« 『僕らが育った時代1967-1973』武蔵73会編(れんが書房新社) | メイン | 『編集復刻版 南方開発金庫調査資料(一九四二~四四年)』早瀬晋三編集・解説(龍溪書舎) »

2012年12月11日

『アホウドリと「帝国」日本の拡大-南洋の島々への進出から侵略へ』平岡昭利(明石書店)

アホウドリと「帝国」日本の拡大-南洋の島々への進出から侵略へ →bookwebで購入

 12月5日(水)NHKテレビは、絶滅が心配されている国の特別天然記念物アホウドリが、現在の繁殖地である伊豆諸島の鳥島から南に350キロ離れた小笠原諸島の聟島への移転の期待が膨らんだことを報道した。鳥島はしばしば火山の噴火で壊滅的な被害が出、1939年の噴火後アホウドリは絶滅したと報告されたこともあった。アホウドリは、1887年から始まった羽毛採取のために絶滅寸前になるまで撲殺され、1951年に30-40羽にまで減少した。

 なぜ、大量に撲殺されたのか。一時は日本の輸出品の上位にその羽毛やはく製がランクされ、フランスなどヨーロッパに輸出されたにもかかわらず、その実態は明らかではない。その理由を、著者平岡昭利は、つぎのように説明している。「鳥には、害虫を食べる益鳥という考え方があり、さらに、羽毛採取のため撲殺によって捕獲し続けたアホウドリは1907年より保護鳥に、さらに1958年には天然記念物になっており、生活のため、その鳥を捕るために、はるか遠い太平洋の島々へ行き、不運にも死亡したことなどは忘却したい事実であり、伝承されることはなかった。まさにこれらの出稼ぎ労働者は、いわば忘れられた「棄民」と言え、また日本人による大量のアホウドリ撲殺という事実も、日本人自身が記憶に残したくない事柄であったとも言える」。

 本書は、著者が40年ほど前に修士論文作成のために、「大東諸島」で調査したときの疑問に、端を発している。大東諸島は、「1900年に八丈島の人々が、南大東島の断崖絶壁をよじ登って上陸したことによって開拓の緒が切られ、その後、サトウキビ農業とリン鉱採掘で知られる重要な島となった」。その疑問とは、「八丈島から直線で南西に1,200km離れた絶海の無人島に、人々は何のためにやって来たのかという根本的な問い、その行為目的は何だったのかという疑問に対しては、何度尋ねても、農業のために大東島に移住したという言葉しか返ってこなかった」ことである。著者は、長年「果たして農業をやるためだけに南大東島の垂直に切り立つ20~30mの断崖をよじ登るものなのか、何か心の片隅に釈然としないものがあった」のである。

 本書によって、その疑問にたいする答えが明らかになっただけでなく、太平洋および東アジア近海の無人島の国家への帰属の歴史的過程が明らかにされた。まず、著者の疑問への答えは、つぎのように「おわりに」で述べられている。「太平洋への進出の行為目的であったアホウドリなどの鳥類資源の枯渇は早く、無人島に進出した人々は、図54[略]の枠組みのように、次なる無人島を探し求め、あるいは、また行為目的を鳥からグアノ(鳥糞)→リン鉱に変化させつつ、その行為範囲は空間的に一層拡大した。同時にその行為の主体は、山師的な人々から商業資本へ、さらに独占資本へと移行し、軍需資源ともなるリン鉱に至っては、国家による武力進出にまで突き進んだ」。大東島を開拓した玉置半右衛門は、1888年に鳥島に上陸し、アホウドリを捕獲、巨利を得ていたことで知られる人物で、「鳥島でのアホウドリ激減に危機感をもった玉置は、次なるアホウドリの生息地を求めて早くから太平洋の無人島を探索していた。そのような状況のもと、大東島の情報を得て八丈島の人々を派遣したのであった」。

 羽毛から製作された衣服は、軽く、暖かいため、パリで大流行した。「1870~1920年頃にかけて日本は世界の婦人帽の主要な原料供給国であった。羽毛に加えて明治10年代後半から鳥類のはく製の輸出も盛んになった。この輸出増加はヨーロッパ、とりわけフランスにおけるオートクチュールの新作コレクションで帽子や頭飾などに多くの羽毛や羽飾りが使用され、ファッションとして一般にも大流行したことによっている」。

 「明治期、鳥類を追った日本人の太平洋進出は、空間的にも拡大を続け、1897(明治30)年前後には遠く北西ハワイ諸島にまで達した」。このような日本人の太平洋進出を、著者は、「バード・ラッシュ」と定義した。「この日本人のバード・ラッシュの背景には、1898年から施行された遠洋漁業奨励法による多額の助成金があり、これを受けた人々は、遠洋漁業よりも多くの利益を得られる鳥類捕獲に従事した」。

 この日本の「バード・ラッシュ」より早く、「グアノ・ラッシュ」と定義されたアメリカ合衆国の太平洋への進出が1850年代後半に始まっていた。グアノは海鳥糞で、「アメリカの農業は、西部開拓の名のもとに拡大を続けながらも、収奪的な性格が強く地力が消耗し、農民は地力回復のため争ってグアノを購入した」。1856年8月、連邦議会で「グアノ資源の確保に法的な根拠を与える「グアノ島法」(Guano Island Act)が可決された。この連邦法は、アメリカ人が他国の主権の及ばない島々でグアノを発見し採掘すれば、その島はアメリカの領土になり、発見者には採掘権が付与されるという、アメリカにとってきわめて都合の良い身勝手な法律であった。この法律が施行されると、約48の島々について法律の適用が申請された。これを契機としてアメリカ人によるグアノを求めての無人島探検は、一層、拍車がかかり、その獲得競争が繰り広げられることとなった」。そして、アメリカ領となった島々にも、日本人が侵入し、アメリカ政府は、1903年に鳥類捕獲禁止令、さらに1909年に鳥類保護法を発布し、ハワイ諸島鳥類保護地域を設定した。

 日本人は、東シナ海、南シナ海にも進出し、中国と領土問題を起こすことになった。1895年に、日清戦争の結果、台湾を領有した日本人は、台湾北部の無人島獲得に奔走し、アホウドリ捕獲、リン鉱採掘などをおこなったが、大正後期にはこれらの島々は無人島に戻った。1897年にはアホウドリ捕獲を目的に尖閣諸島にも進出し、わずか3年でアホウドリが激減した後、鳥類のはく製、カツオ漁業、鳥糞採取など略奪的な資源の獲得をし、1940年頃に尖閣諸島の島々も元の無人島に返った。

 いっぽう、東沙島には1907年に進出し、鳥類の捕獲以外に、グアノ・リン鉱採取のため、400人余の労働者を導入して企業島としたが、領土問題から清国が資産を買収することで1909年に撤退した。また、第一次世界大戦中の1914年には、日本海軍が占領した南洋群島アンガウル島で、09年にドイツによってはじめられていたリン鉱採掘を海軍直営で事業をおこなった。さらに、1910年代にパラセル(西沙)諸島にも進出し、中国海軍、さらに日本海軍が占領した。スプラトリー(南沙)諸島では、1921年にグアノ・リン鉱採取に着手し、22年から8年間に3万トンを採掘した後、島々は無人島に返り、33年にフランスが領有を宣言、39年に日本軍が武力で領有した。尖閣諸島だけでなく、現在中国とベトナム、フィリピンなど東南アジアの国々とのあいだで問題になっている島々にも、かつて日本人が略奪的資源開発をおこなっていたのである。

 このように、これらの島々は、日本の「固有の領土」でもなければ、中国、東南アジアの国々の「固有の領土」でもなく、資源獲得のために民間人が進出し、軍需物資でもあったリン鉱に至っては、国家による武力進出がおこなわれたことが、本書から明らかになった。これらの事実は、2011年8月30日に本「書評空間」で紹介した『地図から消えた島々-幻の日本領と南洋探検隊たち』(長谷川亮一著、吉川弘文館)より早く、学会誌等に掲載された論文で明らかになっていたことで、本書によってまとめて読むことができ、より理解しやすくなった。著者の長年の疑問が解けただけでなく、日本周辺の無人島を含む島々が、どのようにして国家に帰属していったのかがわかる基礎研究として、高く評価できる。

→bookwebで購入

トラックバックURL

このエントリーのトラックバックURL:
http://booklog.kinokuniya.co.jp/mt-tb.cgi/5090