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2011年03月15日

『街道の日本史49 壱岐・対馬と松浦半島』佐伯弘次編(吉川弘文館)

街道の日本史49 壱岐・対馬と松浦半島 →bookwebで購入

 本書の「あとがき」は、「日本国内をくまなく歩いた民俗学者宮本常一」の「かつて僻地には想像以上に文化が定着していた」ということばではじまる。本書で取りあげた「壱岐・対馬と松浦半島」は、僻地ということなのか。この地方の人口は昭和30年代がピークで、その後急速に過疎化と高齢化が進行し、衰退したことから僻地ということばがふさわしいのかもしれない。しかし、「都会から遠く、辺鄙な土地」である僻地は、文化果てるところどころか、時代や社会によっては文化の最先端の地でもあった。

 近代のように閉鎖的中央集権的な国家の時代にあっては、国境地域は僻地としてさびれるが、開放的な時代にあっては新たな文化を受け入れる窓口として繁栄する。壱岐・対馬と松浦半島が栄えたのは、戦争を含め朝鮮半島や中国など大陸との交流が活発な時代であった。そこは、国境を越えた海民の活躍する場でもあった。換言すれば、陸を制度的に支配し安定させようとする農耕民社会と、海を自由に動き回りヒトもモノも流動性をもった活性化する社会をつくろうとする海民社会とのせめぎ合いが、この地で展開されたということだろう。

 この地をあらわす典型的なことばとして、「市糴(してき)」がある。「三世紀に書かれた中国の歴史書『三国志』のうち『魏書』「東夷伝・倭人」(『魏志』倭人伝)」には、対馬について、「良田なく海物を食して自活し、船に乗りて南北に市糴す」と書かれている。「市糴」とは、「米(穀類)を買うこと」である。したがって、この地の住民にとって、米(穀類)を買ってくる行動の自由が制限されると死活問題になる。その危機は何度もあった。

 最大の危機のひとつは、豊臣秀吉による朝鮮出兵である(文禄・慶長の役、朝鮮では壬辰・丁酉倭乱1592~98年)。小西幸長とともに先陣を指令された対馬島主宗義智(そうよしとし)は、終戦の翌年から和平の使者を朝鮮に送り、修好、貿易再開を期した。しかし、「「不倶戴天の敵」の国からの使者は、はじめのうちは抑留されて一人として帰島する者はなかった。それでも義智は諦めず、戦役で日本に拉致されてきた朝鮮人を送還する懐柔策もとりながら、粘り強く交渉をつづけた結果、日本に対する憎悪に満ちた朝鮮側の態度も漸次軟化を見せはじめた」。そして、徳川家康の時代になり、朝鮮出兵が終わって9年後の1607年に第1回朝鮮通信使を迎えることができた。

 それでも、江戸時代に繁栄を取り戻すことはできなかった。海外貿易を幕府が独占するために長崎の出島でのみおこない、住民は「平戸藩・対馬藩・五島藩・佐賀藩・唐津藩などに分割統治され、かつての行動力は失われて藩支配の枠に押し込められることになった」ためである。ちなみに、「現在、江戸時代の大名領を私たちは藩と呼んでいるが、実は江戸期に藩と呼んだことはなかった。明治二年、新政府が旧来の大名領を藩と名づけたのであって、厳密にいえば、唐津藩・平戸藩などの藩が存在したのは、明治二年から廃藩置県の同四年までの短い期間であった」という。

 編者の佐伯弘次は、この地域が「近代化や高度成長によって衰退した力を復興する」かどうか見守りたいという。その鍵は、この地で育まれた歴史や文化を、地域住民がいかに理解するかにかかっているように思える。「市糴」を定着農耕民の発想でマイナスに捉えるのではなく、流動性をともなうグローバル化時代にふさわしいものと捉えると、また違った見方ができる。

      *      *      *

 その歴史と文化を展示した博物館が、2010年3月14日に壱岐にオープンした。その壱岐市立一支(いき)国博物館は、「魏志」倭人伝に記された王都と特定された原の辻(はるのつじ)遺跡を見下ろす丘の上に建てられた。風土記の丘には、2011年2月に古墳館がリニューアルした。島には、神功皇后の三韓出兵から元寇、秀吉の朝鮮出兵、昭和3年に日本軍が築いた黒崎砲台まで、各地に朝鮮半島・大陸との戦争の遺跡がある。いっぽうで、朝鮮通信使迎接所跡のような友好関係を示すものも遺されている。しかし、古代のロマンが強調されて、この豊かな正負の交流を今後に活かそうというものは、あまり感じられなかった。

 この正負の交流を活かそうとする博物館が、壱岐をよく展望できる九州本土にある佐賀県立名護屋城博物館である。大坂城に匹敵する城跡と周囲の大名百数十箇所の陣屋跡は、朝鮮出兵が紛れもなく総動員の侵略戦争であったことを物語っている。そして、京・大坂に劣らぬ文化があったことがわかる。展示は、朝鮮の視点でもおこなわれ、韓国の歴史教科書も和訳されている。博物館のリーフレットには、「原始・古代から続いてきた交流の歴史と、その中での不幸な戦争の意味を知ることによって、将来の交流・友好の指針を見いだしていただければ幸いです」と書かれている。1993年のオープン以来、博物館でも地域でも、韓国との交流に力を入れている。

 島や地方に立派な博物館があることは、すばらしいことだと思う。しかし、訪ねてみると、展示室の鍵をあけてくれたり、電気をつけてくれたり、冷暖房のスイッチを入れてくれたりすることがある。ありがたいが、宝の持ち腐れのように感じる。壱岐は長崎県に属するが、長崎県本土の港からの船はなく、福岡県博多港から超高速船で片道4900円、フェリーで2400円、佐賀県唐津港からフェリーで1850円かかる。名護屋城博物館は唐津市内からバスで通常片道820円、博多に行くのと料金はあまり変わらない。

 ちょっとした工夫で一躍有名になった北海道旭川市旭山動物園の例がある。博物館が多くの人びとが訪れる場所になり、そこから人びとの交流が発展する試みが各地で行われているが、その成果はまだあまり目に見えてこない。古代のロマンや戦国時代に焦点をあてたマニアの人気取りでは、長期的に多くの来館者を期待できないだろう。近現代に焦点をあてると、朝鮮・中国との関係ではいろいろな意見があって、展示を避けている博物館もある。博物館での町おこしは、それほど簡単ではない。

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