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2013年01月22日

『日本統治時代台湾の経済と社会』松田吉郎編著(晃洋書房)

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 本書は、兵庫教育大学東洋史研究会を前身とする史訪会の会員13名からなる論文集で、「新たな研究成果を盛り込んで体系的に日本統治時代台湾の社会経済史を述べる必要がある」との考えから企画されたものである。

 その13の論文(章)は、つぎのように編著者によって紹介されている。「台湾の物産・金融について、堤和幸は米穀流通と籾摺り業者の土壟間の活動を述べ(第1章)、新福大健は砂糖生産に関連して糖業連合会の活動を述べ(第2章)、池原一磨は品種改良の視点から台湾糖業を述べ(第3章)、浜野勇貴はバナナ産業の推移を述べ(第4章)、河原林直人は茶業をめぐる商人の角遂について述べている(第5章)。松田吉郎は台湾の金融機関である産業組合の役割、及び戦後における信用合作社、農会への継続性について述べている(第6章)。趙従勝は台湾拓殖株式会社による海南島農業開発が台湾経験の海南島移植の側面と海南島事情に適応し、戦時下の緊急的農業であったという二側面を指摘している(第7章)。ここまでの論文は日本統治時代の物産(米・砂糖・バナナ・茶)とその金融であった。特に、従来の研究では台湾の経済は米・砂糖のモノカルチュアという研究が盛んであったが、これらの研究成果によってそうではなく、マルティカルチュアであることが明らかになっている」。

 さらに、つぎのように続けている。「社会資本の整備・運用について、井上敏孝は台湾総督府による基隆などの築港事業の意義を述べ(第8章)、白井征彰は台北の上水道整備事業について述べ(第9章)、齋藤尚文は台湾運輸事業を台湾運輸同業組合から明らかにし(第10章)、蔡龍保はこれらの社会資本の技術的側面を支える台湾技術協会の設立とその事業について述べている(第11章)。今井孝司は救済事業・社会事業を述べ(第12章)、黄麗雲は船舶航行と龍船の意義を述べている(第13章)」。

 編著者は、「巻頭言」でつぎのように付言している。「本書の研究成果は日本統治時代台湾における経済・社会建設を「善悪論」で結論づけるのではなく、何故、経済・社会建設を行ったかを問いかけるものである。筆者の愚考では、弱小国日本が欧米列強に対抗するために、日本内地のみならず、台湾、朝鮮、「満州国」、南洋群島の外地の経済・社会を発展させ、「日本帝国」全体のレベルアップによる欧米列強に対抗したものと考えている。この点については読者諸氏のご意見を戴きたい」。

 本書は、「体系的に日本統治時代台湾の社会経済史を述べる」必要を感じて編集されたものであるが、それぞれのテーマの研究状況や執筆者の力量の違いからか、全体を通して均質なものになっていない。それを補うべき、全体のまとめが、わずか2頁の「巻頭言」しかなく、個々の論文(章)を個別に読むことで学ぶことがあっても、台湾を専門としない者にとっては、本書を1冊のまとまりあるものとして読むことはできないだろう。論文集は、ひとりの執筆者によるものであろうが複数の執筆者によるものであろうが、「序章」と「終章」が決め手になる。その点、本書は個々の論文の「日本統治時代台湾の社会経済史」のなかでの位置づけや、その意義が充分に伝わってこなかった。

 本書所収の論文は、「東洋史研究会」を前身としているだけに、近代文献史学を基本にしているものが多い。執筆者のなかには台湾出身者と思われる者がいるが、かれらの視点が日本人研究者に充分に伝わっていないだけでなく、かれら自身の論文も日本が残した文献史料に基づいているために、帝国日本の歴史観が感じられるものがある。地域研究的視点を加えると、文献ではなかなか理解できない諸相に気づいたことだろう。また、現代台湾に通ずるものにも、視点が及んだことだろう。本書で体系的理解が可能になったのであれば、つぎの段階に研究を進めていくことができる。台湾人研究者との交流、議論の発展により、この分野の研究があらたな段階に入ることを期待したい。

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2013年01月15日

『ベルリンの壁-ドイツ分断の歴史』エトガー・ヴォルフルム著、飯田收治・木村明夫・村上亮訳(洛北出版)

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 「壁が倒れたとき あなたは何歳でした? なぜ人びとは壁に慣れてしまったのか? その壁がどうして、1989年に倒れたのか? 建設から倒壊までの、冷戦期の壁の歴史を、壁のことをよく知らない若い人にむけて、簡潔かつ明瞭に解き明かす。写真 多数掲載」と帯にある。表紙見返しに「主な人名と用語」「主な出来事」があり、「壁のことをよく知らない若い人」だけでなく、「連邦共和国」と「民主共和国」のどちらが西ドイツか東ドイツかわからなくなったときなどに役に立つ。

 読者対象を「若い人」としているなら、帯の最初の問いの答えは、「生まれていなかった」になる。「なぜ人びとは壁に慣れてしまったのか?」の問いは、つぎの記述から読みとれる。1961年8月13日に始まった「ベルリンの壁建設が国家の分裂の原因を作りだしたのではない。その諸原因はずっと以前にさかのぼり、とくに一九四八年の通貨改革にあったと。壁建設を支持した民主共和国[東ドイツ]の少なからぬ知識人たちは」、「「階級の敵の攪乱工作」や「親ファッショ的」連邦共和国[西ドイツ]の時代遅れな輩が、民主共和国に害をなしてきたではないか。だから壁を築くしか、共和国を最終的に安定させることはできなかったのではないか」。そして、「大多数の人たちはいつまでも、反抗的態度や抵抗の姿勢をつづけるわけにはいかなかった。だからといってエルベ以東のドイツ人が、熱心な共産主義者になったのではない。彼らはむしろ民主共和国に適応して、あらゆる対外的、対内的な困難にもめげず、しだいになし遂げた自らの建設的業績を誇りに思うようになった」のである。

 また、9章「世界最長のカンバス ポップ・アートの壁」の冒頭の「ベルリンの壁は三つの顔を併せもっていた」の説明では、3つめとして「西側の多くの人たち」が慣れていった理由を説明している。「第一に東側にとって壁は、防波堤、防塁そして都市要塞」であった。「第二に中立的な立場からみた壁は、率直にいって二〇世紀後半のもっとも重要な建築物に属した。それは鉄のカーテンとともに、東西の分断線と分離の政治的現実とを象徴していた。第三に西側において壁は恥辱の壁、コンクリートの怪物、死の壁であり、それには告発調の、あるいは終末論的な常套句がとりついていた。しかし、人びとはそれにもしだいに慣れていった」。「西側の多くの人たちは壁の存在に-そしてまたドイツの分断にも-すっかりなじんだ。少なくとも壁はますます「見過ごされる」か、あるいは人びとの日常生活に溶けこんだ。境界域は一般には、心の緊張をほぐし、休養をもたらす自然保護公園とみなされた」。

 最後の問い「その壁がどうして、1989年に倒れたのか?」は、11章「世界を揺るがした出来事 一九八九年、壁の倒壊」で、つぎのように結論づけられている。「一二月二二日の公式開放までには、なおしばらく間があった。だが一一月九日の壁決壊は、たんに国境の開放にとどまらない意味があった。それは社会主義統一党体制の終焉であった。国境を統制できなくなるとともに、党支配体制は一九六一年の壁建設以降、住民の意志に反して国内的な承認を強制できた権力の元手をも失ったのである。社会主義統一党国家はその醜悪極まりない建造物よりも、ほんの短い期間生きながらえたにすぎない」。

 このあと、12章「壁の消滅と記憶へ 壁が後に残したもの」、「むすび 現代世界における壁」とつづき、「今なお世界中にある「壁」にも目を向けてほしい」と著者は願って、「日本語版まえがき」にもつぎのように書いてきた。「いまもなお世界はたくさんの壁からなります。さまざまな国家が巨大な遮断施設をつくり、閉鎖的となっています。今日みられる壁は、もはや自国住民の出国を阻むためのものではなく、「入国してほしくない」人びとに対して国々が外への門戸を閉ざしているのです。けれども、ひとつだけ確かなことがあります。遮蔽物、つまり壁を築くことは、政治が正常に機能しなくなっている証拠にほかなりません。このことは世界にひろく当てはまるでしょう」。

 「たとえば、イスラエルとパレスチナのあいだ、アメリカとメキシコのあいだ、インドとバングラデシュのあいだ、都市の富裕層と貧困層とのあいだに、「壁」が構築され続けていることに」、あなたは気づいているでしょうか。そして、あなたの身近にも。それは、あなた自身がつくっている「壁」かもしれない。

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2013年01月08日

『東大講義 東南アジア近現代史』加納啓良(めこん)

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 「あとがき」で、著者加納啓良は「国や地域ごとに民族や言語が大きく異なる東南アジア全体の歴史を1人で描くという冒険をしている」と述べている。長年、東京大学で「東南アジア近現代史」や「東南アジア経済史」の講義を担当してきた著者が、自分自身で書きためた講義ノートを基に授業を進めるようになったのは、2012年3月に定年退職する前の2、3年にすぎず、それまでは各種参考書に頼っていたという。それだけ、東南アジア史の概説書を1人で書くことは難しい。また、高校までに東南アジアのことをほとんど学んでいない大学生に、理解してもらうことはたやすいことではなく、東大生もその例外ではない。

 にもかかわらず、東南アジアについて学ぶ必要があることを、最後の第10章「20世紀末以降の東南アジア」の最後で、つぎのように述べている。「21世紀の東南アジア地域の平和・安定・繁栄は、私たちにとって遠い異国の出来事ではなく、日本の平和・安定・繁栄と連動しており、逆に東南アジアの危機と不安は日本の危機と不安にもつながるという、切っても切れない構造的相互依存の関係が東南アジアと日本の間には過去40年あまりのうちに既に形成、蓄積されている」。「また、政治的、外交的な面から見ても、アメリカと台頭する中国という2大強国のはざまにあって日本が21世紀の世界で賢明に生き延びていくためには、ASEANに結集する東南アジア諸国との友好・連帯はこれまで以上に死活の重要性を帯びてくるに違いない。こうして、東南アジア現代史を学ぶことは、日本の現代史を学び将来を構想するためにも有益、いや今や不可欠なのである」。

 「本書は、政治・経済の動きを中心に、主に19世紀半ばから現在にまで至る東南アジア全域の歴史を概観したものである」。「多彩な内容を持つ地域の歴史を1つにまとめて記述しようとする」理由を、著者は「まえがき」でつぎのように説明している。「第1に、民族的に多様であるといっても、東南アジアの大半の住民が人種的にはモンゴロイドに属し、主な農業の形態は稲作で米が最も重要な作物であり、熱帯の自然環境のもとで生活様式や基層文化に多くの共通点を持っている。歴史的に見ても、古い時代には隣接するインドや中国の文化、文明から強い影響を受け、17~20世紀には大半の地域が欧米の植民地支配またはその強い政治経済的影響のもとに置かれ、その中で現在の国家、社会の原型が形成されたという経験を共有している」。

 さらに「特に最近150年前後の時期を「近現代史」として本書で取り上げる」理由をつぎのように説明している。「まず、19世紀後半までの時代に東南アジアの全域が資本主義世界経済のシステムに編入されるとともに、東南アジアと世界の他地域、および東南アジアの中の諸地域の間に、それまでとは次元の違う強い分業関係が形作られ、東南アジアの各地における経済・社会の変動が共通の脈動に従って進むようになった。さらに、20世紀に入ると、植民地支配を覆して新しい国民国家を創造しようとする政治的動きが展開し、この点でも共通の脈動を持って東南アジア全体の歴史が動く様子が強まった。本書では、この脈動に注目しながら、各国、地域の個別の歴史の動きをまとめて叙述することを試みる」。

 本書は、第1章「東南アジアの概況と近現代史の時代区分」で、「東南アジアの地理的範囲」「東南アジアの自然環境」「民族と言語」「人口」「食物」「宗教」「東南アジア近現代史の起点」を説明し、第2章「近代以前の東南アジア史」で「近現代史を理解する前提として知っておくことが最低限必要と思われる東南アジアの前近代史の概略について」まとめている。第3章から10章まで、時代順に国・地域ごとに、著者の専門であるインドネシア経済を中心に記述している。それぞれの章の「はじめに」にあたる部分がないものもあり、「おわりに」がないため、それぞれの章の全体像を理解あるいは確認したうえで、つぎの章へと読み進めることはできなかった。

 最後の第10章にのみ、「おわりに」があり、「21世紀世界と東南アジア」で、1870~1910年頃に起きた変化に匹敵する「第2の交通・通信革命」が、1970年代から現在までの約40年間に全世界に波及したことを述べて、第3章と第8-10章をつないでいる。また、第8章以降は、国・地域ごとではない記述が増え、世界史のなかのASEAN史として読むこともでき、東南アジア地域が「日本の平和・安定・繁栄と連動」していることがわかる。

 さて、内表紙に東南アジア近現代史を彩った41人のリーダーの顔写真が並んでいる。何人、わかるだろうか。本文にも掲載されているので確認できる。この講義の試験問題として、このなかから何人かを選んで、「だれで、なにをした人か」を答えてもらうこともできそうだ。

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2013年01月01日

『ミャンマーの国と民-日緬比較村落社会論の試み』髙橋昭雄(明石書店)

ミャンマーの国と民-日緬比較村落社会論の試み →bookwebで購入

 「ミャンマー(ビルマ・緬甸(めんでん))研究を始めて三〇年、訪問したミャンマー国内の農村は優に二〇〇を超える。私は一介のミャンマー研究者として、と同時に、日本の農村で生まれ育った、専業農家の長男として、いわば二つの顔を持ちながら、通訳なしに直接ミャンマー語で無数の村人と語り合ってきた。本書は日本の農民の子供であるミャンマー研究者が見たミャンマー農村社会に関する叙述である」。

 こんな出だしで始まる本書は、「房総半島の南端に位置する農村に生まれた農家の長男で末っ子である」著者だからこそ書けたミャンマー農村の素顔であり、その素顔を見たからこその日本村落社会論である。

 本書の目的を、著者はつぎのように述べている。「まずミャンマーの村を日本の読者に紹介することである。本書で語られるのは、私が農村で調査を始めた時から続いてきた社会主義政権、軍事政権といった抑圧的な政権のもとに置かれたミャンマーの村と村人たちのお話である」。

 「第二の視点」は、「日本の村とミャンマーの村、日本の村人とミャンマーの村人との比較である」。その違いを、著者は「心の問題としてではなく、日本とミャンマーの村の構造の違いに起因するものであるという観点から考えてみたい」という。具体例として、第二次世界大戦中、「食糧や家畜そして労働力を紙くず同然の軍票で挑[徴]発し、町や村を破壊し、多数のミャンマー人を死に追いやって、ミャンマーの人々に大迷惑をかけた」ビルマを占領して戦場にした日本軍兵士が、這々の体で逃げてきた時にミャンマーの村人たちが優しかったことをあげて、比較を試みている。「ビルマの人々は仏教の慈悲をそのまま実行するとか、素朴で純真であるとか、村人の心情も情景も戦前の日本とそっくりであるとか」言って、「ビルマが好きで好きでたまらないという「ビルキチ」」の旧兵士は、「ミャンマーの村人と村のすばらしさを褒め称えた」が、「戦争中敵国アメリカの兵士が日本軍に終[追]われて逃げ込んできたら、日本の村人は優しくアメリカ兵を迎えたであろうか」という著者の問いにたいして、「村八分」になると答えている。そこには基本的構造の違いが存在しているのに、なぜ「そっくり」だと旧日本兵は感じてしまうのか。

 「本書の第三の目論見は、日緬の農村比較を通じてミャンマー農村の特質を抽出し、ミャンマー村落社会論の構築を試みることである。そして、さらにはミャンマーの心に迫ってみたい」。「抑圧的な体制下にありながら村人たちはなぜ「自由」であるのか、という問いに、日本の農村との比較のなかから答えていきたい」という。この問いにたいして、第2章「ミャンマーの村と村人たち」のなかで、つぎのように答えている。「農地は国有で売買、譲渡、小作、相続、質入等が禁止され、国が指定した作物しか作れない」が、末端役人を「抱き込めばそれがすべて可能になる。こんな行為はもちろん違法であるが、ナーレーフム[なあなあでやる]があるから大丈夫だと農民は言う。供出に関しても、農地の権利移転に関しても、厳しい国家統制はこのようにして末端で緩和されてきたのである」。

 第一の目的、第二の視点については、第4章の最後で、つぎのようにまとめ、「あとがき」でも同様の内容を繰り返している。「生産の共同体でもあり、生活の共同体でもあった日本の村では、生産の共同体の崩壊とともに生活の共同性も希薄になった。仮に生活の共同性だけでも存続させようとするならば、代々家を継ぐとか村の慣習を守るとかという発想を棚上げして、今こそ、やりたい者がやる、参加したい者が参加する、やりたくなくなったらいつでも離脱できるといった、ミャンマーの村のように個人が自由に考え行動することができる村落コミュニティが構想されるべきであろう」。「日本の村はすべて共同体であるという「共同体」ではなく、ミャンマーのような出入り自由な個人が独立したコミュニティを、村だけではなく家においても創造する時が来ているように思われる」。「個人を束縛する共同体から着脱自由なコミュニティへ、生産と生活の共同体から生活のコミュニティへと向かう日本の村々」の「モデルがミャンマーには無数にある」。

 これまで「あれこれと問題点ばかり指摘してきた」著者には、「ミャンマー農村に住み込み、村人と話し続けることによって、私自身が生かされてきた、という感覚」があり、それが「豊かなミャンマー、貧しい日本」にいきつき、自然とミャンマーから学ぶという視点が生まれたのだろう。著者が伝えるミャンマーの素顔から、日本社会の問題点もみえてくる。

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