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2012年03月27日

『経済大国インドネシア-21世紀の成長条件』佐藤百合(中公新書)

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 タイトルから当然インドネシアのことが書いてあると思っていても、帯にある「アジアの臥龍が いま、目覚める」とは、いったいどこのことだろう、と思った人がいるかもしれない。背には「中国、インドのあとを追え」とあり、帯の裏には「豊富な人口と資源を武器にアジア第三の大国へ」とあるが、インドネシアを「大国」といわれてもピンとこないかもしれない。このあいだまで、インドネシアといえば、「暴動、紛争、自爆テロ、地震・津波、鳥インフルエンザ」と、「混乱と停滞」のイメージがあった。

 そんな人も、帯の裏の的確なつぎの要約を読めば、本書で語ろうとしていることに、興味がわくことだろう。「リーマンショック後の二〇〇九年秋、欧米の格付け会社が、インドネシアの持続的成長能力と財政的安定を評価し、国債の格付けを引き上げた。以来、インドネシアの有望性は世界が注目するところとなる。二億四〇〇〇万近い人口と豊富な資源を背景とした潜在的な国力は、二〇〇四年、ユドヨノ政権になって以降の政治的安定によって、さらに強固な成長要因となっている。中国、インドに続く、〝アジアの大国〟のこれからを展望する」。

 中国、インドに続く大国ということは、東南アジア一の大国ということになる。東南アジアなら経済的にはタイのほうが上であろう、将来性ならベトナムのほうが上であろう、と思う人がいるかもしれない。インドネシアの2009年の名目GDPは、49兆円である。それにたいして、タイは24兆円、ベトナムは9兆円しかない。今後5年間の増加額の予想は、インドネシア50兆円にたいして、タイは14兆円、ベトナムは8兆円である。これらの数字から、著者佐藤百合は、「「タイ、ベトナムと、インドネシアとは何が違うのか」という問いに対する一つの答えは、「規模が違う」ということになる」と答えている。

 さらに、インドネシアは「人口ボーナス」という点で、タイやベトナムより将来性があるという。「人口ボーナス」とは、「生産年齢人口が総人口に占める割合(生産年齢人口比率)が上昇していく局面」のことで、インドネシアはタイやベトナムより長く続くことが予想されている。日本はもちろん、中国なども少子高齢化で、生産人口の割合は減っていく。つまり、インドネシアは生産力が向上し、経済成長が長く続くということである。

 そして、1998年のスハルト政権崩壊後、インドネシアは民主化が進み、大きく変わってきている。ひとつは、汚職が「文化」から「犯罪」になったことである。たしかに「汚職との闘いは、今後も多難が予想される」。「だが重要なことは、「汚職は犯罪」というパラダイムはもはや変わらない、ということである。汚職にペナルティを科する法制度も、メディアやNGOや国民による監視の目も、もう後戻りすることはない。その意味でインドネシアは、間違いなく新しい時代に入った」。

 中央と地方の関係も新しい時代に入ったことは、つぎのように説明されている。「スハルト政権崩壊後、地方分権化へと時代は変わった。鉱業、林業、水産業などの資源収入はその八〇%を地元に還元するという方針が、一九九九年中央・地方財政均等法で定められ、二〇〇一年一月から施行された。中央政府にとって重要な財源である原油と天然ガスについては地元への還元比率がそれぞれ一五%と三〇%に抑えられたが、それでも地方の政府と社会にとってインパクトは絶大である」。  華人の政界進出も、新たな現象である。「国会議員五六〇人のうち、華人議員は一四人になった。華人系住民の多い西カリマンタンとブリトゥン島では、直接選挙によって華人の市長と県知事が誕生した。政治はプリブミ[先住マレー系住民]、経済は華人という分断の構図は、華人の側からも少しずつ変わり始めている」。

 このように変わりはじめているインドネシアを見る目を、日本も認識しなければならない、と著者は説く。「インドネシアが変わり始めている証左の一つに、すでにみた援助依存からの訣別がある。日本からの援助残高はまだ例外的に大きいが、毎年の支出純額でみれば二〇〇六年から連続してマイナスを記録している。つまり、援助供与額より返済額の方が上回っている」。「日本のソフトパワーをインドネシア人に理解してもらうのと同じように、日本人もインドネシアのソフトパワーを理解しようとすることが大切である」。

 そのためにも、インドネシア人の日本観を知ることが必要であり、インドネシア人研究者がその変遷をつぎの六段階に分けて考察したことを紹介している。「①占領者としての日本、②従軍慰安婦を強いた日本、③開発資金提供者としての日本、④先進国としての日本、⑤ハイテク国の日本、⑥ポップ文化の日本、である」。「①と②が区別されているのは、従軍慰安婦問題の責任と補償が今なお未解決の問題として認識されているからである。①②における「野蛮で残虐」な日本観は、③を資源獲得のための経済的侵略とみる見方に姿を変えて一九七〇年代半ばまで色濃く残っていたという。その後④⑤⑥を経て、憧れの日本観が前面に出てきた現在においても、インドネシアのすべての生徒たちは①②の歴史を小学六年と中学二年で必ず学ぶのである」。

 本書で伝えたかったことを、著者は「終章 21世紀の経済大国を目指して」の冒頭で、つぎのようにまとめている。「二〇〇四年に民主主義を確立したインドネシアは、政治体制の安定を確保した。これから二〇三〇年にかけて、インドネシアは人口ボーナスの効果が最も大きくなる時期に差しかかる。この二つの条件を得た今、人口、資源、国土からみたインドネシアの潜在的大国性が活かされる局面に入った。インドネシアはこれから、まととない持続的成長のチャンスを迎える。これこそが、この本で私が伝えたかったインドネシア像である」。

 AKB48に「はまる」プチンタ・ジュパンとよばれる「日本愛好者」があらわれ、姉妹グループのJKT48が海外で初めて結成されたことと同時に、プチンタもメンバーも日本の負のイメージがつきまとう①②を学校教育で学んでいることを覚えておく必要があるだろう。日本人のメンバーもファンも、①②のことを知っていなければ、どこかで取り返しのつかない歪みが生じるかもしれない。このことは、若い世代の日本人だけに言えることではない。かつての「援助大国」日本のイメージでインドネシアと接していると、とんでもないしっぺ返しを「経済大国」インドネシアから食らうかもしれない。このことは対等な関係でつきあえるということを意味し、歓迎すべきことである。著者が、「日本こそが変わる時」と強調するのも、日本人が時代や世界から取り残されていっていることを肌で感じているからだろう。本書は、たんにインドネシアとの関係だけを問うているのではない。世界からこれからの日本・日本人が問われていることを伝えている。

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2012年03月20日

『日本地図史』金田章裕・上杉和央(吉川弘文館)

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 東南アジアでフィールドワークをしているとき、現地の人びとが地図が読めないために、難儀をしたことが何度かあった。地図が読めるようになる日本の地理教育は、すごいとも思った。だが、あるとき、現地の人が地図を指してなにやらつぶやいているのを聞いて、ハッとした。「ここは陽が当たらない」と言っているのだ。日本の近代地理教育で、「陽が当たらない」という発想はない。しかし、そこの住民にとって、農作物を植えたりする生活上、「陽が当たらない」ことはひじょうに重要なことだ。自分の調査のことしか考えず、地図がだれのためなんのためにあるのかを考えていなかった自分が恥ずかしくなった。本書でも、まずそれぞれの時代や社会が、地図になにを求めようとしたのかを基本に読んでいこうと思った。

 本書の目的は、「はしがき」でつぎのように述べられている。「日本は、この地図史をたどる資料にめぐまれていると言ってよい。八世紀の地図の実物が二〇点以上も伝存する国はほかに存在しないのではないかと思う。国家の土地政策を反映した、特徴的な古代の地図に加え、絵画的要素の多い中世の地図、手描き図に加えて印刷図が一般化した近世の地図など、多彩な地図の内容とその変容を紹介しようとするのが本書の目的である。近代地図の成立過程における多様な状況についても言及したい」。

 Ⅰの表1「日本における古地図の機能と表現対象」は、8~18世紀の地図を分類し、時代ごとに機能を整理してくれているので、ひじょうにわかりやすく、これが頭に入っていると本書が読みやすくなる。世界・国・小地域の3つのレベルのスケールに分け、それぞれをつぎのように説明している。「世界レベルの地図は、世界観・世界認識を表現したものであり、近代ヨーロッパの世界図を受容し、[天文学者]高橋景保のようにその精度を高める段階に入ってはじめて、国土把握と同水準の世界把握へと転換する」。「国レベルのスケールの地図は、八世紀にすでに国土把握のために作製されたことが明らかであり、古代・近世の国・郡図はその精細図である。ただし、中・近世の日本図では、周辺に雁道(かりみち(がんどう))や羅刹(らせつ)国など想像上の土地が描かれているものも多く、この点では世界観をも表現していることになる」。「小地域レベルのスケールの地図はきわめて多様であるが、大別すれば三つのグループとなる。①土地の面積や場所、あるいはその広がりの状況を表現する地図、②道・用水・建物など多様な建造物・構築物あるいはその集合体ならびに集落などの実態や利用状況を把握・表現する地図で、土地そのものを直接的に表現することが主目的ではない地図、③各種の推定・考証・復原などのための地図で、世界観・歴史観などを反映してはいるが小地域を対象としたもの、である」。

 地図が重要な歴史資料であることは、だれもが認めることだろう。しかし、だれもが簡単に読めるわけではない。著者は、その困難さをつぎのように述べている。「言語は、一語ずつ順に話され、書かれ、読まれる。地図という言語はしかしそうではない。地図を読む順番は定まっていないのである。地図を描いた順に読む、という必要はなく、また地図をどういった順に描いたのかはむしろ不明であることの方が多い。にもかかわらず、空間表現のためには地図は不可欠であり、地図というもう一つの言語でなければ、表現し伝達することが困難なことがらがある」。それが、1970年代以降、「地理学および歴史学の研究者による研究成果が次々と提出され」るようになった。「そこには、国絵図が単に地図史にとどまるのではなく、政治史にも密接にかかわる史料であることが専門家以外にも周知され、国絵図への関心が高まっていったこと、文字資料以外の絵画資料を用いた歴史研究が進展し、「史料」としての位置づけが適切に与えられるようになってきた」ことが関係していた。

 歴史研究にとって地図がいかに有用であるかは、本書で取りあげられている江戸時代に蝦夷地が描かれていても、琉球が描かれていない例などからわかる。伊能図では「日本」が描かれていたが、その「日本」に琉球が含まれていないことを、著者はつぎのように説明している。「それは伊能忠敬の測量隊が琉球まで及んでおらず正確さを期すことができなかったからであることは容易に想像され、この点では享保日本図と同じ姿勢であることになる。ただ、北方の蝦夷地のうち、西蝦夷については忠敬の測量隊は赴いていないにもかかわらず、間宮林蔵(まみやりんぞう)によると思われる測量成果によって補足されるのである。未測量であった問題、距離の問題といった点があるにせよ、伊能忠敬ないし伊能図を最終的に取りまとめた高橋景保らにとって、北方と比較して南方への意識は乏しかったといわざるをえないだろう」。

 豊田市近代の産業とくらし発見館企画展「白瀬矗(のぶ) ~夢の南極大陸へ~」(1月18日~3月25日)をみた。その趣旨は、つぎのように説明されている。「明治45年(1912)1月28日 午後0時20分、白瀬矗(しらせのぶ)陸軍中尉率いる日本南極探検隊は、南緯80度5分、西経156度37分の地点に到達し、ここに日章旗を立て、見渡す限り一帯を「大和雪原(やまとゆきはら)」と命名しました。当時、南極点を目指した他国のライバル探検隊に比べ、日本南極探検隊の装備は極めて乏しいものでしたが、一人の死傷者を出すことなく帰還したのは驚くべき快挙であり、また、学術調査の上でも大きな成果を挙げました。今回の企画展は、白瀬日本南極探検隊100周年記念プロジェクトの一環である全国巡回展示を迎え、白瀬中尉の生涯と彼が率いた日本南極探検隊の偉業を展示タペストリーで紹介します。さらに、長年の夢であった南極探検を成し遂げた“刻の英雄”白瀬中尉が、その後どのような生活を送り、終焉地「挙母[ころも]」(現在の豊田市)へと辿り着いたのか、その後半生を多くの方に知っていただければ幸いです」。

 白瀬は、南極探検を志す前に千島列島で苦難の日々を過ごしている。探検家の関心は苦難をともなう寒冷地にあって、「楽園」である南方ではなかったのだろう。また、ロシアの東漸ともかかわりがあったのだろう。そして、白瀬は晩年まで「大和雪原」を日本の領土であると主張していた。19世紀の日本の地図は、北方への関心、領土獲得のための探検を、どんな文献よりも雄弁に語っている。地図はいろんなことを語ってくれる。それを聞くことができる「耳」をもちたいと思った。

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2012年03月13日

『バターン 死の行進』マイケル・ノーマン/エリザベス・M・ノーマン著、浅岡政子/中島由華訳(河出書房新社)

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 タイトルの「バターン」と帯の「日米両軍を公正な視点で徹底的に検証した衝撃の書!」、そして訳者名を見て、本書に期待するものはあまりなく、しばらく書棚に放っておいた。読んでみて、思った通りの内容だった。

 期待しなかったのは、フィリピン側の視点がなさそうだったからである。開戦当時1600万人が暮らすフィリピンで、日本人とアメリカ人が戦った。フィリピン人にとって、迷惑な話どころではない。アメリカ人が日本人の視点で語ろうが、戦争の真実を語ろうが、そこに暮らす人びとのことが語られなければ、なんの意味もない。日本人が1000人ほど住んでいた硫黄島の戦いを、日米双方の視点で語るのとは根本的に違う。フィリピン語をちょっとでも知っていれば、「バターン」ではなく「バタアン」と表記したであろうし、本文でもフィリピンのことを知っていないために苦笑することがあった。英語がよくできるだけではわからないことがあるため、フィリピンの専門家を監修者に加える必要があった。

 著者は、フィリピンのことをまったく念頭に置いていなかったわけではない。「日本の読者の皆様へ」で、つぎのように書いている。「本の執筆にあたっては、戦争の痛ましい真実を知らしめると同時に、戦争を主題とする書物にしばしば見られる脚色を排除するため、三つの視点を用いる必要があった。アメリカ人、フィリピン人、そして何よりも日本人の視点である」。たしかに、フィリピン人にかんする記述がまったくないわけではない。また、フィリピン人研究者で第一人者のリカルド・ホセの助言を得て、写真を借用して掲載している。しかし、かれの気持ちは理解できなかったようだ。このことは、戦争中にアメリカ人がフィリピン人を軽視したことと同じだろう。

 著者のフィリピン観は、冒頭のつぎの1節によくあらわれている。「一八九八年以来アメリカに占領されていたフィリピンは、周辺の地域よりやや発展が遅れていた。シンガポールの活気とも香港の繁栄とも無縁のこの地を、当時のガイドブックは「楽園」と呼んだ。実際、マニラは美しかった。ヤシの木々が入り江の防波堤をそっと見下ろすように並び、夜になると常緑高木カミアスの甘い香りがあたりを立ちこめた」。そこに、植民地支配下で暮らす人びとの息吹は、まったく感じられない。

 本書の目的は、「日本の読者の皆様へ」の冒頭で、つぎのように述べられている。「私たちが本書を執筆した目的は、戦争の真実を伝えることだ。戦いの火蓋が切られるやいなや、敵味方を問わずあらゆる人びとが損失をこうむる、議論の余地のない真実を」。そして、その「真実」は、敵であった元日本兵から話を聞くことで、著者はつぎのように考えた。「アメリカと日本とでは文化がはなはだしく異なったうえ、両国それぞれがプロパガンダ作戦をくりひろげていたが、バターン半島に送りこまれた日本兵は、根本的には、その敵だったフィリピン兵やアメリカ兵とそれほど変わらなかったに違いない、と」。「だからこそ、バターンの戦いの最中からその後にかけて行なわれた、残虐で非道な仕打ち-弁解も否定もできない虐殺行為-にはとまどいを禁じえなかった。私たちは首をひねった。農業や工場労働に従事していた日本の分別ある若者たちが、人として守るべき法規をないがしろにし、武器をもたない無抵抗の者、すなわち民間人と戦争捕虜とに不寛容だったのは、いったいどうしてだろう? 無慈悲で恥知らずな振る舞いにおよんだ日本兵が少なくなかったのは、どういうわけだろう?」。

 本書の原題である「暗涙Tears in the Darkness」は、バタアン戦の司令官であった本間雅晴中将がバタアン戦の最中に戦死者名簿を前にして涙を流したという逸話にちなんでいる。著者は、「戦争とは敵味方のいずれにも残酷なものであり、いずれにも無意味な損失を強いるのだという私たちのテーマが、この表題によくあらわれていると思う」という。では、敵でも味方でもないのに日米戦に巻き込まれたフィリピン人の涙は、どのように理解したらいいのだろうか。日米戦を越えた戦争の悲惨さを語りたいのであれば、フィリピン人の視点が是非とも必要だった。

 本書から学んだことはたくさんあったが、ナショナルヒストリーは越えても帝国史観から抜け出せなかったことで、書く段になってわたしの頭からすべて消えてしまった。

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2012年03月07日

『戦争の記憶を歩く 東南アジアのいま(3刷)』早瀬晋三(岩波書店)

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 ちょこっと4頁ほど、増補した。だが、この差は大きい。

 本書の英訳A Walk Through War Memories in Southeast Asia (Quezon City: New Day Publishers)を2010年に出版し、それを読んだアテネオ・デ・マニラ大学の学生(20歳前後)51人から感想文が届いた。それらをまとめて、「戦争認識のすれ違い-日本人学生とフィリピン人学生-」(『大学教育』大阪市立大学、第9巻第1号、2011年9月、25-32頁)を書いた。増補した4頁は、そのダイジェストである。

 日本と中国、日本と韓国の歴史認識の相違については、内外でたびたび取りあげられ、共通教科書作成の試みもされている。中国人や韓国人で日本語文献を読むことができる者も多く、また日本語から中国語、韓国語に翻訳されたものもある。しかし、日本が戦場とした東南アジアの国ぐにの研究者で日本語の文献を読むことができる者はほとんどいない。したがって、歴史認識の違いについて取りあげられたとしても、共通の文献を読んだうえでの話ではない。増補した部分は、本書の英訳を母国語同様に読むことができるフィリピン人エリートに限られているとはいえ、日本人学生と同じ本を読んだうえでの歴史認識の違いを明らかにしたものだ。

 ついでに、書評などで指摘された間違いや誤解を招く表現を書き改めた。研究者でない者にとっては、出版されたものに間違いがあるなど、とんでもないことのように思えるかもしれない。しかも、岩波書店のように内容チェックが厳しいところでは、そのようなことはありえないと思われるかもしれない。しかし、現実は高校歴史教科書にも間違いがあることを、拙著『未来と対話する歴史』(法政大学出版局、2008年)などで指摘し、その原因も示した。

 専門の殻に閉じこもり、原史料からわかることだけを書いていれば、恥をかかないですむ確率は高くなる。しかし、自分の専門を相対化するために、視野を広げることは、グローバル化時代の歴史学にとって必要不可欠なことだ。日本史と中国史、朝鮮史を寄せ集めても東アジア史を語ることができないように、日本がつくった戦争空間としての「大東亜共栄圏」を語るには、それぞれの国の専門家が書いたものを寄せ集めるだけでなく、ひとりで執筆することも重要である。自分の専門領域なら、概説書を書くときも原史料や専門書が頭に浮かぶ。だが、原史料を読んだことがなく、専門書も限られたものしか読んだことがない領域は、単純な間違いをしても気づかない。その危険を冒しても、書く必要があるのは、マイナス面よりプラス面のほうがはるかに大きいからである。「専門外のことは書くな」と言えば学問の発展はないし、人びとはひじょうに視野の狭いものしか読むことができず、偏狭なナショナリズムのもとでは国際紛争・戦争にまで発展してしまう。専門家が100度行っても書けないことが、専門外の者が別の視点から見て1度行っただけで書けることもある。

 研究者を長年やっていれば、他人のあら探しはそれほど難しいことではない。ましてや専門外の者が、視野を広げて書いたものはケチをつけやすい。批判するときは、自分が書くことを想定して、いかに建設的なことがいえるかが重要になる。言い換えれば、自分自身の執筆のために、いかに生かすかを考えると、まず執筆者から学ぶという姿勢が重要であることに気づく。学ぶという観点で批判するなら、まず自分自身が執筆者の視点に立って正確に読むことができたかが気になるはずだ。読めていないのに、批判はできないのだから。研究者が多く成熟した分野ならいざ知らず、東南アジア史のような研究者が極端に少ない分野では、互いの長所・短所を認めあってともに発展していきたい。

 ともあれ、どのように正当化しようが、間違いや誤解を招くことを書いたことは恥ずべきだ。指摘されたことに、素直に感謝したい。そのお蔭で今回訂正することができ、読者により正確に伝えることができたのだから。

 本書タイトルの一半は、「東南アジアのいま」である。本書を読んで、東南アジアの戦跡巡りをした人には、たいへん申し訳ないことをした。本書日本語版が出版された2007年には、本書に書かれた内容とは違う状況になっていた。すでに「いま」ではなかったのだ。とくにシンガポールがそうで、今回つぎのような追記を入れた。「二〇一一年一一月にシンガポールを再訪したところ、博物館の展示内容が大きく変わっていました。「シンガポールのイメージ」館から「降伏の間」がなくなり、日本占領期のものは一コーナーしかありませんでした。「降伏の間」の展示は、シロソ砦に分散展示されています。また、晩晴園は孫文に集中した展示の孫中山南洋紀念館となり、日本占領期にかんするものはなくなりました。ディスカバリー・センターの日本占領期関連のものもなくなりました。代わって、新たに日本占領期にかんする博物館Memories at Old Ford Factoryが、二〇〇六年にオープンしました。山下中将がパーシバル中将に降伏を迫り、イギリス軍が降伏した場所です。国立博物館も二〇〇六年に再オープンし、記録と証言を中心に歴史と文化を紹介する「歴史ギャラリー」で充実した展示をしています」。また、マレーシアの国立歴史博物館は2007年に閉館し、展示は国立博物館に移っています。

 本書では、そのことを見越して、2007年に出版したとき「序章」でつぎのように書いていた。「記念碑は壊されることがあり、博物館の説明文は時代によって変わります。後世の歴史研究のために「史料」として記録し、残すという役割も果たします」。本書も、現地調査してから10年近くになり、けっして「いま」ではなくなった。しかし、フィリピン人学生が本書を読んでどう思ったのかの「いま」を加えることができた。新たな視点で、読んでいただけることを期待している。

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