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2011年03月23日

『日本帝国をめぐる人口移動の国際社会学』蘭信三編著(不二出版)

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 時代は確実に変わってきている、まずそう思った。「二〇世紀前半に主として日本帝国の形成と崩壊に伴って生じた人口移動の様々な動きを理解することは、一筋縄ではいかない企てである」。それを可能にしたのは、編著者である蘭信三の実力とリーダーシップ、人柄であることは言うまでもないが、東アジアをひとつの歴史空間として理解しようとする時代背景があるからだろう。

 一筋縄ではいかないことを、編著者は、「序」でつぎのように述べている。「そこでの人口移動のベクトルは、...(略)...内地から外地や勢力圏への一方向的なものではなく双方向的なものであったし、もちろん植民地間の移動や植民地と勢力圏間の人口移動も存在していたからだ。またそれは、移民や植民や避難民だけでなく、引揚げや送還や「残留」そして「密入国」という複雑な人口移動の形態をとっており、さらには、人口還流、その後の再移動も展開されていたのである。したがって、それらの様々な要因、様々なベクトルをもつ人口移動が互いにどのように連関しているのかを総体として捉えることは、まさに至難の業なのである」。

 本書は、2005年3月に開催された日本移民学会ワークショップの報告書が基になっている。その後、本書を具体的に構想したときに、つぎの問題が明らかになった。「満洲と台湾に関してはある程度の水準を維持していましたが、朝鮮、樺太、そして南洋が十分ではない状況でした。しかも、この領域を勉強するなかで、近現代東アジアにとって清朝の衰退とロシア帝国の進出と崩壊、何よりも日本帝国の形成、膨張そして崩壊という三つの帝国の盛衰が大きなポイントとなっており、近現代東アジアにおける人口移動はまさにそれらに規定されていたことをはっきりと理解しました。その象徴的存在が、朝鮮人の人口移動であり、かつ朝鮮をめぐる人口移動である、と考えるようになりました。そして、その矛盾は済州島「四・三事件」と日本への「密航」に集約されていること、また満洲への朝鮮人の大きな流れにも見られることを知りました」。

 「他方で、内地を見てみれば、ハワイ移民、北米移民、南米移民そして台湾、南洋さらには満洲への移民という日本近代の移民・植民政策は沖縄(琉球)からの出移民・出稼ぎに集約されており、そこから近代日本の人口移動がより鮮明に照射されることを理解しました。とりわけ、本書では沖縄(琉球)と台湾間の移動、沖縄(琉球)から南洋への移動は、ある意味で内国植民地であった沖縄(琉球)と新たな植民地・勢力圏との多方向的な移動であることを明らかにしています」。「このことは、日本帝国をめぐる人口移動が、勢力圏の膨張に伴う内地から外地への人口移動(植民)や、東京や大阪という帝国の中心への植民地からの人口移動だけが生起したのではなく、朝鮮から満洲、沖縄と台湾間の移動、沖縄南洋間の移動といういわば周辺間における人口移動も含めて多様な様相が展開されていたことを示しています」。

 編著者の努力によって、ワークショップの報告書で「決定的に欠けて」いた部分、とくに朝鮮関係は補うことができた。しかし、編著者自身が「序」の「6 おわりに-残された課題」で指摘しているように、「研究は始まったばかりで、多くの課題が残されたままである」。そして、この領域の研究は、「日本ばかりでなく、韓国、中国、台湾においても同様の問題意識で研究プロジェクトが活動している」。日本とは違った視点での成果が出てくると、東アジアのなかの日本の姿も、また違って見えてくるだろう。残念なことは、南洋、樺太の現地からの視点の研究が充分でないことだ。とくに東南アジア各国は、経済力が上がってきているにもかかわらず、日本との関係史の研究はあまり進展していない。中国、韓国ばかりでなく、東南アジアからの留学生が増えると、この分野の研究も進展があるかもしれない。事実、中国や韓国からの留学生で、日本との関係史を研究テーマに選ぶ者は少なくない。

 本書は、多様な地域だけでなく、歴史学、地理学、人類学、社会学といった多分野の、多数の研究者が活発な討論を繰り広げた成果である。本書を読むと、国より小さな地域や国境を越えた地域間の人口移動が、より具体的に明らかになったことがわかる。だが、マクロなレベルでの理解は、編著者ほか執筆者の少数に留まっているように感じた。ミクロとマクロが絡みあってシンクロしていくには、まだすこし時間がかかりそうだ。また、本書のタイトルにある「国際社会学」の「国際」が、本書にはあわないと感じた。「国際」という考え自体、近代の遺物となろうとしているなかで、本書執筆者の多くが、国とは別次元で、人びとのいとなみを理解しようとしていると感じたからである。

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2011年03月17日

『カップヌードルをぶっつぶせ!-創業者を激怒させた二代目社長のマーケティング流儀』安藤宏基(中央公論新社)

カップヌードルをぶっつぶせ!-創業者を激怒させた二代目社長のマーケティング流儀 →bookwebで購入

 創業者の話は、おもしろい。成功した自慢話ではなく、いくつも失敗した話が聞けるからである。成功した実績のある創業者にたいして、それを創業者の目の黒いうちに受け継いだ2代目やサラリーマン社長の話は、おもしろくないのが普通だ。失敗を恐れるからだ。しかし、本書はおもしろかった。失敗の話がいっぱいあり、失敗を成功のもとにするにはどうすればいいのかのヒントが得られるからである。「失敗は成功のもと」とのんきに言っていても、失敗を繰り返すだけで成功には結びつかない。

 著者は日清食品ホールディングスCEOで、創業者安藤百福の次男である。著者自身、「創業者の事業を引き継いだ後継者は、私も含めて、だいたいが普通の人である。したがって、創業者と二代目の確執とは、異能と凡能とのせめぎあいといってもよい」と述べ、とても創業者にはかなわないことを認めている。そのうえで、「毎日がけんかだった」日々を語ったのが本書だ。

 本書は、2007年に96歳で亡くなった創業者が、「いったい私にとって何だったのか」を問う意味で書かれた第一章と第二章、「試行錯誤と経営記録」として書かれた第三~六章からなる。前者は亡き創業者、後者は「二代目、三代目の経営者だけでなく、カリスマ創業者のあとを引き継いだ経営者や、あるいは強烈なワンマン社長の下で働いている若い社員」を読者対象としている。加えて、就活する前の若者にも読んでほしいと思った。会社で働くことはおもしろい、社会に貢献することは人生を豊かにする、という希望が見えてくるからである。また、「金のないときに四畳半のアパートでこそこそ食べたというわびしいイメージ」を払拭するために、おもしろいCMにかけた著者の思いが伝わってくるからでもある。「面白くなければCMじゃない」「食べる喜びを伝えることが、インスタントラーメンのCMの役割」は、いまや生活の基本になっている。

 近年の麺には、驚かされる。その技術力が、どのようにして生まれたかが本書からわかる。そして、それは販売とも絡みあっていた。著者が、創業者が開発した「チキンラーメン」「カップヌードル」に果敢に挑み、「焼きそばUFO」「どん兵衛」「ラ王」などを開発した背景には、創業者との「闘い」だけでなく、社員や消費者との闘いがあった。その成功のひとつは、創業者が常々語っていた「日清食品は偉大なる中小企業でありたい」ということだろう。日清食品単体の社員数が1500人ほどで、著者は300人近い管理職全員の名前と顔を覚えるようにしている。

 著者はさかんに「二代目」を強調するが、正確には「三代目」であることを本書で書いている。2年間余だけであったが、創業者の長男で著者の兄が社長をしており、創業者の後を追うように同年に亡くなっている。年も著者より17歳も上で、この兄の散在なくして「二代目」の成功は語れないのではないか。「味、におい、色艶、舌触りなどのおいしさの情報が、いったい脳のどこで、どんな風に記憶され、再生されるのか」「消費者がある特定ブランドに愛着を持ち、繰り返し購入する「ブランド・ロイヤリティー」というこだわりの感情は、脳の中でどのように形成されていくのか」を解明するために、社内につくられた「脳研究会」は、「二代目」か「三代目」か、どう判定するだろうか。

 本書を読んで、今後のインスタントラーメン業界の動向に目が離せなくなった。工場見学もしたくなったが、近隣の学校教育以外はだめなようだ。「インスタントラーメン発明記念館」に、行くことにしよう(http://www.nissin-noodles.com/ 〒563-0041大阪府池田市満寿美(ますみ)町 8-25、開館時間:9時30分~16時、休館日:火曜日(祝日の場合は翌日)、年末年始)。

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 文庫化前の最終章は、つぎのことばで終わっていた。「「食品会社は平和産業である」。これが私の頭に叩き込まれた、創業者安藤百福の遺言のような言葉である。楽しむための食から、生命を維持するための食まで、あらゆる人々の欲求に応えていき、五十年後に、地球百億人類の食を満たすことが日清食品の使命なのである」。日清食品は、東北地方太平洋沖地震発生翌々日の13日、被災地へ「カップヌードル」ほか100万食を緊急無償提供および給湯機能付キッチンカー7台の派遣を決めた。いま、「命を維持するための食」を待っている人たちがいる。現場は、みながんばっている。現場の人たちが動きやすいよう、被災地以外の人びとは、食料や燃料を買いだめしたり、個人的に宅配便で送ったりすることを控えたい。日常生活を維持することが、場合によっては「支援」になる。



 なお、原発について、昨年12月14日にこの書評ブログで取り上げたhttp://booklog.kinokuniya.co.jp/hayase/archives/2010/12/。起こってしまったことをいま非難するより、被爆覚悟で努力している人たちを応援したい。非難は落ち着いてからすることで、失敗は成功のもとになるが、成功の望みのないものは、きっぱり断念する勇気と決断力も必要だ。そのことは、本書からも学ぶことができる。


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2011年03月15日

『街道の日本史49 壱岐・対馬と松浦半島』佐伯弘次編(吉川弘文館)

街道の日本史49 壱岐・対馬と松浦半島 →bookwebで購入

 本書の「あとがき」は、「日本国内をくまなく歩いた民俗学者宮本常一」の「かつて僻地には想像以上に文化が定着していた」ということばではじまる。本書で取りあげた「壱岐・対馬と松浦半島」は、僻地ということなのか。この地方の人口は昭和30年代がピークで、その後急速に過疎化と高齢化が進行し、衰退したことから僻地ということばがふさわしいのかもしれない。しかし、「都会から遠く、辺鄙な土地」である僻地は、文化果てるところどころか、時代や社会によっては文化の最先端の地でもあった。

 近代のように閉鎖的中央集権的な国家の時代にあっては、国境地域は僻地としてさびれるが、開放的な時代にあっては新たな文化を受け入れる窓口として繁栄する。壱岐・対馬と松浦半島が栄えたのは、戦争を含め朝鮮半島や中国など大陸との交流が活発な時代であった。そこは、国境を越えた海民の活躍する場でもあった。換言すれば、陸を制度的に支配し安定させようとする農耕民社会と、海を自由に動き回りヒトもモノも流動性をもった活性化する社会をつくろうとする海民社会とのせめぎ合いが、この地で展開されたということだろう。

 この地をあらわす典型的なことばとして、「市糴(してき)」がある。「三世紀に書かれた中国の歴史書『三国志』のうち『魏書』「東夷伝・倭人」(『魏志』倭人伝)」には、対馬について、「良田なく海物を食して自活し、船に乗りて南北に市糴す」と書かれている。「市糴」とは、「米(穀類)を買うこと」である。したがって、この地の住民にとって、米(穀類)を買ってくる行動の自由が制限されると死活問題になる。その危機は何度もあった。

 最大の危機のひとつは、豊臣秀吉による朝鮮出兵である(文禄・慶長の役、朝鮮では壬辰・丁酉倭乱1592~98年)。小西幸長とともに先陣を指令された対馬島主宗義智(そうよしとし)は、終戦の翌年から和平の使者を朝鮮に送り、修好、貿易再開を期した。しかし、「「不倶戴天の敵」の国からの使者は、はじめのうちは抑留されて一人として帰島する者はなかった。それでも義智は諦めず、戦役で日本に拉致されてきた朝鮮人を送還する懐柔策もとりながら、粘り強く交渉をつづけた結果、日本に対する憎悪に満ちた朝鮮側の態度も漸次軟化を見せはじめた」。そして、徳川家康の時代になり、朝鮮出兵が終わって9年後の1607年に第1回朝鮮通信使を迎えることができた。

 それでも、江戸時代に繁栄を取り戻すことはできなかった。海外貿易を幕府が独占するために長崎の出島でのみおこない、住民は「平戸藩・対馬藩・五島藩・佐賀藩・唐津藩などに分割統治され、かつての行動力は失われて藩支配の枠に押し込められることになった」ためである。ちなみに、「現在、江戸時代の大名領を私たちは藩と呼んでいるが、実は江戸期に藩と呼んだことはなかった。明治二年、新政府が旧来の大名領を藩と名づけたのであって、厳密にいえば、唐津藩・平戸藩などの藩が存在したのは、明治二年から廃藩置県の同四年までの短い期間であった」という。

 編者の佐伯弘次は、この地域が「近代化や高度成長によって衰退した力を復興する」かどうか見守りたいという。その鍵は、この地で育まれた歴史や文化を、地域住民がいかに理解するかにかかっているように思える。「市糴」を定着農耕民の発想でマイナスに捉えるのではなく、流動性をともなうグローバル化時代にふさわしいものと捉えると、また違った見方ができる。

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 その歴史と文化を展示した博物館が、2010年3月14日に壱岐にオープンした。その壱岐市立一支(いき)国博物館は、「魏志」倭人伝に記された王都と特定された原の辻(はるのつじ)遺跡を見下ろす丘の上に建てられた。風土記の丘には、2011年2月に古墳館がリニューアルした。島には、神功皇后の三韓出兵から元寇、秀吉の朝鮮出兵、昭和3年に日本軍が築いた黒崎砲台まで、各地に朝鮮半島・大陸との戦争の遺跡がある。いっぽうで、朝鮮通信使迎接所跡のような友好関係を示すものも遺されている。しかし、古代のロマンが強調されて、この豊かな正負の交流を今後に活かそうというものは、あまり感じられなかった。

 この正負の交流を活かそうとする博物館が、壱岐をよく展望できる九州本土にある佐賀県立名護屋城博物館である。大坂城に匹敵する城跡と周囲の大名百数十箇所の陣屋跡は、朝鮮出兵が紛れもなく総動員の侵略戦争であったことを物語っている。そして、京・大坂に劣らぬ文化があったことがわかる。展示は、朝鮮の視点でもおこなわれ、韓国の歴史教科書も和訳されている。博物館のリーフレットには、「原始・古代から続いてきた交流の歴史と、その中での不幸な戦争の意味を知ることによって、将来の交流・友好の指針を見いだしていただければ幸いです」と書かれている。1993年のオープン以来、博物館でも地域でも、韓国との交流に力を入れている。

 島や地方に立派な博物館があることは、すばらしいことだと思う。しかし、訪ねてみると、展示室の鍵をあけてくれたり、電気をつけてくれたり、冷暖房のスイッチを入れてくれたりすることがある。ありがたいが、宝の持ち腐れのように感じる。壱岐は長崎県に属するが、長崎県本土の港からの船はなく、福岡県博多港から超高速船で片道4900円、フェリーで2400円、佐賀県唐津港からフェリーで1850円かかる。名護屋城博物館は唐津市内からバスで通常片道820円、博多に行くのと料金はあまり変わらない。

 ちょっとした工夫で一躍有名になった北海道旭川市旭山動物園の例がある。博物館が多くの人びとが訪れる場所になり、そこから人びとの交流が発展する試みが各地で行われているが、その成果はまだあまり目に見えてこない。古代のロマンや戦国時代に焦点をあてたマニアの人気取りでは、長期的に多くの来館者を期待できないだろう。近現代に焦点をあてると、朝鮮・中国との関係ではいろいろな意見があって、展示を避けている博物館もある。博物館での町おこしは、それほど簡単ではない。

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2011年03月08日

『パル判事-インド・ナショナリズムと東京裁判』中里成章(岩波新書)

パル判事-インド・ナショナリズムと東京裁判 →bookwebで購入

 著者、中里成章は、ベンガル史研究者である。日本と縁の深い3人のインド人(ラシュ・ビハリ・ボース、スバス・チャンドラ・ボース、ラダビノド・パル)はいずれもベンガル人で、「三人とも日本の右寄りの論者のお気に入りの人物であり、彼らに関して日本で行われている研究に問題がないとは言えない」という。

 パル判事は、「東京裁判でインド代表判事を務め、A級戦犯の被告全員が無罪であるとする反対意見書を提出した人として知られる」。そのパル判事を、「日本の右寄りの論者」はつぎのように語ってきた、と著者はいう。「東京裁判論争が続くなかで、全員無罪のパル意見書は、東京裁判批判あるいは東京裁判史観批判に恰好の論拠を与えるものとして利用されてきた。いまではラダビノド・パルという一人のインド人法律家は、東京裁判論争ひいては歴史認識をめぐる論争において、一方の側を代表するシンボル的存在に祭り上げられるにいたっている。パルはそうされるに足る見識をもつ高潔な人間として描かれ、時にはガンディーやネルーと並べて語られることさえある」。

 著者は、「パル意見書は裁判の意見書の形式で書かれてはいるが、実は政治性を強く帯びた文書」で、「何故パルは政治的なのか、いかなる意味で政治的なのかが問題である」という。そして、「それに答えるには、インド・ナショナリズムの思想と運動、政党政治の駆け引き、大学の学内政治、インド法曹界の人脈等々に対して、パルという人物がどういう位置にあったのかを解明しなければならない」と、インド近現代史、とくにベンガルの知識が必要だという。そのパルの「実像」を追求するために、著者は「インド近現代史研究者が一般的に使っている実証史学の手法」、つまり「インタビュー(聞き取り調査)、文書館での公文書や私文書の調査、現地語資料の調査、新聞・雑誌記事の調査などを愚直に積み重ねた」。

 本書は、「序章」、5章、「おわりに」からなる。第1~4章では、パルの生涯を丁寧にインド近現代史のなかで辿っている。そして、第5章「パル神話の形成」で、「なぜ「実像」から懸け離れた「神話」が創造され、流通することになったのか」を明らかにしようとした。

 その結果、伝記的部分については、「おわりに-神話化を超えて」で、つぎのようにまとめた。「パルはある哲学や思想を信奉して人生の指針としたり、ある特定のイデオロギーや政党の支持者となって世の中に働きかけようとするタイプの人間ではなかった。パルはガンディー主義者ではなかったし、主要なインド独立運動のいずれにも参加したことはなく、政党の党員になったこともなかった。しかしそのことは、パルが政治や思想と無縁の人間だったことを意味するものではない。パルは広い意味でのナショナリストであり、多様なインド・ナショナリズムの潮流のなかでは、保守ないし右寄りの立場に共感を抱いていた。具体的に言えば、パルの経歴を検討してみて分かるのは、右翼のヒンドゥー大協会、保守本流の会議派右派、それからファシズムとコミュニズムの間で揺れるチャンドラ・ボースに近い立ち位置をとっていたことである。インドの独立前はヒンドゥー大協会とチャンドラ・ボースの周辺に位置し、独立後は会議派右派の周縁部に立場をシフトさせていった」。

 神話化にかんしては、第5章冒頭で、「現時点で言えるのはだいたい次のようなことである」と結論した。「意見書の内容は初めの頃はあまり世に知られることがなく、一群の人たちの意識的な活動があって初めて、日本社会に浸透していった。彼らは意見書を出版し、あるいは、パル本人を日本に招いて、意見書の浸透を図った。東京裁判批判を目的とする出版と招聘、これら二つの活動に関わった人たちが、その過程でパル神話を創り出していったと考えられる。そこには意識的なイメージ作りもあり、無意識の誤解や誤りもあった」。「彼らの動きは早くも東京裁判の直後に始まった。一九五〇年前後の頃は彼らは少人数で、A級戦犯本人、その弁護人及び元大アジア主義者からなり、周辺に元ファシストの姿もあった。六〇年代になると、元軍人、国際法学者(大学教授)、昭和史研究者、法務省の官僚などが加わり、日本のエスタブリッシュメントも巻き込んだ人的ネットワークが形成されるようになった。両時期を通じて、新聞記者などジャーナリストが果たした役割にも無視できないものがあった。ネットワーク拡大の背後には、A級戦犯など元戦争指導者の復権という現実があった」。

 パルの神話化は、1966年10月に訪日し勳1等瑞宝章を受章した翌年、67年1月の死後も続いた。早くも亡くなった年の10月には、1952年と53年の2度、パルを日本に招いた中心人物の下中彌三郎(平凡社創業者、1878-1961)とともに、2人の生涯を記念する碑が箱根芦ノ湖畔に建てられ、そのそばに1975年に「パール下中記念館」がオープンした。1997年にはインド独立50周年を記念して京都霊山護国神社に「パール博士顕彰碑」(「パール博士顕彰碑建立委員会」委員長、瀬島龍三)、2005年には靖国神社に「パール博士顕彰碑」が建立された。そのほか、愛国顕彰ホームページ(http://www.asahi-net.or.jp/~un3k-mn/0815-pal.htm)によると、富山県護国神社に「パール判事の碑」、広島市の本照寺に「パール博士 大亜細亜悲願之碑」がある。それぞれの碑文は、以下の通りである。

 これら直後、1960年代、近年、それぞれの時期の「右寄り」の動きは、アジア太平洋戦争にかんして、いろいろな意味で共通にみられ、多くの日本人はそれに関心を示さず、結果として容認してきたがゆえに、今日「歴史認識問題」として残されることになった。また、2国間関係史は、近代において、それぞれ当事国のナショナル・ヒストリーに利用されるかたちで語られてきた。その「神話」が、現代に通用しないことが明らかになってきて、反動的な動きもみられる。著者は、これからの国際社会を見すえて、「おわりに」をつぎのように結んでいる。「日本で行われてきた東京裁判をめぐる議論を国際社会に向かって開き、平和構築のための国際的な協同作業に繋げてゆくことを考えるべきときが来ているのではなかろうか」。

 本書にたいして、さまざまな意見があるだろう。まずは、「愚直に積み重ねた結果の報告」である本書を、主義主張を超えて、インド近現代史と日本近現代史の文脈で、著者目線で理解することからはじめたい。つぎに、東京裁判のもつ歴史性、国際性に注目したい。そして、平和構築のために「神話」からの解放について考えたい。そのことは、「あとがき」にあるパル判事の息子が、著者のインタビューにたいして、互いの見解が違うにもかかわらず、「ひとたび心を許すと、率直に思い出を語り貴重な資料を提供してくれた」こととおおいに関係している。見解や意見の違いを乗り越えて、真摯に歴史と向き合うことが、平和構築につながるという思いを、パル判事の息子は著者と共有していることを感じとったのだろう。

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○靖國神社(東京都千代田区)「パール博士顕彰碑」
碑文
時が熱狂と偏見とをやわらげた暁には また理性が虚偽からその仮面を剥ぎ取った暁には
その時こそ正義の女神はその秤を平衡に保ちながら 過去の賞罰の多くに
そのところを変えることを要求するであろう

○京都霊山護國神社(京都府京都市東山区)「パール博士顕彰碑」
碑文
当時カルカッタ大学の総長であったラダ・ビノード・パール博士は、十九四六年、東京に於いて開廷された「極東軍事裁判」にインド代表判事として着任致しました。既に世界的な国際法学者であったパール博士は、法の心理と、研鑚探求した歴史的事実に基づき、この裁判が法に違反するものであり、戦勝国の敗戦国に対する復讐劇に過ぎないと主張し、連合国側の判事でありながら、ただ一人、被告全員の無罪を判決されたのであります。今やこの判決は世界の国際法学会の輿論となり、独立したインドの対日外交の基本となっております。パール博士は、その後国連の国際法委員長を務めるなど活躍されましたが、日本にも度々来訪されて日本国民を激励されました。インド独立五十年を慶祝し、日印両国の友好発展を祈念する年にあたり、私共日本国民は有志相携え、茲に、パール博士の法の正義を守った勇気と、アジアを愛し、正しい世界の平和を希われた遺徳を顕彰し、生前愛された京都の聖地にこの碑を建立し、その芳徳を千古に伝えるものであります。

○富山縣護國神社(富山県富山市)「パール判事の碑」
碑文
不正なる裁判の害悪は原子爆弾の被害よりも著しい

○本照寺 (広島県広島市中区)「パール博士 大亜細亜悲願之碑」
経緯
昭和25年11月、広島を訪れたパール博士は広島平和記念公園にある原爆死没者慰霊碑に刻まれた碑文「過ちは繰り返しませぬ」を見て驚きかつ激怒した。碑文の責任者である広島市長と対談を行うなどした後、本照寺の住職・筧 義章に請われ一編の詩を執筆、その詩は後に本照寺に建立された「大亜細亜悲願之碑」に刻まれた。
碑文
激動し 変転する歴史の流れの中に 道一筋につらなる幾多の人達が万斛の想いを抱いて死んでいった
しかし大地深く打ちこまれた悲願は消えない
抑圧されたアジア解放のため その厳粛なる誓いにいのち捧げた魂の上に幸あれ
ああ 真理よ!
あなたはわが心の中にある その啓示に従って われは進む

○パール下中記念館(神奈川県足柄下郡箱根町)「パール博士顕彰碑」
碑文
すべてのものをこえて 人間こそは真実である このうえのものはない

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2011年03月01日

『歩いて見た太平洋戦争の島々』安島太佳由著、吉田裕監修(岩波ジュニア新書)

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 本書は、岩波ジュニア新書『日本の戦跡を見る』(2003年)の続編である。同時に出版された写真集『消滅する戦跡-太平洋戦争激戦の島々』(窓社)をあわせて見ると、よりリアルに著者、安島太佳由の言わんとすることが伝わってくる。著者は、2010年よりプロジェクト「若い世代に語り継ぐ戦争の記憶」を立ち上げた。

 プロジェクトを立ち上げた理由を、著者はつぎのように「あとがき」で語っている。「感受性が強く、知識を学び取ろうとする意欲がある一〇代のときに、生きた歴史を学ぶことは、とても大切だと私は考えます。そのとき脳に記憶されたものは、後のちになって何かのきっかけでよみがえってくることがあるのです。実際に私自身がそうでした。小学生のときに先生から聞いた太平洋戦争やベトナム戦争の話が、現在の活動にいろいろなかたちで活かされています。私はそこで受け継いだ記憶や感じた気持ちを大切にしながら、書籍の出版や写真展、講演会などを通して若い世代に「戦争の記憶」を語り継いでいきたいと思っています」。

 「一九九五年、戦後五〇年の年から始めた」著者の「ライフワーク「日本の戦争」は、東京に残る戦跡を振り出しに、四七都道府県の戦跡を訪ね歩くに至りました。そして日本の戦跡の取材に一区切りつけ、今回の太平洋戦争で激戦地となった島々の取材に入りました。取材を通して、改めて戦跡を歩いて見る大切さを実感しました」。「次なる旅は、中国、台湾、朝鮮半島などのアジア諸国に移っていきます」。

 著者に「日本の戦争を知る旅はまだまだ終わりません」と言わせるのは、日本の戦後がまだまだ終わらず、その悪影響が子や孫どころか、曾孫まで及びかねないからである。そのことを著者は、つぎの旅でさらに具体的に知ることになるだろう。

 本書は、第1部「硫黄島」の後、第2部「南太平洋の激戦の島々」ガダルカナル島、ラバウル、ニューギニア東部、ビアク島、トラック諸島、マリアナ諸島、パラオ諸島-ペリリュー島、フィリピンと続く。第1部では、小笠原諸島の父島、母島の中学生たちが、「硫黄島移動教室」という課外学習として、慰霊祭に参加している様子を伝えている。そこでおこったハプニングが、参加した中学生に戦争を実感させた。「午前中の慰霊祭が滞りなく終わり、お昼休みになりました。昼食を終えた中学生の一人が、草むらで何か鉄のかたまりを見つけだし、それを放り投げて遊んでいたのです」。「その鉄のかたまりが小さな不発弾だったから周りは大騒ぎになりました。すぐさま、不発弾処理のために自衛官がきて対応し大事にはいたりませんでしたが、突然起こった騒ぎに一番驚いたのは当の本人だったでしょう。先生から怒られていた中学生のしょんぼりした顔を、私は今でも忘れられません」。

 沖縄では、いまでも那覇の繁華街でさえ不発弾などが見つかることがある。沖縄に住む人びとにとって、日常生活でも戦後は続いている。この小笠原の中学生や沖縄の人びとが日々体験していることを、ほかの人びとがどう共有するかが大きな課題だ。本書でも、日本人観光客が多く訪れるグアムやサイパンで、戦跡を訪れる観光客は少なく、トーチカや大砲があるのにも気づいていない様子が書かれている。トラック諸島は、日本軍の沈没艦船が多いことから、世界中のダイバーの人気スポットになっているが、日本人は少ない。「三〇を超える沈没船や墜落機が眠っており、さながら世界最大の「海底博物館」」になっているのに、戦争関連となると日本人は避けて興味を示さない。

 若い世代が戦争の話をすると、「右翼」だと思われ、会話が途切れるという。反戦のために戦争について考えようとしても、いろいろな考え方があって、なかにはほかの意見を攻撃するものもあるため、なにがなんだかわからなくなって、興味をなくす者もいる。いま大切なのは、まず興味をもち、戦争について自由に話すことができるような環境をつくることだろう。戦争については、思い込みから曲解したり、勘違いをしたり、なかには意図的に事実をねじ曲げて自分勝手な主張をしたりする者がいる。そういう人びとがいても、それを糺す環境があれば、戦争を語ることが平和な社会を目指すという共通の目標に向かっていることが確認でき、建設的な話になっていくだろう。そういう環境づくりのためにも、著者の「若い世代に語り継ぐ戦争の記憶」プロジェクトに期待したい。

 著者は、「私の役割は、一人でも多くの中学・高校生たちに、戦争について知ってもらうために活動することです」という。見て読むことで、関心は高まる。小学生の読書量が増えているのに、中学・高校生の読書量は減っている。中学・高校生が読書をする習慣を身につけることが、戦争についてだけでなく、若者を社会と結びつけるきっかけとなる。

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