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2013年03月26日

『村を癒す人達-1960年代フィリピン農村再建運動に学ぶ』フアン・M・フラビエ著、玉置泰明訳(一灯舎)

村を癒す人達-1960年代フィリピン農村再建運動に学ぶ →bookwebで購入

 訳者の玉置泰明は、「今ごろなぜ一九六〇年代のフィリピンの農村開発の記録を取り上げる価値があるのか」、気にしている。しかし、副題にある通り、「学ぶ」ことがあり、それを他人にも説明できて「学ぶ」ことを共有できるなら、古い新しいは問題ではない。訳者の「学ぶ」説明の前に、本書および「フィリピン農村再建運動」について説明をする必要があるだろう。

 本書は、「一九六〇年代に一民間団体[フィリピン農村再建運動PRRM]によって農村に派遣された青年医師の村での経験を描いた記録である」。「続編として、同時期の体験を著者の出会った印象深い村の人物を中心にまとめた」もの、「二冊の好評に応えて未収のエピソードを集めた」ものがあり、三部作として、「フィリピンで広く長く読まれ続けている」。その後、著者のフアン・フラビエは、1977年にPRRM総裁、92年に保健大臣となり、95年から上院議員、上院議長などを歴任した。

 フィリピン農村再建運動は、1952年に中国人学者イェン(晏陽初)によって創設された。「イェンの「郷村建設運動」の基本原理は、「民の中へ その中で生活し 彼らから学び 彼らと共に計画し 彼らが知っていることから始め 彼らがすでに持っているものを基礎として建設する」というモットー」に集約される。「イェンは、貧農の基本的な問題は貧困、非識字、病気、市民的無気力の四つにあるとし、この四つは相互につながっているとして、四つの要素からこれらを改善する統合的なアプローチ(略)が必要だとした。四つの要素とは、「貧困と闘うための生計向上、無知や迷信と闘うための教育、病気と闘うための保健衛生知識、無気力と闘うための社会組織と自治の技術」である」。

 「イェンは一九五二年に「国際平民教育運動促進委員会」を代表してアジア諸国、中東などを回り、その一環としてフィリピンを訪問した。その際のマニラ周辺の大学での講演で、若者に都市を離れて農村で働くことを訴え、熱狂的な歓迎を受ける。三〇〇〇名がボランティア志願し、二〇〇名が試験プロジェクトで働くことになった。そしてそのうちの二四名を中心として、一九五二年七月にPRRMが発足した。発足時のキリノ政権および次のマグサイサイ政権は、農村部における反政府ゲリラである「フク団」への対抗組織としてPRRMを重視し、最大限の支援を行なう」。本書の著者、「フラビエは、一九三五年に生まれ、一九六〇年にフィリピン大学医学部卒業後、医学部で講師をしていたが、誘われてPRRMの活動に参加した」。イェンは、「彼が影響を与えた世界の農村リーダーの中でもフラビエに最大限の評価を与えている」。

 訳者は、「本書から学ぶ」ことについて、「大きく言えば、まず古くて新しい農村開発の諸問題であり、さらには、異文化=他者を見る眼であるといえよう」と述べ、具体的に「村に「滞在する」ということ」「村での居住と調査での注意点」「土着知(ローカル・ナレッジ)、文化・社会的価値への視点」「農民を美化しないこと」の4つをあげて、それぞれ説明を加えている。

 「村に「滞在する」ということ」では、「まずPRRMの農村との関わりで現代にも十分訴えかける点は、その時間的なスタンスである。著者は、町から来て、村々への短時間訪問を繰り返していた若い殺虫剤セールスマンとの出会いから説き始め、「PRRMでは、農民たちと過ごすことに時間をとって、彼等のやり方を理解しなければ効果はないことを見出した。彼等のやり方に理由を見出し、彼等に歩み寄るとき、変革のための適切なアプローチが明らかになる」と指摘する」。

 「村での居住と調査での注意点」では、「著者が列挙している村に住み込む若いワーカー(RRW)への具体的な留意事項は現代のワーカーあるいは研究者、学生にも十分通用するものである」と述べ、「ワーカーが住む下宿の選定は非常に重要であり、一般的指摘として、ホストの家が村の中心に近く家主が尊敬される家族であるべきこと、家族がゲスト(ワーカー)を負担と感じるようにならないため支払いに関してきちんとした取り決めが必要であること、下宿先を移るときには非常に気配りが必要であること、などを挙げている」。

 「土着知(ローカル・ナレッジ)、文化・社会的価値への視点」では、「著者は、学校教育をほとんど受けていない農民たちの固有の知識への素直な驚き、共感を表明している」。「村の年長者が時計を持たずに花や葉の開き方から時刻を言い当てたり、水の入った瓶の外側についた水滴から雨の降る方角を言い当てたりするのに素直に驚き感心した後、「農民の生活について洞察したいなら、農民のやり方を理解しようと努力することが重要だ。外部の者が何か変化を起こそうとする時、大きな落とし穴の一つは、それを行う本人の生活様式や標準、先入観を人々に押し付けようとする傾向である」と指摘する。これは当たり前のようだが、二一世紀に入っても重要性を失っていない指摘である」。

 最後に、訳者は「農民を美化しないこと」をあげる。「著者の農民および農村社会への深い共感・理解が価値をもつ理由の一つは、彼がそれを「美化」していないことである。第二章で彼の農民への理解の基本的スタンスが述べられる。「農民とは何だろう? 私にとって農民は、もう一人の人間にすぎない。恐れも希望ももてば、徳も悪徳ももち、憎しみも心もある人間だ。彼は村という状況でこれらを組み合わせたものにすぎない。彼は、固有の環境で、固有の状況とニーズに反応しており、他の人間と異なっているところはない。基本的なことは、彼をあるがままに理解することであって、我々と同じように理解することではない」。

 そして、訳者は「訳者による長い後書きと解説」の「おわりに」をつぎのようにはじめ、まとめている。「前述のように、初期PRRMの開発手法自体は、たしかに今となっては「古い農村開発」として批判され、乗り越えられるべきものであるかもしれない。しかし、著者フラビエや若きワーカーたちの住民との「ラポール」の築き方、そして現地の文化への深い共感と理解は、現在の農村開発ないし開発援助に多くの示唆を与えてくれる。それは、一九九〇年代以降、長らく「過去のもの」として忘れ去られた戦後日本の「農村生活改善運動」が再び注目されて、様々に研究され再評価されている事実とも通じる面があると言えよう」。

 さらに、つぎのようにも述べている。「このような運動の記録は、食糧自給率の向上や農村の再開発が必要とされる現在の日本にとっても非常に有益であろう。また、閉塞感が広まり、氾濫する情報に振り回されている若い人達にとって、大切なものは何かを考えなおすきっかけにもなるだろう」。

 訳者のいうとおり、本書からわれわれが学ぶことは限りなくある。それは、現代のわたしたちと同じ立場に1960年代の著者が立って、自国の農民を見ていたからともいえる。フィリピンは、それだけ都市のエリートと地方の農民との距離が大きかった。現代の都市の日本人も、農村との距離が大きいともいえる。TPPが論議されている今、日本の農村の現実も理解する必要があるだろう。このままでは、補助金によって農民の生活は維持できても、農村自体が成り立たなくなってしまう。自立できる「農村再建運動」が今の日本にも必要で、そのためにも本書から学ぶことは実におおい。

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2013年03月19日

『共在の論理と倫理-家族・民・まなざしの人類学』風間計博・中野麻衣子・山口裕子・吉田匡興共編著(はる書房)

共在の論理と倫理-家族・民・まなざしの人類学 →bookwebで購入

 「本書は、清水昭俊先生から教えを受けた学生有志によって編まれた文化人類学の論文集である」。本書を読み終えて、個人的にはまったく存じあげない清水昭俊先生が、いかに優れた研究者であり、教育者であったかがわかった。さまざまな地域や分野、関心をもつ論文をひとつにしたとき、いくら編者がうまく説明しても、バラバラ感はぬぐえないのが通常であるが、本書にはなにかしら一体感があった。それは、各論稿が、「清水への言及を結節点としながら互いに関係しあうことに」なったからにほかならない。

 その編者のうまい説明は、「まえがき」でつぎのように記されている。「本書は、さまざま[な]地域や分野を対象とし各自の関心を異にしつつも、この願いを共有する文化人類学者が、それぞれの研究を持ち寄り、「地域研究」「個別分野の研究」を超えた広がりの中に自らの探求や思考を位置づけ、特定の「地域」や「分野」(研究)の背後に控える「人類」(学)の在りようを浮かび上がらせようとする企てである。そのために、本書では、対象地域や分野が多岐に渡るにもかかわらず、各執筆者の間で共通する一点、すなわち、それぞれの学的基盤の形成過程で清水から少なからず影響を受けた事実に注目し、清水のこれまでの仕事のいずれかに言及することを執筆の条件とした」。そして、「共在」、つまり、「人と人が共に在り、関係することが、いかなる影響を当の人びとに与え得るのかという問いへと読者を」誘っている。

 本書は4部16章と、清水昭俊寄稿「民の自己決定-先住民と国家の国際法」と中国人の教え子の随想「清水先生に見守られてきた私と中国の人類学」からなる。

 第1部「人のつながり」の1、2、3章は、「清水が提示した家族・親族、そして集団的紐帯をめぐる理論的枠組みと各自のフィールドにおける民族誌事例とを対話させつつ、清水の枠組みと民族誌的資料双方の含意を汲み取ろうとする試みである。4、5章もこの点は同様であるが、この二つの章は、家族・親族理論以降の清水の関心とも共鳴している。4章は家族という事象の「力関係」をめぐる側面を照らし出し、5章は近代以降の「文化接触」を対象にしながら、清水の家族・親族理論の読み直しを行い、既存の人類学的韓国社会研究の限界を乗り越えるための方策の提示を試みている」。

 「第2部「抑圧と周辺性の諸相」は、家族・親族研究以降に清水が関心を寄せた「周辺民族」、あるいは「先住の『民(族)』」に関わる問題を対象とした5本の論稿から成る。いずれも、「周辺性」あるいは「先住の『民』であること」が、当の人びとにとってどのようなものとして具体的に経験されているのかを描き、論じる」。

 「第3部「まなざしの交差する場」は、特に人びとに向けられる他者からの視線、また対象となっている人びとが自らに向ける視線の現在を主題として、フィールドの「いま現在」の「進行中の事象」に焦点を絞った4本の論稿から成る。言うまでもなく、人類学は、人類学者が人びとに向ける視線の一類型である。いまや人類学者の視線は現地の人びとが自らに向ける視線、あるいはその隣人たちが人びとに向ける視線に対して「客観性」に基づく優位性を主張できなくなっている。人類学が対象とする人びとが置かれている視線をめぐる「現在」を知ることで、人類学は自らを省みることができる」。  「第4部「人類学の再構想」は、人類学が社会の中で果たし得る役割についての考察を促す2本の論稿から成る。「永遠の未開文化」の探求をもっぱらとする人類学が、「いま現在」の「現場で進行中の事象」に向かい合ったとき、現に生きている学的対象たる人びとと人類学者との関係の再考が迫られ、人類学の社会的再定義が求められることになる。清水が人類学の限界を乗り越える契機として再び呼び起こしたマリノフスキーは、植民地統治改革のために実用人類学を唱えるマリノフスキーであった」。

 本書を読み終えて、なにか得した気分になった。いままで、当然のように一方的に語られてきた視線から解放されて、もうひとつの視線があることを気づかせるものが随所にあったからである。たとえば、カナダ先住民の長老に、「あなたは私とあなたがカナダという国から平等に扱われていると思うか」と問われた中国系カナダ人が、「そう思う」と答えたのにたいして、長老はつぎのように答えている。

 「それは違う。我々はあなたたちのような自由を持っていない。我々の住んでいる土地は、我々個人の財産にはならない。私は、祖父や父がやっていた方法でサケを捕ることも禁じられている。もしもあなたが中国にいる時に誰かがやって来て、今日から中国語を話してはならない、中国式のお祭りも結婚式も葬式もやってはならないと言われたらどう思うか。そんなことをした人たちの言うことを信用できるか。そんな人たちが作った国を自分の国だと思えるか。あなたたちはここに来て幸せに暮している。子供たちが自分たちの言葉を話せなくなっているのを何も感じないかもしれない。でも、我々はイギリス人が我々にしたことを決して忘れない。第一、この国がカナダになるずっと前から我々はここにいるのだ」。

 このことは、近代に語らなかった人びとが語り始めたことを意味し、近代に「奉仕」した人類学からの解放をも意味している。人類学者だけではない。いまわたしたちは、近代に語る術を持たなかった人びと、口を閉ざさせられた人びとの視線で、現代、そして未来を見つめる必要がある。そんな視線を理解している論稿が並んでいるような印象を受けた。

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2013年03月12日

『ナチ・イデオロギーの系譜-ヒトラー東方帝国の起原』谷喬夫(新評論)

ナチ・イデオロギーの系譜-ヒトラー東方帝国の起原 →bookwebで購入

 ヒトラーといえばユダヤ人虐殺というイメージがある。しかし、著者、谷喬夫は「あとがき」で、つぎのように述べている。「もし<ホロコースト>だけを単独で考察してしまうと、ヒトラーの蛮行は政治思想の対象というより、結局かれの人格上の欠陥やパラノイアに、追従者たちは「権威主義的人格」に還元されてしまう恐れがある。しかしヒトラーの幼少期や青年期の伝記をいくら詳細に眺めても、それがいかに興味深いにせよ、その政治思想の秘密を解く鍵が見つかるわけではない」。「ユダヤ人絶滅政策を誘発したヒトラーの東方支配のアイディアは、決してかれ個人の病的妄想の産物ではない。ヒトラー自身は黙して語らないが、それは本書が明らかにしたとおり、一九世紀のドイツ・イデオロギーやクラースら帝政末期の極右派、さらにルーデンドルフに代表される東部戦線の白昼夢を引き継いだものである」。

 著者の疑問は、「いったいこうした東方支配のアイディアはどこから来たのだろうということであった」。「そこで本書では、ヒトラーの東方大帝国構想が思想史的にみてどこにその起原を有していたのかを追求してみた。その系譜として、わたしはトライチュケを代表とする一九世紀ドイツ・イデオロギー、帝政ドイツの極右勢力、全ドイツ連盟会長クラースの政治思想、さらに第一次世界大戦末期のドイツ東部戦線の国民的経験に出会った。ヒトラーはこうした思想的系譜との連続性を示しながら、しかしそれを誰もが想像し得ないほどに急進化、凶暴化した。ナチにおける合理性と非合理性の「悪魔的統合」(M.ホルクハイマー)は、伝統的右翼の想像し得ない野蛮を生み出したのである。したがって本書はナチ・イデオロギーの系譜を、ドイツ政治思想の連続性と非連続性の二重構造のなかに探ろうとした試みである」。

 かねてよりドイツはなぜ、海外植民地の獲得に積極的でなかったのか、不思議に思っていた。その理由のひとつは、歴史的にイギリス、オランダ、フランス、さらにはデンマーク、スウェーデンのように東インド会社あるいはそのような海運力がなかったから、と考えていた。しかし、本書では、東方政策との関連で、つぎのように説明されていた。「なぜ海外よりも内陸植民の方がふさわしいのだろうか。その理由は、海外植民の場合、人口流出によって「ドイツ民族の力の消耗」、「民族喪失」をもたらす可能性が高いからである。この点もヒトラーによって東方政策の論拠として受容されている。したがってクラースによれば、海外植民地の目的は当面、原料調達や製品販路、軍事上および交通上の中継基地とされるべきなのである」。

 また、別のところでは、つぎのように説明されていた。「ドイツが必要としているのは、ヨーロッパ内部の植民地であり、そこに健全なドイツ人農民階級を育成することである。内陸の植民地に自営農民が増大すれば、大都市の過密状態も、移民という民族の海外流出も食い止めることができ、食糧の自給体制も確立することができる。海外植民地は、ドイツ民族の流出という欠陥を持っているから、あくまでヨーロッパで、「われわれは西でも東でも土地を要求しよう」というのである。ヒトラーは『わが闘争』において、ヨーロッパ東部へ植民地を獲得するという目標を、自分の独創のようにいっているが、実はこうした方針は全ドイツ主義者の主張だったのである」。

 そして、人種差別、能力主義、社会主義敵視なども、クラースなどの思想に行き着くことを、つぎのように述べている。「クラースにとって、また社会問題の深刻さを自覚する保守派にとってさえ、社会主義者は<帝国の敵>である。クラースによれば、そもそも普通選挙は、劣等で無能で粗暴な者と、「尊厳[略]」「能力[略]」「円熟[略]」を備えた者(クラースによれば、こうした人々は当然「財産と教養」を有している)を同列に扱う悪しき平等思想(その創始者はルソー)に基づいている。制約なき普通選挙によって、劣等者の支配に道が開けたのである。もし帝国の伝統を維持したければ、劣等者の支配をたくらむ社会主義者は追放されるべきであり、国家が自己保存権を有する限り、法治国家の下でもこうした特例法の制定は可能である。さらにクラースによれば、社会主義の危険を一層深刻にしているのは、その背後に、ドイツ民族を汚染するユダヤ人がうごめいていることである。そのインターナショナリズムはドイツの国益を著しく損なうことになる」。

 今日でも、たとえばEU内の債務危機に陥っている国々を、ドイツが同じような目で見ているとするなら、民主的なEU像は見えてこない。いっぽうで、このような見方が否定できないような状況が、日本にもあるとするなら、ヒトラーの急進化、凶暴化にいたるような環境が日本にもあるといえる。本書によって、その系譜はわかった。しかし、もういっぽうでそれを止めることができなかった原因を明らかにしなければ、第二、第三のヒトラーが出現することになる。

 また、ドイツの東方政策と同じようなことは、ソビエト連邦時代(1922-91年)に連邦内各地へのロシア人移住としておこなわれ、中華人民共和国の漢族の「周辺」への移住は今日もつづいている。そう考えると、国民統合の名のもとにおこなわれる「生存闘争」は、今日でも世界各地でおこなわれているといえるかもしれない。

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2013年03月05日

『記念碑に刻まれたドイツ-戦争・革命・統一』松本彰(東京大学出版会)

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 東西ドイツの統一から丁度1年後の1991年10月3日に、ブランデンブルク門を見に行った著者松本彰は、「統一後にドイツ人の歴史意識がどのように変化していくか確かめたいと思い」、「記念碑のハンドブック」「記念碑の通史」を手に入れ、「何かがつかめるのでは、という予感がして、記念碑巡りを始めた」。本書の特徴は、冒頭16頁のカラー写真に加え、本文中93頁にわたる図版が掲載されていることで、「記念碑索引」6頁、「図版データ一覧(撮影年月・出典)」5頁が巻末に添えられている。

 「ドイツ統一」は、これが初めてではなかった。一般に知られる「一八六七、七一年のドイツ統一」に加えて、著者は「ヒトラーがオーストリアを併合した「合邦」=「一九三八年のドイツ統一」にも注目し、「範囲も意味するものも大きく異なる「三回のドイツ統一」と、戦争、革命の関係を問題にしながらドイツ史を再考」した。その成果が、本書である。

 本書は、「序章」と6章、「終章」からなる。著者は、つぎのようにまとめている。「本書は、記念碑の歴史を追いながらドイツ史を再検討すること、「記念碑に刻まれたドイツ」について考えることをテーマとする。ホブズボームの時代区分を用いて、第一、二章でフランス革命から第一次世界大戦までの「長い一九世紀」を、第三、四章で「短い二〇世紀」の前半、「現代の三〇年戦争」としての二つの世界大戦の時代を、第五章でその後の一九九〇年までを、第六章で一九九〇年以降を扱う。終章ではドイツ・デンマーク国境を取り上げる」。

 本書を読み解く鍵のひとつに、「国民」がある。著者は、「あとがき」でつぎのように述べている。「確かに、ドイツでは国民の意味するものが、時代によって、立場によって大きく異なり、そこには大きな断絶がある。本書では国民が三重の意味で用いられたことを指摘しつつ、一九世紀はじめからナチズムまでの国民記念碑への熱狂と、その後の「過去=ナチズムの克服」のための記念政策を追うことになった」。

 そのことをもっと具体的に、「序章」の「アイデンティティの重層・複合」で説明している。「ドイツ統一は、それぞれの個人にとっては、アイデンティティの問題である。ドイツでは「国民」が三重の意味で用いられたことに象徴されるように、国家と民族の関係が複雑で、どこまでがドイツか、誰がドイツ人か、様々な理解があり、人々のアイデンティティは重層的かつ複合的だった。平時ではアイデンティティは重層的、複合的、あるいは分裂的であっても差し支えないが、戦時にはそれは許されない。「ドイツは一つ」にならなければならない。人の命は一つであり、その一つの命を国家に捧げることが求められる。例えば、ドイツ系ユダヤ人の多くは、ドイツ語を話し、ドイツ文化を担い、ドイツ国民としてのアイデンティティを持っていた。一九世紀末以降、彼らへの差別が厳しくなるが、第一次世界大戦が勃発した時、かなりの数のユダヤ人が志願兵として戦場に向かった[一二一頁]。また、ドイツの国境は時代によって移動しており、住民の国籍はそのたびごとに変更させられた[終章]」。

 「強力な国家のために、誇り高い市民=国民=「兵士としての男」が必要とされ、ジェンダー的、民族的、宗教的、階級的な弱者、マイノリティは差別され、抑圧され、それに対する抵抗は社会運動を生み出した。ドイツでは統一のため、強いドイツのために戦争が繰り返され、行き着いた先がナチズムによる破局だった。ドイツ中に蔓延する「勇敢な兵士、強い男」「倒れた兵士を悼む、やさしい母と娘」というステレオタイプ化された戦争記念碑の表象は、「ゲルマン以来の伝統」とされたが、明らかに「創られた伝統」だった」。

 このような「重層・複合」的な問題を抱えながら建てられた記念碑は、多面的な分析が必要であり、著者は「記念碑の政治学」「記念碑の美学」「記念碑の宗教学」の3つの視角から考察を試みている。そして、「記念碑の歴史を具体的に考える上で、特に注意すべき五点」をあげている。「第一に、記念碑には事件の後、かなり経ってから建てられるもの」がある。「第二に、記念碑のその後にも注目すべきである」。「第三に、建てた側の「意図」だけでなく、見る側の「受容」も問題にしなければならない」。「第四に、記念碑の様式や意味の変化を追っていくことが重要になる」。「第五に、重要な記念碑は既存の記念碑、それもかなり遠方の記念碑や外国の記念碑なども意識して作られる。記念碑相互の関係について、長い歴史の中で総合的に検討する必要がある」。

 「ベルリンの壁」が崩壊し、記念碑をめぐって激しい論争が起こったことが、著者を記念碑巡りへとかきたてた。そして、記念碑論争が、ドイツ人の歴史への関心を呼び起こした。日本も、近隣諸国との「歴史認識」問題を抱えている。「終章 ドイツ・デンマーク国境の記念碑」は、双方から歴史をみつめる必要性を説いている。本書全体を通して、ヨーロッパ世界のなかで、とくに近隣諸国・民族との関係のなかで議論を進めている。それにたいして、日本人は東アジア地域のなかで歴史を考える土壌が生まれ、育っているのだろうか。ドイツの歴史から学ぶことも多い。

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