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2011年06月21日

『ミャンマー概説』伊東利勝編(めこん)

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 画期的な本である。いままで靄がかかってすっきりしなかったミャンマーが、ところどころ一気に澄み渡ってくっきり見えるようになった感じがした。まず、数々の苦悩の末に「強権的に介入」をして、1冊にまとめた編者の伊東利勝に、お礼を述べたい。そして、このような貴重だが手にとりやすいとはいえない本を、この価格で出版した出版社のめこんの英断に敬意を表したい。

 なぜ画期的なのか。まず、「文化や世界に優劣はないという理解のもとに」、人口の6割を占めているといわれるビルマ人の世界と、同じスペースを主要7民族・世界に割り当てていることだ。その7民族・世界が単独で語るにふさわしい豊かな独自の歴史と特有の文化もっていることを、本書はよく表している。つぎに、自由に研究ができない現在のミャンマーの国状を考えれば、日本人で適当な執筆者がみつからない分野を、第一線のミャンマー人研究者が執筆していることは、奇跡に近いことかもしれないことだ。日本人研究者の視点だけでなく、現地の研究者の視点で書かれたものが半分以上を占めていることの意味は、普通の日本人では想像できない大きなものだろう。

 本書は、「序章 ミャンマー的国民国家の枠組」と「終章 官製民族世界の形成」と、そのあいだの「ビルマ世界」「モン世界」「カレン世界」「カヤー(カレンニー)世界」「シャン(タイ)世界」「カチン世界」「チン世界」「ヤカイン世界」の8章からなっている。それぞれの世界は、教科書的に多くの人が納得するように書かれているわけではない。それが当然だと、編者はつぎのように説明している。「ビルマ世界とかカレン世界としているが、そこに描かれている事柄でこれを説明しようという意図はない。つまりビルマ文化の一般的形態とか、カレン文化の本質とかがここに描かれていると思ってもらっては困る。そういう要素が観察される、もしくは見ようによってはそういう姿も浮かび上がるといったことが示されているにすぎない。だからといってこれらの論考が、まだ完成途中で、全体像を描ききっていないということでもない。そもそも文化の本質なるものが存在するとは考えないからである」。

 では、どのように読めばいいのか。編者は、つぎのように読者に期待する。「当然執筆者の視点はさまざまである。相互に歴史観が食い違っていたり、特に当事者による叙述は、標準的な「歴史」に照らせば、明らかに矛盾するような「史実」も含んだりしている。あるいは専門的な訓練を受けていないなどの批判もあろう。しかし、それはそれとして当事者を取り巻く世界には受け入れられているのであり、部外者が、実証性に乏しい、学会の動向を押さえていない、古い学説をそのまま採用しているとして、これを頭ごなしに否定してもあまり意味がない。読者は、そうした状況が作り出されている政治的事情も考えつつ、当事者がなぜそのような見解を採用しているのかを読み取ってほしい」。

 本書が、ミャンマー研究者にとって、第一歩となり、通過点となり、終着点となる大きな指針になることは、間違いないだろう。それは、同時に本書が「完成」しえないものを扱っていることとも関係している。カレン人の人口420万人のところが4200万人になっていたり、○○民族、○○族、○○人などの表記の不統一など、ケチを付けだしたら切りがないが、それは執筆者や編者の責任ではない。元の資料で信頼できる最新のものが手に入らない、研究・調査自体がされていない、あるいは理屈ではなくそう書かざるを得ない、といったことなどにもよるからである。このあたりのことがわかると、編者が「この本のねらい」や「あとがき」などで書いていることが、さらによくわかる。

 ミャンマー研究者以外の者にとっては、「多文化共生社会」や「異文化交流」といったことばが軽々しく使えない現実を知ることになるだろう。編者は、「終章」の最後で、つぎのようにまとめている。「民族性はこの連邦民族村に表れるごとく、ミャンマーの観光資源として利用されるだけではない。ミャンマーが文化で統合される過程では、その独自性を確認するために、異文化の存在が必要である。国民統合の中心となるマジョリティの結束を確かにせんとする動きは、異文化の存在によって担保されなければならない。ミャンマーがミャンマーとして自己の姿を作る動きを正統化するためには、異文化の存在がどうしても必要であり、これはその外側だけでなく、内側にも絶えず生み出してゆく必要がある。多元一体社会、多文化共生社会などという戦略の本質が、そこにあるように思えてならない。民族を実体化しない異文化交流とはどのようなものであるか、今このことが世界的に問われている」。

 そして、ミャンマーと言えば、今日国際社会が「民主化」を求めていることで知られているが、そんななかでつぎのことばは、「詭弁にすぎない」と感じるかもしれない。「日本人には理解できないかもしれないが、ミャンマーにはたくさんの民族がいる。そういう中で、軍が政治に関わっていかないと国が維持できないんですよ」。先週も、ミャンマー北部の国境付近で、政府軍と少数民族の「独立軍」との戦闘があって、死者が出たことが伝えられた。「民主化」と正義を唱えることは大切だが、無理をすれば多数の死者が出る。本書の執筆者たちは、そのことも充分にわきまえたうえで書いている。その意味でも、本書は心して読みたい。本書の執筆や翻訳を通して、日本のミャンマー研究者の力量が問われているだけでなく、日本人の読者の良識が問われている。

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