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2011年12月20日

『新しい世界史へ-地球市民のための構想』羽田正(岩波書店)

新しい世界史へ-地球市民のための構想 →bookwebで購入

 帯に「いま、歴史の力を取りもどすために」とある。著者、羽田正は、「歴史の力」が衰えていると感じ、危機感をもって本書を執筆した。著者が伝えたいメーセージは、「はじめに」でつぎのように書かれている。「現在私たちが学び、知っている世界史は、時代に合わなくなっている。現代にふさわしい新しい世界史を構想しなければならない」。「いま私たちが身につけている世界史認識はどんなもので、その何がどのように問題なのか、新しい世界史とはどんなもので、どうすればそれが作り出せるのか、これらの問題を考え、論じてみたい。世界史を語るのではなく、世界史の語り方をあらためて考えるのである」。

 本書は著者が、「ここ数年試行錯誤してきた」「思索の中間報告」である。「まだ完全なものではない」ことを自覚しながら、書かなければならないと思ったのは、「現代世界の各地で生じる様々な出来事に関して、従来の世界史理解を無批判に援用し、それを当然の前提として発せられる分析や解説、提案などを読み聞くにつけ、この現状を変えるべく一刻も早く声をあげねばならないと考えるようになった」からである。そして、「この本がきっかけになって、世界史の研究方法や教育研究体制についての議論が活発になり、やがて新しい世界史がくっきりとその姿を現し、人々の世界を見る目が変わってゆくことを期待している」。

 著者は、最初の3章(「第一章 世界史の歴史をたどる」「第二章 いまの世界史のどこが問題か?」「第三章 新しい世界史への道」)で、まず史学史をおさえ、つぎに現行の世界史は「日本人の世界史である」「自と他の区別や違いを強調する」「ヨーロッパ中心史観から自由ではない」の3つの弱点があるとして、その克服を模索し、第四章で自身の「新しい世界史の構想」を披瀝している。そして、「終章 近代知の刷新」で、「本書の主張」をつぎのようにまとめている。「私たちが地球というコミュニティの一員であることを強く意識し、地球への帰属意識を高めるためには、どうしてもその歴史、すなわち地球社会の歴史が必要となる。それは、日本やアメリカ、中国といった別々の国の歴史を集めて一つにした世界史ではない。むろん、ヨーロッパや東アジアなどの地域世界の歴史を集めて一つにしたものでもない。これらの世界史は、国や地域への帰属意識を高めるものではあっても、地球市民意識の涵養には無力だからである。地球社会の歴史は、「世界をひとつ」と捉えるとともに、世界中の様々な人々への目配りを怠らず、彼らの過去を描くものでなければならない。新たにそのような世界史を構想するべきだ」。

 著者の熱い想いは、充分に伝わってきた。だが、著者自身がわかっているように、そう簡単ではない。ヨーロッパ中心史観や自国中心史観など、中心史観は世界史の妨げになることはわかっていても、自国中心史観の歴史さえを満足に語られていない国はいくらでもある。さまざまな中心史観で語ることが、重要な国や地域などもある。従来の歴史は、まずわかることから語ってきて、それをまとめたものが「世界史」だった。いま重要なことは、わからなかったために、あるいはわかろうとしなかったために、これまで語られることのなかった歴史を意識することである。これまでに書かれてきた歴史を、わからないことまで含めて相対化しないと、「知の帝国主義」になって、中心史観から脱するどころか、逆に中心史観を助長することになる。

 たとえば、東南アジア史の概説書を書こうとして、カンボジアの植民地化について『世界各国史 東南アジアⅠ大陸部』(山川出版社)や『岩波講座 東南アジア史』を見ると、1863年のフランスによる保護国化以降の記述がないことに気づく。あたかもカンボジアという国が消えてしまったかのように。しかし、通史や概説書に記述があるからといって、安心できるわけではない。複数のものを見比べると、矛盾があることは珍しいことではない。研究書のように出典が書かれていないので、どれが正しいのかを判断することはむつかしい。さらに、どの本にも同じことが書かれているからといって、安心できるわけでもない。だれも原史料に基づいて本格的に研究していないので、間違ったものを検証することなく書き継がれていることがある。本書にある「オランダは1623年のアンボイナ事件を機にイギリスへの優越を決定的にし、領土獲得にとりかかった」という記述は、17世紀のイギリス東インド会社の文書を読めば間違いであることがわかる。わかっても、日本古代史のように「教科書が変わる大発見」とふうに新聞に載ることもないので、なかなか訂正されない。このように、世界史はおろか、東南アジアだけでも全体を見渡して正確に歴史を書くことは不可能である。

 では、東南アジア史のように研究の進んでいない分野の研究者を増やすことができるのか。それも、ひじょうに困難である。研究の進んでいる中心史観で語ってきた研究者は、自分が語る歴史がそれにあたると気づいていない。したがって、研究の進んでいない分野の研究を世界史全体のなかで評価する力がなく、「劣った」研究であるとみなしがちである。研究蓄積の乏しい分野の研究をし、発表をすると、「本格的な研究ではない」「考察が充分でない」「初歩的な間違いがある」などと言われることがままある。手っ取り早く研究業績を出したい若手研究者は、研究のしやすい蓄積のある分野のテーマを選んで、時間のかかるわりに評価されない分野を避ける。ましてや、成果が出るかどうかがわからないようなテーマに、危険を冒してまで挑戦する者はいない。これでは、若手研究者は出てこない。近代の中心史観の歴史はわかりやすく、教えやすいので、やっかいだ。まずは、研究の進んでいない分野の研究が、いかに世界史認識や歴史学にとって大切かに気づいてもらうための具体的な歴史叙述が必要であろう。本書でも、いくつか紹介されている。つぎに、中心史観で研究業績のある者に、別の視点からの研究に挑戦してもらうことだろう。岩波歴史選書などに、好例がある。

 著者の焦りはわかるし、このような本が必要なこともわかる。だが、いま個々の歴史研究者がしなければならないことは、原史料に基づいて中心史観から脱した具体的な歴史叙述を、ひとつひとつ積みあげていくしかないのではないだろうか。それをしていない者が何人集まって議論をしても、空論に終わって、具体的な成果は期待できないだろう。ともあれ、本書が、「新しい世界史」を考え、議論するための指針となることは、だれもが認めるだろう。

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