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2011年04月01日

『都市の歴史的形成と文化創造力』大阪市立大学都市文化研究センター編(清文堂)

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 今日は、4月1日である。多少のおふざけは許されるようだが、悪い冗談はやめたほうがいい。これから書くことは冗談ではないのだが、人によっては「悪い冗談はやめてくれ!」と歴史教育に不信を感じる人がいるかもしれない。すくなくとも、教科書に書かれていることを「真実の歴史」と信じて疑わずに勉強している生徒には知られたくない、と思う高等学校の先生はいるだろう。

 本書には、拙稿「イギリス東インド会社「マカッサル商館文書」(1613-67年)の読み方」が含まれている。拙稿は、別に報告書として出した同商館文書の翻刻(Trial Edition)の解説でもある。マカッサルは、現在のインドネシア共和国スラウェシ(セレベス)島南部の中心都市で、東には現地でマルク諸島とよばれる香料諸島(モルッカ諸島)を含む多島海がある。昨年も今年も大学入試センター試験に、1623年に香料諸島でおこったアンボン事件(アンボイナ事件)にかんする問題が出題された。解答の正誤に直接関係はなかったが、日本の高等学校世界史教科書、事典・辞典、通史、講座など、この事件にかんしては、ことごとく正しい記述がなされていないことが、この商館文書を読むことによって明らかになった。しかも、それは日本で正確に理解されていないだけで、イギリスの歴史研究者などは正しく理解していることであった。

 日本の高等学校世界史教科書で、受験用にもっとも多く使われている『詳説 世界史』(山川出版社、2010年)では「アンボイナ事件を転機にイギリスの勢力をインドネシアからしめだして、・・・」とあり、『山川 世界史小辞典(改訂新版)』(山川出版社、第1版第2刷、2007年)の「アンボイナ事件」の項目は、つぎのように書かれている。「アンボン事件ともいう。モルッカ諸島のアンボン島で1623年に発生したオランダとイギリスとの紛争事件。イギリス商館の日本人傭兵の様子に不審を抱いたオランダ商館長が、オランダ商館襲撃を企てたとみなし、イギリス商館長以下全員を処刑。この事件以降、イギリスは香辛料産地のインドネシア東部から撤退し、インド進出に専念した」。『岩波講座 東南アジア史5』でも、「イギリスは一六二三年、モルッカ諸島のアンボン島で起こったオランダによるイギリス人商館員虐殺事件「アンボイナ虐殺事件」を契機として東南アジア地域の貿易から全面的に撤退を余儀なくさせられた。その後、約一五〇年あまりにわたってイギリスはもっぱらインド植民地の経営に専念した」と、わざわざ強調している。

 この事件以前に、イギリスのバタビア管区長は、利益があがらないことを理由に、すでにマルク諸島からの撤退を決めていた。そのことは、香料貿易からの撤退を意味しない。16世紀初めのポルトガルやスペインのマルク諸島への進出以来、ヨーロッパ各国は砦を築いて商館を維持し、香料貿易を有利に進めようとしたが、1世紀がたって香料の価格が下落し、要塞化した商館の維持に多大の費用がかかっていたため、イギリスはムラユ(マレー)系商人やポルトガル私貿易商人などによってマカッサルにもたらされる香料を手に入れるほうが効率的だと考えるようになっていた。事実、イギリスのマルク諸島からの貿易量は、1623年以降大幅に増加し、1667年までマカッサル商館を中心に香料貿易を継続し、年によってはオランダより貿易量が多いときもあった。また、すくなくとも17世紀半ばまで、イギリス東インド会社の中心はジャワ島にあり、インドを中心とするようになるのは後半になってからである。

 なぜ、このような間違いが起こったのだろうか。原因は、容易に想像できた。日本人研究者のだれも、まともに17世紀のイギリス東インド会社商館文書を読んでいなかったからである。アンボン事件にかんする記述だけでなく、これもどの高等学校世界史教科書にも載っている17世紀のヨーロッパの植民支配を示した地図など、原史料をもとに確認した者はだれもいないだろう。商館があるだけのところを、周辺を含めて支配したとしている。ならば、長崎の出島にオランダ商館のあった日本も、オランダの植民地になったことになる。だれもまともに研究している者がいないにもかかわらず、確認もしないで教科書に掲載し続けてきたのである。

 歴史学だけでなく、多くの研究分野には偏りがある。もう新しい史料の出現など、ほとんど望めないにもかかわらず、多くの研究者のいる分野もあれば、手っ取り早く研究成果が望めないために新たに研究しようとする者が現れない分野もある。それでも、社会のニーズがあれば、研究助成金がつきやすく、新たな分野の開拓が期待できるが、歴史研究者の多くが、現実の問題と無縁に趣味や教養のためにおこなっているために、社会的働きかけができない。だから、数年前に、高等学校の必修科目である世界史の未履修問題が起こったときに不要論で出ても、それにたいして多くの歴史研究者や教育者は充分な反論ができなかった。

 趣味や教養としてではなく、なぜいまの時代・社会に、アンボン事件の正しい歴史理解が必要なのかを、説明しなければならない。まず、アンボンを含む香料諸島が、流動性の激しい海域世界に属していたことを、理解しなければならない。近代の歴史学は、陸域の温帯定着農耕民の成人男性中心の閉鎖的な中央集権社会の発想で、実証的文献史学を基本に発展した。最近流行だという「海域史」研究も、多くが陸域の発想で陸から海を観る近代歴史学の延長でおこなっている。しかし、いま歴史学に必要なのは、流動性の激しいグローバル化時代に対応するために、海洋民や遊牧民社会の歴史や文化から学ぶことである。定着農耕民の発想ではなく、制度や組織より個々の対人関係を重視する海洋民や遊牧民を主体とし、海や沙漠をひとつの歴史空間として捉えることである。最大の問題のひとつは、海洋民や遊牧民が前例を重んじることなく、その場その場で状況の異なる事態に対応したため、文書記録を残していないことである。「重要なことは口頭で」を基本とし、口承伝承のなかには実証的なものと相容れないものが含まれていて、近代歴史学では無視されるか軽視されてきた。だが、いま海洋民や遊牧民の社会や文化を理解したうえで、定着農耕民の発想で書かれた文書を読み直すと、新たな歴史像が現れてくる。手書きで書かれた「マカッサル商館文書」の翻刻は、そのための第一歩である。

 その「マカッサル商館文書」から、海域世界の特徴として、つぎのふたつのことがわかった。ひとつは、17世紀にヨーロッパ諸国と東南アジアの諸王国とが取り交わした文書は、同じ内容ではないか、守られなかったことである。もうひとつは、王個人と結んだため、王が代わるたびに結び直す必要があり、また王の求心力が弱まると、王に従わない王族や影響下にあった周辺諸王、ひとりひとりと協定を結ばなければならなかったことである。これらふたつのことから、これまでヨーロッパ諸語で書かれた文書のみに基づいて書かれた歴史叙述については、再考する必要があることがわかる。まず、条約などでヨーロッパ諸語で書かれたものに対応する現地語で書かれたものがあるなら、内容が同じであるかどうかを確認する必要がある。しかし、文書を重視しない海域世界では、「海に棄てた」というような話も伝わっており、多くが残されていない。もし、ヨーロッパ諸語で書かれたものしか現存しないなら、その内容がどの程度、どのように実行されたかを検証する必要がある。オランダとマカッサルとの協定も、何度も改定された。つまり、守られなかったのである。

 つぎに、世界史の理解が必要である。1623年のアンボン事件後も、イギリスは香料諸島南部のバンダ諸島西部ルン島に根拠地を設けようとし、第2次英蘭戦争後の67年7月のブレダ協定でルン島は公式にイギリス領と認められた後、北アメリカ東岸のオランダ領マンハッタン島(現ニューヨーク市)と交換された。このように17世紀の歴史は、もはや世界史の理解なしでは、個別地域の歴史の理解が困難になっている。いま必要なのは、地域や国に分断された近代の見方による歴史の寄せ集めではなく、外に開き、つながる世界史像である。それも、海洋民や遊牧民の歴史から考えることができる。

 この「マカッサル商館文書」を通してだけでも、今日の歴史学・歴史教育の問題が明らかになった。いま歴史学・歴史教育にとって大切なことは、だれのため、なんのために必要なのかを明らかにして、研究・教育することだろう。歴史リテラシーともいうべき、「理解・整理し、活用する能力」が、歴史学・歴史教育にも必要だ。

 蛇足だが、文献史学は文献からわかる歴史について研究する学問であって、「真実の歴史」を追求するひとつの方法にすぎない。したがって、史料となる文献がいかに信用できるかを研究する考証学も重要になる。また、大学入試センター試験は、高等学校世界史教科書をどれだけ理解したかを試験しているだけで、その教科書の内容がたとえ間違っていたり偏ったりしていても、試験自体には影響がない。したがって、数年前に「強制連行」にかんする出題が問題になったが、教科書記述に基づいているかぎり、大学入試センターや出題委員に責任はない。

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