」。

 したがって、著者は本書の課題を「フィリピンから見た対日戦犯裁判の諸相を明らかにすること」とし、具体的には「そもそもフィリピン軍の戦犯裁判は、どのような経緯で実施されることになったのか。フィリピン当局の戦犯政策はいかなるもので、裁判にはどのような特徴が見られるのだろうか。また、フィリピン国民は日本人戦犯や裁判をどう見ていたのだろう。有罪判決を受けた者はモンテンルパのNBP[ニュービリビッド刑務所]で服役するが、フィリピン当局は彼らをいかに処遇したのだろうか。さらには、日本と国交がない中で、キリノ大統領はなぜ一〇〇名を超える日本人戦犯の恩赦を決断し、帰国を許したのか」が議論されている。

 本書は4章からなり、著者はそれぞれの章を「おわりに」で、つぎのようにまとめている。「まず第一章において、米軍の捜査報告を手がかりに、日本軍の残虐行為の諸相を分析し、こうした占領者の暴力がフィリピン人の対日憎悪と強い不信感の源泉にあることを確認した。第二章は、フィリピンの対日戦犯裁判の文脈と、この国家プロジェクトの政策目標、および裁判の展開状況と特徴について叙述した。第三章は、戦犯の服役環境が「寛大」と評された背景を、フィリピン当局の政策面と人的な要因、戦犯たちの態度、比日双方の国民からの支援といった観点から描き出した。そして第四章は、戦犯の刑の扱いをめぐるフィリピン側の対応を、死刑事案の行方(処刑と赦免)を中心に論じ、最終的にキリノ大統領が残余の戦犯全員の恩赦を決定、電撃帰国させた舞台裏を追った」。

 そして、続けてつぎのように結論している。「フィリピンにとって戦犯処理は、戦争によって比日間に生まれた「溝」の源泉を問い直す重要な「戦争の後始末」であり、新生独立国として自らの能力を内外に示す国家的事業であった。裁判の結果は峻厳で、応報的な厳罰色の濃いものだったが、服役と刑の執行段階では寛容と慎重さを基調とし、関係性の修復が志向されていた。このように本書は、戦犯裁判だけに焦点を当てるのではなく、服役や赦免までの全過程を分析対象に据えることにより、戦犯処理の評価として、従来のような「復讐」や「報復」とは別の見方、すなわち関係修復を模索する重要プロセスと捉える見方がありうることを示した。戦犯処理のプロセスを、当時の対日政策や世論動向と関連づけて考察する本書のようなアプローチは、隣国の対日観-戦争認識のすれ違い-の由来を歴史的に理解するための補助線ともなるであろう」。

 さらに、「本書はまた、隣国との歪んだ関係に対処する際、破局を避けようとする努力と選択が重要であることを示唆した。併せて、破綻した関係を回復の方向に向かわせていくうえで、個人や仲介者が果たす役割の重要性についても強調した」と述べ、つぎのように本書を結んでいる。「「悪い関係の中にあっても、人と人との温かい交流があった」こと、比日両国の対立的状況の陰で、決して目立ちはしないが、関係改善を模索する努力が個人ベースでなされていたことに、我々はもっと注意を払うべきであろう」。

 冒頭で述べたように、個々の戦争責任を集団として、つまり日本人として、さらには日本人の子孫として、はたして受けとめることができるのだろうか。わたしは、そうしてきた人を知っている。詩人でノンフィクション作家の森崎和江さんである。1927年に朝鮮大邱で生まれ、戦争中1944年に帰国するまで朝鮮で育ち暮らし、戦後の日本社会のなかで一身に日本による植民支配にたいする強い贖罪意識を背負って生きてきた。本書から伝わる戦後の日本社会のなかで、かの女がどのように苦しんだのか、改めて考えさせられた。かの女の苦しみをほかの日本人に理解してもらえず、朝鮮の人びとと日本人との良好な関係が築けないことを危惧し、歴史認識問題のようなことがおこる度に心を痛めたことだろう。植民地や占領地の人びとを苦しめた原因に、戦前戦中の日本社会があり、それを容認した贖罪意識を個々の日本人が感じないかぎり、そしてそのことを後世に伝えないかぎり、歴史認識問題に終わりはないだろう。だが、終戦直後からはじまる歴史認識問題の源流を本書から学べば、終わりがはじまるきっかけになるだろう。

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