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2013年05月28日

『「八月の砲声」を聞いた日本人-第一次世界大戦と植村尚清「ドイツ幽閉記」』奈良岡聰智(千倉書房)

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 「本書で取り扱うテーマは一見マイナーかもしれない」。しかし、マイナーだからこそ、重要な意味をもってくることがある。とくに本書で扱う第一次世界大戦は、「総力戦」として知られる。研究のほうも、マイナーなテーマを含めて「総力戦」であたらねば理解を深めることはできない。著者、奈良岡聰智は、「おわりに」で、つぎのように説明している。本書で扱うテーマは、「想像以上の奥行きと広がりを持っていると思われる。巻末の表をご覧いただければ分かるように、第一次世界大戦勃発時にドイツにいた日本人は、外交官、軍人、実業家、学者、医師、エンジニアなど、当時の日本を代表するエリートたちであった。本文でも述べたが、これは当時の日本がいかにドイツから多くのことを学んでいたかを反映しており、彼らの存在自体が日独交流の歩みを体現している観がある。このときドイツでどのような人々が何をしていたのか分析することで、日独交流史や日本人の留学史上、興味深い知見が得られると思われるが、本書はその端緒の紹介に過ぎない。今後さらに調査を続けていきたいと考えている」。

 第一次世界大戦直前の在ドイツ日本人の統計資料をみると、外務省の調査で434名、内留学生は約86%の374名、首都ベルリンに限ると206名の内約90%の185名であった。1913年のフランス36名、イギリス83名と比べても、ドイツは圧倒的に多かったことがわかる。それだけに、ドイツ人も日本がドイツから多くのことを学んでいたことを知っていて、日本がドイツに宣戦布告すると「恩知らず」との罵声を日本人に浴びせた。

 著者の本書執筆の第1の動機は、日本本国の人びととは全く異なる大戦経験をした100名近くいた抑留日本人などがどのような経験をしたのか、「従来全くと言っていいほど知られていない、彼らの第一次世界大戦経験を解明しようという試みである。強制退去、抑留、敵国への残留……彼らの経験は、普通の生活では決してありえない、まさしく数奇なものばかりである。彼らの劇的な経験を掘り起し、そのありのままを明らかにしよう」というものである。

 第2の動機は、つぎのように説明されている。「一九一四年に第一次世界大戦が勃発してから、間もなく一〇〇年を迎える。第一次世界大戦を「現代世界の起点」として位置づけているヨーロッパでは、開戦一〇〇年を機として、大戦の再検証がさまざまな形で行われつつある。他方で、当時この戦争を「対岸の火事」としてしか受け止めなかった日本では、大戦が「忘れられた戦争」のままになっている。近年、このような彼我の認識の差を埋めようとする学問的試みが始まっているが、残念ながら我が国では、第一次世界大戦研究の蓄積はまだまだ浅いのが現状である。このようなギャップを埋め、日本にとって「第一次世界大戦」とは何だったのか」を考える一つのきっかけを提供したい。これが本書を執筆した第二の、そしてより重要な動機なのである」。

 本書は、2部からなる。日本の外交記録、新聞、手記など、一次史料をふんだんに活用した第一部では、「第一次世界大戦勃発後の在ドイツ日本人の動向を、退去者、抑留者、残留者に分けて紹介する。次いで第二部では、ドイツで三ヶ月近くにわたって抑留生活を送った医師植村尚清(ひさきよ)の手記を紹介する。この手記は、これまで全く知られてこなかった史料であるが、当時の抑留の実態を詳細に伝えるたいへん貴重な記録である。本書ではこの貴重な史料を、ご遺族の許可を得て、全文翻刻して掲載した」。

 日本人がドイツを退去するにあたって、いくつかの共通点があったことを、著者はつぎのように述べている。「第一に、彼らは、大戦勃発当初は事態を深刻視せず、むしろ戦争を楽しむ風さえあったことである。第二に、その後、大使館や他の在留邦人の動向に気を配って、日独関係やドイツ人の対日感情を悪化の兆しを的確に把握し、退去を決断したことである。第三に、ドイツから退去する際には、友人や同僚と行動し、周囲との軋轢を生じないよう、慎重に行動したことである。彼らは、オランダ経由でイギリスに渡ったという点も共通している。またいずれの人物も、大戦勃発時のベルリンの混乱ぶりや、ドイツ人の対日感情の変化について、よく伝えている。これらは、第一次世界大戦勃発の瞬間に立ち会った日本人の行動や心情の記録として、大変貴重なものであると言うことができるだろう」。

 著者は、日本のドイツ人捕虜の研究が比較的すすんできたのにたいして、ドイツの日本人抑留者についての研究がないこと、また第二次世界大戦など民間人抑留者の研究成果が出てきているなかで第一次世界大戦にかんするものが少ないことなど、研究のアンバランスを指摘している。日本で歴史認識の問題が取りざたされるのも、このような研究のすすみ具合が、国によってあるいはテーマによって大きく異なることが原因のひとつである。「世界大戦」であり「総力戦」であるなら、国やテーマを越えて、総合的に理解する必要がある。その意味で、本書は従来欠けていたものを補うとともに、著者自身今後の課題としている、これをきっかけに「奥行きと広がり」をもって研究をすすめる第一歩となるものである。

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2013年05月21日

『黄禍論と日本人-欧米は何を嘲笑し、恐れたのか』飯倉章(中公新書)

黄禍論と日本人-欧米は何を嘲笑し、恐れたのか →紀伊國屋ウェブストアで購入

 「さて、お楽しみいただけたでしょうか。「面白くなければ歴史ではない」などというつもりはもちろんないのだが、諷刺画を扱っているからには、読者の皆さんにはその皮肉や諧謔を味わってもらいながら、当時の歴史を実感していただければと思った。現代の感覚で、当時のユーモアを理解するのは容易ではないでしょうが……」。本書の「あとがき」は、このような文章ではじまる。最後の「現代の感覚で、当時のユーモアを理解するのは容易なことではないでしょうが……」から、著者、飯倉章の苦労が偲ばれる。さらに、著者は、読者に西洋「紳士の嗜(たしな)み」とされる「高度なユーモアやウィット」を理解してもらおうとしている。

 ある意味で風刺画の黄金時代とされる、本書で論じられている19世紀終わりから1920年代半ばまでの歴史と社会を読み解くためには、それが描かれた背景を知る必要がある。著者は、つぎの3点を「序章 諷刺画の発展と人種主義」で確認している。「まず諷刺画家は歴史家ではない。従って、諷刺画も通常の意味で歴史の資料となりうるものではない。ただ、諷刺画を通して、歴史的事件の隠された側面や、外交文書・記録や新聞・雑誌の記事では窺(うかが)い知れない多様な意味が明らかにされることはある。また、表現そのものが荒唐無稽(こうとうむけい)な想像力の産物であったとしても歴史的に意味を持つ場合もあるかもしれない」。

 「第二に、諷刺画を読み解くにはそれが描かれて発表された時のコンテクスト(文脈)を十分理解する必要がある。本書で取り上げる諷刺画は、時事諷刺漫画や政治漫画とも呼ばれるものであり、時代と切り離して普遍性をもって鑑賞される絵画とは異なる。発表された日付や年月、題材としているであろう事件や出来事を理解しないと、まったく違った意味に解釈してしまうおそれがある」。

 「第三には、諷刺画家自身の信念・信条と課せられた制約条件も理解しておく必要があるだろう。諷刺画家は信念・信条を持っているが、思うがままに描けるわけではなく、さまざまな制約条件を課せられている。制約条件とは、読者であり、諷刺画を掲載する媒体の編集者であり、社会や政府である。諷刺画家は、まずは読者のために描くと言えよう。それもたいていはその媒体が売られている地域の特定の読者のために描く。一〇〇年以上も経ってから鑑賞されるとは想定していないだろう。彼らは、さらに自らの作品を掲載する新聞・雑誌の編集者を意識して描く。むろん、諷刺画家が常に読者や編集者に媚(こ)び迎合しているというのではない。その時代の雰囲気を理解しながら、想像力でその一歩先を行くようなものを描くこともあるだろう」。

 本書は、黄禍論を通して、「近代的な人種概念に裏づけられた人種主義」をみようとしている。黄禍論は、「自分たちのみが優等であると信じる白色人種社会が、黄色人種への蔑視に基づく政治・外交を当然と考えていた時代の産物である」。「とくに東アジアの黄色人種、日本人と中国人が連合して攻めてくる、といった脅威」を「黄禍」と名づけた。著者は、さらにつぎのように説明をつづけている。「黄禍思想は、日清戦争後に流布したものである。これは自由・平等・博愛・民主主義・人権尊重を根幹とする西洋近代思想と比べれば、はるかに薄っぺらなものだ。しかし、大衆化が進む西洋メディアのなかで、新聞・雑誌の記事から未来小説、さらにはヨーロッパから新大陸に普及した諷刺画(ふうしが)の格好のトピックとなっていく。さらに、三国干渉後、ドイツの皇帝(カイザー)ヴィルヘルム二世は後に「黄禍の図」と呼ばれることになる寓意画(ぐういが)を西洋の指導者に配ったが、西洋ではこれをパロディ化する諷刺画も多く生まれた」。

 「本書は、そのような人種主義に裏打ちされた「黄禍」としての日本・日本人イメージが、主に欧米の新聞・雑誌の図像、とくに諷刺画のなかで、どのように表彰・表現されていったかを明らかにするものである。一九世紀末から二〇世紀初頭の日本や日本人は、時に極端に歪曲(わいきよく)されて醜く描かれることがあった。しかし、興味深いのは、時々の国際関係のなかで、日本を支持したり頼りにした国々において、「黄禍」をパロディ化して嘲笑(あざわら)ったり、批判している諷刺画もたくさん描かれたことである」。

 そして、「黄禍思想は、日本・日本人に対する西洋人の認識のなかに根を下ろして、日本との対立が顕著になった時に露骨に唱えられることもあった。近代の日本人につきまとった黄禍論を吟味しながら、その影響下で描かれた日本人像」をみた著者は、つぎのように結論して、本書を終えている。「日本は、アジアにおける非白人の国家として最初に近代化を成し遂げ、それゆえに脅威とみなされ、黄禍というレッテルを貼られもした。それでも明治日本は、西洋列強と協調する道を選び、黄禍論を引き起こさないように慎重に行動し、それに反論もした。また、時には近代化に伴う平等を積極的に主張し、白人列強による人種の壁を打ち破ろうとした。人種平等はその後、日本によってではなく、日本の敵側の国々によって規範化された。歴史はこのような皮肉な結果をしばしば生む。そう考えると、歴史そのものが一幅の長大な諷刺画のように思えないでもない」。

 後に「黄禍の図」と呼ばれた寓意画を描かせたドイツ皇帝ヴィルヘルム二世は、いろいろお騒がせな君主だったようだ。第一次世界大戦休戦直後に退位させられたが、本書からも退位させられた理由がわかったような気がした。いっぽうで、かれの言動から、ヨーロッパがアジアをみるときの本音も感じた。

 新幹線のなかで読む本2冊を鞄に入れるはずが、自宅を出た後1冊もないことに気づいたときは、一瞬途方に暮れた。幸い、駅の本屋に立ち寄る時間はあった。そんなときに買った本だったが、それなりに楽しめた。この時代、欧米がけっこう東アジアに注目していたことも確認できた。それだけ、東アジアは欧米にとって魅力的な「侵出地」であったともいえる。

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2013年05月07日

『フィリピンBC級戦犯裁判』永井均(講談社選書メチエ)

フィリピンBC級戦犯裁判 →紀伊國屋ウェブストアで購入

 日本と日本が植民地にしたり占領したりした国や地域との歴史認識問題は、なぜいつまでもつづくのだろうか。その理由の一端が、本書からわかる。それは、日本とそれらの国・地域の責任の考え方が違うからである。日本人は戦争に加担し、害を直接加えた人に責任があると考えている。しかし、害を受けた人びとは、それを止められなかった人や社会にも責任があると考えている。たしかに一般の日本人も被害者という側面があることは事実だが、軍国主義社会を意に反してであっても結果的に容認した日本人ひとりひとりが、間接的加害者になっていたことも自覚しなければならないだろう。ましてや実際に戦場にいた指揮官や加害の現場にいた者は、その責任から逃れることはできないだろう。ところが、戦後の日本では、早くから戦犯に問われた者も、個人的には立派な人たちであったという「物語」が語られるようになり、責任が問われるどころか、英雄視されるようになった。

 そのあたりのことを、本書ではつぎのように説明している。「一九五二年の戦犯釈放の嘆願署名運動で一〇〇〇万人を超える署名が集まったとされるように、主権回復を境に、日本国内では戦犯を「犯罪人」ではなく、「戦争犠牲者」と見て同情を寄せるムードが広まっていたのである」。いっぽう、刑死した戦犯の遺体を荼毘に付して日本に持ち帰ることに、「フィリピン政府は、日本側が「遺骨を引取つた後これにmilitary honor〔軍人としての名誉〕を与え英雄視するようなことはないか」と懸念を抱いて」いたのである。害を受けた者から見れば、天皇も一般国民も責任を一部の軍国主義者に押しつけ、その軍国主義者を英雄視するのであれば、だれも責任をとらず、戦争への反省がないと思えてしまう。ましてや、そういう軍国主義者を生んだ社会的責任を当時の日本人が感じず、そういう社会にしないように子孫を教育しないのであれば、日本人は正しく歴史を理解せず、軍国主義が復活してふたたび近隣諸国に脅威を与えると、考えられても仕方がないのだが、そのことに思い至る日本人、なかでも政治家が少ないので、歴史認識問題がつづくのである。

 フィリピンでは、一般市民を含め100万以上が理由もなく殺害され、しかも多くのフィリピン人が銃剣などで直接日本兵が身近な人びとを殺すのを目撃した。そのひとりが、1953年にフィリピンで服役中の日本人戦犯に恩赦を与え、帰国を許したキリノ大統領で、かれは1945年2月のマニラ市街戦で妻や子どもを殺害され、目の前の子どもの遺体を収容して葬ることさえできなかった体験をした。

 いっぽう日本では、兵50万以上の戦死者を出したといわれるフィリピン戦線で、その多くが敗走中の病死・餓死者などであったこともあり、戦闘の壮烈さより悲壮感があった。そして、戦後捕虜収容所生活を送り、帰国することになった「日本兵の多くは、フィリピン人の罵声と投石にさらされ、「敗戦の悔しさや「捕虜」の惨めさが身に沁み」る中で、激怒するフィリピン人の気持ちになかなか共感できず、戸惑いや反発心の中にいた」。そのため、「少なからぬ日本人たちが「二度ともうフィリピンなんかに来るものか」と、恨みに近い感情を抱いてフィリピンを後にした」。しかし、なかにはフィリピン人の気持ちが個々の日本兵ではなく、日本人全体に向けられていることを感じとっていた者がいた。「戦犯者の首実検」のために無実の罪で戦犯容疑をかけられたことについて、ある日本兵捕虜はつぎのように語っている。「〔家族を殺されたフィリピン人が〕「この人だ」って言えばすぐ連れてかれる。いやあ、それはよ、「俺でねえ」と、「違う」となんぼ泣いてしゃべっても、「この人だ」って言ってしまえば、片っ端から連れていかれる。やっぱり、フィリピンの殺された人のその家族であれば、たとえば人違っても、その代わりに(別人を)連れていって殺してしまうと。そういう気持ちになっているからよ、だから恐ろしいんだよな。自分で「やらねえ」つったってあとは駄目や」。

 著者、永井均が本書を書こうとした動機も、日本人の知らないフィリピン側から日本人戦犯を見ようとしたところにあり、「はじめに」でつぎのように説明している。「日本側の人々が描く物語からは、モンテンルパ[日本人戦犯が収容されていた刑務所]のもう一方の主役であったフィリピン人たちの「顔」は見えにくく、フィリピン側の思考やふるまいについて、具体的な像を結ぶことは難しい。日比両国民を当事者とする歴史的な出来事の見方は、半世紀余りを経ても、いまだバランスを欠いたままだ。戦犯裁判や受刑者の収監に関わったフィリピン人の考え方や態度などを具体的に知ることで、日本人戦犯問題史をより深く、より広い視野から見る可能性が開かれるのではないか」。

 したがって、著者は本書の課題を「フィリピンから見た対日戦犯裁判の諸相を明らかにすること」とし、具体的には「そもそもフィリピン軍の戦犯裁判は、どのような経緯で実施されることになったのか。フィリピン当局の戦犯政策はいかなるもので、裁判にはどのような特徴が見られるのだろうか。また、フィリピン国民は日本人戦犯や裁判をどう見ていたのだろう。有罪判決を受けた者はモンテンルパのNBP[ニュービリビッド刑務所]で服役するが、フィリピン当局は彼らをいかに処遇したのだろうか。さらには、日本と国交がない中で、キリノ大統領はなぜ一〇〇名を超える日本人戦犯の恩赦を決断し、帰国を許したのか」が議論されている。

 本書は4章からなり、著者はそれぞれの章を「おわりに」で、つぎのようにまとめている。「まず第一章において、米軍の捜査報告を手がかりに、日本軍の残虐行為の諸相を分析し、こうした占領者の暴力がフィリピン人の対日憎悪と強い不信感の源泉にあることを確認した。第二章は、フィリピンの対日戦犯裁判の文脈と、この国家プロジェクトの政策目標、および裁判の展開状況と特徴について叙述した。第三章は、戦犯の服役環境が「寛大」と評された背景を、フィリピン当局の政策面と人的な要因、戦犯たちの態度、比日双方の国民からの支援といった観点から描き出した。そして第四章は、戦犯の刑の扱いをめぐるフィリピン側の対応を、死刑事案の行方(処刑と赦免)を中心に論じ、最終的にキリノ大統領が残余の戦犯全員の恩赦を決定、電撃帰国させた舞台裏を追った」。

 そして、続けてつぎのように結論している。「フィリピンにとって戦犯処理は、戦争によって比日間に生まれた「溝」の源泉を問い直す重要な「戦争の後始末」であり、新生独立国として自らの能力を内外に示す国家的事業であった。裁判の結果は峻厳で、応報的な厳罰色の濃いものだったが、服役と刑の執行段階では寛容と慎重さを基調とし、関係性の修復が志向されていた。このように本書は、戦犯裁判だけに焦点を当てるのではなく、服役や赦免までの全過程を分析対象に据えることにより、戦犯処理の評価として、従来のような「復讐」や「報復」とは別の見方、すなわち関係修復を模索する重要プロセスと捉える見方がありうることを示した。戦犯処理のプロセスを、当時の対日政策や世論動向と関連づけて考察する本書のようなアプローチは、隣国の対日観-戦争認識のすれ違い-の由来を歴史的に理解するための補助線ともなるであろう」。

 さらに、「本書はまた、隣国との歪んだ関係に対処する際、破局を避けようとする努力と選択が重要であることを示唆した。併せて、破綻した関係を回復の方向に向かわせていくうえで、個人や仲介者が果たす役割の重要性についても強調した」と述べ、つぎのように本書を結んでいる。「「悪い関係の中にあっても、人と人との温かい交流があった」こと、比日両国の対立的状況の陰で、決して目立ちはしないが、関係改善を模索する努力が個人ベースでなされていたことに、我々はもっと注意を払うべきであろう」。

 冒頭で述べたように、個々の戦争責任を集団として、つまり日本人として、さらには日本人の子孫として、はたして受けとめることができるのだろうか。わたしは、そうしてきた人を知っている。詩人でノンフィクション作家の森崎和江さんである。1927年に朝鮮大邱で生まれ、戦争中1944年に帰国するまで朝鮮で育ち暮らし、戦後の日本社会のなかで一身に日本による植民支配にたいする強い贖罪意識を背負って生きてきた。本書から伝わる戦後の日本社会のなかで、かの女がどのように苦しんだのか、改めて考えさせられた。かの女の苦しみをほかの日本人に理解してもらえず、朝鮮の人びとと日本人との良好な関係が築けないことを危惧し、歴史認識問題のようなことがおこる度に心を痛めたことだろう。植民地や占領地の人びとを苦しめた原因に、戦前戦中の日本社会があり、それを容認した贖罪意識を個々の日本人が感じないかぎり、そしてそのことを後世に伝えないかぎり、歴史認識問題に終わりはないだろう。だが、終戦直後からはじまる歴史認識問題の源流を本書から学べば、終わりがはじまるきっかけになるだろう。

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