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2011年09月27日

『共生のイスラーム-ロシアの正教徒とムスリム』濱本真実(山川出版社)

共生のイスラーム-ロシアの正教徒とムスリム →bookwebで購入

 「シャラポワ」「ラフマニノフ」「ツルゲーネフ」、これらロシアを代表する有名人の姓のなかに、ロシアのイスラーム史が隠されているという。これらの姓には、アラビア語、ペルシア語、テュルク語など、東方起源のことばが含まれている。ただし、このような姓をもつからといって、必ずしも東方の出自であるとは限らないところに、その歴史の複雑さがある。

 本書の目的は、「十九世紀末までのロシアにおけるムスリムと正教徒の、平和的な共生への道のりを明らかにしていく」ことにある。ただし、「本書で中心的にあつかうロシアのムスリムは、現在ロシア連邦に含まれるすべてのムスリム住民ではなく、十六世紀にロシアに併合された沿ヴォルガ・ウラル地方のムスリムに限定」される。この地方では、「宗教弾圧の時代をへながらも、現在にいたるまで、ムスリムとキリスト教徒が共生している」。

 この「ロシアのたった一地域のムスリムの歴史を知ることに何の意味があるのか、といぶかる人」にたいして、著者濱本真実は、つぎのように答えている。「イスラームの歴史全体からみると、四世紀近くにわたってキリスト教徒の支配下におかれた沿ヴォルガ・ウラル地方のムスリムの歴史は、かなり特殊な例なのである」。「このため、沿ヴォルガ・ウラル地方のムスリムの歴史からは、ムスリムとキリスト教徒との、共生に向けた多岐にわたる関係、さらには、キリスト教徒の支配下にあるイスラームの変容など、ほかのムスリム地域の歴史からはうかがい知ることの難しいイスラームの姿が浮かびあがってくる。その意味で、この地方の歴史は、キリスト教徒とムスリムの共生という問題を考えるうえで、格好の素材なのである」。

 そして、著者は第1章に入る前に、つぎのように結んでいる。「この本を読む方々に、筆者がこれまでの研究で感じてきたイスラームという宗教の根強さとロシア・ムスリムのしたたかさ、さらには、このようなムスリム臣民をかかえ込んだロシアの試行錯誤の歴史のおもしろさを味わっていただければ幸いである」。

 本書は、年代順につぎの5章からなる。
 第1章 草原のイスラーム化
 第2章 『カザン史』にみる正教徒とムスリム
 第3章 ムスリムの正教改宗
 第4章 タタール文化復興の時代
 第5章 ムスリム知識人の共生の思想

 「本書の冒頭に掲げた、正教徒支配のもとでのムスリムの正教化とイスラームの保持について」、著者は最後の「真の共生に向けて」で、つぎのように3つにまとめている。「(1)この地のムスリム支配層のかなりの部分が、ロシア政府の硬軟織りまぜた正教化政策のなかで正教徒となる一方で、支配層以外のムスリムの正教化はほとんど進まなかった、(2)このようなムスリム臣民の反応を受けて、ロシア政府はイスラームをロシア帝国の宗教として公的に認め、いったんはムスリムとの全面的な協力関係を築いた、(3)その結果、ムスリムはキリスト教徒の支配という条件を受け入れて、イスラームの教義を柔軟に解釈しながら、ムスリムとしてのアイデンティティを維持するとともに、ロシア帝国の臣民としての意識も涵養(かんよう)していった」。

 そして、本書で扱われなかった20世紀以降の歴史を概観し、「ソ連解体後の現在、多民族・多宗教国家を標榜しつつも、正教会が政治に相当の影響力を有するロシア連邦において、両者の真の共生があらためて問われている」と、結んでいる。

 本書を読んでいると、東中欧のユダヤ人と重なってきた。正教徒の都合のいいように「きたない」ことをやらされ、その結果、富と権力がムスリムに集中すると弾圧する、その繰り返しが、ロシアの正教徒とムスリムとのあいだでもみられた。ソ連解体後、独立をめざして戦っているチェチェンなどで起こっている弾圧も、その歴史的な流れのひとこまなのだろうか。

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2011年09月20日

『帝国崩壊とひとの再移動-引揚げ、送還、そして残留』蘭信三編(勉誠出版)

帝国崩壊とひとの再移動-引揚げ、送還、そして残留 →bookwebで購入

 本書は、2つのシンポジウムがもとになっている。ひとつは2009年に北海道開拓記念館との共催で開催された「日本帝国崩壊と人口移動-引揚げ、送還、そして残留」で、もうひとつはその翌年に「引揚げ港・博多を考える集い」という福岡の民間団体とともに開催した「二〇一〇年、いま戦後引揚げを問う-帝国崩壊と戦後東アジア社会」である。後者は、前者のフロアーの樺太からの引揚者の発言「先生たちの研究の話もいいですが、私たち引揚者の話も聞いてください」に刺激されて、体験者の話を中心に編成された。

 本書は、また同じ編者の前著『日本帝国をめぐる人口移動の国際社会学』(不二出版、2008年)の続編でもある。前著が「帝国形成期のひとの移動と再移動を主な対象」としたのにたいして、本書は「帝国崩壊後のひとの移動とその後の社会統合を主な対象」としている。

 本書の概要は、表紙見返しに要領よく、つぎのようにまとめられている。「日本は近代化と同時に帝国化を推進していき、植民地や勢力圏にひとびとが排出されていった。同時に、勢力圏から多くのひとびとが内地に流入、さらに朝鮮から満洲へなど、勢力圏内でも人口の大移動が生じた」。「そして、敗戦による帝国の崩壊によって、劇的な逆流が生じた」。「そのような終戦直後の膨大なひとびとの移動は、単に帝国崩壊によって引き起こされただけでなく、戦後東アジアの地域秩序の形成によっても強く規定されていた」。「その過程で、日本国内における在日朝鮮人という存在がもたらされ、勢力圏に中国残留孤児をはじめとする「日本人残留者」が生み出された。そしてそれは、単にひとびとが「新たな国境」を越えて大量に動いた(あるいは残った)というだけではなく、移動したひとびとが戦後の当該社会にどのように包摂され、あるいは排除されていったのかという社会問題と深く関連していた」。「帝国日本をめぐる人口移動を、いまなお残された「東アジアの課題」として検証する」。

 しかし、編者蘭信三の視野は東アジアに留まらず、地域や時代を超えて、学問的普遍的課題として、帝国日本崩壊後の人口移動と社会の問題を、つぎのようにとらえている。「帝国であったフランスでもピエ・ノワールやアルジェリア引揚者の社会的適応問題はありましたし、近年の続く北アフリカからの移民の社会統合問題は依然として未解決です。また、イギリスにおいても旧植民地出身者の階層や逸脱問題が色濃く残っておりました。そして東西ドイツ統一後のアウスジードラーと呼ばれるロシア在住ドイツ人のドイツへの帰国(移住)後の適応問題は、トルコ人移民の社会統合問題以上に緊急のものとなっています。さらに、一九九〇年代のソ連(帝国)崩壊後の様々な人口移動(イスラエルへの大量移民など)に見られますように、帝国崩壊後の人口移動と社会統合、あるいは脱植民地化と人口移動、社会再編、そして社会統合の問題は、多くの帝国崩壊後の社会に見られるいわば普遍的な課題なのです。このように、グローバル化が進行する今日であっても、第二次世界大戦後や植民地戦争後の帝国の崩壊をめぐる人口移動とその後の社会統合問題は依然として大きな研究課題であるのです」。

 本書は、つぎの4部から構成されている:「朝鮮をめぐるひとの再移動の諸相」「満洲をめぐるひとの再移動の諸相」「沖縄、台湾、南洋をめぐるひとの再移動の諸相」「帝国崩壊後の様々な戦後」。本書でキーとなるのは、前著でも指摘された朝鮮人である。たとえば、第二部の「満洲」でも、日本人開拓団員の話をよく知っている日本人は少なからずいるが、旧満州に居住していた朝鮮人の話を知っている日本人はあまりいない。帝国日本の崩壊とともに、「満洲国臣民」であった朝鮮人は中国東北に定住して「中国朝鮮族」になるか、朝鮮半島へ帰還するかの選択を強いられた。前者は中国内の国民党と共産党との内戦に巻きこまれることを意味し、後者は朝鮮戦争の勃発で前者を巻きこんで複雑な様相を呈した。めまぐるしく変わる限られた情報のなかで、人びとは翻弄され続け、民族の祖国と現実の祖国、階級の祖国とのあいだで苦悩することになった。

 いっぽう、中国に残留した日本人のなかには、日本に居住することができるにもかかわらず、日本を選ばない人びとがいることが紹介されている。その理由は、「日本の年寄りの生活はつまらない、とても単調で、さびしい」ということだった。

 ひとの移動は、自発的なものから強制的なものまで、それぞれさまざまな状況のなかでおこなわれた。そして、その先に自分自身が身を置く社会がある。選びたい社会、選ばれたい社会とは、何なのか。好きで来たわけではないが、居心地をよくするにはどうしたらいいのか。個々の体験が重要な意味をもつことが、本書から伝わってくる。

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2011年09月13日

『4億の少数派-南アジアのイスラーム』山根聡(山川出版社)

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 「4億の少数派」ということばを、いまわたしたちはどうとらえたらいいのだろうか。まとまれば、なんでもできる数のように思える。この「少数派」ということの意味と、「少数派」の帰趨がわかれば、南アジアだけでなく、イスラーム世界、全世界の未来もみえてくるような気がした。

 著者山根聡は、まず「少数派」の意味を、つぎのようにまとめている。「南アジアが非アラブ圏にあるために、イスラーム世界で南アジアは周縁的存在となっている。さらに、四億人にも達する南アジアのムスリムは、九億人近いヒンドゥー教徒の前では少数派となり、「南アジア」の枠組みでも周縁に位置づけられる」。

 そして、この歴史的にも重要な「二重の周縁性」が、今日さらに重要になってきていることを、つぎのように説明している。「南アジアという地域のイメージで浮かぶ、多宗教、タージマハル、都市の壮麗な城塞、細密画(ミニアチユール)といった文化的な事柄が南アジアのイスラーム文化の一端を示しており、頻発するテロやターリバーン運動、あるいはカシュミール問題などの現代的問題もまた南アジアのムスリムの一部がかかわり、彼ら自身がかかえる問題でもある。すなわち、この地域の歴史、政治、経済、社会、文化のあらゆる場面でイスラーム的な要素が南アジアに与えた影響の大きさがわかる。これを正面からとらえなおすことは、南アジア研究のさらなる深化をもたらし、南アジアにかんする知識をより多角的に構築できるといえよう」。

 本書では、イスラームがはじまったほぼ1世紀後からはじまる南アジアのイスラームの歴史を、年代順につぎの5章に分けて紹介している。
 第1章 インド・イスラーム文化
 第2章 西欧的近代との出会い
 第3章 イスラームの政治運動化
 第4章 イスラームと国家の関係
 第5章 世界情勢と南アジアのイスラーム

 南アジアのイスラーム教徒は、確実にアラブ世界と繋がり、近代ではオスマン帝国を介してヨーロッパ世界とも繋がっていた。露土戦争(1877-78年)のときにはオスマン帝国に義捐金を提供し、第一次世界大戦後にはカリフ制の廃止にともない反イギリスに転じた。もちろん、アラブ世界の原理主義運動とも、さまざまなかたちで繋がっていた。

 また、同じイスラーム世界の「周縁」に位置づけられた欧米、アフリカ、東南アジアなどとも、直接繋がっていた。とくに東南アジアとは歴史的に深く、南アジアでイスラーム諸学を学んだ東南アジアからの指導者もおり、南アジア系のイスラーム教徒のコミュニティが東南アジア各地で形成された。このように世界各地に、数百万の南アジア系のイスラーム教徒がいることを忘れてはならないだろう。

 国や地域、時代を越えて全世界のイスラーム教徒と繋がるいっぽう、南アジアの多宗教社会のなかで共存しているようすが、つぎのように紹介されている。「アジメールのムイーヌッディウーン・チシュティー廟やラクナウー郊外にあるバハラーイチなどには、宗教、宗派を問わず多くの参詣者が訪れる。ベンガルの民俗芸能バウルの担い手で宗教詩人フォキル・ラロン・シャハ(一七七四?~一八九〇)もまた、宗教をこえた聖者として現在も支持を集めており、南アジアの大衆にとっての「宗教」が、教義にとらわれない民間信仰や芸能のかたちで広く浸透し、続いていることを忘れてはならないだろう」。

 インドを代表する墓廟、タージマハルは、インド・イスラーム文化を象徴するものといえるが、「ヒンドゥーは例外を除いて、墓を造らない宗教文化をもつことから、墓廟の文化はアジアのイスラームの特徴といえる。聖者廟やモスク周辺には宿泊施設などが建設され、周辺地区が発展した。聖者廟にはムスリムのみならず、ヒンドゥーやスィクなど、宗教、宗派を問わず多くの参詣者が集まった」。「これらインド・イスラーム文化とは、宮廷や都市部で発展した建築や細密画などの美術、あるいは文学などであって、農村部ではヒンドゥーなど土着の宗教文化や民族文化とまじりあった文化が広がっていた」。

 そして、「異なる宗教集団が対立と共存を繰り返してきた」「政治的・経済的な動きと離れた日常では、宗教、宗派を問わずしてまじり合った宗教文化もみられ」、「これら集合的な習俗を内省的に改革してイスラーム本来の教えにもどろうとする動きが、イスラーム世界で先駆的に起こったのも、南アジアなのである」と、イスラーム世界のなかでの南アジアを特徴づけ、つぎのように本書を結んでいる。「これからも四億の人びとは、世界各地の移民とのネットワークを保ちつつ、南アジア世界のみならず、イスラーム世界全体、ひいては世界情勢にも影響を与え続けるであろう。だからこそ、南アジアのイスラームと四億の少数派について、知識を深める必要がある」。

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2011年09月06日

『「海の道」の三〇〇年-近現代日本の縮図瀬戸内海』武田尚子(河出ブックス)

「海の道」の三〇〇年-近現代日本の縮図瀬戸内海 →bookwebで購入

 本書は、2冊の専門書によって分析・考察、裏付けされたことに基づいて書かれているため、安心して読むことができた。しかも、20年近くに及ぶ地元との交流を背景に、地元目線で書かれているため、人びとの生活の息吹が感じられた。研究で得た成果を、一般書でわかりやすくし、調査で協力してくれた多くの人びとに還元することは、それほどたやすいことではない。著者武田尚子は、本書を執筆・出版して、肩の荷が軽くなった清々しい気分をあじわっているのではないだろうか。それが、さらなる研究への意欲、発展へとつながっていくことだろう。

 本書の内容は、表紙見返しに要領よく、つぎのようにまとめられている。「古来、日本の政治・経済・文化と深く関わり、歴史的蓄積が厚い「海の道」瀬戸内海。漁業、交易、エネルギー輸送……人とモノが活発に行き交い、時代とともに多様な産業が折り重なってゆくその歩みは、まさに日本の近代史・昭和史の縮図と言える。瀬戸内の主要航路に面したある小さな島にスポットをあて、内海での鯛網漁から、西海捕鯨へ、マニラ湾へ、南氷洋捕鯨へと拡がった海の労働の世界、海運・造船業の成長にともなう「海の道」の再編成に揺れる地域社会の姿も活写。丹念なフィールドワークの成果が随所に光る画期作である」。

 本書のねらいについて、著者は「はじめに」でつぎのように述べている。「日本の海の世界に焦点をあて、「海の道」と人々の生活の関わりを描くことである。近世から近現代までを見通した視点で、漁業、商業、工業を通して、人やモノの通り道がどのように作り出され、どのような変化が生じたのか、各産業の要素がどのように連鎖しているのか、近現代社会のどのような側面に海の世界の重層性を見出すことができるのかを描き出してみたい」。

 瀬戸内海は、古代から畿内と北九州、さらに朝鮮半島から中国大陸へとつながっていた。そして、近世の御朱印船は南洋日本人町へ、近代の漁民は領有した台湾や朝鮮だけでなく南洋の漁場へと出て行った。そこには、発展する陸域にあわせるように活躍の場を求めて移動する「海の民」の姿があった。しかし、その活動を封じ込める時代があった。それにたいする対応は、島ごと、集落ごとによって違い、漁民層の分解にはタイムラグが生じた。そして、原子力船の母港の誘致やLPG基地建設計画などがもちあがった。

 その反対運動を通して、著者は「海と島の「根の世界」」を見逃すことなく、「海に生きる集団の「知恵」」を理解した。反対の中心となった集落のひとつ、「箱崎では近世末以来、沿岸漁業集落として生産のしくみが大きく変わることがなかった。漁民集団は労働を通して強い結束力を維持し、先達の知恵を伝承してきた。たとえば、休漁の日は、浜の松林にすわって、年長の青年たちが網の繕い方を年少者に教えた。昼間の漁を終えたあと、夜に「青年クラブ」集会所前の空き地に集まって、網の梳き方を教えることもあった。労働にまつわる「うた」も伝承された。「箱崎大漁節」は、労働の場でも宴会でもうたわれ、みなが心を通わせる潤滑油だった。箱崎では、地域社会と労働が一体となり、労働に縁の深い場で技術や文化が伝承されてきた。そのような文化的資源・社会的資源の存続に深く関わっていたのが青年団である」。

 この「根の世界」の深さに驚嘆したことが、著者が瀬戸内海の小さな島にかかわり続けた理由だった。それを、「あとがき」でつぎのようにまとめている。「この島に起きた出来事は、近世・近現代の日本社会に起きた出来事を凝縮したような密度の濃いものであり、小さな島であるのに、スケールの大きな歴史を刻んできたことに、何度も不思議の念にうたれた。島の浜辺から水平線を見はるかすと、この島をよりどころにして、私の知的好奇心も大海へ広がってゆくように感じた。海の世界に生きた人々の軌跡を探求することの魅力を伝えるべく、三〇〇年を見通すこのような通史を著した」。

 日本の近現代社会が、もうひとつ別の角度から歴史的に浮かびあがってきた。

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