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2012年02月28日

『新しいASEAN-地域共同体とアジアの中心性を目指して』山影進編(アジア経済研究所)

新しいASEAN-地域共同体とアジアの中心性を目指して →bookwebで購入

 半信半疑でミャンマーの「民主化」報道を見聞きしている者に、本書はそれを確信させるひとつの材料を提供してくれる。ミャンマーの「民主化」に、ASEANが大いにかかわっているのである。本書は、そのASEANが「一九六七年の設立から現在までの歴史を辿るとともに、どこへ向かおうとしているのかを多面的に展望する」概説書である。

  「民主化」の兆しが見えだしたミャンマーに、日本を含め各国が急速に接近している。豊富な天然資源に加えて、人口5000万の格安の人件費が魅力だ。どれだけ安いか比較してみよう。日本貿易振興機構の調べによる2011年8月時点の月給は、ミャンマー68ドル、ほかの東南アジアでは安い順からカンボジア82、ベトナム123、インドネシア205、フィリピン248、タイ286、マレーシア344、シンガポール1285である。隣国の中国306、インド280、そしてユニクロなどが進出しているバングラディシュが78である。

 いっぽうで、これだけ人件費に違いがあるASEAN各国が、なぜ近年結束を強めているのか、疑問にもつ人がいるだろう。本書「まえがき」では、つぎのように説明している。「ASEANに見られるアンバランスは、多種多様な東南アジアの国々をASEANという言葉で一括りにしてしまうことから生じている。実際、国土や人口や経済の規模はもちろんのこと、政治体制や産業構造、近年の歴史経験、さらには近隣諸国との関係でもASEAN内部のばらつきは甚だしく大きい。むしろ、これほどばらばらな国々がASEANとしてひとつにまとまっていることの方が、アンバランスの存在よりもはるかに驚くべきことなのである。そこには、まとめようとする力が働いており、将来に向けての共通の目標を作ろうとする力が働いている」。つまり、ASEANは未来志向で、まとまっているのである。

 本書の内容、目的については、同じく「まえがき」でつぎのように述べている。「本書は、いままであまり注目されてこなかった制度としてのASEANに焦点を当てて、東南アジアの秩序の形成や東アジアの政治経済の枠組み作りで重要な役割を果たしている現実を紹介するものである。言い換えれば、いわゆるASEAN経済の可能性を強調するのでもなく、ASEAN諸国の国際関係や国内政治を批判するのでもなく、「ASEANそのもの」を総合的に描くことが本書の目的である。この意味で、一部の研究者が議論してきた「ASEANそのもの」について、東南アジアはもちろんのこと、東アジアの政治経済に関心を持つ人々やグローバル化する世界のなかの地域化・地域主義に関心を持つ人々が思いを馳せる機会を本書が提供できれば望外の喜びである」。

 そして、各章の内容を、つぎのようにまとめている。「まず、第一章では、発足からはや半世紀にならんとするASEANの大きな流れを紹介する。続けて、いま、変わりつつあるASEANの全体像を描く。具体的には二〇一五年に向けてのASEAN共同体創設の動き、それと連動する広域制度構築、そして二〇〇八年に発効したASEAN憲章をふまえたASEANの変革について論じる。ASEAN共同体は三本柱から成る。第二章から第四章までは、それぞれについての概説と課題を論じる。すなわち、第二章は政治安全保障共同体を、第三章は経済共同体を、第四章は社会文化共同体を扱う。第五章は、広域秩序の中心としてのASEANが果たしている役割を議論する。第六章と第七章は、ASEAN憲章を題材にして、変わりつつある姿を論じる。第六章は組織改革を、第七章は規範変容を扱う」。

 「貿易自由化でも地域共同体形成でも常に東アジアの動きを一歩リードしてきた」ASEANが、いま大きく変わろうとしていることを、第一章では、つぎのように説明している。「二〇一一年、議長国インドネシアのイニシアティブで、ASEANは「グローバルな国際共同体のなかのASEAN共同体」をメインメッセージとして掲げることを決めた。これは、二〇一五年にASEAN共同体ができるのを見越して、さらにその先の目標を打ち出そうとしたものである。すなわち、二〇二二年(ASEAN創設五五周年)までに、ASEAN共同体をさらに強化し、地球規模の問題にASEANが関与するような制度構築を目指そうとする決定である。具体化(宣言の起草)は、外相会議に委ねられたが、東アジアあるいはアジア太平洋におけるASEANではなく、グローバルな世界のなかにASEANを位置づけようとする新たな試みが始まったようである」。

 ASEAN共同体の特徴は、政治、経済と並んで三本目の柱になっている「社会文化共同体」を目指していることだろう。二〇〇九年の首脳会議で採択された青写真で示された社会文化共同体の主要な目標は、「民衆志向で共通のアイデンティティと持続的な連帯感を持ち、「思いやりと分かち合いのある社会(a caring and sharing society)」を構築すること」だとされ、その目標に向けた課題として、「人間開発、社会的厚生、社会正義と権利保障、環境の持続性、ASEANアイデンティティの構築、およびASEAN原加盟国と新規加盟国との格差是正」の6つがあげられた。中央集権的に考えられる政治や経済と違い、社会文化は東南アジアの多様性、とくに中央と地方を意識して考慮したものだろう。

 ASEANがこれまで結束できたのは、「自分たちの国が抱えている脆弱性に対する強い危機感」があり、「利害対立や意見の相違を抱えながら、「小異を残して大同につく」ことを実践してきた」からである。いい意味のアバウトさをもっていることで、これまでも数々の分裂の危機を回避することができたのである。国際的に非難されたミャンマーの人権と民主化の問題も、「一九九九年以降ASEANは国際社会において基本的にミャンマーを擁護する姿勢を継続させ」、「厳しく非難したり孤立させたりせずにあくまで穏健な路線を保ち続けること」で、「建設的関与」の有用さを示めそうとした。その結果が、今日の民主化への動きにつながった。これまで何度も期待を裏切られてきたため、ミャンマーの民主化が本物であるのかどうか、まだ半信半疑である。しかし、本書を読むと、いままでと違いASEANの力が働いていることがわかる。本物になることを切に願いたい。

 本書では、ASEANの結束を未来を見据えているからだとしているが、歴史的文化的にも共有するものがあるからだろう。近代国民国家の成立とともに首都を中心とした領域ができたが、中央集権化された国家機構とは無縁な自立した社会が山間部や離島だけでなく、首都のすぐ近くや都市のなかの新たなコミュニティにも存在している。国境を無視したヒトやモノの往き来も、厳しく取り締まられていないところがある。ASEANはそういった厳密さを欠く社会秩序を受け継いでいるからこそ、「結束」できているのではないだろうか。ほかの先進国主導の地域共同体とは違うあり方が、ASEANにはある。東南アジアが、近代に成立・発展したディシプリンでは充分に研究できず、地域研究という新たな手法が必要であったのも、その基層社会の理解が必要であったからだろう。

 最後に蛇足であるが、本書のような優れた概説書の製本としては、ひどすぎる。奥付きの「印刷」を見て納得したが、何度も議論を重ねた共同研究の成果にたいしてふさわしくない。

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2012年02月21日

『両インド史 東インド篇』ギヨーム=トマ・レーナル著、大津真作訳(法政大学出版局)


両インド史 東インド篇〈上巻〉
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両インド史 東インド篇〈下巻〉
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 本書を、わたしはどのように読んだらいいのだろうか。本書の出版されたフランス革命前夜の研究なら、それなりの読み方があるだろうが、17世紀の東南アジア史研究のために本書を読むとなると、どのように読んでいいのかわからない。18世紀後半の著者の目を通したものであるから、原史料ではない。近現代の研究者のような客観性もない。1字たりとも引用することはできない。しかし、18世紀後半のヨーロッパ人知識人が、どのような「東インド」観をもっていたのかはわかる。それも、16世紀からの連続性のなかで、理解することができる。本書を自分の研究に活用できないのは、明らかにわたしの未熟さによる。

 本書は、レーナル編纂の『両インドにおけるヨーロッパ人の植民と貿易の哲学的・政治的歴史』全19篇のうち最初の5篇を訳したものである。初版は1770年に出版され、何度も版を重ねている当時のベストセラーである。その理由とその後の顛末を、上巻の「訳者解説」では、つぎのように説明している。「初版本がフランスか、オランダかで印刷され、流布され始めたときは、ちょうどルイ一五世(一七七四年没)統治の晩年で、フランス社会の軋轢が表面化してきた時期にあたっていた。本書は、宗教的狂信と専制主義に反対する意見をふんだんにちりばめていたので、新時代を予感して、哲学と政治に熱をあげていたフランスの世論に大いに受けた。そのため、政府が当初許可した二五部は、たちまち売り切れとなってしまった。本書がパリに流布し始めた七二年春には、検閲当局は、その大胆なキリスト教批判や専制君主批判に注目し、発禁処分の時期を見計らっていたが、同年末、国務顧問会議で「執念深いモープーの提案で」、公序良俗に反するというきまり文句のもとに、廃棄処分が決定され、翌年には、ソルボンヌも検閲のための特任官を任命した。しかし、『両インド史』の方は、廃棄処分の決定にもかかわらず、目の玉が飛び出るほどの高値で取引された。フランス国内での需要に応じて、『両インド史』初版は、次々と増刷され、政府の黙認のもとに、世間に公然と出回ることになった。流布の状況は、一七七二年に「少なくとも四度が、再版が出」て、「翌年にはそれが一一度となり、一七七三年には六度」となるほどすさまじかったのである」。

 これだけヨーロッパ世界に受け入れられた背景には、オランダ、イギリス、フランスなどの東インド会社の帝国的進出があった。たんなる貿易会社から近代植民地形成への動きがみられるようになり、フランスはインドでイギリスに敗れ、一七六九年に東インド会社の解散に追い込まれた。その「世界史」的関心について、「訳者解説」は、つぎのように説明している。「『両インド史』は、初版から「モンテスキュー以来の記念碑的労作」(グリム)と評価してもかまわないほどの規模を持っていた。それは、これまで、まったく本格的な研究対象とはならなかった地域をとりあげ、その地理的・歴史的・文化的風土を論じ、貿易をキーワードに過去と現在の経済的・政治的歴史を調査し、描き出していた。本書は、初めての世界史的記述と言える『法の精神』(一七四八年)と比べても、また、同じく世界史を扱って、少し遅れて出版されたヴォルテールの『習俗論』(一七五三年)と比べても、質・量ともに、これらをはるかに超える壮大さを持っていた。しかも、内容の実証性と資料の厳密さおよびその広がりにおいては、先にも述べたように、「幾何学的正確さ」を理想とする本書は、類書を寄せつけぬ水準に達していたと言わなければならない」。

 レーナルは、正確さを期すために「原資料」に頼るよう心がけたことを、冒頭の「おしらせ」でつぎのように述べている。「私は、新たな調査を行ない、あらゆる方面から援助を受け取ったので、幸いなことに、持ちうるかぎりでの広がりと正確さをあますところなく作品に与えることができた。本書に含まれている細目の大半は、原資料から取り出されてきたものである。原資料に匹敵するほどの確固たる根拠を持たない細目については、どこの国の人間であるかを問わず、情報に最高に明るい人間による証言がそれらを支えてくれている」。

 具体的な「原資料」として、英国議会報告書に含まれている東インド会社の経営内容や株式の変動などの詳細な数値データが使われている。これらの報告書や数値データのほか、レーナルは「実際に航海と貿易にたずさわった人間が著わした航海記や見聞録、征服事業に参加した人間が著わした記録、諸王国の支配者の事蹟を記録した史書、それにロシアを含むヨーロッパ全域の歴史については、政治家の回想録をはじめとするさまざまな文書、さらには、東西インドからシナにかけて派遣された宣教師の報告集などを渉猟したことはもちろんである」。しかし、引用した文献資料にかんする注記はない。いまわたしたちが、「1字たりとも引用することができない」理由のひとつは、近代文献史学の必須条件である根拠が示されていないからである。もっとも当時は、情報源を明らかにしないことが、商業上の当然の権利であった側面もあるため、レーナルを責めることはできない。それを理解したうえで、どう「読む」かである。

 本書の篇名である「東インド」について、地理的な確認をする必要がある。レーナルは、「東インドという総称をめぐっては、アラビア海とペルシア王国を越えたところにある広大な地域と普通に理解する」と述べているが、訳者は「実際に著者が取り扱う地域は、この区分を東西方向と北方向にはるかに越えた広大な地域となっている」と述べ、具体的につぎのように説明している。「東インド篇が取り扱う東インド概念で包括される地域を具体的に列挙するとすれば、まず、ヨーロッパ人が東インドと呼んだ「本来の」インド、インドシナ、インドネシア、東インド諸島をあげなければならない。次に、異教が支配する中近東地域、ポルトガルがインド航路開拓で交易を持つにいたった東西のアフリカ沿岸部、ヨーロッパとは陸続きの黒海周辺地域、カフカス地方、中央アジア、シベリア、モンゴル、シナなど、本来の地理的概念には含まれてこなかった地域をあげなけれならない。さらに、この範疇に属する地域として、太平洋では、台湾島はもとより、マゼランの世界周航でスペインと関係を持つにいたったフィリピン諸島、ヨーロッパの列強が熾烈な争いを繰り広げた香料諸島周辺、また、あまりにも地理的にヨーロッパからは僻遠にあったために、ヨーロッパにとっては、未知のベールに包まれていた朝鮮半島から日本を含む極東諸国をあげておかなければならない」。

 第一篇でポルトガル人、第二篇でオランダ人、第三篇でイギリス人を扱った後、フランス人でイエズス会に入会し、ジャーナリストとなったレーナルは、第四篇「東インドにおけるフランス人の旅行、植民地、戦争、貿易」を、つぎのように書きはじめている。「本書をはじめるにあたり、私は真実を書く誓いをした。そしてこれまで私は、この誓いを忘れたことはなかったと自分では思う。凡俗のものでしかない依(え)怙(こ)贔(ひ)屓(いき)によって、私が私自身と他人に私の国の過ちに関して持論を押しつけるようなことがあれば、私の手などひからびてしまえ。私は、私の先祖がしてきた善行であれ、悪行であれ、それをぼかして言うつもりはない。ポルトガル人もオランダ人も、そして、それがイギリス人であってさえも、私の公平性を期待してよい。これらの人びとはこの本を読み、私をどうか裁いてほしい。私が彼らを扱ったときには厳しくしたのに、その厳しさをフランス人に対しては、緩めてしまっていることを、もし彼らが発見したなら、私を、二〇〇〇年前から諸国民と君主たちの精神を毒してきた、おべっかつかいの仲間にいれてくださってもいいし、同じ部類の書物のなかで多数派を占める低俗さの記念物に私の書物を加えてくださってもいいし、私が私の魂の入り口を恐怖感、あるいは期待感のために開いてしまったとお疑いになってもいい。私は甘んじて彼らのいっさいの侮蔑を受けよう」。

 第五篇で「デンマーク、オーステンデ、スウェーデン、プロイセン、スペイン、ロシア」を扱った後、「ヨーロッパと大インドとの結びつきに関する重要ないくつかの問題」を第二四章から第三五章まで12章にわたって論じている。そのうち9章は「シナ」にかんするもので、つぎにあげる残り3章のタイトルから、なぜ本書が読まれたのかの理由の一端が伝わってくる。「第三三章 ヨーロッパは大インドと貿易をつづけるべきであろうか?」「第三四章 大インドで貿易を行なうために、大規模な植民地をヨーロッパは必要としているか?」「第三五章 ヨーロッパは大インド貿易を自由化すべきか、それとも独占会社を通じてそれを開発すべきか」。

 どう読んでいいかわからないわたしにたいして、1970年代末に本書の翻訳を志した訳者は、「本書の翻訳が急がれる理由」をつぎのように説明している。「ヨーロッパ諸国の植民地獲得と植民地経営の歴史を描いた本書は、一八世紀後半に書かれたものであるにもかかわらず、わが国においては、今日性をいささかも失っていないからである。脱亜入欧を唱えた明治以来、今日にいたるまで、われわれは、植民地主義ないし植民地主義的発想に起因する諸問題を反省なく抱えこんだままである。それは、現代日本に再び「アジア的身体の問題性」を浮かび上がらせている、と指摘する作家もいる。また、第三世界では、形を変えた植民地主義である経済侵略と資源略奪による貧困と飢餓がいささかも衰えを見せていない。かつては、植民地主義の発端は、黄金と奴隷と香辛料の獲得であったが、今日では、それは、もっと直截に、食糧の確保である。その一方で、地球環境の先進諸国による破壊も、経済のグローバリズムの名の下に、人類の未来を脅かすまでにいたっている」。「たしかに、本書に示されたようなヨーロッパ思想とその進化形態である啓蒙主義の基本的前提である進歩の普遍主義を、見境のない現代のグローバリズムから区別することは難しいかもしれない。しかし、それはそれとして、たとえば、本書に克明に描かれているインドの植民地化と今後描き出されるであろう新世界征服の地獄絵図に見られるような過去の狂気と失敗と惨禍の教訓にわれわれは学ぶべきであろう」。

 未来を見据え、本書をどう読むか、まだわたしにはよくわかっていないが、日本語でこのような文献が読めることは、ほんとうにありがたい。訳者と出版社に感謝いたします。

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2012年02月07日

『世界史の中のアラビアンナイト』西尾哲夫(NHKブックス)

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 2011年11月、フィギュアスケートNHK杯ショートプログラムで、浅田真央は青いハーレムパンツ衣装で登場した。曲は「シェヘラザード」。1888年夏に完成されたニコライ・アンドレイェヴィチ・リムスキー=コルサコフ作曲の交響組曲である。千夜一夜物語の語り手、シェヘラザードの物語をテーマとしている。

 本書の終章は、「シェヘラザードをめぐって-世界文学への道」である。そこで著者、西尾哲夫は、シェヘラザードをつぎのように紹介している。「アラビアンナイトのヒロインであるシェヘラザードは、アラブ文学を代表する女性像として、文学者や文学史家の注目を集めてきた」。「シェヘラザードは女性の美点を弁護して女性の地位向上を果たすためのキャラクターであるという見方もある」。「性愛文学の系列に属するアラビアンナイトでは、シェヘラザードの官能性が強調される。一方で、子ども向けファンタジーの中では、純真な乙女あるいは賢い母親としてシェヘラザードが描かれる。つまり、これといった性格特性のないシェヘラザードは、アラビアンナイトの位置づけによって、いかようにも変化するキャラクターなのだ」。

 本書では、なぜ「いかようにも変化する」ようになったのかを、学問的に立証している。著者は、つぎのように「序章 エブリマンズ・アラビアンナイト」で問いかけ、本質へと迫ろうとしているのかを説明している。「本書ではヨーロッパの東方観とアラビアンナイトの相互関係を検証しながら、国際協同による調査研究をとおして明らかになった新事実を織り交ぜ、アラビアンナイトの軌跡を俯瞰(ふかん)してみよう。アラビアンナイトの成立過程を追っていくことで、ヨーロッパ、中東、そして日本の近代史を、今までとは少し違った窓からのぞくことができるのではないだろうか」。「具体的には、《アラジン》《アリババ》《シンドバード》の内容から始まり、アラビアンナイトの成立史を簡単に確認した後、海外に膨張するヨーロッパが植民地経営の需要にみあったアラビアンナイト編集版を作成した経緯を追ってみよう。その過程で、近世エジプトで千一夜を含む物語集としてまとめられた「もうひとつのアラビアンナイト」が、どのように近代ヨーロッパとかかわり、世界文学へと変貌していったかが見えてくるだろう。そして最終的には、アラビアンナイトのキャラクター中、誰よりも個性の乏しい人物、つまり、語り手シェヘラザードの本質がつかめてくるはずだ」。

 そして、終章で、著者はつぎのように結論づけた。「シェヘラザードはアラビアンナイト解釈の文化的背景によって、いかようにも変化する人物として描かれていた。見方を変えれば、シェヘラザードは肉体性を喪失することによって女性の肉体機能が本源的に備えていると考えられていたカイド[策略、悪だくみ]の拘束から解き放たれたとも言える。千年以上も昔に「原アラビアンナイト」が誕生して以来、この物語集はさまざまに加工されてきた。多様な文化と時代、そして価値観を越えてアラビアンナイトが世界文学となりえたそもそもの原因は、肉体性を喪失した物語再生装置としてのシェヘラザードという初期設定にあったのではないだろうか」。「アラビアンナイトの登場人物中、誰よりも明確な個性を持っていたのは、無個性なシェヘラザードだったのではなかったか。そして枠物語としてのアラビアンナイトが、文明を越境しながら次々と新しい物語をとりこみ、うみだしてきたのは(そして今日もまた、新しいアラビアンナイトがうみだされている)、文化コードとしてのカイドを捨てることによって新しい力を得たシェヘラザードのおかげだったのではないだろうか」。浅田真央も、その「新しい力」に期待したのだろうか。

 そして、つぎのように結んでいる。「ガラン版『千一夜』に始まり、カルカッタ第一版、カルカッタ第二版、レイン版、バートン版、マルドリュス版などを包含する巨大な文学空間は、オリエンタリズムによってとりこまれた他者像を整形あるいは解体し、さらには融合させていった」。「近代ヨーロッパとアラビアンナイトのであいは、不幸な偏見を生み出すことにもなった。だが、本書でその成立の過程をたどってきたように、オリエンタリズム的文学空間は、特定の地域で伝承されてきた文学を新しい形へと変化させるモメンタムが生気する場として作用したと言えるだろう」。

 ところで、わたしたち日本人が親しんでいるアラビアンナイトは、どのように変化したものなのだろうか。「あとがきに代えて-日本のアラビアンナイト」で、つぎのように説明している。「日本でのアラビアンナイト紹介は、オリエンタリズム的文学空間で形成されたアラビアンナイトの移入に終始したことになる。だが、本書をとおして確認してきたように、現在のアラビアンナイト誕生のきっかけとなったオリエンタリズム的文学空間は、中東世界と近代ヨーロッパとの相互作用によって生じたものだった。つまり日本では、アラビアンナイトを産んだ中東文化への視点さえないような状態で、近代ヨーロッパで形成されたアラビアンナイトを受けいれてしまったことになる」。

 現在、ガラン版『千一夜』の全訳に着手しているという。このような研究が、現代社会の役に立つのだろうかと、訝しがる人がいるかもしれない。その疑問にたいして著者は、2010年から11年にかけて始まった「アラブの春」を演出したフェイスブックによるコミュニケーションについて、つぎのように解説をしている。「複雑かつ美麗な」「「書きことば」による情報交換が成立している世界と、「話しことば」による日常的な会話の世界が分かれて」いる「アラビア語圏では、民衆が言語コミュニケーションをつうじて広範なネットワークを作り出すことが難しかった」。「だがITの出現によって、大きな変化が生じてきた」。「若者たちは、ローマ字による日常会話をメールで送るようになった。ローマ字ではアラビア語のすべての音を表記できないのだが、友人同士の意思疎通にはそれほど問題はない。「話しことば」は、地域だけではなく職種や部族によっても異なるが、若者たちがローマ字メールに使用したのは、いわゆる中間アラビア語とよばれる新生アラビア語の一種だった。やがてアラビア文字を用いた通信環境が整いはじめると、二〇一一年の反政府運動で彼らが連絡用に用いたのは、アラビア語表記による中間アラビア語だった」。

 このような言語事情は、アラビアンナイトの普及や変化と大いに関係がある。どこのだれが、どのようにして読み、書き換えていったのかを理解することは、今日の社会情勢を把握する大きな力になる。基礎研究は、いつどのようなかたちで役に立つかわからないところがあるが、本研究は「アラブの春」の理解に役立つ。

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