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2011年02月22日

『日本軍の治安戦-日中戦争の実相』笠原十九司(岩波書店)

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 本書は、「プロローグ」の最後に目的が書かれ、「あとがき」では明らかにしたことを3つにまとめ、2つの問題を指摘していてわかりやすい。

 目的は、つぎのように書かれている。「日本軍が華北を中心に展開した治安戦においてどのようなことをおこなったのか、日本軍の占領統治の安定確保を目的とした治安戦が、どのようにして中国側で三光作戦といわれるものになったのか、そして日本軍の意図とは逆に多くの農民を中国共産党・八路軍の方へ追いやり、抗日戦争を激化させる結果になったのはなぜか、それらの実態と全体像を明らかにすることなくして、日中戦争の実相に迫ることはできないであろう。本書では、治安戦を「おこなった側」の加害者・日本兵の論理と、「された側」の被害者・中国民衆の記憶とを照合させながら、日中戦争の実相に迫っていきたい」。

 その結果、著者、笠原十九司は、「第一に、日中戦争(一九三七年七月-四五年八月)における日本軍の治安戦の全体像を、日中戦争全体の展開に位置づけて明らかにした」。「第二に、中国では三光作戦(三光政策)といわれる治安戦について、華北の山西省における燼滅掃蕩と収奪作戦、河北省における無住地帯化と経済封鎖作戦、山東省における細菌戦を事例に取り上げて、加害者の日本軍の論理と被害者の中国農民の記憶の両側面から事件を照射する方法をとおして、実相に迫る叙述をおこなった」。「第三に、読者の方々はお気づきであろうと思うが、本書には治安戦に加えてサブ・ストーリーがある。それは、「天皇制集団無責任体制」にもとづく、無謀でデタラメともいえる戦争指導体制についての批判と、これまで論じられることのなかった日中戦争における海軍の戦争責任の追及である」。

 そして、著者が問題として指摘しているのは、「一つは、治安戦という作戦用語をつかって戦闘をおこなった日本軍兵士の意識と経験について」であり、「もう一つは、治安戦は過去のことではなく、現代の戦争であるということである」。

 「天皇制集団無責任体制」については、つぎのように説明している。「日本の戦争指導体制は、政府と軍中央が対立、軍中央も参謀本部と陸軍省の対立があり、前述のように陸軍に対抗して海軍拡張を目論んだ海軍が日中戦争を華中、華南に拡大させるのに積極的役割を果たしたのである。陸軍は陸軍で、軍中央と現地軍との対立、齟齬(そご)があり、現地軍が軍中央の統制を無視して作戦を独断専行する下克上の風潮が強かったことは、本章[第1章 日中戦争のなかの治安戦]において上海戦、南京攻略戦を事例に述べたとおりである」。

 このほかにも、本書から学ぶ基本的なことが多々あった。たとえば、なにかと問題にされる「数」であるが、中国と日本とでは、観念が違うことをつぎのように説明している。「中国の文献には「初歩的な統計によれば」「不完全な統計によれば」「ある統計によれば」ときには「不確かな統計によれば」とまで断ったうえで細かい統計数字が記されている。中国の学会や集会、会議などでの報告をきいていると、中国人は数字を形容詞としてつかっているのだと筆者は思う。事件や事柄の規模や程度をイメージさせるのに統計数字がつかわれるのであって、そうわりきって聞けばなるほど効果的な表現方法である。統計というと調査方法や厳密性、信頼性を問う日本人とは感覚が異なっている」。

 また、個々人の回想録にかんしても、それぞれの立場から信頼できる部分と限界があることを、つぎのように説明している。「鈴木[啓久]の回想録が貴重であるのは、第二七歩兵団長という上級指揮官の立場、それも師団長とは違って作戦現場、工作現場で直接指揮する立場にあったことである。下級指揮官や兵卒の回想録や証言には、軍隊組織の特色から彼らは部隊の作戦について全体を知る立場になかったという限界がある。戦場体験記として貴重であるが、彼らは鈴木啓久のように作戦の目的や展開過程、結果について的確に知ることができる立場にはなかったのである」。

 それにしても、本書からわかる日本軍のおこなったことは残虐性だけでなく、その後遺症の大きさである。日本軍がおこなった細菌戦については、「被害者の家族・親戚やその周囲の人々もペストによって死亡したのは日本軍の細菌戦が原因とは分からず、罹病者とその家族がペスト流行の元凶として悪魔であるかのように差別され、迫害されつづけてきた」。「華北の抗日根拠地において、平均して五〇人に一人以上の割合で日本軍に強姦され、そして性病をうつされた」。軟禁されて強姦され続けた女性のひとりは、戦後「「かつて日本兵とあまりに長く一緒にいた。おまけに日本兵のために子どもまで産んでやった」という理由で「歴史的反革命」という罪に問われ、三年間牢獄に送られるという処分まで受け」、「「村の恥」として非難され迫害された」あげくに、「文化大革命がもっとも激しかった一九六七年、彼女は首を吊って自死するという悲惨な最期をとげた」。

 対日協力者は「漢奸」「売国賊」として、「抗日戦勝利後、国民政府側においても、中華人民共和国側においても厳しい漢奸裁判がおこなわれ、日本軍人や日本人よりはるかに多くの中国人が処刑された。国民政府司法行政部の報告によると、各地で行われた漢奸裁判の結果、三万一四〇八人が起訴され、有罪が一万四九三二人(うち死刑三六九人)、無罪五八二二人、その他一万六五四人となっている。これにたいして、日本の法務省の調査資料によれば、中国国民政府によって裁かれた日本人BC級戦犯裁判において、八八三人が起訴され、有罪が五〇四人(うち死刑一四九人)、無罪三五〇人、その他二九人となっている。中華人民共和国政府がおこなった撫順戦犯裁判と太原戦犯裁判においては、死刑判決は一人もなく、四五人が戦犯として起訴され、有罪判決を受けた以外は全員が起訴免除となり、一九五六年に帰国を許された。最高刑の禁固二〇年を受けた者も、一九六四年を最後に全員が満期前に帰国をゆるされた。これらの数字からも、漢奸裁判が日本人戦犯裁判よりもはるかに厳しくおこなわれたことがうかがえよう」。

 このような中国側の日本人戦犯にたいする寛大さは、つぎのように説明されている。「周恩来総理の、日本人戦犯を一人も死刑にしないで、粘り強く長期にわたって「認罪学習」をさせ、「侵略戦争で罪行を犯した人が十分に反省し、その体験を日本の人々に話す。我々中国共産党が話すよりも効力があると思わないかね。日本の人民もきっと納得する」という指示にしたがって、金源管理所長以下、関係者たちの忍耐づよい努力の結果、戦犯たちは供述書を書くようになったのであった」。

 周恩来の思惑は外れ、日本人戦犯が帰国後、日本人に話すことはあまりなかった。そのため、本書に書かれているような具体的な話を、戦場を体験していない日本人はほとんど知らない。それどころか、信じようとせず、嫌悪感を抱き、本書の「プロローグ」の事例を読み終えることもないだろう。とくに日本の若者へは、実相を知らせる前に史実を受け入れる準備をしてもらうにはどうしたらいいのかを考える必要がある。戦後責任をまともに考えてこなかったツケが、いま日本の若者に降りかかろうとしている。東アジア社会のなかで日本人が暮らしていくのに、戦争認識の問題が大きな足枷になり、それがますます大きな問題になる可能性がある。昨今の中国などの反日運動を、歴史的に考えることによって、道は開けるのだが、・・・。

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2011年02月15日

『複合戦争と総力戦の断層-日本にとっての第一次世界大戦』山室信一(人文書院)

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 本書で、著者、山室信一は新たな一歩を踏み出そうとしている。京都大学人文科学研究所の共同研究「第一次世界大戦の総合的研究に向けて」は、開戦100周年にあたる2014年に最終的な成果を世に問うことを目標として、2007年にスタートした。著者にとっては、個人的にもうひとつの意味がある。京都大学での最後の共同研究という意味である。その意味で、なんらかのまとまりをつけようとしているのかと思ったら、とんでもない間違いである。

 「あとがき」で、著者は、本書をつぎのように自分自身の研究のなかに位置づけていることを述べている。「何よりも私自身が次の課題としている第一次世界大戦における「世界性」と「総体性」とは果たして何であったのか、という問題へ向けて進むに際して、立ちはだかっている壁に挑むために不可欠な、足元の地固め作業でもあった。その意味で「日本にとっての第一次世界大戦」を「戦争と平和の世界史の文脈に配置する」という私自身の最終課題に向けた歩みは、今ここから始まる。本書は、その意味でけっして結論ではなく、あくまでもスタートラインを画したものにすぎない」。

 本書やつぎの課題、最終課題は、これまでの著書、とくに最近著の『日露戦争の世紀-連鎖視点から見る日本と世界』(岩波新書、2005年)や『憲法9条の思想水脈』(朝日選書、2007年)で、著者が明らかにし、課題としたものを考えると、よりいっそう理解できる。たとえば、第一次世界大戦後に戦争違法化を目指して制定され、日本を含む世界63ヶ国が参加した1928年の不戦条約を、真っ先に無視して「防衛」を理由に1931年に満洲事変をおこし、その後も「事変・事件」の名の下に「防衛」のための日中戦争・「大東亜戦争」を展開した日本の原点のひとつが、第一次世界大戦にあったことを想定していることが感じられる。それは、「遠き戦火」であったがために、現実味を帯びなかったからなのだろうか。

 著者は、「はじめに」で、本書では「何よりもまず日本にとっての第一次世界大戦とは何であったのか、を明らかにすることを課題としたい」と述べ、「日本にとっての第一次世界大戦とは、対独戦争、シベリア戦争という戦火を交えた二つの戦争と、日英間、日中間、日米間の三つの外交戦からなる複合戦争として存在していたと捉え直すべきではないか」と提起している。

 さらに、つぎのように自身への課題を明確にしている。「第一次世界大戦を複合戦争として捉えることが可能であるとするなら、その期間は一九一四年八月の対独戦争参戦からシベリア戦争時に占領した北樺太から撤退を終えた一九二五年五月まで、断続的であったとはいえ一〇年九カ月にもおよび、大正時代一五年の大半は第一次世界大戦期であったといえることになる。それはヨーロッパにおける第一次世界大戦の期間である四年三カ月の二・五倍余に達するのである。その決して短期の戦争とは言えないはずの日本にとっての第一次世界大戦の実相とは、果たしていかなるものとしてあったのだろうか。さらに第一次世界大戦の世界史的重要性については戦争形態が総力戦へと転換していったことに求められてきたが、日本ではそれをいかに意識して対応し、それは日本社会をどのように変容させていくことになったのか-その問いに答えるための歩みをここから踏み出してみたい」。

 本書の結論は「はじめに」に記しているとおりなく、スタートラインとして「おわりに-「非総力戦」体験と総力戦への対応」で論点を整理している。その前に、「日本にとっての第一次世界大戦は二つの実戦と三つの外交戦の複合戦争としてあった」ことを、つぎのようにまとめている。「二つの実戦は、重砲や機関銃、無線通信や飛行機などの新兵器を試用したとはいえ日露戦争と同じ戦争形態の延長上にあり、三つの外交戦は「力こそ正義Might is right」という認識を基盤に、権益配分を秘密外交と威嚇外交によって競う旧外交の手法を用いて争われた。すなわち、日本にとっての第一次世界大戦体験とは、実質的に非総力戦であったと言うことができる。しかし、けっして総力戦という戦争形態の変化に全く無関心でありえたわけではなかった。そうした非総力戦と総力戦との接続と断絶の諸層については別稿を期すとして、今は論点だけをまとめておきたい」。

 ヨーロッパでは、第一次と第二次の連続性が重視されて、1914~45年の「30年戦争」として理解されることがあるのにたいして、日本では「アジア・太平洋戦争」をせいぜい「15年戦争」として捉えている。著者は「あとがき」で、日本にとっての第一次世界大戦のつかみ所のなさの理由をつぎのように述べて、その歴史観に警告を発している。「第一次世界大戦を日独戦争の局面でのみ捉えて、そこで生じたイギリスや中国そしてアメリカ、ロシア(ソ連)との外交関係を全く異なった次元の問題として議論し、さらに第一次世界大戦の重要な一環であったはずのシベリア戦争を反革命干渉戦争という次元でのみ語ってしまってきたこと、そこに第一次世界大戦に関する意識の希薄化と歴史認識の空白を招いてしまった大きな原因があるのではないか、という想いが日々強まってきた。もし、そうした憶測が的外れでないとするなら、「見えない戦争」、「隠された戦争」という位相をも組み込んで初めて「総体としての日本にとっての第一次世界大戦」が朧気ながらでも姿をみせてくるのではないか……。そして、その無意識化の背後で着々と進んでいた国際環境と総力戦体制への地層での変容を捉えることなしに、単に一九三〇年代以降の表層的言説をもって日本がアジア・太平洋戦争(第二次世界大戦)に不可避的に踏み込まざるをえなかったと説く昨今の歴史論議は根底において危ういのではないか……」。

 本書は、著者が「あとがき」の冒頭で述べているように、この「レクチャー」シリーズの本来の目的である「広く一般の読者に対し、第一次世界大戦をめぐって問題化されるさまざまなテーマを平易に概説する」ものからは外れ、自身への課題を中心としたものになっている。それだけに、「総力戦」である共同研究のそれぞれのメンバーのなすべきこと-著者の課題との絡みと課題から抜け落ちていること-が、本書から明らかになったように思える。著者は、「おわりに」で、「一般には総力戦については軍事力とともに経済力、科学力、精神力などを結集しつつ、ひたすら消尽つ続ける物量戦となるために、持久消耗戦となる」と述べている。いましばらく著者とともに、共同研究は「持久消耗戦」が続く。その成果として期待される「第一次世界大戦における「世界性」と「総体性」」は、これまでの歴史観を覆す可能性をもつとともに、現在直面している問題を考えることにも通じている。

 「おわりに」は、つぎのことばで終わっている。「現在、第一次世界大戦からほぼ一世紀を経て、日本と中国とアメリカとの三者関係をめぐる軋轢のなかで、いかなる外交交渉をもって環太平洋世界における安定的地域秩序を形成していくのかという難問(アポリア)に、私たちは改めて直面している」。「そして、日本が第一次世界大戦から歩み始めた東アジア世界そして国際社会でのあり方に批判的に対峙した中国に、今ほど、その批判した前車の覆った事実を後車の戒めとする叡智が求められている時はないのかもしれない」。

 近代的価値観で近代史を総括するのではなく、現在そして未来へとつながる「世界性」「総体性」をもった東アジアの地域秩序、さらに世界秩序を考えるための歴史観が、「第一次世界大戦の総合的研究に向けて」から生まれようとしている。

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2011年02月08日

『カブラの冬-第一次世界大戦期ドイツの飢饉と民衆』藤原辰史(人文書院)

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 著者、藤原辰史は悩む。世界全体で飢餓人口9億2500万と試算される現状のなかで、「ヨーロッパの一国が一時期体験したにすぎない飢餓の事実は読者の目にあまりに小さく映るのではないか」。「経済大国ドイツの飢餓の状況を経済大国日本で紹介することにどれほどの意味があるのか」。「結局は、「先進国」中心主義的な見方を補強することになりはしないか」。この著者の真摯な悩みを、本書のもととなった講義の受講生や講演会の聴衆は、しっかり受けとめた。その理由は、本書を読めばわかる。

 第一次世界大戦がはじまった翌年の1915年から休戦協定が成立した18年までのドイツの餓死者は、76万2796人であった。ここには兵士は含まれない。食料輸入大国ドイツは、生命線としての輸送網を、イギリスの海上封鎖などによって断たれ、「兵糧攻め」にあった。その結果、1915年の「豚殺し」と1916年から17年にかけての「カブラの冬」がおこった。「豚殺し」は、家畜の飼料用穀物やジャガイモを人間の食料に回すためにおこり、その標的はとくに消費量の多い豚に向けられた。いっぽう、輸入に頼る必要のなかったジャガイモは1916年の凶作で収穫高が激減し、都市下層民の主食は味の悪いルタバカ(スウェーデンカブ)になった。ともに政策の失敗もあって、食糧危機を深刻なものにした。この食糧難を、ドイツ史研究者は「カブラの冬」と呼んできた。

 本書の目的は、「はじめに」で「この飢饉の内実を紹介し、さらにこの歴史的意義を考察することである」と述べられている。そして、「結論」がつぎのように続いている。「第1章以降に述べていくように、飢饉は、平時に沈潜していた社会の矛盾、農業生産構造や食料配分システムの脆弱性、そして飢える民衆の声を議会に反映できない政治システムを可視化させた。これまで遠い存在でしかなかった国家が身近な存在になった。戦時中に広がった低所得者層と高所得者層の食の不平等は、そもそも戦前から存在していた。つまり、大戦期の食糧問題を知ることは、「生命の保障」、そのために必要な「食の配分」、さらに配分の公平さを担保する「代表」という三つの根源的政治問題を見つめ直すことにつながるのである。ドイツ革命が、戦争の終結を訴えるばかりでなく、生命基盤を提供できない政府の無能に対し不信を突きつけたように。ここでは、食べものという人間の根源から、政治の原型ともいうべき「生命」を軸に「配分」と「代表」という問題が日常のなかで自然にかつ直接的に現れてくる過程を描いていきたい。そして結論を先取りしていえば、こうした大戦中の政治の原点回帰の経験が、生命活動の維持と拡大に政治を集中させていくようなナチズムを生みだす土壌になったのである。ナチスは飢饉から多くを学び、食糧政策に反映させ、自給自足を唱えたのである」。

 著者は、以上の視角から、「日本の読者にはまだ馴染みの薄い大戦期ドイツの飢饉の事実を、当時の新聞や文献あるいは欧米や日本での研究の成果に依拠しつつ紹介・整理し」、「まず、ドイツで発生した飢饉の原因(第1章)と実態(第2章と第3章)、つぎに、民衆のプロテスト(第4章)、さらにはその後の時代への影響(第5章)」と、章ごとに具体的に説明し、食糧を通じて、第一次世界大戦から第二次世界大戦への連続性を明らかにしている。

 「おわりに-ドイツの飢饉の歴史的位置」では、「1 交戦国の食糧状況概観」後、著者は「2 「カブラの冬」の遺産」について「ドイツの飢饉の歴史的布置、とくに後史との関係」として、つぎのように考えを述べている。「第一に、七六万人の餓死者が出たにもかかわらず、また、あれほど頻繁に暴動が発生したにもかかわらず、ロシアのような社会主義革命が成立しなかったことが重要である」。「第二に、ドイツがイギリスを海上封鎖できなかったこと、同盟国の海軍力が連合国よりも弱かったことが大戦とその後史において決定的だった、ということの重要性はあらためて確認されるべきだろう」。「第三の歴史的意味は、飢饉の記憶と封鎖シンドロームが、戦後ドイツのナチズムに至る迷走に大きく影響を及ぼしたことである」。

 そして、つぎのように本書を結んでいる。「休戦協定によって戦闘は終わり、講和条約によって戦争は終わった。しかし、戦争と飢饉がもたらした不信や憎悪や亀裂は簡単には消えなかった。フランスのドイツに対する莫大な賠償金がナチスをもたらした、ということはしばしば指摘される。これが、大戦が不時着した理由の一つであることは疑いをえない。しかしながら、大戦が終わり損ねた原因としてより重要だと思われるのは、ドイツ民衆の「食べものの恨み」がもたらした無数の亀裂である。これが、ほとんど修復されぬまま経済的復興を遂げたことが、戦間期ドイツの歩みを、徐々にナチズムへと向かわせたのである」。

 しかし、著者がもっとも気にしていたのは、このような学問的歴史的な位置づけではないだろう。「はじめに」で述べている「ある少年は、親のパンを盗み食いし、しかられるのが嫌で首を吊る」ということが、書きながら頭から離れなかったのだろう。まず表紙に、ケーテ・コルヴィッツの「夫の戦死を知った妻の絶望が描かれている」画を選び、「銃後に残された多くの妻やその子どもたちが、飢餓に苦しめられた」ことを想像させる。第3章「日常生活の崩壊過程」の扉は、「ドイツの子どもたちが飢えている!」画であり、「5 子どもたち-犯罪と病気」では、最大の犠牲者が子どもであったことを具体的に述べている。そして、第5章「飢饉からナチズムへ」でも、「僕たちを飢えさせないで!」と書かれ、子どもがパンを抱えながら食べているポスターを掲載している。講義の受講生や講演会の聴衆が真剣に聞き入った理由が、ここにある。著者の悩みは、二度と「ある少年」のような少年がでないために、自分になにができるか、である。

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2011年02月01日

『ベトナム女性史-フランス植民地時代からベトナム戦争まで』レ・ティ・ニャム・トゥエット著、藤目ゆき監修、片山須美子編訳(明石書店)

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 本格的な総力戦となった第一次世界大戦中に、軍需工業などにも女性が動員され、戦後女性の社会進出が顕著になった。ベトナムの対フランス、対アメリカの戦争は、第一次世界大戦時にヨーロッパが体験した総力戦の比ではなかった。それだけ、女性が担った役割は大きかった。悲しいことに、ベトナム女性の「活躍」の背景には、悲惨な戦争があったことを、まず心得ておかなければならないだろう。

 しかし、それだけではないことを、著者は「日本語版への序」で、つぎのように説明している。「ベトナム社会の歴史のすべての段階におけるジェンダーの特徴を分析した資料から、ベトナムは東南アジアの各文化と同様に、世界の他の多くの地域と比べて明らかな相違があるということができます。それは女性の相対的に高い地位です。この相違点の文化的な特徴は、対立性よりも相補性があることで、権力はジェンダー関係よりも、社会や家庭や年齢のヒエラルキー関係に基礎をおいています」。

 「ベトナムの女性の、社会と家庭での地位を決定する要素は、まさに女性の重要な役割にあります。女性たちは、文化のすべての様式-精神文化、物質文化、社会と家庭の文化-を含む民族文化を守り、発展させた人々です」。「この相違点は以下に述べるいくつもの原因から生じています」。「第一に、外国の侵略、とりわけ同化に対抗しようとする民族の抵抗が、死守といえるような状況を、特に村単位で作り出したことです。したがって、母権制の時期から女性が建設してきた最初の貴重な伝統が、ベトナムでは他の多くの場所におけるように除去されることがなく、絶えることのない伝統になったのです」。

 さらに、第二、第三、第四の原因を説明した後、つぎのようにまとめている。「このようにして、生産労働、社会的闘争、家庭の建設、民族文化の創造と発展における伝統的役割に応じて、ベトナムの女性のイメージは、勤労者、主婦、戦士、芸術家となり、政治家のような他のイメージは、より曖昧であったり、その役割に同化していたり、あるいは切り離されていたりするのがわかります。それはまた、ベトナムのジェンダー関係のイメージでもあるのです」。

 本書は、「歴史の異なる段階にそって、ベトナムの女性についての多くの豊富な面を総合的に述べようと試みたものです。最初の部分と結論の部分を除いて、本書は六章から成り、歴史的時間の順序にしたがって書かれています」。「各章の内容は、昔のすばらしい伝統が継承され、発揮され続けていることを証明し、今日の社会におけるベトナムの女性の、現代的な心理と徳性についてのいくつかの主な特徴を発見したものです」。

本書の6章は、大部の原著(日本語訳『各時代を通してのベトナムの女性』)のうち「近現代史の部分である第四章から第六章まで、および再版の序文、初版の序文、結論を訳したものである」。「原著はベトナム戦争の最中の一九六七年から六九年にかけて執筆された。初版はベトナム戦争終結前の一九七三年に出版され、多数の読者の反響を得て、一九七五年に第二版が出版された」。

 本書の各章の内容は、編訳者による「解説」で訳出されなかった部分を含めて紹介され、最後の「結論」はつぎのような要約になっている。「著者はベトナムの女性についての理論的考察を試みる。一人のベトナムの女性の中に、勤労者と主婦と戦士の三人の女性が混在することを、ベトナムの女性の伝統と品格として挙げる。ここで主婦とは家庭の主人という意味である。その品格を作り出した歴史的文化的背景を考察し、著者はふたたび原始時代の母権制からの歴史をふりかえる」。

 一九七五年の再版(第二版)にさいして、著者は執筆中の一九六八年からの大きな変化が、多くの場合突然に起こったことを感じ、その変化に合わせて本書を修正し補足したいと考えていたが、実現できなかったことを悔やんでいる。編訳者は、さらに「再版が出版された一九七五年以降も、ベトナムの人々はさらなる歴史の流れに翻弄され続けた」として、「解説」で時系列的にその後の変化を概観している。

 そして、「解説」をつぎのように結んでいる。「今日私たちが本書を読むとき、ベトナム近現代の女性運動、とりわけベトナム戦争当時の資料としての貴重な面にも注意すべきであるが、どんな状況においても創意工夫をこらして生きてきた女性たちの知恵と力、助けあい励ましあってきたその情愛に胸を打たれる。本書に絶えず現れる党の指導のもとに云々といった表現にうんざりする読者も多いであろうが、ベトナムで活動を続けるための合言葉と割り切って、著者が本当に伝えたかった女性たちの姿を読み取っていただければと思う」。

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