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2012年04月24日

『世界システムと地域社会-西ジャワが得たもの失ったもの 1700-1830』大橋厚子(京都大学学術出版会)

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 こういう本は、勉強になるからといって、すぐ読むことができるものではない。心の準備ができるだけの知識と目的意識が必要だからだ。

 本書は、序論、5編17章、結論からなる。序論で本書の研究姿勢を明らかにし、第1編3章で研究方法を論じ、以下各編の終わりで編全体のまとめをして、結論へと読者を誘っている。これだけ周到に論を進めていても、本書を読み理解するのは、それほど簡単ではない。それは、本書の第一の特徴である「普通の人々」を、グローバルヒストリーのなかで理解しようとしたからであろう。

 著者、大橋厚子は、「序論」で、本書が目指した研究史上の2つの貢献を、つぎのように述べている。「第1は、近年盛んになりつつある東南アジア型発展径路の研究に、産業資本導入の初期条件を分析した事例を提供することである。その中で、輸出用作物栽培が、貨幣経済と分業とが発達した社会に導入された場合と、貨幣は使用しても貨幣経済や分業が発達しているとは言えない社会に導入された場合とでは、中央政府の果たす役割、および栽培が住民に与える影響が異なっていること、そして後者の場合、開始期における政府の便宜供与は必須であること、を示したい」。

 「第2は、同じく近年盛んになりつつあるグローバルヒストリー研究の中で、普通の人々の役に立つ、あるいは彼らの立場に立った研究の可能性を探ることにある。この試みは、植民地政庁の政策とこれに対する人々の日々の対処が社会変化を生み出すという認識枠組のもとに行なわれる」。

 著者は、本書が対象とする17世紀末から1830年までのジャワ島西部プリアンガン地方が、これらの考察の課題にたいして、きわめて適合的な条件を備えている、という。そして、著者は、さらに、「コーヒー栽培の拡大とともに焼畑移動耕作から水田耕作へと食糧生産の重心が移りながら開拓が進む土地での社会変化は、総体としてどのようなものであり、住民に如何なる影響を与えたであろうか」と問い、つぎのように考察を進めたいとという。「プリアンガン地方でこの事態が進行した時代は、I. ウォーラーステインによって「広大な新地域の『世界経済』への組み込み」が議論された時代と同時代である。さらに社会変化の内容も、輸出用作物栽培における「大規模意思決定体の出現」など「組み込み」論で示されたクライテリアが使用可能な部分がある。そこで本書では、ウォーラーステインの「組み込み」論を批判的に応用して社会変化の分析に利用する。すなわち、グローバルな動向を世界各地の普通の人々に伝える媒介項として、地域社会の形成・変質を考察の中心に据える。組み込む側と組み込まれる側の相互作用を前提とし、さらに東南アジア島嶼部に特有の生態・社会組織および貿易環境が政庁や在地の人々の活動に与えた影響に注目する。加えて植民地政庁による中央集権の進行および地域性の変質を鮮明に示すために、植民地政庁に始まり、政庁に直属する現地人首長、下級首長、集落の長、男性住民、そして一般の主婦に至る社会関係の連鎖に焦点を当てたい」。

 本書を通じて、これまでの問題提起や仮説を支持する結果になったものもあれば、逆に否定する結果になったものもあった。ジャワ島内だけでも地域差があり、ましてやオランダ領東インド全体をひと言で括ることには無理がある。だからこそ、著者は「本書で行なう分析のひとつひとつは実証が充分とは言えない」という。それは、できうるかぎり実証的に考察をおこなった、あるいはおこなおうとしたから言えることだろう。

 そして、その結果、「近代世界システムによる「組み込み」がプリアンガン地方の末端で現地首長層および住民に見せた顔は次のようであったと言える」としている。「第1は独占の追求である。ヨーロッパ諸国同士および現地の大国との外交交渉によって貿易そのほかの独占権を確保し、主要港湾都市を管理する。さらに内陸輸送については交通インフラを独占的に建設し、金融サービスおよび生活必需品の供給を独占する。第2は、初期段階における具体的な恩恵の独占的提供である。首長層には経済社会的上昇階段を提供し、首長層および住民には、食糧・資金・物品という可視的かつ生活や生産に無くてはならない利益を提供する。利益の中には、輸送の肩代わりなど住民に安楽を与えるサービスの提供も含まれた。そして第3に、恩恵を与えるに際し、条件を提示して首長層や住民を選別した。その条件は、植民地政庁に無断で移動せず、政庁の決めた作業場・仕事内容・スケジュールで労働することであった。こうして世界システムが、まず最初に利益供与を行なうことによって対価として住民から巧妙に奪ったものは、生産と生活上の選択肢や決定権であった」。

 さらに、「普通の人々のグローバルヒストリーにおける事例研究のひとつとして、本書の考察が現代の人々に対し何らかのより良い対処法を示唆することができるであろうか」と問い、つぎのように答えている。「一般的には、目先の便宜供与・経済の活性化と引替えに、知らず知らずのうちに、生業を営み生活を組織する決定権を手放さないこと、同様に、生存戦略の選択肢を不用意に減らさないことを提案できよう。経済の向上や活性化の影で起こるこのような事態は、政策を実施する側も意図していない場合が多いが、そのような誘惑がどのようになされるかについてもヒントを提供し得たと思う」。

 そして、「最後に、インドネシアの現在についてここで述べたことの一部は、日本についても言えることを指摘して本書を終わりたい」と、「結論 「地方」は、なにゆえに地方になったか?-あるいは「普通の人々」のグローバルヒストリーのために-」を結んでいる。

 概説で述べられていることを、実証することは容易いことではない。本書で著者がこだわり続けているのは、植民地政庁や現地エリート層によって語られてきた制度史では理解できない「普通の人々」のグローバルヒストリーへの「組み込み」である。そのために、限られたデータをフルに使って「得たものと失ったもの」を明らかにしようとした。その姿勢から学ぶことがひじょうに多いが、その困難さも本書から伝わってきた。

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2012年04月17日

『3・11複合被災』外岡秀俊(岩波新書)

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 1995年の阪神・淡路大震災のときは、すぐに2階から震源地の見える実家に行き、その後の復旧状況も具に見たが、しばらくすると報道を見聞きすることができなくなった。今回の東日本大震災・福島第一原子力発電所事故の報道も、しばらくすると見ることができなくなった。被災地に行くかわりに行ったのが、玄海島だった。島は、2005年3月20日に震度7と推定される地震(福岡県西方沖地震)に見舞われ、全225戸中173戸が全半壊し、ちょうど1ヶ月後の4月20日に最大余震5強で半壊住宅がすべて全壊した。人口700人ほどのすべてが、代表者10人ほどを残して島外に避難した。

 博多埠頭から福岡市営渡船が日に7便運航し、約35分で玄海島に到着する。周囲4.4キロの島は、6年たってようやく周回道路で1周できるようになっていた。港付近の平地には数階建ての集合住宅が建ち、そのひとつのエレベーターで屋上まで行くと、高台の一戸建て住宅街にいたる道があった。そして、そのさらに上に玄海小学校・中学校があった。玄海灘の南に面した住宅街は、東日本大震災のような津波に襲われることはないかもしれないが、ひとつの復興モデルが示されていると感じた。その体験は貴重で、震災後宮城県名取市などと交流している。

 本書は、震災後現地を歩き、1年たって回顧しながら、全体像を描こうとしたものである。著者、外岡秀俊は、その3月に新聞社を退職し、退職後フリーの立場で取材を続けた。そして、本書の目的・目標をつぎのように語っている。「東日本大震災について、何が起きたのかを、できるだけわかりやすく、コンパクトに伝えることを目的に書かれています」。「たとえば震災から一〇年後の二〇二一年に中学・高校生になるあなたが、「さて、3・11とは何だったのか」と振り返り、事実を調べようとするときに、まず手にとっていただく本のひとつとすること。それが目標です」。

 たしかに本書では「何が起きたのか」を書いているが、気になったのは「何かが起きたかもしれない」福島第二原発、東海第二原発のことも書いてあることだった。福島第一原発については、当然、今後詳細な検証がされるだろうが、同様のことが福島第二原発や東海第二原発でも起こった可能性があるなら、それは原発そのものの危険性を示すことになり、検証の仕方も意味も変わってくるだろう。北海道開拓記念館の常設展示では、数百年に一度襲う大津波が地層にあらわれている展示がある。「想定外」という言い逃れがさかんに使われたが、「想定」はどの程度の対策をとるのかという結論があって、逆算して導き出されたものだろう。すこし調べればすぐにわかることだし、このブログで震災前にとりあげた岩波ジュニア新書(西尾漠『新版 原発を考える50話』)を読んでいれば、事前に「想定」できたはずである。できなかったのは、はじめから変更不能のシナリオができていたからであろう。それが「安全神話」になってしまった。

 この「神話」について、著者は、10年後の読者に、つぎのように語りかけている。「それまで、原発について政府や電力会社は、事故を起こさないため何重もの防護装置を施してあるので、絶対に安全だといってきました。事故が起きて重点的に避難する地域も、原発から一〇キロ圏内にとどめ、事故が起きた場合に司令塔となる防災施設も、原発のすぐ近くに置いていました。そのため、実際に「想定外」の事故が起きたときに、政府の対応は遅れ、被害は拡大してしまいました。どんな場合でも、「絶対に安全」ということはできません。それをなぜ、どのように「神話」にしてしまったのか。「3・11後」を生きるあなたに、考えていってほしいと思うのです」。「絶対に安全」でないものはすべて拒否するのか、災害や事故を完全に防ぐことはできないことを前提に容認するのか、難しい問題を次世代は考えなければならなくなった。

 そのためには、この複合災害の事実、とくに科学で解決できないことを、人びとの心を考える人文力で補ったことを忘れてはならないだろう。科学力だけを根拠とせず、人文力の助けを借りながら、どう科学と向き合うのか。そのことを、著者は「はじめに」で、つぎのように語っている。「大災害であっても、「今」を生きることに懸命な日々がかさなると、つい意識から遠ざかり、「なかったこと」にしてしまうようになりがちです。失われた命、失われた故郷を思う人々と共に生きるには、忘れないこと、いつまでも記憶し続けることが何よりも大切だと思うのです。そしてそのことが、次の大災害で、あなたや身近にいる人の命を、ひとりでも多く、救うことにもつながるのだと思います」。

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2012年04月10日

『国家と歴史-戦後日本と歴史問題』波多野澄雄(中公新書)

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 2001年から06年の首相在職中、毎年靖国神社に参拝し、内外で物議を醸した小泉純一郎も、ちょうど小学校時代と重なる大学新入生にとっては「過去」の人で、説明をしなければならなくなった。なぜ日本は「戦後」という過去を、現代の問題として引きずりつづけなければならないのか、本書は学生に説明するいい教材になる。日本の学生などの若者にとって、すでに「終わった」はずの過去にこだわる人びと、とくに日中戦争とは無縁のはずの自分たちと同世代の中国人の「反日」が理解できない。本書を読めば、その理由もわかるだろう。

 その理由のひとつは、国家間で解決済みの問題も個人の問題としては残っているからである。本書の帯の裏には、「国家間の問題から個人補償へ」の見出しのもとに、つぎのようにまとめられた文章が載っている。「アジア・太平洋戦争の「清算」は、一九五一年締結のサンフランシスコ講和を始めとする一連の条約で終えたはずだった。だが、八〇年代以降、教科書、慰安婦、靖国神社、そして個人補償請求と問題が噴出。日本政府は司法の支持を頼りに、一連の条約を「盾」とし跳ね返してきたが、世界の民主化、人道主義の浸透の前に政策転換を余儀なくされつつある。戦後日本の歴史問題の軌跡を追い、現代国家はいかに歴史と向き合うべきかを問う」。

 著者、波多野澄雄は、「一九七九年の防衛庁防衛研修所戦史部(現・防衛省防衛研究所)への入所以来」三〇年間、「国の歴史事業に絶え間なく取り組んだ」歴史研究者である。その戦後処理事業を大別すれば、つぎの3つになるという。「一つは、戦争の検証と伝承という事業であり、二つめは、一九九〇年代以降のいくつかの「歴史和解事業」である。そして三つめは、外交文書の検証や編纂、公開という事業である」。著者は、戦没者追悼平和祈念館(現・昭和館)の設立準備・運営、「女性のためのアジア平和国民基金」(アジア女性基金)のための資料調査、「アジア歴史資料センター」設立準備・運営、日英交流史事業、高校歴史教科書の検定、日中歴史共同研究などにかかわったことから、より全体像がみえているなかで慎重にことばを選びながら、本書を執筆している。そして、なぜ、今日まで引きずるのかを、歴史的に検証している。

 3部からなる本書の構成と目的は、「序章 戦争検証の挫折」の最後で、つぎのようにまとめられている。「第Ⅰ部では、厳しい冷戦の下で形成され、日韓・日中間の国交正常化を経て一九七〇年代に定着した講和体制は、戦争や植民地支配に起因する賠償や補償、さらに戦争責任という問題にどのような回答を与えてきたのか、置き去りにしてきた問題は何か、「戦後補償問題」の噴出とどのような関係にあるのか、こうした問題を検証する」。

 「第Ⅱ部は、一九八〇年代の歴史問題を取り上げる。一九七〇年代までに定着した講和体制は、国家間の問題としては歴史問題を封じ込めたはずであった。しかし、一九八〇年代には講和体制が想定していなかった歴史教科書問題や首相の靖国神社参拝といった、いわば「内なる歴史問題」が「国際化」したことで、政府を悩ませる」。

 「第Ⅲ部は、世紀転換期、すなわち一九九〇年代から二一世紀初頭にかけての歴史問題の展開を取り上げる。一九九〇年代のさまざまな「戦後補償問題」の噴出は、必ずしも新しい問題ばかりではなかった。しかし、冷戦と自民党支配という講和体制を支えた内外要因が大きく揺らぐなかで、歴史問題は政府を翻弄する」。

 「歴史問題について、あるいはその基盤となる「過去の戦争」の責任や原因といった問題について、国による検証が十分ではなく、国民が共有できる「パブリック・メモリー」が形成されない原因は、いったいどこにあるのか。歴史観の多様な共存を保障する国として、政府は歴史問題をいかに「管理」すべきなのか、あるいは「関与」すべきなのか」。

 「そして、すでに六〇年以上も前の「過去の戦争」にどう向き合い、どのように後世に伝えていくべきなのか。本書がこういった問題を考えるよすがとなれば幸いである」。

 歴史問題の原因が終戦直後からあったことは、よく言われる。「一億総懺悔」と言われるいっぽうで、戦争責任を政・軍指導者に押しつけ、天皇と国民は免れ、被害者意識をもつようになった。やがて五〇年代六〇年代に、それら政・軍指導者が復活し、戦争責任の所在が不明確になった。それが、中国など被害国民衆の怒りとなり、たとえ政府間で「解決済み」と言われても、個々人が納得しなくなった。

 また、歴史問題は、ドイツをめぐってもあったはずだが、西ヨーロッパでは近隣諸国との関係が改善したのにたいして、東・東南アジアではそういかなかったことが問われる。それにたいして、著者は「アメリカの戦略変化」が大きくかかわったことを、つぎのように説明している。「戦争賠償の主題から「戦争責任」という問題が遠ざかっていった国際的背景は、被害を受けたアジア諸国への配慮よりも、日本の復興と政治的安定を優先するというアメリカのアジア戦略の変化であった」。

 「占領初期にこそ、アメリカ側で、戦争責任を正面から問う講和案が検討され、また、日本による戦争賠償を媒介にして、脱植民地化と国家形成の途上にあったアジア諸地域と日本の復興とを一体として達成するという講和プログラムが存在した。しかし、まもなく日本の復興と政治的安定のみが関心事となり、賠償軽減を一方的に進め、賠償交渉においてもアジア諸国への配慮は相対的に小さなものとなっていった」。

 「それとは対照的に、ヨーロッパでは、アメリカは西ドイツを主権国家として再出発させるにあたって近隣諸国との関係改善を促すという政策をとった。西ドイツもまた、西ヨーロッパという政治的、経済的にまとまった一つのユニットとしての国際社会のなかに自らを明確に位置付け、国家として再生する道を開いた。国家主義や国民の帰属意識という狭い定義にとらわれず、西ヨーロッパ社会の一員であるドイツ国民という意味でのナショナル・アイデンティティの再構築が試みられた。ドイツの侵略戦争の犠牲となったポーランド、オランダ、ベルギーといった周辺国も後押しした」。

 「こうしたアメリカの日独に対する対応の相違は、過去の戦争に対する認識を、近隣諸国の認識や理解のなかで検証するという機会を持ち得たドイツと、そうではなかった日本という差異をもたらした。講和体制は、日本が過去の戦争の解釈や認識を形成する上で、被害を受けた近隣諸国との間で共有できる解釈や認識は何かについて、深く検証する妨げとなったのである」。

 歴史問題だけでなく、EUと東アジア共同体という地域共同体の比較もできないことがわかる。西ヨーロッパはまとまりのあるユニットが歴史的文化的にも形成されていたから、その積み重ねとしてEUが成立したのであり、東アジアは積み重ねができない状況にある。だからこそ、ひとつずつ努力を積み重ねて近隣諸国との関係を改善していかなければならない。

 その基本となるものに、歴史資料がある。日本は2001年にアジア歴史資料センターを開設したが、公文書の公開はひじょうに遅れ、歴史研究の大きな妨げになっている。たとえ研究成果で確固たる事実が解明できても、政府がそれを認めるとは限らない。また、歴史教育の問題について、著者はつぎのように述べている。「学術レベルの成果が、国民レベルの議論や歴史教育にも反映され、共有されるとは限らない。日中双方とも、それぞれ異なる意味で「国内問題」としての歴史問題を抱えている。中国の場合は、「抗日戦争」の勝利が現政権の基盤となっているとすれば、それに抗するような歴史教育はあり得ない。他方、日本は多様な歴史観の共存を保障し、教科書検定制度もそれを前提としているため、公的支援による歴史研究の成果も権威を持ち得ない」。

 帯の表に「民主国家日本を縛り続ける帝国日本という過去」とあり、そこから解放されることは並大抵でないことが、本書からわかった。著者は、この困難な問題にたいして、「終章「平和国家」と歴史問題-未来への説明責任」で、沖縄の問題を大きく取り上げ、沖縄の理解なしに「平和国家論」は成り立たないことを示唆している。そして、歴史研究者として、「歴史編纂とパブリック・メモリー」の必要性をつぎのように主張している。「「歴史問題」が東アジアにおける国際協調の課題となり、一国の歴史は他国の歴史との関連においてこそ初めて意味を持つ、そのような時代にわれわれはさいしかかっている。国の営みのなかで何を記録として後世代に残していくか、という問題を考えるとき、歴史の語られ方は異なっても、東アジアのすぐれた経験は活かし得るはずである」。

 さらに、最後の見出し「未来への説明責任」を、つぎのことばで結んでいる。「平和国家論をいわば「国是」として守り抜こうとすれば、そこに沖縄からの批判にも耐え、村山談話[戦争への反省]を力強く支えるような内実を与える必要がある。その内実とは、近代日本の絶え間ない戦争と帝国圏の膨張の遺産について、広く歴史的検証可能な知的基盤の形成にあろう。それは、国や地方を問わず日本の行政機関に著しく欠けている「未来への説明責任」を果たすためでもある」。

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2012年04月03日

『「国民国家」日本と移民の軌跡-沖縄・フィリピン移民教育史』小林茂子(学文社)

「国民国家」日本と移民の軌跡-沖縄・フィリピン移民教育史 →bookwebで購入

 昨今の博士論文のなかには、とても出版にたえないものがある。脈略のない論文が数本並んでいるだけで、全体を通してなにが言いたいのか、とくに専門外の者にはさっぱりわからないものがある。その点、本書は安心して読むことができた。序章、2部8章、終章からなり、序章と終章で全体像がはっきり示されている。各章にも「はじめに」と「おわりに」があり、わかりやすい。

 本書の特徴は、つぎの3つの研究領域を交錯させて論じていることである。すなわち、「近代沖縄教育史研究、植民地教育史研究、そして沖縄移民(史)研究である」。著者、小林茂子にとって幸いだったのは、それぞれの領域には膨大な研究蓄積があったことである。それを素直に学びとり、つぎの2つの課題を設定した。「第1は、戦前期沖縄において展開された移民教育を、国・県の移民政策との関連性をふまえつつ学校教育、社会教育双方から把握し、その実践を歴史的総体的にとらえるということである。そのために後節で詳述するごとく、戦前期沖縄の移民教育に関する時期区分を試み、それぞれの時期の特質を明らかにしていく。これが第1の課題である」。

 「第2は、フィリピン・ダバオの沖縄移民の意識構造を、移民個人の生活世界から描き出すとともに、フィリピン・ダバオがおかれた政治的経済的な外部状況とを関連させて明らかにするということである。とくに、移民二世の意識形成を考える場合、日本人学校での「臣民教育」の影響は大きいといえるが、同時に家庭における沖縄文化の伝承という側面にも着目しつつ、それと外部世界との関係を考えたい。これが第2の課題である」。

 「つまり、沖縄における移民教育の実践の歴史的事実の把握(第1の課題)という作業から、移民に対し沖縄での教育がいかなる役割を担ったのかを問い、また、渡航地フィリピン・ダバオでの移民の自己意識の形成(第2の課題)という内面の問題について、それが移民にとってどのような意味があったのか、これらの諸点を移民送出地域と渡航先双方を視野にいれて、沖縄の移民教育を総体的に解明することにある」。

 本書の目的は、「終章」の冒頭で、つぎのようにまとめられている。「本研究の目的は、「風俗改良」の取り組みから「国策」移民のための教育へと変わっていく、沖縄における移民教育の実践状況と、フィリピン・ダバオにおける沖縄移民の自己意識の形成という2つの局面から、差別に対する沖縄移民の、生き抜くための適応と内面変化の過程を解明することにあった」。

 そして、「この2つの局面をとらえる視点として、次のような分析枠組みを設定した。すなわち、1つは戦前期沖縄における移民教育の特質を時期区分にそって明らかにしつつ、そこから「必要的同化」と「文化的異化」の側面を析出した。また、もう1つはフィリピン・ダバオにおける沖縄移民の自己意識を「日本人意識」と「沖縄人としてのアイデンティティ」という二層の意識構造としてとらえ、その関係性を追求した」。

 続けて各章ごとに論点を整理し、最後に「移民研究の教育学における意義と今後の課題」を探り、つぎの4点にまとめている。「第1は、戦前と戦後における沖縄県の移民教育についての連続面、断続面を明らかにする必要がある。戦後も沖縄からは多数の移民が送出されており、そうした状況のなかで移民教育はどのように実施されたのか、それは移民自身の自己意識にどのような影響を与えたのか。アメリカ占領期の教育改革とのかかわりから本土復帰後の学校教育、社会教育両面において、解明する必要があるだろう」。

 「第2は、沖縄県のほかにも「移民県」と称されていた広島県、長野県、和歌山県など、移民を多く送出した地域で実践された移民教育史を掘り下げ、それらと沖縄県との比較・検討が重要な課題となる。とくに移民の送り出しには地域史とのかかわりが大きいが、移民=棄民の考えがあり、これまで地域史あるいは地域の教育史のなかに移民はほとんど登場しなかった」。

 「第3に、フィリピンへの沖縄移民をさらに太平洋諸島に渡った移民と比較検討する視点も重要であると考える。太平洋諸島への移民は、日本やアメリカ、イギリス、フランスなど欧米諸国とのかかわりが大きい。フィリピンも含めこれらの地域への移民の実態を広く世界史的視野からとらえる必要がある。それは移民に関する教育についても同様であり、フィリピンや太平洋諸島の移民教育史を植民地教育史との連関も視野にいれて、よりグローバルな視点から把握する取り組みが重要になってくると考える」。

 「最後に、フィリピンへの沖縄移民も含めたアジア諸国への日本人移民についての教材化を進めることも、必要な課題となろう。それは上述のごとく移民研究と移民を取り上げた教育実践との連携をより進めるという点でも重要であるが、今後経済協力協定(EPA)に基づいて、日本へインドネシアやフィリピンなどアジアの労働者が増加する可能性があるという、国際的な状況もある。そうした人たちをどう受け入れ、相互理解を図り共生していくのかという、現実的な教育実践課題としても深めるべき必要性があると考えている」。

 長年、教育の現場にいただけに、著者は研究をどう実践にいかすのかを問うている。本文のなかでも、生徒、教師、保護者の顔がちらついてきそうな場面がいく度かあった。研究面だけでなく、研究対象とどう向き合うべきか、学ぶことが多々あった。

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