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2013年02月19日

『東アジア海域に漕ぎだす1 海から見た歴史』羽田正編・小島毅監修(東京大学出版会)

東アジア海域に漕ぎだす1 海から見た歴史 →bookwebで購入

 『海域から見た歴史-インド洋と地中海を結ぶ交流史』(名古屋大学出版会、2006年)の著者、家島彦一は、つぎのように明確に自らの立場を述べている。「海(海域)の歴史を見る見方には、陸(陸域)から海を見る、陸と海との相互の関係を見る、海から陸を見る、海そのものを一つの歴史的世界として捉えたうえで、その世界のあり方(域内関係)、他との関係(海域外や陸域世界との関係)を見る、などのさまざまな立場が考えられる。私の研究上の立場は、それらのうちの最後にあげたように、陸(陸域)から海(海域)中心へと歴史の視点を移すことによって、海そのものを一つの歴史的世界として捉えること、そして海域世界の一体性とその自立的な機能に着目すること、さらには海域世界から陸域世界を逆照射(相対化)することにあるといえる」。本書は、前2者の「陸(陸域)から海を見る、陸と海との相互の関係を見る」立場で書かれている。「海から見た歴史」にもいろいろあるが、本書は比較的閉じられた海域である東アジア海域を中心に扱っており、陸の関与が大きいため、この立場になったのだろう。

 全6巻からなる本シリーズを読み終えたとき、「あなたの世界観はきっと変わっている」と、「刊行にあたって」の最後に書かれている。本シリーズでは、「八九四年の遣唐使廃絶から一八九四年の日清開戦にいたる」「一千年間を対象とし、ほとんど正式な国交がなかったにもかかわらず、多彩で豊富な交流の営みがおこなわれ、それらが日本で、〝伝統文化〟と呼ばれているものを生みだすうえで決定的な役割を果たしたことを明らかにしていく」という。

 その第1巻「海から見た歴史」は、画期的な編集方針のもとに執筆された。編者、羽田正は、そのことをつぎのように「あとがき」で説明している。「研究会を頻繁に開いて、参加者全員が納得するまで徹底的に議論を交わし、いくつかの概念や歴史の見方、歴史叙述の方法について共通の理解を得ようとしたのである。そして、その理解にもとづいて、「東アジア海域」の過去を解釈し、叙述することを試みた。すでにさまざまな考え方があるところで新たな歴史理解や叙述方法を打ち出そうとするのだから、当然、研究会での議論はつねにおおいに白熱した。異なった見解を持つ研究者同士がどうしても譲らず、いささか険悪な雰囲気に陥ったこともあった。結果として、すべての点において、参加者の合意が得られたとは、残念ながら言えない。しかし、この方法を採用したことによって、参加者間での情報共有が飛躍的に進み議論がおおいに深まったことは間違いない。そして、一人の研究者による個別研究では到達できないようなレベルと広がりを持つスケールの大きな共同研究の成果を提示できたのではないかと思う」。

 具体的には、つぎの4つの段階に分けて本書の執筆・編集作業が進められた。「1 プロローグと第Ⅰ部から第Ⅲ部という四つのパートについて、執筆と編集を担当する複数の編著者を決め、彼らが草稿を作って各部と全体の研究会に提出した」。「2 原稿の大筋が一応できあがったところで、四名の方に通読、コメントをお願いした」。「3 編著者グループから各部の主編者を決め、彼らが、各部の原稿のとりまとめを担当し、四つのパートを通読して、相互に記述内容の重複や矛盾、用語の意味などについてコメントし、各々の原稿の推敲をおこなった」。「4 四つのパートの主編者が、最終稿を仕上げて東京大学出版会に提出し」た。

 このような「理系の研究でふつうに見られるような研究者の連名による発表方法」を採用した結果、本書は「海によって結ばれた、近代以前の東アジアの往来の歴史を、俯瞰的に見つめなおす」優れた概説書に仕上がった。その基本的なスタンスを、編者は「プロローグ 海から見た歴史へのいざない」でつぎのように述べている。「私たちの多くは、これまでなかば無意識のうちに陸の権力の視線で当時の歴史を理解してきた。しかし、海域の側から見れば、同じ対象が異なって見えるのではないか。陸中心の政権の目で記されてきたこれまでの東アジア史を見直し、海と陸をあわせた東アジアを想定し、その歴史を描いてみたい。海を真ん中においてそこに生きる人びとの目線で歴史を考えてみたい」。

 本書で呼ぶ「海域」は、「ある区切られた範囲の海をさす自然地理的な用法とは異なり、人間が生活する空間、人・モノ・情報が移動・交流する場としての海のことをさしている」。そして、「本書の主要な舞台となる「海域」は、具体的にいえば、東シナ海と黄海を中心に、北は日本海・オホーツク海、南は南シナ海へと南北に連なるユーラシア大陸東辺の海である」。

 本書は3部からなり、「少し変わった叙述スタイルを試みている」という。「歴史書によくある時系列に即した通史的な叙述ではなく、時間的に異なった三つの時期を取り上げて、その時代の海域とそれを取りまく地域の特徴をモデル的に再現しようとした。このような構成をとったのは、抽象的な概説ではなく、できるだけ、海の中心に視座をおいて周囲をぐるりと見回すパノラマのような具体的なイメージを読者に届けたかったからである。しかし、すべての時代にわたってそのような記述をおこなうには、紙数にも時間にも制約がある。そこで、この海域の歴史的特質が浮かびあがるように、三つの「百年間」を選びだして、それぞれの時代の特徴や多様性を具体的に描き出してみようというのである。このような手法は演劇ではよくみられる。本書を三部構成の海から見た歴史劇と見立てていただくのもよいだろう」。「三つの「百年間」とは、次の通りである」。「第Ⅰ部 一二五〇年-一三五〇年 ひらかれた海」「第Ⅱ部 一五〇〇年-一六〇〇年 せめぎあう海」「第Ⅲ部 一七〇〇年-一八〇〇年 すみわける海」。

 さらに「本書では、三つの「百年間」を叙述するにあたって、海から眺める視角やものさし、叙述の流れなどを、できるだけ揃えることにし」、「まず、各部の冒頭には「時代の構図」が置かれ、それぞれの「百年間」の海域の位置づけと特徴が述べられる。つづいて、「人」がテーマとなる。私たちは海域と関わった人びとを、(1)政治権力やこれと密接な関係をもつ人びと、(2)航海や貿易と関わる人びと、(3)沿海で暮らす人びとの三つの範疇でとらえることにした。それぞれのグループが海域の歴史の展開にどのような役割を果たし、どのように関わったのかが説明され、また、各時代に海域交流の舞台となった港町とそこでの貿易の実態や「国外」から来た人びとの存在形態や権力による管理などの特徴についても述べられる。次は「モノ」だ。海上を運ばれたモノの多様性や時代的特徴を明らかにし、モノの観点から、各時代の東アジア海域の経済面での特徴が論じられる。最後は「情報」である。技術、学芸、美術、信仰、思想など、広い意味で「情報」に関わる要素の受容や拒絶の諸相が取り上げられ、それぞれと東アジア海域の歴史との関わりが説明されることになる」。

 本書から「陸の世界から見えにくい」海域を、明確な問題意識をもって「陸地人の目線・文脈にそって書かれている」史料を丹念によみ、再構成することによって、その内実や「陸域」との関係性を具体的に明らかにしようとしている。「海域に生きる人びとの権力への帰属意識や「よそ者」との距離のとり方は、陸の人びとと同じだったのだろうか。「家族のために汗をながす」漁師や船乗りと、「人殺しをものともしない」海賊や兵士はどういう関係にあったのだろうか」という問いにたいして、「海域を中心に据えた歴史、すなわち「海から見た歴史」」を明らかにして答えようとしている。その試みは、本書の設定した「海から見た歴史」において、現在の研究成果を存分にいかして、成功しているといっていいだろう。読者の世界観も変わり、学ぶことも多かっただろう。

 本書から、陸の人びとが海を媒介にして、あるいは海と接点をもつことによって明らかになった「海から見た歴史」を、さらに発展させ、冒頭で示した家島のいう「陸(陸域)から海(海域)中心へと歴史の視点を移すことによって、海そのものを一つの歴史的世界として捉えること、そして海域世界の一体性とその自立的な機能に着目すること、さらには海域世界から陸域世界を逆照射(相対化)すること」へと考察を深めていくためには、海域を主体性をもった空間として研究している地域研究者や自然科学者との共同研究が必要になるだろう。そうすることによって、陸の人びとが海と接点をもったその先の海域世界が姿を現してくるだろう。また、本書はあくまでも、人間中心の歴史である。鶴見良行の『ナマコの眼』(筑摩書房、1990年)のような視点が加われば、陸の海商が手に入れた海産物や林産物、中国で南海の物産と呼ばれた商品が、どのような環境(自然や社会)のもとで収集(生産)され、運ばれ、海商の手に届いたのかも、その一端がわかってくるだろう。領域・領海を近代国民国家の1要素と主張する「紛争の海」の危険性から解放するためにも、陸から離れた共存・共生する海の主体性を語る歴史観が必要になる。

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2013年02月12日

『フィクション論への誘い-文学・歴史・遊び・人間』大浦康介編(世界思想社)

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 本書は、京都大学人文科学研究所の共同研究「虚構と擬制-総合的フィクション研究の試み」の成果をもとにした論文集である。本書の狙いは、「なによりまず読者にフィクション論の諸相にふれてもらい、「フィクション論的思考」とでもいうべきものを知ってもらうことにある」。その理由を、編者大浦康介は、つぎのように「まえがき」の冒頭で説明している。「「フィクション論」は、おおよそ一九七〇年代以降、欧米では着実に地歩を築いてきた研究の一分野であるが、日本ではまだまだ馴染みが薄いというのが実情だろう。じっさい、フィクション作品(小説、演劇、映画等)を論じればフィクション論だといった短絡的な誤解も根強い」。

 「フィクション論の「守備範囲」は広い。それはおそらく虚構を生み出し、虚構を用い、虚構と戯れるということが、人間の基本的な文化的営為のひとつだから」であり、「夢想や妄想といった心的現象までフィクションに含める」と、「フィクション」の意味は無闇に広くなる。しかし、「フィクション論の可能性も、難しさも、そこに潜む陥穽もこの点に由来する」。

 本書は、序論、それぞれ3章からなる4部全12章、7つのコラム、8つの読書案内(フィクション論の基本文献)からなる。まず、「序論」で「フィクション論ではいったい何が問題となるのか、どこがフィクション論の「勘どころ」なのかを、先行研究の成果も踏まえながら概説」する。「フィクションは身近な存在であるが、それを扱うフィクション論が何かはよく知られていないからである」。4部からなる本論部分の第Ⅰ部「フィクションの諸相」では、「小説、映画、マンガなどをおもな分析対象として」論じる。第Ⅱ部「フィクション論の新たな地平」では、「これまでフィクション論であまり問題にされることのなかったジャンルを正面から」扱う。第Ⅲ部「フィクションと歴史叙述」では、「テーマを絞って、フィクションと歴史叙述の関係を問題」にする。最終第Ⅳ部「原理的問いかけ-現実、表象、語り」では、「「現実(性)」、「表象」、「語り」などをキーワードとして、フィクションに関する「原理的問いかけ」」を試みる。

 編者は「序論 フィクション論の問題圏」で、「フィクション論が提起する問いには、大きく分けて二種類ある」とし、つぎのように説明している。「ひとつは「フィクションとは何か」という、いわばど真ん中の問い。虚構性、すなわちフィクションをフィクションたらしめている属性に関する問いである」。「もうひとつの大きな問いは、フィクションの効用にかかわるものである」。これらふたつの問いは、「ときに交錯しつつ、フィクション論のフィールドを形づくっている。もちろん、問いはこれに尽きるわけではない。「フィクション能力」の獲得をめぐる心理学的問題、フィクション概念の成立をめぐる歴史的問題、西洋圏とそれ以外との差異に関する比較文化的問題など、いずれもスケールの大きな問題が後に控えている。本論では、これらすべてを十分に論じることはむろんできないが、少なくとも諸問題の位置関係を明らかにし、大まかな理論的見取図のようなものを提示できればと考えている」。

 この「序論」では、アリストテレスが歴史叙述との対比において、「自然の模倣であると同時に創造でもあるポイエーシスの普遍性」を主張したことを、つぎのように引用している。「詩人(作者)の仕事は、すでに起こったことを語ることではなく、起こりうることを、すなわち、ありそうな〔本当らしい〕仕方で、あるいは必然的な仕方で起こる可能性のあることを、語ることである。〔……〕歴史家はすでに起こったことを語り、詩人は起こる可能性のあることを語る〔……〕。したがって、詩作は歴史に比べてより哲学的であり、より深い意義をもつものである。というのは、詩作はむろん普遍的なことを語り、歴史は個別的なことを語るからである」。

 これにたいして、第Ⅲ部第9章「歴史叙述と「想像力」-戯曲を素材に」で、小関隆は、現代アイルランドを代表する劇作家フランク・マクギネスの『ソンム川に向かって行進するアルスターの息子たちを見守り給え』をとりあげ、第一次世界大戦中の1916年のソンムの戦いで多くのアルスター兵が犠牲になった事実を通して、「歴史学とフィクションの関係という難問に関するなんらかの示唆を得ること」を試みている。

 そして、「むすびに代えて-「史実」とフィクション」で、つぎのように考察を深めている。「『ソンム川』が強烈なインパクトをもつ作品として評価されたのは、複数の声の対話という戯曲の特性に依拠しつつ、マクギネスが存分に駆使した、歴史学を取り巻くさまざまな制約から相対的に自由な「想像力」が、「史実」べったりでは到達しがたいある種の「真実」に迫りえたからこそであった。そして、もう一歩踏み込んで、フィクションが突破口を開いたがゆえに、「ソンムの血の犠牲」のアカデミックな再検討が可能になった、と論ずることもできるかと思われる」。

 「さらに、「想像力」を過度に排除しない「新しい歴史学」の模索を促すメッセージを『ソンム川』に聞きとることも、間違いではないかもしれない。それは「実際に起こった出来事」だけでなく「起こりえたかもしれない出来事」までをも引き受ける、現実には封じ込められた可能性へと「想像力」を適用してゆく歴史学である」。

 そして、つぎのように言い切る。「歴史にifをいうな、との常套句には、こう応答しよう。有意なifを歴史に投げかける能力こそ歴史研究者に求められるものであり、この能力を「想像力」と呼ぶことは決して的外れではない、と。聡明な「想像力」から発せられる限り、歴史にifをいうことは奨励されてよい」。「新しい歴史学」者は、アリストテレスのいう詩人の能力をもつことによって、歴史を普遍的、より哲学的で、深い意義をもつものにすることができるようになる。

 フィクションのない社会、人間関係はつまらないことが、本書をとおしてわかった。いっぽうで、フィクションがもつ影響力の大きさ、深刻さにも気づかされた。わたしたちが、フィクションと上手につきあっていくための基本的知識が、本書にはいっぱい詰まっている。

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2013年02月05日

『サストロダルソノ家の人々-ジャワ人家族三代の物語』ウマル・カヤム著、後藤乾一/姫本由美子/工藤尚子訳(段々社)

サストロダルソノ家の人々-ジャワ人家族三代の物語 →bookwebで購入

 著者、ウマル・カヤムの執筆の大きな動機のひとつは、「欧米諸国のインドネシア研究者によって語り継がれてきた「プリヤイ」解釈への失望感」であった。解説者、倉沢愛子は「プリヤイを一言で表現する的確な日本語はない」とし、つぎのように説明している。「植民地時代にあっては、ほぼ、役人、教員、軍人階級などのホワイトカラー職についている人たちを指した。まだ私企業が充分に発達していない時代であったので、その多くは植民地政庁のもとで働く人たちであった。とはいえ職種を表す用語かと言うとそうではなく、むしろ「それらの職種に就くような人材を生みだしている社会階層」と言った方が適切であろう。植民地時代、そのような職種につくためには、オランダ式教育を受けねばならず、そのオランダ式教育を受ける資格があるのは、プリヤイ階層の子弟にほぼ限られていた。その意味では、プリヤイという階層はほぼ固定的、世襲的なものに近かった。プリヤイの対極にある用語がウォンチリッ(小さな民、の意)で、これは農民を中心とする一般大衆を意味する」。

 だが、著者自身、明確に「プリヤイ」とはなにかを述べているわけではない。プリヤイの条件のひとつに、ジャワ語を正確に話すことができる、というのがあるが、辺鄙な村の農民でさえ、正しく話すことができる者がいることを、物語のなかでつぎのように述べている。「その二県の中でもっとも辺鄙なところにある村の住民は、ジャワ語を現在でも上手に話していることを実際に見聞した。所属する社会階層によって複雑に言葉を使い分けなければならず、よく間違った使い方をしてしまうジャワ語を、彼らは十分に正しく話すことができた。一体どこでその純朴な農民たちはすべてを理解できるようになったのだろうか」。「ジャワ語の階層を使い分けることがプリヤイにとって重要、というよりもおそらく最も重要な条件であると考えていたからであろうか。植民地政庁で働くプリヤイにとっても同じなのだろうか。それではプリヤイとは、そもそも何であるのか」。

 そして、本書の最後のほうで、「最も誠実で正直で、そして何らの私欲を持たずに家族全員に献身的に尽くし」、「誰よりも正真正銘のプリヤイ」といわれた著者の分身とおぼしき「主人公」は、「君にとって、プリヤイとはどのようなものなのかね」と問われ、「実のところ、私にはいまだに分からないのです」、「私にとっては、それはもはや大して重要な言葉ではないのです」と答えている。

 さて、本書の内容であるが、表紙見返しに、つぎように要約されている。「伝統文化の香り高いジャワ島中部の町ワナガリ。村の補助教員となりプリヤイ(エリート階層)の世界に足を踏み入れたサストロダルソノは、下級官吏の娘ンガイサと結婚。この地で、一族の絆を尊び社会に尽くすプリヤイらしい大家族をめざす。オランダ植民地時代、日本占領期、独立戦争を経てスカルノ体制崩壊を招く1965年9月30日事件に至る激動の20世紀。誠実で平穏な家庭に、思いもよらぬ様々な出来事がもちあがる…。影絵芝居ワヤンをこよなく愛し、家族の力を信じて誇り高く生きるサストロダルソノとその一家。一族三代の半世紀にわたる歩みを、家族それぞれの目で綴る現代インドネシア文学の名作」。

 本書の共訳者のひとり、後藤乾一と解説者の倉沢愛子は、世界を代表するインドネシア研究者である。そのふたりをして、内部から観たジャワ社会について、本書から多くのことを教わったことをつぎのように述べている。「この物語は、そのような植民地社会の諸制度のゆがみや、しめつけが巧みに描かれていて植民地社会史としてもおもしろいのであるが、さらにプリヤイの生活の内部を巧みに描いていて、これまで単に歴史書で外側から見ていただけの私たちには理解できなかった、彼らのライフスタイルや心の葛藤などについて新しい事実を教えてくれる」。「彼らのライフスタイルは、純粋にジャワの伝統を守ろうとする反面、非常にオランダ化しようとしていたことが分かる。たとえば現在でもジャワの農家へ行くと、一家で一緒に団欒しながら食事をとるというような風習はない。午前中に母親が作っておいたおかずを皿に盛りつけて台所に並べて置き、それを好きな時にとって各自で好きなところに腰をおろし、手で上手にすくって食べるというのがふつうである。「さあ、ご飯にしましょう」などと母親がうながす場面は農民の世界ではありえないのである。しかしプリヤイになったとたん、彼らはテーブルにお皿とナイフ、スプーンをセットして、家族が一緒に食卓に着き、団らんしながら食べる。知らない間に欧米文化に慣らされてしまっている私たち日本人には、当たり前のことに思えるかもしれないが、村人たちから見ればさぞ不思議な光景だったろうと思う」。

 ジャワ社会や歴史が、家族の内側からわかるだけでなく、本書は文学作品としても優れている。普通、物語は一人称か三人称で最初から最後まで語られるが、本書全10章それぞれの章は、一家のだれかひとりによって別々に語られる。それぞれの立場、世代などの視点によって、同じ事象でも複眼的に見ることができる。そして、半分の5章は、「家名を汚し、祖母と母の運命をめちゃめちゃにした悪党の私生児であり、養子にすぎない」三代目のひとりによって語られ、初代の葬儀に際して、家族を代表して見送る挨拶をするところになると、グッとこみあげてくるものがある。

 日本人として気になるのは、日本占領期がどのように描かれているかである。引退を決意した初代は、つぎのように妻に嘆いている。「なあ、考えてもごらん、私のような年寄りが、毎朝日本の神を拝むために北に向かってお辞儀する宮城遥拝を命令されるのだよ。難儀な話で嫌気がさすよ。イスラーム教徒としての祈りでさえまだ十分できていないというのに、他人の神を崇めるよう命令されるとは。そのうえ今さらほかの国の言語を学ばなければならないだなんて。もう何百年とここで使われているオランダ語でさえまだ十分できないのに、今度はなんとニッポン語を急いで勉強しなければならないとは!そんなことできるとでもいうのかね。無理だろう、おまえさん。私は引退するしかあるまいよ!元来この私はもう隠居すべき年なのに、今後もカランドンポルで働くようにお上から命じられてしまった」。そして、「宮城遥拝の命令に従わないとの報告」を受けた日本人に平手打ちを食らい、屈辱感に打ちひしがれて、つぎのように発して子どものように泣いた。「ああ、神様。このように人から侮辱を受けたことはこれまで一度たりともありません。あの男は私の頭を殴ったのだ、おまえさん、頭を!」。

 著者は、「自分の幼少年時の記憶、祖父母や両親の姿、そして自分の体験をもとにしつつ、内外のジャワ社会研究を参考にしながら執筆した」。そして、「アメリカの文化人類学者クリフォード・ギアツの名著『ジャワの宗教』の中で、サントリ、アバンガンと共に定式化されたプリヤイ理解が広く膾炙する現状に対し、著者は「ジャワ社会の内側からプリヤイを理解したい。プリヤイになりたいと願い、そして社会的な上昇を遂げたいと願う人々にとって、その世界はどのような意味づけをされるのだろうか」を問い続け、それには「小説を書くことがプリヤイの生活を理解するうえでより効果的であると考えた」と述べている。

 わたしたちが研究対象としているもののなかには、いまだ外からの目を通した理解が支配的なものがある。そして、それは往々にして気づかない。気づいたとしても、それをうまく説明し、反論することができないことがある。そんなときに、小説が有効な手段のひとつであることを、本書は証明している。その小説も、外国人に伝える場合、優れた翻訳が必要で、訳者たちはジャワ社会の深い理解のもとに、その雰囲気が日本人に伝わるようにことばを選んでいる。巻頭の「ジャワ島略図」や「家系図」も、読む助けになっている。年表があったら、もっとよかったかもしれない。ともあれ、この「インドネシアのロングセラー小説」が、的確な日本語訳で読むことができることに感謝したい。

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