« 2012年11月 | メイン | 2013年01月 »

2012年12月25日

『二〇世紀の戦争-その歴史的位相』メトロポリタン史学会編(有志舎)

二〇世紀の戦争-その歴史的位相 →bookwebで購入

 「二〇世紀は、義和団の乱とボーア戦争[に]よって幕を開け、第一次および第二次世界大戦という二度にわたる未曾有の大戦争を人類は経験した。一九一四年以降、二〇年代の一時期を除いて地球上に戦争がなかった年はないと言われ、戦争や紛争によって命を落とした者の合計数は一億九〇〇〇万人に及び、二〇世紀は史上最も多くの人びとが非業の死を遂げた時代であった。二〇世紀が「戦争と殺戮の時代」と呼ばれるゆえんである」。

 本書は、シンポジウム「二〇世紀の戦争-世界史的位相」を基にしている。シンポジウムの目的は、「第一に、第一次世界大戦、第二次世界大戦、戦後の一局面をイギリス、日本、ドイツなどの事例に基づいて実証的に明らかにすることにある。第二に、戦争という角度から二〇世紀を考察し、戦争が、何を変え、何を生み出し、そして現在に何を残したのかを問うことである。戦争によって刻印された二〇世紀を知り、現在の私たちが立つ位置を知ろうとする試みである」。

 本書は、「二〇世紀の戦争-序文にかえて」、シンポジウムの報告(Ⅰ戦争の諸相、第一~四章)と報告後のコメントや寄稿論考(Ⅱ「戦争」を見る視角、第五~七章)からなる。最終章の「七「二〇世紀の戦争」を考える」がシンポジウムを総括し、つぎの4つの問題を指摘している。「一つは「二〇世紀の戦争」というもののとらえ方。二つ目は、記憶の問題で、今日は第一次世界大戦の受けとめ方が一つの焦点だったと思うのですが、第一次世界大戦の記憶が第二次世界大戦にどういう影響を与えたかという問題。三番目は、軍民関係とか軍隊という組織の性格をどうとらえたらいいか。四番目は、第二次世界大戦後の戦争の問題をどう考えたらいいかということです」。

 「序文にかえて」では、「二〇世紀の戦争」を「総力戦体制を戦争動員に向けた完結したシステムとしてイメージすることは誤りではない」が、「第一次世界大戦時において現れた総力戦体制の構築は限定的であり」、「総力戦体制が本格的に成立した第二次世界大戦においてでさえ、「総力戦」という言葉では説明できないような多様な現実が存在した」ことを指摘し、つぎのような具体例を挙げている。「大戦末期に至るまで、ナチ党指導者は、兵器を扱う任務に女性を就かせることはおろか、女性らしさが失われることを懸念して女性が兵士用のズボンをはくことさえも禁止しようとした」。第一章では、つぎのような事例も紹介されている。「帝国のヒエラルヒー構造でインドよりも下に置かれていた西インド諸島からは、白人兵とともに黒人兵も動員されてヨーロッパに送られたが、直接の戦闘員として用いられたインド兵と違い、彼ら黒人兵は戦闘員にされなかった。イギリス陸軍省はその理由は「さまざま」であると述べていたが、白人との戦いに黒人を用いることはできないという人種要因が決定的であった」。

 「序文にかえて」では、歴史学が戦争抑止に果たす役割についても、つぎのように述べている。「歴史学において、国民国家、民族、国境など対立を誘発しうる概念を批判的に再検討することを通じて、ヨーロッパ近代が作った世界史認識の枠組みを相対化し、将来の衝突を抑止するような新しい構想や歴史叙述が目指されている」。「歴史学の立場から、二〇世紀という史上最も多くの人びとが非業の死を遂げた世紀を乗り越えようと試みるのであれば、「植民地独立戦争」、「米ソ間の代理戦争」、「民族対立」、「総力戦」などのような安易な構図で、戦争を説明することではない。むしろ、戦争の諸局面をより具体的に知ることにこそ、対立を予防し、和解の手段を見つけ出す鍵が潜んでいるように思われる」。

 日本では、第二次世界大戦を中心に、個別の戦争が語られる傾向があり、本書のように「二〇世紀の戦争」として世界史のなかで語られることはあまりない。そして、本書は、歴史学として考察し、歴史学の役割を論じている。個々の戦争を相対化することによって、これまで見えなかった個々の戦争の実相が見えてくる。さらに、戦争を通して20世紀像を見ることによって、これから構築していく戦争のない21世紀像を考えることができる。「まだ過ぎ去ろうとしない」「戦争の時代」を、いかに止めるか、本書にはそのヒントが多く示されている。

→bookwebで購入

2012年12月18日

『編集復刻版 南方開発金庫調査資料(一九四二~四四年)』早瀬晋三編集・解説(龍溪書舎)

編集復刻版 南方開発金庫調査資料(一九四二~四四年) →bookwebで購入

 南方開発金庫は、日本占領下の東南アジアで、事実上、中央銀行として活動した日本政府の金融機関である。占領地の資源開発のための資金を日本の軍受命企業に融資するなど、軍政に大きくかかわり、占領地の住民への影響も大きかった。その南方開発金庫が発行した調査資料200余点のうち、約4分の3の所在が明らかになった。日本占領地の金融政策や構造だけでなく、日本占領下の東南アジアの実相の一端がわかる貴重な資料が編集・復刻され、刊行が始まった。その推薦文5つを紹介する。

●幅広い分野を網羅する調査資料の復刻(慶應義塾大学名誉教授 倉沢愛子)
 「大東亜」戦争は資源の戦争であったといわれる。他にも様々な理由づけや思惑があったにせよ、この戦争の第一の目的は、日中戦争継続のための資源の獲得であった。しかしそれに向けて日本軍ならびに日本政府はどのような青写真を持っていたのか、そしてそれを実行するためにどのような戦略を立てていたのかを全体的に解明する作業は、非常に精力的になされてきたとはいえ、いまだに全貌が解明されているとはいえない。その意味で今回一五〇点もの南方軍政関係の第一次資料が復刻されたと言う事は、日本史の研究者にとっても、東南アジア史の研究者にとっても信じられないような朗報である。
 これらは、占領地において中央銀行的な役割を果たしていた南方開発金庫が行った調査であるから、通貨や為替問題が中心かと思いきや、経済全般、とりわけ資源状況(鉱業、林業、水産業他)、各種の生産活動の実態、さらに流通に関する調査データもたくさん盛り込まれている。とりわけ日系の企業活動に関するデータは詳細である。さらに狭義の経済問題を超えて、人口問題、教育問題、民族問題、村落構造などに関する調査も実施されていて、社会全体を分析するにも有効である。 南方開発金庫は、南方の占領が開始されたのち一九四二年四月に満鉄、横浜正金銀行、台湾銀行、陸海軍出身者たちが幹部となって開業されたものであるが、東京にあった本金庫には「調査部(のちに調査課)」が、またマライ、ジャワ、フィリピンの支金庫には「調査係」が置かれていたという。このことからも、調査という仕事にかなり力を入れていたことが分かる。これまで各占領地の軍政機構内に設けられた調査機関によって行われた調査記録はいくつか紹介され活用されてきたが、今回の資料は、一つの機関が占領地全体を視野に入れ、いずれの占領地に関してもある程度画一的な内容を網羅し、さらに比較の視点も交えて実施した調査である点が注目される。多くの研究者に様々な角度から活用して頂きたいと思う。

●『南方開発金庫調査資料』の刊行に寄せて(獨協大学名誉教授 波形昭一)
 毎年八月の「終戦の日」には全国各地で戦没者追悼の催しが行われるが、戦争体験者の参列が年々減っていると聞く。すでに終戦から六七年になる。それほどに時は過ぎた。今、「南方開発金庫とは?」と問われて即座に答えられる人は幾人いようか。「聞いたことがある」程度の答えでも、そうとうの高齢者でなければ不可能であろう。
 南方開発金庫は、対米開戦からおよそ四か月後の一九四二年三月に設立され、日本占領下の東南アジアで活動した日本の国策金融機関である。「南発(なんぱつ)」の通称で呼ばれたが、その活動期間(寿命)が短く、かつ活動領域が日本内地に直接及ばなかったためか、台湾銀行、朝鮮銀行、南満洲鉄道(株)(通称、満鉄)、東洋拓殖(株)(同、東拓)などに比べて、その名はあまり知られていない。しかし、南発こそまさに「大東亜戦争」の虚妄性を具現した象徴的存在だったのであり、その実相研究は今後さらに深められなければならない。
 ところで、このたび龍溪書舎から『南方開発金庫調査資料』が刊行されることになり、この快事を心より喜ぶとともに、ある種の感慨にひたるのである。というのは、筆者は二〇年ほど前、小論(「南方占領地の通貨・金融政策」伊牟田敏充編著『戦時体制下の金融構造』日本評論社、一九九一年)をものする機会があり、当時、南発に関する生資料の蒐集にひどく苦労したからである。今回刊行される『資料』は、南発の調査課ないし資料課による「南方」情勢調査類が中心であるから南発自体の活動状況を直接に語るものではないが、日本占領期の東南アジア諸国諸地域における金融・通貨・物価・企業・産業資源・土地・農業・貿易などの経済事情はいうまでもなく社会・人口・教育事情にまで及ぶ調査類であり、そのほとんどがこれまで未利用のものである。その意味で、今後の戦時期東南アジア研究に果たす本『資料』の価値を信じて疑わない。

●南方開発金庫調査資料から拡がる世界(早稲田大学大学院アジア太平洋研究科教授 村嶋英治)
 南方開発金庫は、日本占領地の国策金融機関として知られる。しかし、その調査対象は、日本の同盟国であったタイ、フランス植民地政府と共同統治していたインドシナなどにも及び、支金庫のあったマライ、ジャワ、比島、スマトラ、ビルマ、北ボルネオ、南ボルネオ、セレベス、小スンダ、ニューブリテン、東ニューギニア、西ニューギニアを超えて、「大東亜共栄圏」あるいは「南方共栄圏」を視野に入れていた。また、中央銀行としてだけでなく、開発銀行としての役割を担うことになったため、占領地および占領地と密接な関係にあった周辺諸国・地域の社会・文化構造の把握にも努めた。
 おもな資料シリーズとして、金融関係の「金調」、経済関係の「経調」、産業関係の「産調」、貿易関係の「貿調」に加えて、社会関係の「社調」があった。さらに「経調」には「邦人企業概観」、「社調」には「政治組織概要」、「財政概要」シリーズがあって、タイ、インドシナも含まれた。個々の調査は、占領地の個別の国・地域や産業を扱うとともに、「共栄圏」全体を把握しようとしており、日本が「共栄圏」でめざしていたものの一端が垣間見える。さらに、「共栄圏」内にすでに存在していた地域としての人的、物的交流が見えてくる。当然、これらの国・地域は、戦前欧米帝国主義諸国とも深いかかわりがあったため、世界ともつながっていた。
 南方開発金庫の役員は、日本銀行のほか南満州鉄道株式会社、横浜正金銀行、台湾銀行の出身者からなり、行員については当初日本銀行から派遣された四二人などが就いた。当時の日本の金融関係のエリート集団が、調査にあたっていた。それだけに、社会や文化にたいする洞察力も鋭く、当時の東南アジアの社会などを理解するための基礎資料となるものを残している。これまで、個々の研究者が専門に基づいて部分的に使用されてきた資料を、まとめて読むことによって相対化でき、新たに読み込むことが期待できる。わたしも、専門であるタイから視野を拡げて、考察できることを期待している。

●南方共栄圏の網羅的調査の復刻に期待します(首都大学東京大学院社会科学研究科教授 山﨑志郎)
 太平洋戦争期の南方共栄圏の経済実態は、戦時経済研究が盛んになる中でも依然として不明な点が多い。南方開発金庫は、フィリピン、マレー、スマトラ、ジャワ、ビルマ、北ボルネオ等の経済開発資金の融資や現地通貨の供給を目的に一九四二年三月に設立(四月業務開始)された。開設から一年間は現地日本軍の使用する軍票の借り入れと、国内での債券発行によって運用資金を調達したが、二年度からは現地通貨表示の南方開発金庫券の発行が認められ、中央銀行と開発銀行の役割を担うことになった。同金庫は、現地通貨、軍票を回収するとともに、現地金融機関の預金、政府機関の資金を預金として吸収した。各地の業務では、フィリピン、マレー、ビルマでの復興と開発のための融資が大きな比重を占め、これに現地金融機関への融資、現地政府・軍への貸し上げなど、二十数億円相当の融資業務があった。日本国内では、預金部・地方銀行・保険会社からの借入金、債券発行、日銀借入などによって調達した円資金を、南方開発に携わる日本企業に対して五億円ほど融資した。しかし、最大の資金運用は、一一一億円に上る現地通貨表示で発券した南方開発金庫券の軍貸し上げであった。このようにして設立から三年余の間、南方での軍の支出を通じた膨大な通貨供給と、開発資金融資を担った。
 通貨・金融業務と並んで、南方経済調査も盛んに行っていた。南方調査では、大東亜省、台湾総督府といった政府機関、台湾銀行、横浜正金銀行といった政府系金融機関、南洋経済研究所、南方植産資源調査会、日本南方協会などさまざまなシンクタンクも報告書を作成しているが、開発の最前線にいた南方開発金庫の調査記録が今回可能な限り網羅され、復刻される意義は大きい。本資料集に収録された調査報告は各地から定期的に送られたデータを基にしており、南方諸地域に関するバランスの取れた総合的調査記録になっている。太平洋戦争の開戦準備と並行して南方経済開発構想が本格的に進展し、物資動員計画においても重要資源の開発輸入が喫緊の課題となった。こうした占領地開発と統治政策の基礎になるのが、これらの報告書であった。この資料の刊行を機に戦時下のアジア地域研究が一層活発になるものと期待される。

●「南発」資料集成という偉業(京都大学名誉教授・中部大学特任教授 山本有造)
 南方開発金庫いわゆる南発は、南方占領地の開発銀行をめざして一九四二年三月に設立された。しかし各種「軍票」に代替する不換銀行券「南発券」を発行することになって、作戦資金および物資買付け資金を乱発する軍の御用機関となり、現地における資源収奪とインフレ昂進の源泉となった。
 編者・早瀬晋三教授はフィリピン史の専門家であるが、いまや東南アジア全域にわたる文献資料に関する該博な知識、さらにはフィールドワーカーとしての広い活動でも知られている。私にとっては、東南アジアの歴史と現在についての、文献と実状についての情報の「宝箱」のような存在である。その彼が、「フィリピン関係文献目録」についで、龍溪書舎から「南発」関係資料集成を刊行するという。
 「南発」資料の体系的な整理が難しいのは、ひとつには本金庫が東京、支金庫がマライ、ジャワ、比島、ほか南方各地に一二、さらに支金庫の下に出張所があるというその余りにも広範な配置にあり、またもうひとつには、その生涯が短すぎて、(当時の多くの国策機関に見られるような)刊行物一覧に類する目録類がないことである。
 早瀬教授は、その持ち前の知識と粘りとフットワークでおよそ二〇〇点の出版物のうち、現物で確認出来た一五〇点を復刻されている。丁寧な解説が付いているのはもちろんであるが、地名・事項索引も付くという。この資料により一九九〇年代で一段落している「南発」研究にも新しい光が当てられることになろう。私も少しずつ「大東亜共栄圏」研究に歩を移そうと思っている。「南発」資料集成の刊行が大いに楽しみである。

→bookwebで購入

2012年12月11日

『アホウドリと「帝国」日本の拡大-南洋の島々への進出から侵略へ』平岡昭利(明石書店)

アホウドリと「帝国」日本の拡大-南洋の島々への進出から侵略へ →bookwebで購入

 12月5日(水)NHKテレビは、絶滅が心配されている国の特別天然記念物アホウドリが、現在の繁殖地である伊豆諸島の鳥島から南に350キロ離れた小笠原諸島の聟島への移転の期待が膨らんだことを報道した。鳥島はしばしば火山の噴火で壊滅的な被害が出、1939年の噴火後アホウドリは絶滅したと報告されたこともあった。アホウドリは、1887年から始まった羽毛採取のために絶滅寸前になるまで撲殺され、1951年に30-40羽にまで減少した。

 なぜ、大量に撲殺されたのか。一時は日本の輸出品の上位にその羽毛やはく製がランクされ、フランスなどヨーロッパに輸出されたにもかかわらず、その実態は明らかではない。その理由を、著者平岡昭利は、つぎのように説明している。「鳥には、害虫を食べる益鳥という考え方があり、さらに、羽毛採取のため撲殺によって捕獲し続けたアホウドリは1907年より保護鳥に、さらに1958年には天然記念物になっており、生活のため、その鳥を捕るために、はるか遠い太平洋の島々へ行き、不運にも死亡したことなどは忘却したい事実であり、伝承されることはなかった。まさにこれらの出稼ぎ労働者は、いわば忘れられた「棄民」と言え、また日本人による大量のアホウドリ撲殺という事実も、日本人自身が記憶に残したくない事柄であったとも言える」。

 本書は、著者が40年ほど前に修士論文作成のために、「大東諸島」で調査したときの疑問に、端を発している。大東諸島は、「1900年に八丈島の人々が、南大東島の断崖絶壁をよじ登って上陸したことによって開拓の緒が切られ、その後、サトウキビ農業とリン鉱採掘で知られる重要な島となった」。その疑問とは、「八丈島から直線で南西に1,200km離れた絶海の無人島に、人々は何のためにやって来たのかという根本的な問い、その行為目的は何だったのかという疑問に対しては、何度尋ねても、農業のために大東島に移住したという言葉しか返ってこなかった」ことである。著者は、長年「果たして農業をやるためだけに南大東島の垂直に切り立つ20~30mの断崖をよじ登るものなのか、何か心の片隅に釈然としないものがあった」のである。

 本書によって、その疑問にたいする答えが明らかになっただけでなく、太平洋および東アジア近海の無人島の国家への帰属の歴史的過程が明らかにされた。まず、著者の疑問への答えは、つぎのように「おわりに」で述べられている。「太平洋への進出の行為目的であったアホウドリなどの鳥類資源の枯渇は早く、無人島に進出した人々は、図54[略]の枠組みのように、次なる無人島を探し求め、あるいは、また行為目的を鳥からグアノ(鳥糞)→リン鉱に変化させつつ、その行為範囲は空間的に一層拡大した。同時にその行為の主体は、山師的な人々から商業資本へ、さらに独占資本へと移行し、軍需資源ともなるリン鉱に至っては、国家による武力進出にまで突き進んだ」。大東島を開拓した玉置半右衛門は、1888年に鳥島に上陸し、アホウドリを捕獲、巨利を得ていたことで知られる人物で、「鳥島でのアホウドリ激減に危機感をもった玉置は、次なるアホウドリの生息地を求めて早くから太平洋の無人島を探索していた。そのような状況のもと、大東島の情報を得て八丈島の人々を派遣したのであった」。

 羽毛から製作された衣服は、軽く、暖かいため、パリで大流行した。「1870~1920年頃にかけて日本は世界の婦人帽の主要な原料供給国であった。羽毛に加えて明治10年代後半から鳥類のはく製の輸出も盛んになった。この輸出増加はヨーロッパ、とりわけフランスにおけるオートクチュールの新作コレクションで帽子や頭飾などに多くの羽毛や羽飾りが使用され、ファッションとして一般にも大流行したことによっている」。

 「明治期、鳥類を追った日本人の太平洋進出は、空間的にも拡大を続け、1897(明治30)年前後には遠く北西ハワイ諸島にまで達した」。このような日本人の太平洋進出を、著者は、「バード・ラッシュ」と定義した。「この日本人のバード・ラッシュの背景には、1898年から施行された遠洋漁業奨励法による多額の助成金があり、これを受けた人々は、遠洋漁業よりも多くの利益を得られる鳥類捕獲に従事した」。

 この日本の「バード・ラッシュ」より早く、「グアノ・ラッシュ」と定義されたアメリカ合衆国の太平洋への進出が1850年代後半に始まっていた。グアノは海鳥糞で、「アメリカの農業は、西部開拓の名のもとに拡大を続けながらも、収奪的な性格が強く地力が消耗し、農民は地力回復のため争ってグアノを購入した」。1856年8月、連邦議会で「グアノ資源の確保に法的な根拠を与える「グアノ島法」(Guano Island Act)が可決された。この連邦法は、アメリカ人が他国の主権の及ばない島々でグアノを発見し採掘すれば、その島はアメリカの領土になり、発見者には採掘権が付与されるという、アメリカにとってきわめて都合の良い身勝手な法律であった。この法律が施行されると、約48の島々について法律の適用が申請された。これを契機としてアメリカ人によるグアノを求めての無人島探検は、一層、拍車がかかり、その獲得競争が繰り広げられることとなった」。そして、アメリカ領となった島々にも、日本人が侵入し、アメリカ政府は、1903年に鳥類捕獲禁止令、さらに1909年に鳥類保護法を発布し、ハワイ諸島鳥類保護地域を設定した。

 日本人は、東シナ海、南シナ海にも進出し、中国と領土問題を起こすことになった。1895年に、日清戦争の結果、台湾を領有した日本人は、台湾北部の無人島獲得に奔走し、アホウドリ捕獲、リン鉱採掘などをおこなったが、大正後期にはこれらの島々は無人島に戻った。1897年にはアホウドリ捕獲を目的に尖閣諸島にも進出し、わずか3年でアホウドリが激減した後、鳥類のはく製、カツオ漁業、鳥糞採取など略奪的な資源の獲得をし、1940年頃に尖閣諸島の島々も元の無人島に返った。

 いっぽう、東沙島には1907年に進出し、鳥類の捕獲以外に、グアノ・リン鉱採取のため、400人余の労働者を導入して企業島としたが、領土問題から清国が資産を買収することで1909年に撤退した。また、第一次世界大戦中の1914年には、日本海軍が占領した南洋群島アンガウル島で、09年にドイツによってはじめられていたリン鉱採掘を海軍直営で事業をおこなった。さらに、1910年代にパラセル(西沙)諸島にも進出し、中国海軍、さらに日本海軍が占領した。スプラトリー(南沙)諸島では、1921年にグアノ・リン鉱採取に着手し、22年から8年間に3万トンを採掘した後、島々は無人島に返り、33年にフランスが領有を宣言、39年に日本軍が武力で領有した。尖閣諸島だけでなく、現在中国とベトナム、フィリピンなど東南アジアの国々とのあいだで問題になっている島々にも、かつて日本人が略奪的資源開発をおこなっていたのである。

 このように、これらの島々は、日本の「固有の領土」でもなければ、中国、東南アジアの国々の「固有の領土」でもなく、資源獲得のために民間人が進出し、軍需物資でもあったリン鉱に至っては、国家による武力進出がおこなわれたことが、本書から明らかになった。これらの事実は、2011年8月30日に本「書評空間」で紹介した『地図から消えた島々-幻の日本領と南洋探検隊たち』(長谷川亮一著、吉川弘文館)より早く、学会誌等に掲載された論文で明らかになっていたことで、本書によってまとめて読むことができ、より理解しやすくなった。著者の長年の疑問が解けただけでなく、日本周辺の無人島を含む島々が、どのようにして国家に帰属していったのかがわかる基礎研究として、高く評価できる。

→bookwebで購入

2012年12月04日

『僕らが育った時代1967-1973』武蔵73会編(れんが書房新社)

僕らが育った時代1967-1973 →bookwebで購入

 本書は、武蔵高等学校中学校卒業40周年記念論集で、7人の編集委員による座談会、16人の執筆者による論稿と31名のアンケート回答からなる。武蔵高等学校中学校の「建学の精神」「武蔵の三理想」は、「1.東西文化融合のわが民族理想を遂行し得べき人物 2.世界に雄飛するにたえる人物 3.自ら調べ自ら考える力ある人物」で、かれらが在籍した1967-1973年当時、「開成と麻布に並ぶ「御三家」と称され、高い東大合格率を誇るエリート校のひとつだった」。世代的には、60年安保世代や「団塊の世代」の後の「ポスト団塊世代」にあたる。

 この6年間をかれらはつぎのように捉えていることを、「刊行にあたって」の冒頭で述べている。「一九六七年から一九七三年までは、日本の政治、経済、文化、芸術等において激動の時代だった。戦後の復興をひとまず成し遂げた日本は、経済的に先進諸国に追いつき、国際的にも認められるようになった。その象徴的なイベントは一九六四年に開催された東京五輪である。東京の街は整備され、東京と大阪を結ぶ新幹線が開通し、日本列島の距離は一挙に縮まった。そして奇妙な安定期に入ったこの時代に、文化や芸術はすでに退廃的な爛熟期を迎えていた。それは来るべき時代への期待と不安がないまぜになった揺籃期だったのかもしれない。いずれにしても、稀にみる「激しい季節」であったことは間違いない」。

 本書は、1年間月1回のペースで編集会議を継続的におこなった成果で、座談会「われわれは武蔵で何を学んだのか」に議論されてきたことが集約されている。そして、3・11東日本大震災を機にスタートした意味を、編集委員を代表して西谷雅英(読者によっては、筆名西堂行人のほうが馴染みがあるかもしれない)は、つぎのように「あとがきにかえて」で語っている。「こうした時期だからこそ、われわれの人生にとってもっとも根源的であった時代に遡って語り継いでいこうと考えたのだ。現代の表層的な危機を憂いていても、何も始まらない。まず過去に立ち返り、考えてみる。それによって初めて未来への提言が可能になるのだろう。中学高校時代を過去へのノスタルジーにしてはならない。過去から現時点を概観することで、ようやく未来を語れるのだ」。

 50代後半になり、すでに一線を退いて第二の人生を模索している者もいれば、組織のトップとして重責を担っている者もいる。いずれによ「今の仕事を始める前の準備期であり、今につながる時間の胎動期」を共通体験した同窓が、「明日への希望を感じると同時に、われわれの責任も痛感」しながらまとめたのが、本書である。「共通経験である武蔵在学中の日常生活や遭遇した事件等がさまざまな形で検証されていった。その過程で、埋もれていた記憶が次々と掘り起こされ、同時に自分たちが直面している現在と重ねられていった」成果でもある。

 わたしは大阪の公立高校「御三家」出身で、かれらのひとつ下の学年である。大阪と東京、公立と私立中高6年一貫の違いも大きいが、学年ひとつの違いもこの時代は大きいように感じた。東京で中高一貫のため、かれらはすこし「オマセ」だったのかもしれない。本書の編集委員のひとりが大学の先輩で、論稿執筆者の別のひとりが同じ地域の研究をしているため、より具体的にわかる部分があった。いま多くの同窓会でメーリングリストが開設されているように、わたしの高校同期にもある。同い年で3年間同じ「空間」を共有した者が、なんの前提もなく語ることができる場でもある。それを外に向けて発信することは、簡単なことではない。本書は、同じ世代に読ませたい1冊である。また、1970年6月20-23日の反安保闘争にかんする高校1年D組の議事録は、いまの高校生、大学生に読ませたい貴重な記録である。

→bookwebで購入