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2011年04月26日

『表象の傷-第一次世界大戦からみるフランス文学史』久保昭博(人文書院)

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 音楽史、美術史とみてきて、著者、久保昭博の文学史の見方も変わってきた。それは、本シリーズ「レクチャー 第一次世界大戦を考える」の既刊だけではなく、2007年から4年間にわたって、月2回ペースで研究会を続けている共同研究の成果でもある。どのように変わったか、著者は、「あとがき」で以下のように述べている。

 「最初はひとつの世代のタブローを描こう」とし、それによって「大戦が生み出したとされる「現代性」にアプローチすることができ」、「ひいては通常ほとんど一緒に論じられることのない作家を関連づけることによって、二〇世紀のフランス文学史を新たな角度から理解する視座を得ることができるのではないか」と目論んだ。

 しかし、研究会で議論を重ねていくうちに、その目論見に疑問を抱くようになったことを、つぎのように吐露している。「私の見方はあまりに「戦後」を意識したものであり、怒れる若者とか科学と進歩への幻滅とか不信の時代のニヒリズムとかいった、いわゆるロスト・ジェネレーション的な紋切り型に影響されすぎているのではないか。これではかえって大戦の実態を見失いかねない。あるいは大戦が作家たちの精神に深い刻印を残したとして、その影響は、必ずしも戦争を主題にした作品のなかにのみ現れるわけではない。ほんとうに重要なことは、作家が戦時の経験を内面化したあとで、一見それとわからないようなかたちで現れるのではないか。考えてみれば当たり前のことかもしれないが、音楽史や美術史同様、文学史においても、重要な出来事は戦争の前か後に起きているのである。芸術史において大戦を扱うことが難しい理由の一端はそこにある」。

 「ではいったい、文学史において大戦はどこにあるのだろうか。それを理解するためには、まずはやはり、芸術的には不毛の時代と言われる戦時中の状況に正面から向き合い、そのとき何が起こっていたのかを明らかにする必要があるだろう。そう考えて本書の構成を練り直した。ただし、いわゆる戦争文学論にはしたくなかった。あくまで文学的な感性や、文学をとりまく社会的な条件が、戦争によってどのような変化を被り、その状況に作家たちはどのように向き合ったのかという点に狙いを定めたかったからだ。別の言い方をすれば、文学にとって大戦とは何だったのかという問いと、大戦にとって文学とは何だったのかという問いが交差する点に焦点を当てたかった。このように当初の目論見を軌道修正してゆくなかで出会ったのが、歴史学で提唱された「戦争文化」という考え方であり、それを自分なりに解釈して書かれたのが本書である」。

 20世紀のフランス文学史では、同時代のフランス人作家たちは、第一次世界大戦を「断絶」の経験として受けとめ、新たな時代の決定的な刻印を見いだした、と理解されてきた。しかし、著者は、「開戦から百年となる年を数年後に控え、大戦の歴史的な意義について考えようとしている私たちが、この「断絶」を振り返り、そこに二〇世紀文学の決定的な出発点を認めることはできない」という。それは、つぎのような理由による。「政治史や社会史の観点からは、一九世紀の延長線上にあるベル・エポックに暴力的な終止符を打ち、新たな時代を開いた出来事と考えられる大戦も、文学史においては、その数年前から始まっていた芸術的革新の「疾風怒濤の時代」を終わらせ、芸術の流れを一転して退行に向かわせた出来事となる。...(略)...。事実、大戦に先立つ数年間の芸術的成果には目覚ましいものがある」。そして、その概念は、「外交史、軍事史に重点がおかれた従来の大戦研究を見直し、文化史の観点から、戦争の時代を生きた人々の心性に迫ろうとした歴史研究者たちによって、一九九〇年代に提唱された」ものであった。

 本書は6章からなる。「第1章 戦争への期待-大戦前夜の文学状況から」では、戦争待望論と結びついた戦争文化の予兆を論じ、「第2章 総動員体制下の文学」では「開戦当初に吹き荒れた愛国主義的風潮について概観する」。そして、「戦場を経験した作家によって書かれたルポルタージュ的な戦争文学」から戦時中の文学状況を、「第3章 戦争を書く-アンリ・バルビュス『砲火』をめぐって」「第4章 モダニズムの試練」で考察する。さらに、「第5章 文学の動員解除」で、「戦争直後の文学者や知識人たちが直面せねばならなかった」「動員された文化の状態をどのように解消し、戦争文化を終わらせるかという問題」を扱う。最後に、「第6章 言語の不信-ブリス・パラン『人間の悲惨についての試論』をめぐって」で、「それまでの議論を踏まえた上で、戦争と戦争文化が文学にもたらしたものについて考察する」。

 この共同研究「第一次世界大戦の総合的研究」のように開かれた研究会は、そのときどきの報告者やテーマによって、出席者の顔ぶれが大きく変わる。しかし、そこにはほぼ皆勤のコアとなるメンバーがいる。著者は、そのメンバーのひとりである。「総合的研究」とは、たんなる個々の研究者の成果の寄せ集めではない。個々の研究者が総合的にひとつのテーマを理解したうえで、自分自身の研究を相対化して、そのテーマのなかに位置づけ、議論のなかでその位置を確認しながら、研究をすすめていく、そういうことだろう。したがって、その成果は、多様でありながら、なにかしら統一されたものを感じさせるものになる。はじめ自分の専門であるフランス文学史を深めるために共同研究を手がかりにしようと目論んだ著者は、やがて個々の研究にとって共同研究とはなにか、共同研究にとって個々の研究とはなにかという問いが交差する点に焦点を当てて、自分の研究を考えるようになったのだろう。さらに、見直した外交史や軍事史、政治史や社会史の観点とどう交差させるかが、今後の課題となろう。本書から、2014年に世に問う共同研究の最終的な成果の一端がみえてきたような気がした。

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2011年04月19日

『葛藤する形態-第一次世界大戦と美術』河本真理(人文書院)

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 本書を読んで、あらためて芸術のもつ奥深さを感じた。だが、時間も空間も、あらゆるものを超えて、作品に込められたメッセージを読むことは、それほど簡単ではない。それだけに、著者のような優れた「翻訳者」がいると助かる。

 著者が本書で語ろうとしていることは、「はじめに」の終わりで、つぎのようにまとめられている。「本書では、第一次大戦と美術の関わりを論じるにあたって、直接的な戦争画だけではなく、第一次大戦前後の美術の諸相とその背景をも含めて幅広く考察していきたい。というのも、往々にして、戦争の破壊が絵画や言語の統一性やシンタックス(構文・構造)を解体した、あるいは既成の美術の概念を揺さぶったと言われることが多いが、そうした傾向はすでに戦前のモダニズム(キュビスム・未来派・表現主義……)に現われていたからである。戦前からの継続と断絶が交錯する第一次大戦期は、「~イズム(~主義、~派)」の次は「~イズム」といった線状の歴史ではなく、前線と銃後で、相反する様々な美術の傾向が同時に噴出した時代であった」。

 「全体戦争である第一次大戦は、同時に世界の経験を断片化していくものでもあり、「断片化」による喪失を埋め合わせる「綜合芸術作品(略)」の理念が重要となっていく」。「そういう訳で、本書では、断片化と綜合という、相反する極の間を絶え間なく揺れ動く、第一次大戦前後の美術の諸相を照射することによって、第一次大戦が美術に対して持ち得た意味を探っていきたい」。

 本書は、それぞれ10頁ほどの短い2章(「第1章 モダニズムと来(きた)る戦争」「第2章 視角媒体(メディア)とプロパガンダ」)の後、長い2章の「第3章 芸術家と戦場体験」(66頁)と「第4章 戦中戦後の美術の万華鏡(カレイドスコープ)」(50頁)へと続く。

 第3章では、「戦場体験が芸術家たちにどのような影響を与えてきたのか、芸術家たちはそうした体験を踏まえ、戦争をどのように表象してきたのかを、個々の事例に沿って」みている。その結果、「戦争を瞬時に記録することのできる媒体として登場した写真」にたいして、著者は「絵画(または彫刻)の場合、写真と異なるのは、(一)時間性-戦場体験を内的に咀嚼するためにある程度の時間が必要とされる、(二)造形的綜合-戦争画は、単に戦場の光景を写した「逸話」や「記録」ではなく、「解釈」によって「綜合」されたものである、という点である」とまとめている。

 そして、第4章では、「戦中戦後に同時に噴出した様々な美術の動向-「秩序への回帰」・ダダ・抽象美術・「綜合芸術作品」-を見ていく」。その結果、「こうした多岐にわたる「綜合芸術作品」には、二つの起源があると考えられる」とした。「一つは、フランス革命とドイツ・ロマン主義以降、芸術家が社会から切り離されることと引き換えに得られた、芸術の自律性である。芸術家は、教会や国家の庇護から離れて自由な個人に還元され、この結果、芸術がそれぞれの分野に細分化・特殊化されることになった。しかし、この自由の代償は大きく、芸術家はもはや世界を全体的に把握することができなくなったのである」。「第二の起源は、ギリシア悲劇で」、「神話的形象に民族ごと一体化することによって、民族としてのアイデンティティを確立した」。

 そして、本書全体を「おわりに」の冒頭で、つぎのようにまとめている。「戦争に明け暮れていたにもかかわらず、この時期は美術にとって決して不毛な時代ではなく、前線と銃後で、相反する様々な美術の傾向が同時に噴出したのである。その中には、戦前のモダニズムから継続していたものもあれば、この大戦によって文字通り絶たれ、断絶を余儀なくされたものも少なくない。いずれにせよ、大量の破壊と殺戮をもたらした第一次大戦が、人間の文明に対して突きつけた根本的な不信は、意識するとせざるとにかかわらず、その後の美術の底流をなすようになったように思われる」。

 本書が簡単に書けたわけではないことは、門外漢のわたしのもよくわかった。「はじめに」は、「第一次世界大戦のただ中に描いた」ドイツ人画家ベックマンの看護師としての自画像の説明からはじまる。表紙になっているカラーの油彩画を見ながら読むと、「ベックマンの左耳が、ハイライトを施されてくっきりと描かれていることから、画面の外で起こっている何かに耳を澄ましているようにも見える」という説明が理解できた。しかし、前の頁にある白黒の自画像をみても、その説明はわからなかった。その後、白黒で縮小された絵画から、著者の苦心の説明にもかかわらず、イメージしやすい専門家ならわかるのだろうが、わたしにはよくわからないことがあった。美術の専門書ではなく、また限られた枚数のなかで、わたしのような者にわからせることは並大抵ではない。

 本書で取りあげた画家が激動の時代の前後になにを描こうとしていたのか、それは新しい媒体として写真と映画が登場したことと無縁ではない。「現代戦争をいかに表象するか、あるいは現代戦争はなお表象可能なのかという先鋭な問題が、芸術家に突きつけられ」、「古い」媒体としての絵画を通して、芸術家はそれに答えなければならなかったのだ。新しい時代の到来に悩み、活路を見いだそうとしていた芸術家の姿が、わたしにもすこし見えてきた。

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2011年04月12日

『東京裁判-性暴力関係資料』吉見義明監修、内海愛子・宇田川幸大・高橋茂人・土野瑞穂編(現代史料出版)

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 「本資料集は、極東国際軍事裁判(以下東京裁判と称す)において、国際検察局(International Prosecution Section, IPS と略)が、日本軍の戦争犯罪を立証するために準備した証拠書類(公文書、宣誓供述書、尋問調書、未提出証拠)中から、性暴力関係の事項を含む関係資料を収集し、編集したものである」。監修者同様、まず「本当に根気のいるこの仕事」をおこなった4人の編者の「多大なご努力に感謝したい」。

 本資料は、2000年12月に東京で開催された「日本軍性奴隷制」を裁く「女性国際戦犯法廷」をきっかけに集められた。この「法的拘束力をもたない市民による「法廷」」は、「裁きによる被害者の尊厳回復」「裁きなくして和解なし」の理念のもとに開かれ、被害者をはじめ世界から多くの市民が参加した。だが、編者のひとりである内海愛子は、「「法廷」を準備する過程で、東京裁判・BC級戦犯裁判が性暴力をどのように裁いたのか、先行研究を渉猟したがほとんど研究」がないことに気づいた。

 「女性国際戦犯法廷」の冒頭で、検事役を務めたセラーズは、「この「法廷」は東京裁判の再審理である」と述べた。そのため、東京裁判で「性暴力にかんする審理過程の調査を行わなければ」ならなくなり、東京裁判の「『速記録』を読み、書証を調べ、資料リストの作成に取り組みはじめた」。しかし、そのリストは「法廷」に間にあわなかった。そして、10年後「改めて東京裁判が性暴力をどのように裁いたのか、法廷に提出された書証と証言をまとめた」のが、本資料集である。

 資料集の問題として、内海は「あとがきにかえて」で、つぎのように述べている。「中国やフィリピンの検事は、自国民への戦争犯罪の追求に力を注ぎ、住民虐殺や性暴力に関連した多くの書証を提出している。オランダやオーストラリアやイギリスやフランスの検事も、捕虜や民間抑留者など、自国民への戦争犯罪を追求していた。法廷審理の東南アジア段階では欧米植民地統治下の住民にたいする日本軍の戦争犯罪の書証も数は多くはないが、提出されている。だが、検察が追求しきれなかった戦争犯罪も多い。性暴力に関連する書証はリストにあるように中国、フィリピン段階に比して東南アジア段階の証拠数は少ない。これはフィリピン以外の東南アジアで性暴力が少なかったことではない。検察が追求しきれなかった、あるいは十分に取りあげきれなかった戦争犯罪の一つに、これら植民地住民の被害があったのではないのか。「慰安所制度」についてもオランダ人女性が被害を受けた「スマラン慰安所」事件などの書証は提出されているが、インドネシア人女性が被害を受けた事件についてはほとんど取りあげられていない。また、朝鮮人女性がいた「慰安所」に関する書証はまったくない。植民地支配が審理の対象からはずされたこととも関連して、朝鮮人、台湾人女性への性暴力は、東京裁判では審理されていない。資料リストはそのことを示している」。

 本資料集には、編者4名による「東京裁判と性暴力-解説にかえて-」が付されている。その目的は、つぎのように説明された。「先行研究の問題点をふまえ①弁護側文書に含まれる性暴力関係記述も含めて審理過程の検討を行うこと、②東京裁判の全審理過程を検討対象とし、法廷が日本軍の性暴力をどこまで裁いたのかを明確化すること、③性暴力関係事件を残虐行為に関する証拠全体の中に位置づけ検討することの三つを重視しつつ、日本軍の性暴力が東京裁判において如何に認識され、裁定を下されたのかを明らかにすることとした」。

 そして、つぎのように結んだ。「元日本軍「慰安婦」による告発と責任者処罰の動きを受けて、性暴力が東京裁判でどのように審理されたのか、「法廷」を準備の過程で検証する試みが始まった。本資料集の作成もこの「法廷」準備の過程で始まった作業である。それまで「東京裁判と性暴力」が研究課題とならなかった背景として、戦争責任研究におけるジェンダー視点の弱さも指摘された。現在、こうした視点からの戦争犯罪研究も進んでいる。戦時性暴力の実態解明、なかでも日本軍「慰安婦」問題に関するものでは、日本軍「慰安婦」の歴史的展開過程や政策としての日本軍「慰安婦」制度の構築・展開における日本国家の指揮命令系統、また植民地や占領地での日本軍「慰安婦」制度の実態、軍隊の構造と兵士の男性性に着目した、「軍隊と性暴力」に関する研究などがある。また、「戦犯裁判と性暴力」の視点からは、ニュルンベルク裁判など各戦犯裁判における性暴力の位置付けが明らかにされた。近年、研究はさらに進み、現代の軍隊と性暴力、特に朝鮮半島における性暴力に関する共同研究も行われている。ここに紹介しきれない多岐にわたる研究が、研究者だけでなく活動家、弁護士、ジャーナリストらによっても取り組まれている。本資料集も、日本軍「慰安婦」問題が提起した新たな視点のもとで、東京裁判を問い直す試みの一環として編さんされたものである」。

 関係者がつぎつぎと他界していくなか、東京裁判自体が裁かれる対象になってきている。そこで裁かれるのは、日本の戦争犯罪だけでなく、近代の戦争そのものであろう。その近代の男性性に眼を向ければ、ジェンダーが近代の戦争犯罪を裁く有効な視点になる。だが、近代は女性を一人前の「人間」として扱わなかったがために、残された資料は少ない。それだけに、本資料集はひじょうに重要なものになる。改めて、利用しやすくまとめてくれたことに感謝したい。

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2011年04月05日

『歴史語りの人類学-複数の過去を生きるインドネシア東部の小地域社会』山口裕子(世界思想社)

歴史語りの人類学-複数の過去を生きるインドネシア東部の小地域社会 →bookwebで購入

 実証的文献史学を中心とする近代歴史学は、国民国家の制度や文化の形成・発展に寄与し、国民意識を高めるのに貢献した。つまり、近代の歴史叙述は、おもに国民を読者対象とした。したがって、世界史は各国史の寄せ集めで、たとえば山川出版社の「世界各国史」(32巻、1954-92年;新版28巻、1998-2009年)は、「政治史を軸に、社会・経済・文化にも着目した」。しかし、このような時代遅れのシリーズの考えでは、「世界を知ろう 21世紀へ」という謳い文句とは真逆に、21世紀の世界に対応できなくなっている(ただし、各巻においては、21世紀に立派に通用する優れたものが多々ある)。

 このような近代の歴史観から解放されるためには、文献ではわからない歴史観を知る必要がある。それを教えてくれるのは、歴史学だけでなく人類学や社会学、表現文化学、地域研究など、人びとの営みを主体に研究している人たちである。本書もそのひとつで、実証的文献史学ではけっしてわからない歴史と人びとのつながりを教えてくれる。そして、そのことは国民国家形成の邪魔をするような歴史を語ることが憚られた時代から解放されて、人びとが国民以外のさまざまな読者を対象として歴史を語り出したことを示している。

 本書の研究対象の中心であるブトン島は、インドネシア東部スラウェシ島南東沖にある。著者、山口裕子は、インドネシア国史のなかでもほとんど語られることのない、この島や王国に関心をもった理由を、つぎのように語っている。「今日のブトン社会に赴き、一歩踏み込んで人々の暮らしを見れば、そこには人々の生活に「歴史」が実に多様な形で織り込まれている。その意味でブトンは「歴史の豊かな」島である。人々は「歴史」を語り、さまざまに表象するのみではない。その「歴史」は人々の社会生活に浸透しており、人々はむしろ「歴史を日常的に生きている」」。

 「本書は、人々が語る「歴史」と、それを語る人々の「現在」の双方に着目し、そのいずれもが対照的なブトン島の二つの村落社会を対象に、日常、非日常の社会生活と不可分な「歴史語り」を社会人類学的に記述、分析する民族誌である。そのうえで、「歴史語り」と、外部の一次資料にもとづくブトン王国史を比較考察するとともに、語り手の現在のアイデンティティの政治をブトン地域の近現代の政治史と関連させて探求する。それにより、実証主義対相対主義という、歴史をめぐる近年の理論的な対立を昇華する方法を提示し、さらに実証主義でも相対主義でも十分に説明できない、人々が現に生きる社会生活において、「歴史」を語り表現することの多元的な意味を明らかにしようとするものである」。

 本書は、「歴史語りの人類学」を目指す民族誌であり、そのためにつぎのような考察と分析をおこなっている。「ブトン社会における歴史語りを、語られた出来事が属する「過去」と、それを語る人々の「現在」のいずれか一方に還元することなく、時間的にも空間的にも決して一元的ではないコンテクストにできる限り適切に位置づけながら考察していく。その結果として、本書で援用する方法は、よく整理された方法論の観点からは、折衷的で不十分に見えるかもしれない。だがそれは、理論的思考を優先させるのではなく、歴史語りの資料がしめす多元的で複合的な、なおかつ微細なほころびにできる限り忠実に、それぞれにふさわしいと思われる方法を模索した結果である。これらの考察によって全体として、今日の[ブトンの]ウォリオ人とワブラ人の生そのもの、多元的で豊かな歴史語りの実践をその一部とする人々の生そのものを記述し分析する」。

 著者は、「もっとも重要なことと、真実は書かれる必要がない」という歴史語りと、欧文の一次史料を中心とする外部資料との間のほころびに注目し、「西洋近代的な「歴史学」が想定するのとは完全に一致しない別の「真実」の在り方が存在すること」を示した。そして、つぎのように結論づけた。「ウォリオ社会においてもワブラ社会においても、歴史語りは、不変の過去の歴史の単なる再現(表象)ではない。また語り手による完全にフリーハンドの創造物や単なるメッセージの乗り物であるだけでもない。本書では、その出発点においては人類学的歴史研究を援用してきた。だがそれによって到達したのは、「洗練された実証主義」でも「より相対主義的な分析」でも十分には説明できない、「歴史」が単に生活のなかで語られるというよりは、「歴史語り」が人々の生活の時空間のなかで生きられているともいえる、彼らの生の在り方そのものであった。本書で試みてきたのは、そのような「歴史」と「歴史語り」を一部とする、ウォリオとワブラという小規模社会の社会生活の記述と分析の民族誌、つまり「歴史語りの人類学」の実践である」。

 日本でも、地方の伝承に基づく「歴史語り」による町おこしや歴史大河ドラマなどの時代劇に、実証主義的な史実を求めたりはしない。山に入ると、前近代の立派な石垣や古墳群の出現に驚かされることがある。それらは、現代の生の在り方と、どう結びついているのだろうか。著者は、日本ではあまりみられない、「歴史語り」と地方社会との関係、さらに国家、時代との関係を探ろうとしている。歴史学が注目してこなかった視点に立って、歴史が人びとの日常生活のなかに、どのように潜り込んでいるかを考察・分析している。本書のような新たな見方から学ぶことによって、歴史学は近代から解放され、人びとの生活にとっての歴史の存在意味がわかってくるのだが、・・・。

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2011年04月01日

『都市の歴史的形成と文化創造力』大阪市立大学都市文化研究センター編(清文堂)

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 今日は、4月1日である。多少のおふざけは許されるようだが、悪い冗談はやめたほうがいい。これから書くことは冗談ではないのだが、人によっては「悪い冗談はやめてくれ!」と歴史教育に不信を感じる人がいるかもしれない。すくなくとも、教科書に書かれていることを「真実の歴史」と信じて疑わずに勉強している生徒には知られたくない、と思う高等学校の先生はいるだろう。

 本書には、拙稿「イギリス東インド会社「マカッサル商館文書」(1613-67年)の読み方」が含まれている。拙稿は、別に報告書として出した同商館文書の翻刻(Trial Edition)の解説でもある。マカッサルは、現在のインドネシア共和国スラウェシ(セレベス)島南部の中心都市で、東には現地でマルク諸島とよばれる香料諸島(モルッカ諸島)を含む多島海がある。昨年も今年も大学入試センター試験に、1623年に香料諸島でおこったアンボン事件(アンボイナ事件)にかんする問題が出題された。解答の正誤に直接関係はなかったが、日本の高等学校世界史教科書、事典・辞典、通史、講座など、この事件にかんしては、ことごとく正しい記述がなされていないことが、この商館文書を読むことによって明らかになった。しかも、それは日本で正確に理解されていないだけで、イギリスの歴史研究者などは正しく理解していることであった。

 日本の高等学校世界史教科書で、受験用にもっとも多く使われている『詳説 世界史』(山川出版社、2010年)では「アンボイナ事件を転機にイギリスの勢力をインドネシアからしめだして、・・・」とあり、『山川 世界史小辞典(改訂新版)』(山川出版社、第1版第2刷、2007年)の「アンボイナ事件」の項目は、つぎのように書かれている。「アンボン事件ともいう。モルッカ諸島のアンボン島で1623年に発生したオランダとイギリスとの紛争事件。イギリス商館の日本人傭兵の様子に不審を抱いたオランダ商館長が、オランダ商館襲撃を企てたとみなし、イギリス商館長以下全員を処刑。この事件以降、イギリスは香辛料産地のインドネシア東部から撤退し、インド進出に専念した」。『岩波講座 東南アジア史5』でも、「イギリスは一六二三年、モルッカ諸島のアンボン島で起こったオランダによるイギリス人商館員虐殺事件「アンボイナ虐殺事件」を契機として東南アジア地域の貿易から全面的に撤退を余儀なくさせられた。その後、約一五〇年あまりにわたってイギリスはもっぱらインド植民地の経営に専念した」と、わざわざ強調している。

 この事件以前に、イギリスのバタビア管区長は、利益があがらないことを理由に、すでにマルク諸島からの撤退を決めていた。そのことは、香料貿易からの撤退を意味しない。16世紀初めのポルトガルやスペインのマルク諸島への進出以来、ヨーロッパ各国は砦を築いて商館を維持し、香料貿易を有利に進めようとしたが、1世紀がたって香料の価格が下落し、要塞化した商館の維持に多大の費用がかかっていたため、イギリスはムラユ(マレー)系商人やポルトガル私貿易商人などによってマカッサルにもたらされる香料を手に入れるほうが効率的だと考えるようになっていた。事実、イギリスのマルク諸島からの貿易量は、1623年以降大幅に増加し、1667年までマカッサル商館を中心に香料貿易を継続し、年によってはオランダより貿易量が多いときもあった。また、すくなくとも17世紀半ばまで、イギリス東インド会社の中心はジャワ島にあり、インドを中心とするようになるのは後半になってからである。

 なぜ、このような間違いが起こったのだろうか。原因は、容易に想像できた。日本人研究者のだれも、まともに17世紀のイギリス東インド会社商館文書を読んでいなかったからである。アンボン事件にかんする記述だけでなく、これもどの高等学校世界史教科書にも載っている17世紀のヨーロッパの植民支配を示した地図など、原史料をもとに確認した者はだれもいないだろう。商館があるだけのところを、周辺を含めて支配したとしている。ならば、長崎の出島にオランダ商館のあった日本も、オランダの植民地になったことになる。だれもまともに研究している者がいないにもかかわらず、確認もしないで教科書に掲載し続けてきたのである。

 歴史学だけでなく、多くの研究分野には偏りがある。もう新しい史料の出現など、ほとんど望めないにもかかわらず、多くの研究者のいる分野もあれば、手っ取り早く研究成果が望めないために新たに研究しようとする者が現れない分野もある。それでも、社会のニーズがあれば、研究助成金がつきやすく、新たな分野の開拓が期待できるが、歴史研究者の多くが、現実の問題と無縁に趣味や教養のためにおこなっているために、社会的働きかけができない。だから、数年前に、高等学校の必修科目である世界史の未履修問題が起こったときに不要論で出ても、それにたいして多くの歴史研究者や教育者は充分な反論ができなかった。

 趣味や教養としてではなく、なぜいまの時代・社会に、アンボン事件の正しい歴史理解が必要なのかを、説明しなければならない。まず、アンボンを含む香料諸島が、流動性の激しい海域世界に属していたことを、理解しなければならない。近代の歴史学は、陸域の温帯定着農耕民の成人男性中心の閉鎖的な中央集権社会の発想で、実証的文献史学を基本に発展した。最近流行だという「海域史」研究も、多くが陸域の発想で陸から海を観る近代歴史学の延長でおこなっている。しかし、いま歴史学に必要なのは、流動性の激しいグローバル化時代に対応するために、海洋民や遊牧民社会の歴史や文化から学ぶことである。定着農耕民の発想ではなく、制度や組織より個々の対人関係を重視する海洋民や遊牧民を主体とし、海や沙漠をひとつの歴史空間として捉えることである。最大の問題のひとつは、海洋民や遊牧民が前例を重んじることなく、その場その場で状況の異なる事態に対応したため、文書記録を残していないことである。「重要なことは口頭で」を基本とし、口承伝承のなかには実証的なものと相容れないものが含まれていて、近代歴史学では無視されるか軽視されてきた。だが、いま海洋民や遊牧民の社会や文化を理解したうえで、定着農耕民の発想で書かれた文書を読み直すと、新たな歴史像が現れてくる。手書きで書かれた「マカッサル商館文書」の翻刻は、そのための第一歩である。

 その「マカッサル商館文書」から、海域世界の特徴として、つぎのふたつのことがわかった。ひとつは、17世紀にヨーロッパ諸国と東南アジアの諸王国とが取り交わした文書は、同じ内容ではないか、守られなかったことである。もうひとつは、王個人と結んだため、王が代わるたびに結び直す必要があり、また王の求心力が弱まると、王に従わない王族や影響下にあった周辺諸王、ひとりひとりと協定を結ばなければならなかったことである。これらふたつのことから、これまでヨーロッパ諸語で書かれた文書のみに基づいて書かれた歴史叙述については、再考する必要があることがわかる。まず、条約などでヨーロッパ諸語で書かれたものに対応する現地語で書かれたものがあるなら、内容が同じであるかどうかを確認する必要がある。しかし、文書を重視しない海域世界では、「海に棄てた」というような話も伝わっており、多くが残されていない。もし、ヨーロッパ諸語で書かれたものしか現存しないなら、その内容がどの程度、どのように実行されたかを検証する必要がある。オランダとマカッサルとの協定も、何度も改定された。つまり、守られなかったのである。

 つぎに、世界史の理解が必要である。1623年のアンボン事件後も、イギリスは香料諸島南部のバンダ諸島西部ルン島に根拠地を設けようとし、第2次英蘭戦争後の67年7月のブレダ協定でルン島は公式にイギリス領と認められた後、北アメリカ東岸のオランダ領マンハッタン島(現ニューヨーク市)と交換された。このように17世紀の歴史は、もはや世界史の理解なしでは、個別地域の歴史の理解が困難になっている。いま必要なのは、地域や国に分断された近代の見方による歴史の寄せ集めではなく、外に開き、つながる世界史像である。それも、海洋民や遊牧民の歴史から考えることができる。

 この「マカッサル商館文書」を通してだけでも、今日の歴史学・歴史教育の問題が明らかになった。いま歴史学・歴史教育にとって大切なことは、だれのため、なんのために必要なのかを明らかにして、研究・教育することだろう。歴史リテラシーともいうべき、「理解・整理し、活用する能力」が、歴史学・歴史教育にも必要だ。

 蛇足だが、文献史学は文献からわかる歴史について研究する学問であって、「真実の歴史」を追求するひとつの方法にすぎない。したがって、史料となる文献がいかに信用できるかを研究する考証学も重要になる。また、大学入試センター試験は、高等学校世界史教科書をどれだけ理解したかを試験しているだけで、その教科書の内容がたとえ間違っていたり偏ったりしていても、試験自体には影響がない。したがって、数年前に「強制連行」にかんする出題が問題になったが、教科書記述に基づいているかぎり、大学入試センターや出題委員に責任はない。

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