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2011年10月25日

『「大東亜共栄圏」経済史研究』山本有造(名古屋大学出版会)

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 著者、山本有造が選んだ基本的な方法は、「数量経済史的方法」だった。20世紀半ばの経済史で、この方法をとることに疑問をもつ者はいないだろうが、扱う時期が戦争中で、しかも「大東亜共栄圏」と組み合わせるとなれば、話は別である。「大東亜共栄圏」に組み込まれた東南アジアの経済史研究では、これまで数量経済史的方法だけでは充分に把握できず、社会的理解が必要であるとして、社会経済史的方法がとられてきた。「大東亜戦争」期はさらに困難がともない、ましてや広域的な把握となれば、あきらめざるをえないというのが実情だっただろう。この困難さをもっともよくわかっているのは著者自身で、まず「政策史ではなく数量経済史的実証分析」に挑戦した著者に敬意を表したい。そして、「この道はいまようやくその出発点に立っている」という著者とともに、出発点に立てることを喜びたい。

 本書は、「著者の日本植民地帝国研究に関する第3論集に当たる。第1論集『日本植民地経済史研究』は日本帝国の「公式植民地」を取り扱い、第2論集『「満洲国」経済史研究』は「満洲国」を主題とした。そして本書では主に「大東亜共栄圏」をテーマとする」。これらの3論集を通じて、著者が目指したのは、「広義の「日本植民地帝国」における植民地支配の態様を実証的に明らかにすることであった。日本と「植民地・支配地・占領地」の間の支配と被支配の関係、およびその結果としての植民地経済の実態をできるだけ数量データに基づいて描き出すことにあった」。

 本書は、3部全9章からなる。「第Ⅰ部「日本植民地帝国」論は、1895(明治28)年4月下関条約調印から1945(昭和20)年8月ポツダム宣言受諾まで、約50年にわたる「近代植民地帝国」としての「日本帝国」の構造と特質を概観しようとする」。「第Ⅱ部「大東亜共栄圏」論は、「大東亜共栄圏」という概念の形成過程を追った総論的な第4章「「大東亜共栄圏」構想とその構造」を除いて、戦時期「大東亜共栄圏」に関する「国際収支」分析である」。「第Ⅲ部「南方共栄圏」論は「南方圏」に関わるやや補完的な2論文を収める」。

 著者は、「厳しい国家統制の下にありながらハイパー・インフレーションは亢進する戦時経済の実態を明らかにするに当たって、どのような数量データに依存することができるであろうか。「大日本帝国」を中核とし、「満洲国」および中国関内を含む「北方圏」と、ほぼ東南アジア全域を含む「南方圏」とを包含する「大東亜共栄圏」の経済関係を知るためには、どのような数量データを利用するのが良いのであろうか」と問い、つぎのようなことを明らかにした。「国民所得推計の試みも、国際収支推計の資料もなかったわけではない。しかし結局のところ、現在われわれがとりあえず安心して依拠しうる最大の資料は、金額ベースではなく物量ベースの貿易統計ということになった。「大東亜共栄圏」の数量経済史的分析はいまようやく始まり、前途は正しく遼遠というのが実感である」。

 本書は、数量経済史的実証分析に終始しているわけではない。むしろ、その前提となる基礎的研究に力を注いでいる。著者は、第一次世界大戦後、1920年代に一応の完成をみた「公式の日本植民地帝国」が、なぜ「満洲国」で止まらず、「南に肥大した日本帝国」となっていったのかを問い、「「大東亜共栄圏」なるものは、日、満、蒙疆、北支を覆う「自存圏」と、中南支および東南アジアに広がる南方圏の「資源圏」から構成された」と結論した。

 そして、その資源を収奪し、内地へ還送する計画が立てられるが、つぎのようなことも重々承知のうえで、残された数量データを分析することになった。「こうした「計画」が机上の空論からはじき出されたものであること、そして現地での開発と還送に携わる軍に「計画」遂行の意思がなかったことは、その後の多くの証言に明らかである。「彼等は占領地に到る処で手当り次第物資を捕獲した。そして現地で使えるものはくすね、残りを誇らしげに戦利品として還送したのだった。しかもAB船に積まれた物資は宇品や横須賀に揚陸され、治外法権のうちに再び隠匿されその残滓が物動の実績となって企画院に通達されたのである」」。

 それでも、著者は愚直に自分の方法である「まず基礎資料を見つけ出すこと、基礎資料を必要に応じて加工すること、それら資料を最も適当な形で分析すること」を本書でもおこない、「基礎データに何を用いるか、その選択に苦労した」。具体的には、「「国民経済計算」的な枠組みによりつつ、主に国民所得、マクロの生産指数、国際収支に関する数量データを整備し、その解析を行おう」とした。

 これらの作業を通じて、問題点がつぎつぎに出てきたことは、「あとがき」のつぎの文章からもわかる。「本書の骨格が虚弱であることは、すでに「はしがき」でも述べた。前2著の主要な部分をなした「推計作業」の部あるいは「統計資料解題」の部を本書に加えることができなかった。本書第9章を含めた「資料解題」篇が作れなかったことが心残りである。残された時間の問題もあった。しかし、そもそも華中・華南からフィリピン、タイ、ベトナム、マレイ、インドネシアさらにビルマ(ミャンマー)までをも含む「大東亜共栄圏」期の「戦時経済」の実態を数量実証的に把握する最も適切な方法は何か。実のところ、この根幹がまだ分かっていないのかもしれない」。

 本書の特徴は、これまで台湾、朝鮮など「公式植民地」、満洲など「傀儡政権支配地」中心であった日本帝国経済史研究を、戦時の「日本軍占領地」にまで視野を広げたことである。著者が直面した問題が解決できない理由のひとつは、広げた先の東南アジア側の研究が充分であるとはいえないからだ。日本人東南アジア史研究者で、東アジアまで視野を広げて研究できる者は少なく、東南アジア全体と日本との関係だけでも理解が充分であるといえないかもしれない。また、東南アジアの研究者で、日本語文献を読むことができる者はひじょうに限られる。今後の研究の発展は、まず本書をよく理解した日本人東南アジア史研究者が、東南アジアを相対化して研究をすすめ、英語など東南アジアの研究者が理解しやすいように成果を発表することだろう。

 本書を読んで、著者のように実績のある研究者でも、このテーマをひとりで扱うことは難しいことがよくわかった。本書のお蔭で「出発点に立てた」ことに感謝しつつ、いろいろな角度から研究をすすめ、「大東亜共栄圏」とはなんであったかを経済史的に理解したうえで、その影響が東南アジアの人びとやその後の国家建設にどのように及んだのかを考察することが、今後の東南アジア社会経済史研究の発展につながると思った。

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2011年10月18日

『イスラームから見た「世界史」』タミム・アンサーリー著、小沢千重子訳(紀伊國屋書店)

イスラームから見た「世界史」 →bookwebで購入

 著者は、「アフガニスタン出身、サンフランシスコ在住の作家」、「アメリカにおける複数の世界史の教科書の主要執筆者である」。著者は大人になってから気づくのだが、「驚くほどヨーロッパ中心的な歴史叙述で、無神経な人種差別に満ち満ちた」本を最初の愛読書として育ち、10歳のころ住んでいた小さな町を通りかかったトインビーと同席する機会を得、本をプレゼントされるという希有な体験をもつ。

 著者は、本書をつぎのようなものだという。「本書は教科書でも学術書でもない。いうなれば、喫茶店で談笑中に「もう一つ(パラレル)の世界史ってどういうこと?」と聞かれたときに、日常的な言葉で答えたようなものだ」。そして、著者がめざしたのは、「「実際に生じた」出来事を掘り起こすこと」ではなく、「実際に生じたとムスリムたちが思っている出来事を読者に伝えること」だった。「なぜなら、それこそが、ムスリムをこれまで動かしてきた原動力であり、世界史における彼らの役割を理解する手立てとなるからだ」。

 著者は、これまでわたしたちが思ってきた「世界史」とはどういうものか、つぎのように述べた後、「もう一つの世界史」とはどういうものか、説明している。「世界史とは常に、いかにして「私たち」が「現状の状況」に到達したかを物語るものであるがゆえに、そのストーリーは必然的に「私たち」とは誰か、「現在の状況」とは何を意味するのか、によって変わってくる。西洋版の世界史は伝統的に、「現在の状況」を民主的で工業化した(ないしは脱工業化した)文明社会と規定している。アメリカではさらに、世界史は自由と平等という建国の理想の実現に向かい、その結果アメリカが地球を未来に導く超大国(スーパーパワー)として興隆する、と想定されている」。

 それにたいして、「イスラームの歴史には時の流れ全体を「以前」と「以後」に画然と分かつ独自の境界、西洋世界とは異なる境界が存在するからだ。ムスリムにとっての紀元元年は、預言者ムハンマドがマッカからマディーナに移住し、それによってムスリムの共同体が生まれたヒジュラ〔聖遷〕の年である。この共同体は「文明化」という概念を体現するものであり、かかる理想的な共同体を完璧に実現することこそが、歴史を形づくり、その方向を定めてきた原動力だったように思えるのだ」。「ところが、過去数世紀のあいだ、ムスリムは歴史の流れがどこかでねじれてしまったと感じてきた。ムスリム共同体はもはや拡大することはなく、混乱の度を深め、本来進むべき歴史の方向に抗う破壊的な逆流にいつしか呑みこまれてしまった。ムスリムの伝統の継承者として、私たちは勝利ではなく敗北の中に歴史の意味を探ることを余儀なくされ、二つの衝動のあいだで葛藤してきた。歴史の流れに合わせてムスリム独自の「文明化」の概念を変えるべきか、あるいは、それに歴史の流れに合わせるために闘うべきか、と」。「現在、イスラーム社会はムスリム共同体の理想から遠くかけ離れた停滞した状態に置かれている」。

 著者が、現状を充分に認識したうえで「世界史」を物語ろうとしていることは、「後記-日本の読者へ」で2011年5月8日までの状況を把握していることからもよくわかる。否、著者は、現状をよりよく理解するために、「世界史」を物語ろうとしているのかもしれない。現状のイスラームの位置づけを、つぎのように述べている。「西洋が拡大したために、非西洋社会は突然侵入してきた外来の文化に適応することを余儀なくされ、それに伴って世界各地で軋轢(あつれき)と反発が生じた。今日では東洋世界と西世界洋(ママ)[西洋世界]の勢力はほぼ拮抗しつつあり、成長著しい中国は日本と肩を並べる世界有数の強国となった。韓国などの東アジア諸国も急激な発展を遂げて国際経済を牽引している。これは東アジアが西洋化したというより、「西洋」が先導した科学技術の飛躍的な進歩を東アジア社会がその文化的枠組みに取りこんだということだろう。その結果、東洋世界と西洋世界はますます結びつきを深めており、その相互作用の中から両者をともに包摂する世界史の物語が生まれでようとしている」。「とはいえ、世界は西洋と東洋だけで成り立っているのではない。中国とヨーロッパのあいだには、インド北部から中央アジアのステップ地帯にまで広がるミドルワールドが存在している。私たちがイスラーム世界というとき、それはこの広大な地域を指しているのだ。この地域に居住する一群の社会集団は今日にいたるまで西洋流の近代性に異議を申し立て、西洋そのものに敵対してきた」。

 本書で、イスラームの発展の特徴を最もよくあらわしているのは、つぎのようなところだろう。「アッバース朝の貴族たちはこれらの思想におおいに関心を抱いた。ギリシア語、サンスクリット語、中国語、あるいはペルシア語の書物をアラビア語に翻訳できる者は、誰もが高額の報酬で雇われた。プロの翻訳者が各地からバグダードにやって来た。彼らは首都や主要な都市の図書館に、さまざまな言語で著わされた古代の文献のアラビア語版を大量に提供した。いまやムスリムの知識人は史上初めて-たとえば、ギリシアとインドの数学および医学、ペルシアと中国の天文学、さまざまな文化圏の形而上学を-直接比較できるようになったのだ。彼らはこれら古代の思想について、いかにすればそれらを互いに、あるいはイスラームの啓示と調和させられるのか、霊性と理性を関連づけられるのか、宇宙全体を説明しうる単一の枠組みに天と地を組みこめるのか等々を探求しはじめた」。

 本書は、「イスラームから見た」ものであるが、イスラームを過度に美化しているわけではない。たとえば、ジハードについても、歴史的に冷静な目で、つぎのように見ている。「私はしばしばアメリカ在住のリベラルなムスリムが「ジハードとは単に『よい人間になるべく努力すること』を意味するに過ぎない」と述べ、この言葉を暴力と結びつけるのは反ムスリムの偏狭な人間だけだと主張するのを耳にする。だが、彼らは、預言者ムハンマド自身の生涯にまで遡る歴史の過程で、ムスリムにとってジハードが意味してきたものを無視している。ジハードは暴力と無関係だと主張する者は、最初期のムスリムが「ジハード」の名のもとに遂行した戦争について説明しなければならない。初期のムスリムは彼ら独特のジハード観をもっていたが、われわれ現代のムスリムはジハード(と、イスラームのそのほかの諸側面)を全面的に定義しなおせる、と主張したい者は、ムスリムが長い年月をかけて練り上げてきたイスラームの教義と正面から取り組まなければならない」。

 「もう一つの世界史」である本書は、西洋版を意識して書かれた。その本書が日本語に翻訳されると知って、著者は東洋があることに気づいたのだろうが、東洋版「世界史」については知らない。本書も、西洋版と同じく世界性をもった「世界史」ではない。イスラーム世界だけでも、本書で扱ったのはミドルワールドだけで、その全体像は描けていない。17世紀後半まで西洋世界とイスラーム世界のふたつの物語は、交差することはなかった、と著者はいうが、今日、もはやアメリカを含む西洋世界に対峙するだけでは、イスラーム世界は理解できなくなっている。本書の「イスラーム世界」のなかに入っていない東南アジアやサハラ以南のアフリカ、ロシア、中国などのことも考えなければならなくなっている。本書でいう「世界」は、地理的な地球規模という意味ではなく、自分たちの「世界」、自分たちとは違う「世界」の「世界」にすぎない。それを克服するために「世界史」ということばを使わず、「グローバル史」ということばを使う人たちがいる。「世界」ということばを使うのは難しい。

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2011年10月04日

『聖なる学問、俗なる人生-中世のイスラーム学者』谷口淳一(山川出版社)

聖なる学問、俗なる人生-中世のイスラーム学者 →bookwebで購入

 朝、アザーン(礼拝への呼びかけ)で目が覚める。なんだか心地よいひびきで、睡眠を妨げられたことも忘れてしまう。クルアーン(コーラン)の朗誦のコンテストもさかんだ。クルアーンはアラビア語で、ムハンマドが属していたクライシュ族の方言で統一されている。翻訳することが許されていないので、アラビア語がわからないイスラーム教徒の多くは、意味もわからずに朗誦することになる。そのことに疑問をもつ人が本書を読めば、クルアーンの朗誦には唱えている内容だけではないことがわかる。

 イスラームの活力を支えている「イスラーム学者について、少し考えてみようというのが本書の目的である」。ウラマーと総称されるイスラーム学者は、「たんなる知識人ではなく、「イスラーム諸学を修めた知識人、学者」を意味する」が、研究に勤しむだけでなく、「多くは、国政から庶民の生活にいたるまでさまざまな局面で、イスラームの教えにそって社会を導く役割もはたしている。例えば、イランの最高指導者は高位の学者から選ばれる。その一方で、日常的な問題に対する解決策を示し、庶民から頼りにされているイスラーム学者も各地に大勢いる」。

 そして、現代ではなく、中世の学者をあつかう意味を、著者谷口淳一はつぎのように説明している。「中世のムスリム社会を理解するためには、中世の学者たちがはたした役割を知っておく必要があるのはもちろんだが、現代について考えるさいにも、中世の学者について知っておいて損はない。例えば、社会における学者の役割や行動については、現代と中世のあいだに共通する点をいくつもみつけることができる」。

 本書は、4章からなり、前半の2章で「学問が「聖なる学問」すなわちイスラームという宗教に深くかかわる学問であったことがそれぞれの論点と深く絡み合っていることも示していく」のにたいして、後半の2章では「学者たちの「俗なる人生」をあつかう」。3章までは、「中世東アラブのイスラーム学者という比較的大きなくくりで論じることによって、この時代と地域に共通する特徴をとらえようとし」、「最後の第4章では、シリアの一都市に焦点をあて、特定の地域におけるイスラーム学者たちの役割と行動を時間軸にそってみていく」。

 その共通点の例として、著者は16世紀の中東のアラビア語の読み書きといった初等教育に携わった教師をあげている。かれらを悩ましたのは、「怠惰な生徒、学力不足の生徒、同級生に暴力をふるったりその持ち物を奪ったりする問題児の存在」だった。  冒頭のクルアーンの朗誦についての話に戻ろう。「クルアーンは朗誦されるべきものなので、一字一句にいたるまで、正しい読み・発音を決めることも重要であった」。正典テキストができても、文字で記録しておけば充分ということではなかった。「クルアーンのテキストを正しく伝えるということは、テキストの正しい読誦の方法を伝えるということ」だった。したがって、「写本が各地に送られたさいには、定められた読誦法を教える人物が一緒に派遣された」。その理由は、「耳で聞いたものは心にしっかり残るうえに、声に出すことによってより注意深く読むようになるからである」。あくまでも「学問上の知識の伝達は口承が基本で、書写テキストは口承を補助する道具にすぎないということになる」。そして、口承するという行為自体が、信仰に直結した。

 キリスト教においても、賛美歌に魅せられて改宗した者がいる。信仰内容だけでなく、その伝えられ方に本質をみる人たちがいる。書写テキストに重きをおく人たちが失ったものを、イスラームはクルアーンの朗唱を通じて守り継いでいるということができる。

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