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2012年01月24日

『超高齢者医療の現場から-「終(つい)の住処(すみか)」診療記』後藤文夫(中公新書)

超高齢者医療の現場から-「終(つい)の住処(すみか)」診療記 →bookwebで購入

 著者、後藤文夫は70歳を過ぎた医師である。本書を出版しようと思い立ったのは、本書に登場する85歳以上の超高齢者の「終焉がわたくしの心に強く響いた」からである。「その「心に響いた」病歴には、「こうありたい」と思う終焉がある一方で、「どうしたらこのような最期を避けることができるか」と自問自答するもの」も少なくなかったという。その理由を、つぎのように「おわりに-おだやかな超高齢期とリビング・ウィルの普及を期待して」で書いている。

 「男性は女性よりも「社交性」に劣り、「おだやか」な生活に慣れていない点が問題と指摘されています。わたくし自身その通りで、社交性に劣ることを強く認識しています。さいわい、医師という資格を持ち現職時代の経験を生かして大学を定年退職したのちも医療職を継続しているため、社会とのつながりが維持できています。しかし、きわめて近い将来、体力が低下して医師の業務を続けられなくなることは間違いないことで、その際には本書に引用させていただいた方々を思い浮かべ、リビング・ウィルを明確にしておこうと思っているところです」。

 著者が院長を務める「高齢者施設に囲まれた高原の小さな病院」で、いまなにが起こっているのかは、本書の11の章と終章のタイトルを見るとだいたい想像がつく。「第一章 実の娘の介護放棄」「第二章 おだやかな死と「死の質」」「第三章 認知症の合併症による家族とのトラブル」「第四章 認知症患者の悪口雑言とクレームに疲弊する介護職員」「第五章 在宅介護と介護ストレス」「第六章 入院三ヵ月・これからどこへ?-高齢者介護施設が足りない」「第七章 要支援・要介護者数の急増に対応できない介護政策」「第八章 姉が妹の障害年金を流用」「第九章 超高齢者に多い病気」「第十章 認知症の種類と症状」「第十一章 安楽死・尊厳死を考える」「終章 超高齢期を前向きに生きて呆けの進行を遅らせよう」。

 著者は、「死の質」を問うている。残念ながら、日本は「死の質」世界ランキング、40ヶ国中23位で、発展途上国レベルといわれている。第1位から3位は、英国、オーストラリア、ニュージーランドで、「豊かな死」を迎えられると評価されている。いっぽう、日本は、「医療費の高さや医療と介護に従事する人員の不足などのせいで」低い評価だという。原因も対策もわかっているのにできないのは、ひとびとの考え方によることのようだ。

 その考え方のひとつに、「看取り」をどう考えるかがある。「看取り」は、「家族が高齢者に寄り添って静かに命の終焉を見守る」ことが基本で、「施設で看取る方針であれば、入院の是非を問う前に介護の方針を家族で話し合い、施設とも確認する必要」がある。しかし、その方針が決められないために、「看取り介護」ができないことがある。その理由は、超高齢者や施設の状況をいちばんよく理解している家族の考えを尊重しない、ほかの家族に原因があるようだ。介護にあたって、どうすればいちばんいいかという答えは、そう簡単ではない。それぞれの状況、それも日々刻々と変わる場合のある状況と、超高齢者本人や実際に介護にあたる家族の考えを考慮して、総合的に臨機応変に判断しなければならないからである。施設の職員は助言できても、最終的には本人と家族で決めなければならない。実際に介護の中心になっている家族の責任が重いわりに、ほかの家族がそれを充分に理解していないで、個々勝手に「正しい」発言をすると、収拾がつかなくなってしまう。

 本書でも紹介されているように、どうしようもない家族がいることは事実だが、多くの家族は親身になって考えようとしている。にもかかわらず、みなが「やさしく」なれない理由のひとつは、介護の中心になっている家族ひとりに負担が集中し、ほかの家族が事実上頼り切っていることにある。しかし、頼り切っていることに気づいていない家族も多いし、気づいていてもその具体的状況を理解していない家族も多い。ひとりで超高齢者との1対1の関係が長く続くと、介護するほうもされるほうも疲れて、心のゆとりをなくしてしまう。いつでもかわりに介護してくれる家族がいると、気持ちがうんと楽になり、その苦労が具体的にわかり相談にも乗ってもらえる。家族会議のときにも説明しやすく、意見をまとめやすくなる。だが実際には、最初に介護を引き受けた家族が「貧乏くじ」を引くことになる場合が多い。

 本書は「超高齢者医療の現場から」の実例を基に、著者自身が自分自身のことも考えながら書いているだけに、説得力がある。しかし、実際に死と向き合うと、理屈ではいかないことが多々ある。「看取り」をした家族、職員がいかに「心に響く」終焉を迎えるかを期待するより、「どうしたらこのような最期を避けることができるか」を考えることのほうが現実のようだ。

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2012年01月10日

『就職とは何か-<まともな働き方>の条件』森岡孝二(岩波新書)

就職とは何か-<まともな働き方>の条件 →bookwebで購入

 わたしが常々学生に言っていることのひとつに、「目先のことにとらわれず、ひとつ、ふたつ大きな視野でみて、目標をたてること」がある。すこしでも大きな目標設定をすれば、目先のことはたんなる通過点で、とるに足らないものにみえてしまう。仮に目先のことがうまくいかなくても、軌道修正して目標に向かえばいいので、切り返しも早くなる。

 本書によって、目先の「就活」が相対的に理解でき、うまくいっても失敗しても、その先のことを考えることができる。学生の就職をめぐる出版物の多くが「就活術に関するハウツー物か、働くことについて心構えを説いたもの」であるのとは違い、本書は「なぜこれほど就職環境が厳しくなったのか、また就職後にどんな働き方が待ち受けているのかを説いている」。

 就活にこれだけ大騒ぎをしながら、3年以内に離職する大学新卒者は3人に1人にのぼる。中卒は7割、高卒は5割だという。離職しないまでも、仕事にやる気をなくす者は、就活に熱心で、働くことに意欲をもって楽しみにしていた者ほど、多いかもしれない。そんなミスマッチも、本書を読めば、すこしは減るだろう。

 「本書の課題」は、「はじめに」でつぎのように書かれている。「学生の就職活動はいまどうなっているかという問いに、雇用の現場はどうなっているかという問いを重ねて、就職とは何かを考え、<まともな働き方>の条件を述べることにある」。続けて、各章ごとの要約をしてくれているので、本書の全体像がよくわかる。

 さらに、「あとがき」で本書の特色をつぎのようにまとめてくれているので、読後感がすっきりしてありがたい。「(1)ハウツー物にある就職活動のスケジュールや採用までの流れを説明しながら、近年の内定率の悪化と長期的な採用減の実態を示し、大学のキャリア支援や就活ビジネスの動向を含む最近の就職事情をひととおり観察している」。「(2)学業もそっちのけで「就活」に振り回される学生たちの姿を追うとともに、採用・就職活動の早期化と長期化が学生、大学、企業にもたらす弊害とその是正の動きを、かつての就職協定の変遷を交えて検討している」。「(3)定期採用(新卒一括採用)や初任給などの就職のイロハをわかりやすく説明し、学部三、四年の専門科目の成績を問わない定期採用や、残業手当を組み込んだ初任給などの問題点を明らかにしている」。「(4)就職とは、雇用とは、派遣とは何かを検討し、雇われて働くことと、時間に縛られて働くことの意味を考え、「正社員」という雇用身分はどのように生まれたのか、若者は労働組合にどんな関心をもっているのかにも目を向けている」。「(5)企業が採用選考において学生に求める力と対比しながら、就職後に若者自身が賢くいきいき働くために必要な四つの力-社会常識、基礎知識、専門知識、労働知識-を示し、とくに社会常識と労働知識について説明している」。「(6)<まともな働き方>を「まともな労働時間」「まともな賃金」「まともな雇用」「まともな社会保障」に分け、なぜ<まともな働き方>ができないのか、どうすれば<まともな働き方>が実現できるのかを述べている」。「(7)新書にしては図表を多用し、議論を統計データで裏づけるとともに、読み取りにくい数字をビジュアルに示している」。

 著者、森岡孝二が6年前に出版した『働きすぎの時代』にたいして、「働きすぎの要因の考察については「よくわかる」が、働きすぎ防止の指針については「実効性に欠ける」という」批判があったという。本書にたいしても、同じような批判があるかもしれない。しかし、それを大学の研究者に言うのは酷である。「実効性に欠ける」のは、そもそも就職協定を守らない、企業のコンプライアンスの根本が問われるようなことを考慮に入れなければならない現状があるからだ。多少なりとも「守ってくれる」なら、研究者としてももっと違った対応の仕方がある。

 いっぽう、大学の教職員の側にも問題がある。「就職させればいい」ということがあって、就職後のことをあまり考えていない。学生は単位の取りやすい科目、卒業しやすく就職しやすい学部・学科などを選び、その先のことを考えていない。単位も必要最小限しかとらない者が多い。「今日のようなグローバル化時代には、若者を含む日本の労働者は、日本企業が進出している世界の新興国や途上国の労働者とも競争させられている」。それなのに、少子化で学生獲得のために、入試から「楽なこと」を売り物にしている大学がある。入学してからも、レベルを落として学生を獲得しようとする学科、コース、教員がいる。指導する学生・大学院生が少ないと、リストラの対象になるからだ。「学生の学力低下」はいろいろなところで指摘されていながら、現実には向上どころか逆行して、この国際化の時代に外書講読をあきらめた教員もいる。「きびしい」という評判が立てば、その教員のところに学生はこなくなる。

 「勤務開始の一〇分前までの出社を心がけましょう」と言われても、学生にはピンとこないだろう。遅刻や欠席を指摘したり、期日を過ぎたレポートを受けとらないと、やはり「きびしい」と言われて学生に敬遠されるので、教師はなにも言わなくなっている。

 「就活」にかんしても、「目先のことにとらわれず、ひとつ、ふたつ大きな視野でみて、目標をたてること」が必要であるが、それは日本社会全体、全国の大学全体で考えなければならないことである。そして、いまの社会を維持・発展するために、これからを見据えて、どのような能力をもつ人材が必要なのかを展望する必要がある。就職できればいい、という話でもないのだが...。

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