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2011年08月30日

『地図から消えた島々-幻の日本領と南洋探検隊たち』長谷川亮一(吉川弘文館)

地図から消えた島々-幻の日本領と南洋探検隊たち →bookwebで購入

 本書では、「日本近海のまぼろしの島々について、その〝誕生〟から〝消滅〟までの経緯を追い、それを通して、近代日本の「南進」の一側面を見てゆく」。だが、著者、長谷川亮一は、「あとがき」で、「じつのところ、最初からこのような形でまとめることを意図していたわけではない。当初は、日本近海の幻の島列伝、といった形でまとめようとしたのだが、登場する人物や実在・架空の島々などが複雑に錯綜しているため、それぞれを切り離してしまうとかえってやりにくい。そのため、なるべく時間的な順序に沿う形で話をまとめてみたのである」と述べている。

 本書では、西洋史でいう「大航海時代」に「発見」された日本近海の島々の話からはじめ、近代国家日本が成立していく過程で、「一攫千金を夢見る冒険商人たち」を絡めながら、領域を画定していった様子を描いている。その概略は、つぎのように年代順にまとめられている。「北方の境界が日露和親条約(一八五五年)と樺太・千島交換条約(一八七五年)によりひとまず確定し、一八七六年(明治九)に小笠原群島が日本領となり、一八七九年(明治一二)に琉球国が解体されて沖縄県が設置されたのち、これらの無人島も相次いで日本領に編入されてゆく。一八八五年(明治一八)に北大東島・南大東島、一八九一年(明治二四)に北硫黄島(いおうとう)・硫黄島・南硫黄島、一八九五年(明治二八)に久場島(くばしま)・魚釣島(うおつりしま)(いわゆる尖閣(せんかく)諸島)、一八九八年(明治三一)に南鳥島、一九〇〇年(明治三三)に沖大東島、一九〇五年(明治三八)に竹島、一九三一年(昭和六)に沖ノ鳥島が、それぞれ編入されている」。

 「こうした小島嶼の編入に際しては、民間人の経済活動が大きな役割を果たしていた。「南進」の夢に駆られた民間人の中には、アホウドリの捕獲やリン鉱石の採取などによる一攫千金を狙い、日本近海で適当な無人島を捜して開拓をしようとした者もいる」。かれらの活動は、ハワイ諸島を含むポリネシア、ミクロネシア、メラネシア、さらには現在中国とASEAN諸国とのあいだで問題になっている南中国海の島々にまでおよんだ。

 本書を読むと、竹島や尖閣諸島の帰属問題も基本的なことがわかる。竹島は、日本の圧力が強まる一九〇五年という朝鮮側がなにも言えない状況のときに、日本領に編入された。尖閣諸島は、日本が編入した一八九五年に、国際的に主張できるだけの手続きを踏んでいないことがわかる。本書から、尖閣諸島にかんする経緯を抜き出すとつぎのようになる。

 「一八八〇年一〇月、旧琉球国の西半分、先島諸島(宮古列島と八重山列島)を清朝に割譲し、その代わりに日本は清朝から欧米諸国並みの通商権を得る、という「琉球分島条約案」がいったん妥結された。しかし、亡命琉球人たちは、先島諸島だけでは王国の再建は不可能だ、と激しく反発する。そのせいもあり、清朝側は土壇場になって正式な調印を中止し、この条約はそのまま立ち消えとなってしまった。以後、日清戦争までの間、琉球の帰属問題は、日清間の重大な未解決問題としてくすぶり続ける」。

 一八八五年一〇月、沖縄県は「「魚釣島」「久場島」「久米赤島」の調査を行った。ただし、このときは国標の設置は行われていない。というのも、この時点では、これらの島々が清朝側の冊封使録などにある「釣魚台」「黄尾嶼」「赤尾嶼」と同じものなのかどうかすらはっきりしておらず、仮に同じだとすれば(その通りなのだが)、清朝側が領有権を主張してくる、という可能性が懸念されたからである」。

 日清戦争の帰趨がみえてきた「一八九五年一月一四日になって、第二次伊藤博文内閣は「久場島」と「魚釣島」を沖縄県の所轄とし、標杭を建設することを閣議決定、一月二一日付で奈良原[沖縄県]知事に対して指示を発した」。「再三の沖縄県側からの要求にもかかわらず、日清戦争中のこの時期まで決定が先延ばしになった理由は明らかではない。また、この決定に基づいた標杭建設が行われた、という事実は確認されていない。それどころか、沖縄県が二島を編入することを何らかの形で公示した、という形跡もない。もちろん、他国に対する通告などは一切出されていない」。また、一八九六年三月五日付の勅令で、「尖閣諸島はこのとき八重山郡に編入されたといわれているが、直接そのことを示した文書は発見されていない」。さらに、一九四五年の日本敗戦後に、連合国に占領された日本のなかに「尖閣諸島」が含まれているという記述はなく、沖縄のアメリカ軍による軍政、日本への返還に際しても、「尖閣諸島」のことは明記されていない。

 では、中国側に領有権を主張するだけの充分な根拠があるかといえば、それもなさそうである。一九一二年の中華民国、四九年の中華人民共和国成立時に、なんらかの表明をした形跡はなく、「二〇〇海里経済水域の設置が問題になり、ごく小さな島にまで注目が集まるようになる」七一年になってから、「中国と台湾が、それぞれ公式に釣魚島(尖閣諸島)の領有権を主張しはじめている」。

 著者は、「あとがき」で「こうした問題を考えるにあたって、南鳥島や沖大東島、中ノ鳥島などの事例との比較はぜひとも必要ではないか」と述べている。至極もっともな見解である。また、本書から、存在することを証明するより、存在しないことを証明することのほうが、はるかに難しいことがわかった。地図からなかなか消せないのも、これまた至極もっともなことだと思った。

 領土問題だけでなく、「領土拡大をもくろむ帝国日本」を利用し、「一攫千金を夢見る冒険商人たち」にも注目したい。その冒険商人たちにまんまと騙される役人や政治家たち、その原因は事実確認をおろそかにしたり、できなかったことによる。今日の問題でも、本書のようにより広い視野で客観的に考えることができる基礎研究が、いかに大切かがわかる。事実確認をせずに、政府やマスコミに躍らされて思い込み、判断することだけは避けたい。

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2011年08月23日

『世界政治叢書7 南部アジア』山影進・広瀬崇子編著(ミネルヴァ書房)

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 本書は、「世界政治叢書」全10巻の1冊である。しかし、ほかの巻のタイトルが聞き慣れた地域名・国名であるのにたいして、本巻のタイトルは「南部アジア」である。この聞き慣れないことばを使った理由を、編者のひとり山影進は「序章 南部アジア政治試論」で、つぎのように述べている。「南部アジアとは、普通には東南アジアと南アジアと呼ばれている別々の地域を一括してとらえる言葉として用いている」。「一括して南部アジアとしてとらえることで、従来は見えなかった(あるいは見えにくかった)「何」が見えてくるのか。この序章では、背景となる歴史を展望しながら、南部アジアにおける国内・国際政治を見る視点を打ち出す。つまり、南部アジアの政治を理解する上での重要課題を指摘することがこの序章の目的である」。

 まず、「背景となる歴史」について、つぎのように的確に展望し、歴史的に東南アジアと南アジアを別々に論じる意味がないことを説明している。「16世紀初頭に香料諸島(東インドネシアのマルク諸島)をめざして進出してきたヨーロッパ勢力も、当然のことながら、現在の南アジアと東南アジアとを区別したわけではない。ポルトガルのインド帝国はアラビア海に面したゴアを拠点にして、アフリカから東アジアまで散在する交易拠点をネットワーク化して統治する組織であった。スペインはフェリーペ(フィリップ)の領土(フィリピン)を新スペイン(メキシコ)と結びつけた(アカプルコ・マニラ交易)。17世紀になるとオランダ東インド会社は島嶼部に進出してポルトガル勢力を追い出し(東ティモールのみが、ポルトガル領で残った)、オランダ領東インド(インドネシアの前身)の基盤を築き、19世紀にかけて面の支配を完了した。イギリス東インド会社はフランス勢力を南アジアから駆逐し、政府から与えられた広範な特権を利用してインド統治に手を染めた。さらに中国をめざすイギリスは、ビルマ(現ミャンマー)をインドに組み込むと共に、マレー半島、シンガポールやボルネオ島の一部を勢力下に置いた。インド権益を奪われたフランス勢力は、東南アジア大陸部(インドシナ)に拠点を移した。そして20世紀初頭には、スペインとの戦争に勝利したアメリカがフィリピンを支配するようになった」。

 そして、今日、南部アジアの政治課題として、つぎの「6つの課題に直面していると概括することができるのではないだろうか」と問いかけている:「民族自決問題の解決」「エスニシティやアイデンティティをめぐる政治」「国民政治におけるイスラームのあり方」「民主化と社会の開放への圧力に対する政治の対応」「21世紀に入った今日のグローバル化する世界のなかで、アジア諸国が直面している国民政治」「アジアの国々が互いにどのような地域秩序を形成していくか」。

 本書は、6部15章からなる。5部12章までは、「南部アジア」という新たな地域枠組もその効果も感じることはあまりなかった。なかには、「第9章 ビルマ(ミャンマー)・カンボジア」のように、これまでの発想とは違う比較を試みているものがあったが。興味深かったのは、「第Ⅵ部 南部アジアの地域制度構築」の3章である。そこでは、南アジアや東南アジアをひとつのまとまりある地域としてみていなかったり、「南部アジア」をはみ出して考えたりしている。

 たとえば、「第13章 アジア地域主義における南部アジア」では、つぎのような地域主義がみられると紹介している。「第14章でも詳しく取り上げられている環インド洋地域協力連合(IOR-ARC)の他、ベンガル湾多分野技術・経済協力イニシアティブ(BIMSTEC)、そしてアジア協力対話(ACD)が挙げられる。IOR-ACRにおいては、「環インド洋」という地域に属するという了解の下で、東南アジア、南アジア、西アジアおよびアフリカに属する諸国が、連携強化をはかっている組織であると解釈できる。同様にBIMSTECは、東南アジアと南アジアに属する諸国が経済協力をはじめとする様々な協力・連携を通じた関係強化を「ベンガル湾」という地域設定の下でめざす枠組であると位置づけられよう。ACDは東南アジアと南アジアのみならず、西アジア、中央アジア、そして北東アジアまで範囲を広げた広域アジアでの協力を進めるための制度である。このように、南部アジアにおいては、これらの様々な地域主義の動きが連関・重複しながら展開してきている」。

 「第14章 地域協力の鍵を握るインド」では、つぎのようにインドの本音を垣間見せる。「自国の経済力とは釣り合わない小さな隣国を相手にするよりも、またパキスタンという、ときに「敵意をむき出しにする」挑戦国とつきあうよりも、冷戦後の国際政治とグローバル経済のなかでますます重要な位置を占めつつある中国やASEAN、さらにその向こうのアメリカ、EUとの関係を強化することにある」。「ベンガル湾との繋がりをもたないパキスタンはBIMSTECについては、加盟考慮対象とはならない。共にBRICsに数えられる中国をライバル視するインドにとってみれば、BIMSTECは、ASEAN諸国への橋頭堡として経済的実利を得つつ、パキスタン抜きで対テロ協力を進めることまで可能となる。インドからすると、すこぶる都合のよい枠組みに見える」。

 結局は、南アジア、東南アジアにかわる地域として「南部アジア」という枠組を使っても、今日はひとつの地域の枠組だけで語ることは、不可能であることがわかった。国家、2国間関係、近隣諸国との関係(南アジア、東南アジア)、大国との関係などに加えて、「南部アジア」という枠組で考えると、「従来は見えなかった」ものが見えてくることもあるということがわかった。それは、序章で図式された「南部アジアの構図」ではおさまりきらない何重にも張り巡らされたネットワークで構築されている。その絆は、時と場所によって現れたり消えたりする。帯にある「立体的に描く」という意味がわかった。

 本書は、現代の政治課題を読み解くもうひとつの考え方として、「南部アジア」という枠組を提起している。「序章」でわかったように、歴史的にも「南部アジア」を枠組として考察する必要がある。これまで、南アジアと東南アジアは別々の歴史空間としてとらえられてきた。本書、とくに第Ⅵ部を参考に、「インドシナ」「インドネシア」「東インド」といった「インド」を含む東南アジアの地域名の意味を考え、歴史を再考する必要があるだろう。そのためには、国家中心の政治史だけでなく、たとえばポルトガル私貿易商人やイスラーム商人のように、文献では見えにくい人びとの存在を意識する歴史像、地域像を考えに入れる必要がある。

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2011年08月09日

『移民研究と多文化共生』日本移民学会編(御茶の水書房)

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 本書は、日本移民学会創設20周年記念論文集である。学会の記念誌は、その分野の研究史と最先端の研究動向がわかることが期待され、期待通りのものは長く重宝される。本書も、その期待を裏切らないものになっている。

 日本移民学会が創設された当時、研究の主流は、日本からアメリカ合衆国やブラジルなどへの出移民が現地社会とさまざまな文化摩擦を起こしながら、「同化」または「適応」していったプロセスを、文献によって検証するものだった。それが、今日では地域的にも分野的にも格段に広がり、「研究のための研究」ではなく、実際にいま世界で起こっていること、日本で起こっていることを念頭において、問題を解決する術を模索するというものになっている。そのキーワードは、「多文化共生」である。

 本書は4部からなる。「第一部 海外における多文化主義・社会的統合論」では、「日本における多文化共生の今後のありようを考えるために、海外の多文化主義(あるいはその不在)の現状と課題を検証する」。「第二部 日本から海外へ-移民の経験とアイデンティティ」では、「海外に渡った日本人移民・殖民の歴史的経験やその子孫のアイデンティティがテーマになっている」。「第三部 日本で生きる-越境から共生へ」では、「日本国内に居住する外国にルーツをもつ人々を対象とする論考で構成されている」。最後の「第四部 移民研究へのアプローチ」では、「移民研究の方法論について、従来のように歴史学、社会学、文学等の学問分野別に、つまりタテ割にアプローチするのではなく、研究対象と課題に応じた多角的な研究方法論を提示する」。

 本書あるいは本学会が目指しているものを、もっとも顕著に表しているのは第一部だろう。「多文化共生」といえば、オーストラリアやカナダの例がよくあげられ、モデルとされてきた。いま、この2ヶ国で考えが変わってきている。それは、失敗したからではなく、ある意味で成功したからだという。いったいどういうことなのだろうか。

 「第1章 隠された多文化主義-オーストラリアにおける国民統合の逆説」では、つぎのように問い、答えている。「1990年代から2000年代のオーストラリア政治において、なぜ多文化主義は「隠された」のか。それは、多文化主義が統合や社会的包摂という目的に反する「分裂」の要素をもったからである」。「公定多文化主義が分裂の要素をはらむことになったのは、それが成功したがゆえ、すなわち国民統合を目指す論理として制度化され、政府にとって「使い勝手の良い」論理になったがゆえなのである。「使い勝手が良くなった」ために、政府は多文化主義を新自由主義的な考え方に適合させ、グローバル資本主義を勝ち残るための多様性の活用を奨励する論理へと変えることができた。しかしその結果、多文化主義は主流白人中心のナショナリズムとの結びつきを失い、主流白人であろうがなかろうが「活用できない」人々を排除することを黙認する「帝国」の論理の色彩を強めていった」。

 カナダでも、1990年代になると問題状況の変化が意識されるようになった。「第2章 多文化主義をめぐる論争と展望-カナダを中心に」では、つぎのように説明されている。「移民法の改正によって増加した非ヨーロッパ系の移民は、かつてのヨーロッパ系移民と比べて、親族関係や宗教などの文化的背景の異質性が大きく、統合の遅れが危惧されるようになる。実際、収入格差が長期間にわたって持続し、また二世になってもカナダへの帰属意識が強まらない例が見られる。また、その文化・宗教的慣習がしばしば保守的であり、自由民主主義の基本原理と対立することが危惧されるようになる。多文化主義の政策は、当初ヨーロッパ系の移民を念頭に開始されたものであるが、非ヨーロッパ系移民の増加のなかで、その有効性や妥当性を疑問視する声も強まっている」。この第2章では、「カナダの状況を通して、多文化主義の到達点と、それが直面する困難を、明らかにする」ために、「「文化」の実体への懐疑、「分離」への危惧」「抑圧的なマイノリティ文化をどう扱うか」「公共空間における宗教表現の問題」の3つに分けて考察している。

 この2ヶ国の例から、これまでの「多文化主義」の議論が、近代のヨーロッパ拡張主義に則って行われてきたことがわかる。それが、非ヨーロッパ系を含むグローバル化のなかで、ヨーロッパ系の優位が保てなくなったことから問題が複雑化した。

 「序論 移民研究から多文化共生を考える」では、「多文化共生」先進国の問題点を理解したうえで、「日本の多文化共生が、諸外国の多文化主義と同じ道を辿るのではなく、軌道修正しながらも日本独自の発展形態をとるためにはどうすればよいのか。それを考えるために、多文化主義をめぐる議論をどのように援用することが可能なのか、日本で生まれた事情は何かについて整理しておくことが肝要であろう」と指摘している。「多文化共生」をめぐって、いま世界が直面している共通の問題を理解するとともに、各国で起こっている個別の問題に対処するための「移民研究」が唱えられているのである。

 20年前に主流であった出移民の文献を主とした研究も、新たな展開を迎えている。20世紀前半の東アジアにおける人口移動は、日本帝国の形成・膨張そして崩壊によって規定されたと捉え、日本内地から外地へとその逆だけでなく、外地のなかでもたとえば朝鮮人が満洲、沿海州、樺太などへ移動したことを、東アジアという歴史空間のなかで考察しようとしている。また、戦後の外地から内地の引き揚げだけでなく、「現地へ定着、残留した中国朝鮮族、在日朝鮮人、そして遅れて帰国した中国帰国者」を、戦前からの連続性をもって考察しようとしている。ナショナル・スタディーズの延長としての出移民や2国間関係史から解放されることによって、近代のディシプリンや国民国家の枠を超えて、世界に通用する学際的研究として、日本の「移民研究」を発展させようとしている。

 近年増加している日本への入移民であるニューカマーについては、いままで見落とされてきた母国に帰国できない無国籍者など、「少数民族にも難民にもなれない」人びとのことも考える。また、在日ブラジル人を、世界にディアスポラした在外外国人として考察を試みる。このように、従来対象外にされてきた人びとを可視化して、考察の俎上にのせることによって、より総合的に捉えようとしている。それでも、本書で取りあげているのは、ほんの数例に過ぎない。いったいいくつの「多文化」の事例があり、考察の対象としなければならないのか。「移民研究へのアプローチ」も、文献中心から多様化してきている。気づいたことから問題設定し、わかったことから書いてきたこれまでとは違い、気づかなかったこと、わからないことはなにかを考えながら、相対的に研究をすすめる必要性が出てきている。

 本書から、「移民研究」は、「研究のための研究」ではないと意識した多分野の研究者によって、それぞれの分野の専門性をいかしながら「科学する総合的な領域」になりつつあることがわかるが、その未来はそれほど平坦ではないようだ。

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2011年08月02日

『日本断層論-社会の矛盾を生きるために』森崎和江・中島岳志(NHK出版新書)

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 1927年朝鮮生まれの詩人で作家である森崎和江の生きざまを、その時どきの作品とからめて、1975年生まれの近代政治思想史研究者である中島岳志が聞き出したのが、本書である。すでに森崎作品に慣れ親しんでいる人、とくに2008年に刊行された『森崎和江コレクション-精神史の旅』(全5巻、藤原書店)を読んだ者には、それほど目新しいものはない。しかし、中島の用意周到な聞き上手もあって、これまで断片的であったものが、ひとつにつながって理解できる。

 本書の要点を、中島は「はじめに」で要領よくまとめている。すこし長くなるが、引用したい。

 「森崎は自らが植民地下の朝鮮に生まれた日本人の娘であることにも、鋭いメスを入れた。彼女は教師である父の仕事の関係で一七歳まで朝鮮で育ち、進学のため戦中に福岡に引き揚げた」。
 「自ら育ててくれた朝鮮の人と大地への想い。しかし、その深い愛着が日本の帝国主義の土台の上にあることへの贖罪(しよくざい)意識。帰ってきた日本での居場所のなさと存在論的不安-」。
 「彼女は「私には顔がない」と書き、日本社会との隙間(すきま)を感じながら、植民地育ちという「原罪」を背負って生きた」。
 「森崎は幻想的なアジア民衆との連帯を表現する谷川[雁]に対し、具体的な植民地統治の過去を突きつけ、自らの(そして日本人の)「原罪」をより深く追求する必要性を訴えた。しかし、その望みは繰り返し拒絶された。それでも彼女は「問い」を発し続け、自らの意思で朝鮮との交流をはじめた」。
 ・・・
 「ウーマンリブ、サバルタン・スタディーズ、ポストコロニアル批評……」。
 「のちに横文字の概念が入ってくることで認識される問題群を、森崎は一人で開いていった。「それ」に名前が与えられないままに」。

 中島は、「なぜ森崎だけが、未知の領域に分け入ることができたのか。なぜ、あまりにも先駆的な表現を紡(つむ)ぎだすことができたのか」を問い、つぎのように結論づけた。「そんな自己を切り裂く作業を経由したからこそ、日本/アジア、先進/後進、都市/地方、エリート/サバルタン、男性/女性……といった無数の断層を乗り越え、表現を紡ぎだすことができた。新しい批評の世界を切り開くことができた」。

 森崎は、まず詩人であった。ついで、北九州の炭坑で文筆を通した活動家になった。そして、NHKのラジオやテレビの台本などを書き、日本各地を歩きながら人びとの日常を描く旅人になった。森崎は、本書を総括して、「あとがき」でつぎのように述べている。「生誕地の天地風土をむさぼり愛した原罪を、可能なかぎり心身から剥ぎ捨てたいと、私は全く知らなかった「方言の世界」で働き暮らす方々に会いつづけて来ました。その方々の呼吸を身に浴びることで生き直したいと、列島を南へ北へと歩きました」。そのなかで数々の断層に気づき闘ってきたが、森崎にとって、「最も深く対決の思いが宿ったのは公娼制度」だった。

 森崎は、国家の中央から人間性を無視された人びとと同じ位置に立ち、自分のこととして捉えた。もっとも印象深い人びととして、「北海道に引き揚げたサハリンの少数民族」をあげたのも、朝鮮で生まれ育った自分が日本国籍をもつというだけで、居場所のない日本に住んでいることに納得できなかったからだろう。日本社会になじんだサハリンの少数民族は、もはや日本との関係抜きに生きていくことができなかったために、故地を捨て一度も行ったことのない北海道に「引き揚げた」。

 森崎は、学者ではない。だから、学術用語で評価することはできない。同居した谷川雁が、計算づくで発したメッセージが読者に届いたかどうかを気にし、現実と乖離したのにたいして、森崎は「自分の感じたままで生きて」、感じたままを書き、その矛先を自分自身に向けて傷ついた。それでも、逃げなかった。それが読者の共感をよび、読者は森崎から受け取ったものを学問に、闘争に、生活に、それぞれ自分のために活かした。中島は、本書を「今と自己を見つめるために」「若い世代に読んでほしいと願っている」。森崎が聞きながら、語りながら、歩きながら、闘いながら、そして書きながら、どれだけ他人の痛みを自分のものとして苦しみ、「どう生きるの?」と問い続けてきたのかがわかれば、森崎のいう「断層」の意味もわかってくるだろう。

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