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2012年05月29日

『日本人のアジア観の変遷-満鉄調査部から海外進出企業まで』小林英夫(勉誠出版)

日本人のアジア観の変遷-満鉄調査部から海外進出企業まで →bookwebで購入

 著者が本書を執筆した思いは、「あとがき」のつぎの文章によくあらわれている。「日本とアジアの人々の歴史的「和解」を進めるには、どうすればいいのかという差し迫った問題意識が横たわる。二十一世紀のグローバリゼーションの波を活用しつつ、「ヒト」の流れの活発化に留意し、これをきっかけに「和解」を推し進めることができないものかというのが、本書の終章で展開した「解」を生むきっかけであった。簡単にできることではないが、しかし一歩一歩推し進めるための大前提は相互の信頼関係の構築以外にはない。侵略を侵略と認めた上での正しい歴史理解の上で、率直に話し合う場の実現とその拡大は、グローバリゼーションが進めば進むほど、その可能性は拡大するといえよう」。逆に、歴史理解が充分でないと、その可能性は遠退くことになる。そして、この問題が差し迫ったものであるという意識は、とくに日本人の若者のあいだでは乏しい。

 本書は、帯にある通り、「日清・日露戦争以来の「伝統的アジア学」と太平洋戦争期の「新アジア学」の相克と変遷をたどり、戦後の企業の海外展開と国際化のなかで変化していった日本人の対アジア意識を探る」ことを目的としている。その変遷は、「序章」の段落のはじめの部分をつなぎ合わせると、概略がつかめる。抜き出してみる。  「戦前・戦後の対アジア認識の変化は、絶えず日本人のアジアでの主たる関心地域とそのつどの関心課題によって大きく規定されてきたことは言うまでもない。戦前、しかも日清・日露戦後期のそれは、日本の国策たる朝鮮・台湾・満蒙地域を中心とした領域での勢力拡大と関連した政治経済文化諸問題の検討に充てられていた」。

 「ところが、アジア太平洋戦争期に入ると状況は大きく変わる。占領した東南アジア地域は、同じアジア地域とはいっても、欧米の直轄植民地の歴史が時には数世紀にもわたり、その調査課題も手法も明治以降の日本の東アジア調査とは著しく異なる」。

 「戦後のアジアとの出発は、戦前の東アジアの植民地化をどう認識するか、だった。東アジア各国の植民地化とそれへの反省が認識されるなかで多くの著作が出されると同時に、それに対抗し植民地支配を否定する著作もあらわれてきた。しかし、一九五〇年代は戦争とアジア植民地化への反省が強かったといってよい」。

 「しかし一九五五年以降高度成長がスタートし、日本は社会主義陣営との扉を閉ざしたまま、東南アジア地域への経済進出を開始する。この転換過程で、日清日露戦争以降の朝鮮・台湾・満蒙中心のアジア学の潮流に代わって、東南アジアをフィールドとした新しいアジア学的潮流が次第に強くなり、「独立」という課題を掲げ、経済成長を目的としたこの地域の研究が前面にせり出し始める」。

 「一九八〇年代になると戦争体験者が第一線から退くなかで、次第に戦争への反省とアジアへの侵略の認識は後景に退き始め、逆に戦争体験の「客観化」、個別化が進み始める。「日本人の戦争体験」は大前提として掲げるものの、日本人のなかでの個人体験が語られ始め、それが次第に日本人のアジア観を複眼化させ、多様化させ始めた」。

 「日本人のアジア観を規定する動きのなかに一九八五年から八九年まで続いたバブル経済がある。バブル経済は、日本人の労働観を変えると同時にアジア観でも大きな変化を生み出した。この時期日本人の海外旅行者数は激増し、また日本への外国人就労者数も激増した。日本企業の海外進出も急増した。勢い日本人の対外認識は拡大し、戦前・戦中とは違った意味での日本人のアジア地域を中心とした対外認識の変容を生み出していった。一言でいえば、アジアの先頭を走る日本と日本人意識の覚醒と確認であった」。

 そして、「終章 アジア観の行方」を3節に分け、「第一節 アジア観の地域的変遷」で戦前・戦中・戦後の変遷の考察から明らかになったことを整理し、「第二節 アジア観の新しい動き」で、バブル崩壊後をつぎのように説明している。「一九九〇年代以降は一転してグローバル時代のなかで「失われた十年」という言葉が象徴するように、日本の経済力の減退を生み、そのまま政治的、外交的パワーの喪失として、アジア各国への影響力を減じていった点がある。その結果、日本は一方でグローバル化を求めながら、他方で限りなく個人のなかに埋没しつつ内向きな姿勢を強くしていったのである」。さらに、「グローバル化のなかでの日本人の自己認識の個への回帰という現象は、対アジア観という視点から見た場合には、植民地支配そのものから距離を置く行為に連なる。これは、植民地支配という過去の歴史認識の風化を生む危険性を持つが、同時に植民地支配の認識の上になされるならば、それはその認識を深める可能性も秘めている」好機ととらえ、「第三節 和解への道」のための交流の前提を、つぎのように述べて、終章を結んでいる。

 「日本側が戦前行った様々な侵略行為の正確な認識と理解が前提とならなければならないことは、ここに改めて言うまでもない。問題は、こうした日本側の学習成果をきちんと中国側に伝えることこそが、和解への第一歩となるということである。もし、そうであるとすれば、今日日本で進んでいる個への回帰、自分史への回帰という現象は、決して無駄な動きであるとは思われない。むしろ、そうした個にまつわる事実の発掘こそが、こうした日中和解の糸口を作るかもしれないという意味で、むしろ場合によっては積極的意味を持つのである。いま、東アジアで積極化しているグローバリゼーションの動きと日中双方の「ヒト」を媒介にした交流は、こうした和解を進める動きの追い風になることも、また間違いない事実なのである」。

 問題は、バブル経済崩壊後の「失われた十年」に生まれた現在の大学生以降の世代のアジア観かもしれない。自信のもてない世代に、対等な対話ができるか、そのための基本的知識はあるか、はなはだ心許ないのが現状ではないだろうか。戦前・戦中・戦後世代の「和解への道」がうまくいっていないなかで、どういう新たなアジア観が日本人の若者に必要なのか、それとももうアジア観など必要なく、グローバルな世界観だけが必要なのか、本書で示された変遷をたどりながら考えてみたい。

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2012年05月22日

『変わりゆく東南アジアの地方自治』船津鶴代・永井史男編(アジア経済研究所)

変わりゆく東南アジアの地方自治 →bookwebで購入

 まず、本書冒頭で、「東南アジア諸国に地方分権改革の波が訪れてから10~20年以上が経過し、東南アジアの地方分権化は常態化したといってよい」と述べ、この事実を踏まえて、本書ではこの10年間余に大きく変わった東南アジアの主要民主主義国の分権化の状況を把握しようとしている。その必要性は、つぎのように理由づけられた。「分権化当初にみられた政治的混乱が収まり、民主的な地方選挙と地方自治が定着するにつれ、先進国を模した分権化の理想や制度をめざすより、東南アジア各国の社会経済的実態に見合った制度が模索されるようになったからである」。

 それは、公共サービスに対する関心が、サービスがカバーする内容ばかりでなく質の問題にも向けられるようになってきたからである。「本書が着目するのは、まさに東南アジアの主要民主主義国の地方で起きつつあるこうした公共サービスの決定や配布方法の変化(「誰の資源を用いて、誰が公共サービスの中身を決め、それをいかに配布するか」)であり、そこから生じる政治過程である。すなわち、各国の公共サービスの決定や配布方法という具体的制度の分析を手掛かりに、分権化にともなう地方自治制度と政治の変化を描こうと意図している」のである。

 本書のキーワードに、「ガバメント」と「ガバナンス」がある。「ガバメント」は「原義として政府を意味する英語であり」、「ガバナンス」は「1990年代頃から現代統治におけるさまざまな文脈で使われるようになった」が、「公共部門の分析で用いられてきたガバナンスの意味がきわめて多義的」であるため注意を要するという。これらの抽象的な概念を理解するためには、具体例をあげるのがわかりやすいということで、「日常的に実施するサービスである小規模河川の水質保全・清掃事業」を例に説明している。それでもわかりにくい「ガバナンス」について、本書では「あくまで自発的な意思を主体にした、民主的状況のもとでの参加を」よぶことにしている。「共治」や「協治」と訳されることもあるという。

 そして、「「ガバメント」と「ガバナンス」の関係は単純ではなく、「ガバナンス」の意味も多様」であり、1970年代に脚光を浴びるようになった先進国と東南アジアでは事情が違うことから、先進国における議論を踏まえたうえで、東南アジア各国における議論を展開している。そういう議論を経て、「変わりゆく東南アジアの地方のこれからは、分権化の浸透によって、中央と地方の政治行政がいかに変わり、住民は何を中央・地方政府から実質的に得るのか、という公共サービス分配をめぐるさらなる民主化と公平の問題に、課題のひとつをみいだすこと」を、本書の執筆者たちは期待している。

 本書は、全体像を示した3人の執筆者による第1章(本書の表題とまったく同じ表題)の後、インドネシア、タイ、フィリピンの3国を2章ずつ、それぞれマクロとミクロの視点から論じ、最後の第8章でマレーシアをとりあげている。その第8章の表題「多民族社会マレーシアの地方行政-一党優位体制下における安定した行政-」が示すとおり、マレーシアは政権与党が建国以来半世紀以上も変わらないことから、本書での位置づけが若干異なっている。

 本書では、歴史的背景を、つぎのように説明している。「東南アジアの主要民主主義国は、いずれも1970~1980年代まで中央集権的性格の強い行政をその基本的特徴としてきた。それは、これら東南アジア諸国の行政が植民地統治または王制に起源をもち、第二次世界大戦後の独立期に国民国家建設のために中央集権的行政を確立した初期条件を共有すること、さらに1950~1960年代の「開発主義の時代」(略)以降も、国家と社会が成長イデオロギーを共有して国家主導の経済開発を展開し、都市から農村に至るいっそうの中央集権化を進めた時代背景を共有してきたため、である」。

 本書の枠組みを「東南アジアの主要民主主義国」としたことの説明のひとつであるが、もうすこし歴史的内容に踏み込むと、「先進国を模した分権化の理想や制度をめざすより、東南アジア各国の社会経済的実態に見合った制度が模索されるようになった」背景がわかってくるだろう。東南アジア各国・地域は、近代化にあたっても、ただたんに欧米先進国を模しただけでなく、自分たちに見合った制度を模索した。いま同じことが、地方自治でおこなわれているのではないだろうか。そうならば、近代国民国家形成時に、どのような地方自治制度ができたのかを各国別ではなく、東南アジア全体のなかで説明してほしかった。「第1章」を「序章」とし、「終章」で本書で得られた成果をまとめると、世界的にグローバル化のなかで地方自治が問われているにもかかわらず、東南アジアに限定した意味がはっきりしただろう。とくに近隣の東アジアや南アジアを扱わなかった理由が、より明確になったことだろう。そうすることによって、東南アジアの特性をより語ることができたはずである。

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2012年05月15日

『ビルマ独立への道-バモオ博士とアウンサン将軍』根本敬(彩流社)

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 著者の本書への思いは、「エピローグ-この本を読んだあとに」の冒頭のつぎの文章によくあらわれている。「本書を読み終えたいま、皆さんはどのような印象を持ったでしょうか。バモオ博士とアウンサン将軍の人生をたどり、関連してアウンサンを暗殺したウー・ソオの事情を知り、さらに戦後のビルマと日本との関係を知ることによって、両国がここまで深い関係を持っていたことに驚いたり、新鮮に感じたりしたのではないでしょうか。少しだけ触れたアウンサンスーチーの思想に感銘を受けた人も多いでしょう」。「そうした驚きや新鮮な感情、感銘を大切にして、これからもビルマのことに関心を持ち続けてください。そして、この本を通じて得た知識を基に、自分なりの「問いかけ」を持ってもらえればと思います。ビルマと日本とのより良い未来の関係を築くために、どのようなことをすれば良いのか、どのようなことができるのか、ぜひ考えてみてください」。

 といわれても、本書の主人公であるふたりが何者であるかがわからない人には、ピンとこないだろう。ふたりの略歴は、それぞれ表紙の返しにつぎのように説明されている。「バモオ ビルマ独立運動と深く関わった知識人政治家(1893~1977年)。英領植民地期に英国とフランスに留学、ビルマ人初の哲学博士となる。1937年英領ビルマ初代首相に就任、42年6月、日本軍によるビルマ占領がはじまると中央行政府長官を経て翌年「独立ビルマ」の国家元首となる。日本軍敗退後、亡命して新潟県石打の寺院にかくまわれるが、46年1月GHQに自首。同年8月、英国政府の恩赦でビルマに戻る。独立後は政界復帰することなく、1960年後半には政治囚として刑務所に収監されるなど、死ぬまで不遇の日々を送る」。

 「アウンサン ビルマ独立運動の指導者(1915~1947年)。アウンサンスーチーの父。1936年ラングーン大学学生ストライキを指導、38年反英民族団体タキン党に入党、40年鈴木敬司陸軍大佐の画策で対ビルマ工作をおこなう南機関に参加、仲間と共に日本軍の軍事訓練を受ける。41年12月に日本が米英と開戦するとビルマ独立義勇軍を率いて祖国に進軍。日本軍占領下では対日協力に立つバモオ政府に加わり国防大臣を務める。44年8月ひそかに地下抗日組織を結成、翌年3月、バモオ政府と袂を分かち抗日蜂起に転じる。戦後は英国と地道に交渉を重ね独立への道筋を確定させるが、47年7月政敵によって暗殺されてしまう」。

 本書は、同著者の『抵抗と協力のはざま-近代ビルマ史のなかのイギリスと日本』(岩波書店、2010年)を基に、「15歳からの「伝記で知るアジアの近現代史」シリーズ」の1冊として書かれた。「しかし、構成を含め、大幅に内容を書き換え、一部重複するとはいえ、別個の中身を持つ本」になったという。

 本シリーズは、「抗日派だけではなく、「親日」とみなされてきた人々も積極的に取り上げる」としているが、著者は「抗日」「親日」という二項対立的にとらえるのではなく、ひとりの人物が状況により「抗日」にもなれば「反日」にもなったことを、これらふたりのビルマ人を通じて明らかにしている。とくに、独立後のビルマで、高く評価されたアウンサン将軍にたいして、低い評価しか与えられなかったバモオ博士の再評価をしている。

 32歳の若さで暗殺されたアウンサン将軍にたいして、バモオ博士は1937年に44歳でイギリス領ビルマの初代首相に就任し、43年には日本軍によるビルマ占領下の「独立ビルマ」の国家元首になった。ともに主権を制約されたなかで、「協力姿勢を基盤にして相手の信頼を獲得し、そのうえで可能な範囲で自己主張や抵抗を行う」という難しい対応を迫られた。しかも、多数派の政治勢力に属しておらず、ビルマ人の政敵からも激しい批判を浴びながらの政治的判断をしなければならなかった。

 このふたりの関係は、フィリピンの第一の国民的英雄ホセ・リサール(1861-96)とフィリピン共和国初代大統領(1899-1901)アギナルド(1869-1964)との関係に似ている。実際に政務を執ることなく若くして死んだ者と、長く生きて失政もおかした者の、後世の対照的な評価という点においてである。坂本龍馬(1836-97)も、理念だけがもてはやされ、実行力が問われる前に暗殺された。本書のバモオ博士のように、しっかりとした学問的成果を基に再評価すべき人物は、どこの国にもいるだろう。

 また、日本占領下の「抵抗と協力のはざま」は、フィリピンでも同じことが起こっており、バモオ博士が1943年11月に東京で開催された大東亜会議に出席したときに同席したフィリピン共和国大統領ラウレルも、同じ姿勢で日本占領下で耐える日々を送っていた。フィリピンは、ビルマより2ヶ月半ほど遅れた43年10月14日に日本軍から「独立」を与えられた。

 日本軍の将兵にたいするビルマ人の怒りの原因についてのつぎの説明も、フィリピン人と共通のものであった。「日本軍の将兵らが基地の外でビルマ民衆に平手打ち(ビンタ)を行うことがあったため、ビルマ人の怒りを買いました。ビルマの文化では、人前で平手打ちをされることは、その理由を問わず許されない屈辱として受け止められています。言葉による意思疎通ができないとすぐに怒って平手打ちをする一部の日本軍将兵は、憎しみと軽蔑の対象となりました。さらに、人前で裸を見せることを極端に嫌うビルマ人の文化を無視して、兵士らが平気で彼らの前で全裸になって水浴びをしたことも、日本軍への反感を生じさせました。ビルマの人々は水浴びの時もふつう全裸にはなりません」。

 このように、ビルマなどそれぞれの国・地域を東南アジア史のなかで相対化することによって、それぞれの国・地域の独自性と、日本軍政の共通性、さらに世界性・時代性といったものがみえてくる。そして、東南アジアのそれぞれの国・地域と日本との深い関係がみえてきて、その関係を大切にしなければならないことがわかってくる。

 そして、この書評で引用した冒頭の文章につづけて、著者は「エピローグ」で「少数民族の立場」「経済発展と人権」「歴史を知ることの大切さ」の3つの項目を設けて、ビルマへの理解を深めてもらおうとしている。これも、東南アジアのほかの国ぐにに共通することだろう。本書をきっかけに、ビルマからさらにほかの東南アジアの国ぐにへの関心が高まることを期待したい。そうすることによって、ビルマをもっと深く理解できるようになるだろう。

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2012年05月08日

『日本をめざしたベトナムの英雄と皇子-ファン・ボイ・チャウとクオン・デ』白石昌也(彩流社)

日本をめざしたベトナムの英雄と皇子-ファン・ボイ・チャウとクオン・デ →bookwebで購入

 「15歳からの「伝記で知るアジアの近現代史」シリーズ」第1巻として取り上げられたのが、ベトナムのファン・ボイ・チャウとクオン・デである。表紙には、「独立の闘士たちが見た日露戦争後の日本とは? 壮絶な人生ストーリー」とあり、ホー・チ・ミンなら知っているという人のために、裏表紙にはつぎのように書かれている。「逃亡、追跡、仲間たちの非業の死…… 何度も挫折し、命がけで闘った数々の若き人々。ホー・チ・ミン出現前夜、もうひとつのベトナム独立運動史」。

 国際空港に行くリムジンバスのなかで、若い女性が「ホー・チ・ミンって、人の名前なの?」と言ったのを聞いたことがある。そんな人も、本シリーズを読むことができるよう、執筆者・編集者は配慮している。シリーズの目的は、つぎのように説明されている。「欧米中心の偉人伝とは一線を画す、アジアの伝記シリーズ。本シリーズは、その国の歴史でヒーローとして扱われる抗日派だけではなく、「親日」とみなされてきた人々も積極的に取り上げる。日本にあこがれ、日本を目指したがために、「現実の日本」と直接向き合い、格闘せざるを得なかった彼らの目線をとおして、大人も知らなかった日本の近現代を逆照射する。日本とアジア、そして世界の歴史が変化していく中で、彼らはどのように翻弄され、どのような迷いや悩みを抱いたのか- 目的をとげ成功をおさめた偉人ばかりでなく、挫折し、失意のうちに生涯を終えた人びとの生き様を中高生に伝える」。

 静岡県袋井市(旧浅羽町)常林寺境内に「浅羽佐喜太郎公紀念碑」がある。建てたのは、本書の主人公のひとり、ファン・ボイ・チャウである。漢文で書かれた碑文の訳(前半)と書き下し(後半)を、袋井市観光協会浅羽支部のホームページからみつけることができる。「われらは国難(ベトナム独立運動)のため扶桑(日本)に亡命した。公は我らの志を憐れんで無償で援助して下さった。思うに古今にたぐいなき義侠のお方である。ああ今や公はいない。蒼茫たる天を仰ぎ海をみつめて、われらの気持ちを、どのように、誰に、訴えたらいいのか。ここにその情を石に刻む」。「蒙空タリ古今、義ハ中外ヲ蓋ウ。公ハ施スコト天ノ如ク、我ハ受クルコト海ノ如シ。我ハ志イマダ成ラズ、公ハ我ヲ待タズ。悠々タル哉公ノ心ハ、ソレ、億万年」。この後、「戊牛春」「越南光復会同人謹誌」「大杉旭嶺鐫」とあり、紀念碑裏面には、「大正七年三月。賛成員 岡本三治郎、岡本節太郎、浅羽義雄」とある。

 浅羽佐喜太郎は、1907年にベトナム人留学生のひとりが道端で疲労で倒れているのを介抱したのが縁で、かれの学費を援助し、さらに日本政府の弾圧で苦境に陥ったベトナム人留学生にたいして1700円の大金を提供した恩人として、本書で説明されている。「光復会」は、立憲君主制を目指した「ベトナム維新会」を引き継いで1912年に設立された組織で、共和制を目指した。

 本書で注目されるのは、ふたりの活動の舞台の広がりと、国内での地域性である。ファン・ボイ・チャウは北部のハノイと中部のフエのちょうど中間にある教育熱心で華僑合格者を多数輩出した貧しい農村地帯で生まれた。いっぽう、クオン・デは、阮朝初代皇帝の長男の直系でありながら、初代皇帝より先に長男が死んだために傍流に追いやられた家系に属していた。とくに初代皇帝の出身地で、フランスの直轄領になった南部にゆかりがある。しかし、国境近くの山岳地帯には、阮朝もフランス植民地政府も手を出せなかった「大親分」がおり、各地に「海賊や山賊の親分みたいな人物」がいたことが記されている。

 いっぽう、独立運動の舞台は、中国を中心に日本やタイにも及んでいたことが、本書からわかる。ベトナム人留学生が日本に来たのも、日本が中国人の革命運動の拠点のひとつとなり、ベトナム人も日本滞在中の梁啓超や孫文などと交流があったからである。また、日本はインド人やフィリピン人などの民族運動の活動拠点のひとつでもあった。アジア人活動家の集う場所であり、それにたいして日本人アジア主義者や軍部がかかわった。

 ベトナム国内で弾圧を受けた者は、中国やタイ、日本に逃れた。中国では、中国国民党や軍閥の保護を受けた。タイとの歴史的かかわりは、つぎのように説明されている。「タイの東北部や東南部にはベトナム人が古くから定住して、あちこちに固まって住んでいました。グエン・フク・アィン(後のザー・ロン皇帝)が阮王朝を創始する以前タイに一時亡命した際に付き従った部下や兵士たち、1880年代の反仏蜂起に参加して敗れた後に逃れてきた難民、そしてフランス人宣教師とともに移住してきたカトリック教徒や、その子孫たち」、クオン・デが「とりわけ当てにしたのは、ザー・ロン皇帝ゆかりの移住者たちの子孫」だった。

 2010年11月3日、フエンのファン・ボイ・チャウ旧居敷地内に、ファン・ボイ・チャウ没後70年、浅羽佐喜太郎没後100年を記念して、「東遊運動が生んだ日越友好之碑」が、日本人有志によって建立された。袋井市では、シンポジウムが開催され、ベトナムとの交流が続いている。

 「15歳から」というシリーズの意図はよくわかるが、このことは大人であっても、なにも知らないことを前提に本を企画し、執筆しなければならない嘆かわしい状況にあるということをもあらわしている。ベトナムに観光旅行に行く若い女性が、ホー・チ・ミンの名前を知らないことに、驚きもしない現実がある。

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2012年05月01日

『戦友会研究ノート』戦友会研究会(青弓社)

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 本書は、1978年、80年に続く2005年の全国規模の戦友会調査を踏まえて書かれている。1978年、80年の調査が戦友会の最盛期であったのにたいして、2005年の調査は「戦友会の終焉を意識したものであった」。

 本書の目的は、表紙につぎのように書かれている。「軍隊での戦闘体験を共有した仲間が作った戦友会は、数と規模、そして会員の情念と行動力の強さから日本独特の社会現象である。会員への聞き書きも含めて、軍隊や戦争への感情、死んだ戦友への心情などを60項目で浮き彫りにし、戦争体験の継承をめざす」。そして、「新しい研究者への誘い水になることを期待して、戦友会についての基礎知識を提供しようとするものである」。

 本書では、「戦友会そのものについての情報と、関連情報とを、まとめて体系的に語ることは難しいと考え」、「戦友会に関連した情報をあえてバラバラに提示」し、「本文となるべきもの、註となるべきものを、それぞれ小項目として提示」している。読む事典として便利であるが、執筆者が期待した「読者の頭の中で組み合わせてもらう」ことは、それほどやさしいことではない。

 まず最初の項目「戦友会と伊藤桂一」で、「戦友会を成りたたせているのは、慰霊、親睦、体験の語り合いの三つです」と伊藤から教わったことなど、戦友会の基本を理解させ、続く「日本軍の組織・編制」などで基本的知識を与えている。たとえば、「戦後世代にとって、旧日本軍についての記述のなかで、最もわかりにくいのが部隊の呼称である」が、「通称号」の項目で、つぎのように説明している。「日中戦争がはじまった一九三七(昭和一二)年、戦地にある部隊を秘匿するために、指揮官の姓と部隊の種別を組み合わせる表記が用いられるようになった」。しかし、「この方式は、指揮官が変わると部隊名・隊名が変わることになり、混乱すると考えられたためか、一九四〇(昭和一五)年改訂が加えられ、「通称号」が導入された」。「「通称号」とは、「兵団文字符」と「通称番号」からなるものである。「兵団文字符」とは、軍・師団・旅団といった大きな兵団に、漢字一文字か二文字を与えたもので、例えば、ビルマ方面軍には「森」、第十四方面軍には「尚武」、第十一師団には「錦」が与えられた」。「「通称番号」は数ケタの数字であるが、必ずしも連番ではない。「通称号」によって、大きな部隊から小さな隊まですべて固有名をもつことになった。なお、中隊や小隊は、従来どおり隊長名をつけた」。

 靖国神社との関係も、「靖国神社と戦友会」で、つぎのように説明している。「護国神社では、戦友が祭神として祀られていない場合もあり、神籬を置いて降神の儀をおこなわなければならないが、靖国神社はいつも全員が祀られているのでなんの問題もないと考えられているようである。靖国神社でしか慰霊祭をやらない戦友会もあるが、その大きな理由もそこにある」。

 そして、目下の研究目標として、つぎのことを考えているという。「解散した戦友会を含めて、戦後存在した戦友会をすべて記録にとどめ、関係資料の所在を明らかになるようなデータベースを構築することを目下の研究目標としている。それはわたくしたちの研究の総まとめの意味もあるが、新しい研究者のために役立たせることができればと思ったためでもある」。このデータベースでは、国立歴史民俗博物館が2003年に調査結果を発表した戦争記念碑の不充分さも補えるいう。30余年にわたる共同研究の総まとめを期待したい。

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