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2010年12月28日

『ミャンマーの女性修行者ティーラシン-出家と在家のはざまを生きる人々』飯國有佳子(風響社)

ミャンマーの女性修行者ティーラシン-出家と在家のはざまを生きる人々 →bookwebで購入

 21世紀になって、ティーラシンはミャンマー(ビルマ)全土でそれまでの2万人台から急激に増加し、数年間で倍になった。尼僧院も、約3000ヵ所存在する。ティーラシンとは、ビルマ語で「戒(ティーラ)の保持者(シン)」を意味するように、「髪を下ろし在家の生活を捨て尼僧院や僧院で起居しながら、持戒し宗教的生活を営む女性を指す」。しかし、ティーラシンは、ブッダが認めた正式な出家者である比丘尼ではなく、在家のカテゴリーに含まれる。剃髪しているが、具足戒を受けた正式な出家者にしか許されない緋色の衣にたいして、薄桃色を基調とする衣を纏っている。現在のミャンマーでは、比丘尼は認められていない。

 「上座仏教において明確に区別される出家と在家のはざまで、彼女たちはどのように生き、出家生活をとおして何を目指すのか。本書はミャンマーのティーラシンに焦点をあてながらその宗教的実践や生活を示すとともに、彼女たちが宗教者として目指すものを追うことで、上座仏教社会にみられる多様な宗教的実践の一端を解明することを目的とする」。

 本書は、4節からなり、その内容はつぎのように「はじめに」の終わりにまとめられている。「第一節ではまずティーラシンとはどのような人々なのかを明らかにし、続く第二節で出家動機の変遷を軸にティーラシンの歴史について述べる。それにより、女性の出家の持つ意味が時代によって変化していることを示した上で、第三節では宗教者としての自らの価値を高めるためティーラシンがどのような努力をしているのかを、教学尼僧院における生活から明らかにする。最後に、近年国際社会で顕著な比丘尼サンガ復興運動がミャンマーの宗教界に与える影響を第四節で扱い、まとめを提示する」。サンガとは、ブッダを師と仰ぐ出家者集団のことである。

 本書の出発点としての素朴な疑問のひとつである「彼女たちはなぜ出家するのか」にたいして、著者は「問題設定そのものに誤りがあった」として、「彼女たちは比丘尼という正式な出家者として認められないにもかかわらず出家するのではなく、ティーラシンという出家と在家そして男性と女性のはざまのポジションを、誇りを持って敢えて選択していたからである」と、「にもかかわらず出家するのではなく」と「敢えて選択」に強調の傍点を打って答えている。そして、最後に、「仮にミャンマーのサンガが比丘尼サンガ復興を支持する立場を表明し、社会もそれを受け入れたとき、果たして最も保守的な彼女たちはどのような選択をするのだろうか。今後もその動向を注視する必要があるだろう」と結んでいる。

 ミャンマーという国は、1988年以来軍事政権下にあって、その実態がなかなか見えてこない。そのようななかで、「ビルマらしさ」を求めて調査・研究する人びとがいる。本書も、その成果のひとつで、ミャンマーの人びとの日常生活と切っても切り離せない上座仏教とのかかわりが描かれている。とくに本書でとりあげられたティーラシンは、聖俗の境界に生きることから、世俗社会との関係にも敏感である。著者、飯國有佳子が注視するのも、個人主義的な価値観や男女平等といったものを超えた「ビルマらしさ」が見えることを期待しているからだろう。

 世界から孤立しているかのように見えるミャンマーでも、確実に新たな動きがある。本書第四節でとりあげられた比丘尼サンガ復興運動も、国内だけでなく海外からの影響がある。これからミャンマーの人びとが選択すること、とくに「最も保守的な」ティーラシンが選択することは、ミャンマーだけの問題ではなく、わたしたちの将来と密接に結びついているのかもしれない。その意味で、2007年9月に起こった軍事政権にたいする仏教徒の抵抗で、薄桃色の衣を纏ったティーラシンの行進する姿を、どう理解したらいいのかも書いてほしかった。

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2010年12月21日

『商人と宣教師 南蛮貿易の世界』岡美穂子(東京大学出版会)

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 東アジア海域を舞台として、近世世界史がようやく見えはじめてきている。本書を読み終えて、最初にそう思った。西欧中心史観としての「大航海時代」と日本のナショナル・ヒストリーとしての「南蛮貿易」は、それぞれそれなりに研究蓄積がありながら、「世界史」がなかなか見えてこなかった。その謎を解く鍵が、本書から垣間見えた。

 本書は8章からなり、多くの章はもととなる論文があるが、論文集ではない。「序章 世界史における南蛮貿易の位置」と「終章 聖と俗が交錯する南蛮貿易の終点」が新たに書き加えられることによって、ひとつのまとまりのある単行本になっている。最近の博士論文のなかには、序章も終章もなく、脈略のわからない論文が数本ならんだだけというものがあるが、単行本として出版されるときは、こうあってほしい。

 本書の目的は、「序章」冒頭で、つぎのように述べられている。「一六世紀後半から一七世紀前半にかけてのポルトガル人の東アジア海域における活動を、「ヨーロッパの拡張」という視点からいったん切り離し、「東アジア海域世界」に参入してきた一勢力として観察することで、彼らがこの海域でどのような影響を受けて変容し、また彼らの存在によってこの海域にいかなる変化が生じたのかを探ることにある」。

 著者、岡美穂子は、「序章」「第一節 問題提起-「南蛮人」の帰属意識」で、まずスペインとポルトガルを「イベリア両国」という語で、十把一絡げにするなという。スペインは最初から領土拡張を重視し、ポルトガルは貿易を重視して、それぞれが根拠地としたマニラとマカオはまったく異なる存在形態であった。また、最新の研究成果から、アジア間貿易の担い手であったポルトガル人の多くは改宗ユダヤ人で、血縁に基づく商業ネットワークを築いていたと指摘している。すなわち国を追われたこれらのポルトガル人に、国家を背負っているという意識はそれほどなかった。

 つぎに、「第二節 本書の構成と諸課題」で、南蛮貿易の研究は、ヨーロッパから極東アジアまでの広大な地域の歴史認識と、経済史、キリスト教史などの諸々の幅広い知識が要求されることを前提として、「東アジアという環境のなかで日本=マカオ間の貿易関係の再構築」を試みる研究が必要だと述べる。そして、東アジアで活動した海賊、商人、宣教師の区別は、それほどなかったことを指摘する。近世であるから曖昧であるのが当然であるにもかかわらず、排他的な近代の国民国家のイメージで、これまで捉えてきたからだろう。著者は、「実際には東アジア海域ではそのような「公的関係」よりもむしろ、商人と宣教師たちが互いの利害関係にもとづいて、相乗的に活動を展開したことこそが注目に値する」とし、「国籍上の分類ではポルトガル人であったとしても、その帰属意識は多種多様であった点にも注意を要する」という。つまり、これまでの研究は、「「ポルトガル」という国家の名称と「ポルトガル人」というエスニシティが混同され」、「マラッカ以東で活動したポルトガル人の私貿易集団や国家への帰属意識の薄い個人の活動も、安易に」「ポルトガルという「国家」のアジア進出」のなかに包摂してきたのである。

 本書は、3部8章(「第Ⅰ部 一六世紀の東アジア海域とポルトガル人」3章、「第Ⅱ部 南蛮貿易の資本」2章、「第Ⅲ部 商人と宣教師」3章)からなる。それぞれの章には「はじめに」と「おわりに」があり、章の目的・課題が明記され、それに対応した結論・まとめがあってわかりやすい。ポルトガル、スペイン、イタリア、インドの文書館に所蔵されている南欧語の原史料に基づいた考察は、説得力がある。惜しむらくは、巻末に史料一覧、参考文献目録がなく、地図が1枚もないことだろう。

 本書によって、西欧中心史観やナショナル・ヒストリーという先入観から解放された近世東アジア海域史が、見えてきた。しかし、まだ文献からわかることから歴史像を構築しようとする基本は変わっていない。つぎの課題は、文献だけからではわからない海域史はなにかを考えることだろう。本書から垣間見えたように、東アジア海域で商業活動していたのは、ヨーロッパ人、中国人、日本人だけではない。しかも、「公的関係」だけではなく、さまざまな帰属意識をもつ人びとがいた。それぞれの海域で主導権を握っていたのは、これら陸域に活動の拠点をもっていた人たちばかりではなかった。「倭寇」だけではない海賊とも海商とも区別のつかない国籍不明あるいは無頓着な人びとが、南中国海にもインド洋にも、東南アジアの多島海にもいた。南蛮貿易は、西欧と極東アジアを結ぶさまざまな人びとによって担われていた。これらの「見えない」人びとの存在を意識することによって、新たな世界史像があらわれてくることだろう。

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2010年12月14日

『新版 原発を考える50話』西尾漠(岩波書店)

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 本書を読んで、まず思ったことは、「危険な原発はいらない」という当たり前のことが当たり前に書いてある、ということだった。つぎに思ったことは、にもかかわらず、いまも原発による発電に頼って、わたしたちは生活しており、本書はわたしたちの生活を脅かすとんでもない「悪書」であり、すぐに発禁にすべきである、と考えても不思議ではない、ということだった。この矛盾を理解することが、いまの日本の社会の矛盾を理解することにつながる。

 日本の公共事業は、いったん決められると、状況が変わっても、「お役所の権威」のために変更することができなかった。日本各地に建設された巨大ダムは、工事でうるおうことが優先され、建設後のことは考えようとしなかった。ようやく高度経済成長に貢献した巨大公共事業が、現代に合わないことがわかってきて、数十年前に計画されたダム建設などの見直しがおこなわれるようになってきた。原発も、数十年前の計画が基本にあり、当然見直す時期にきている。

 原発の危険性については、本書の50の見出しのいくつかを見るだけでわかる:「下請けの下に孫請け、ひ孫請け」「事故は起こる」「死体か資源か」「放射能を消す手品」「そしてだれもいなくなった」「核物質に手を出すな」「人は誤り機械は故障する」「老いる原発」「逃げろや逃げろ」「備えあれば憂いあり」「算定不可能なリスク」「電気は出ていく放射能は残る」「不思議の国の原発PR館」「つくられる需要」「電気をすてる発電所」「原発は地球を救わない」「出口なし」。

 これだけ危険性を指摘され、安全性に疑問がもたれても、原発が存続する理由は、安全性が真剣に考えられていないことだ。著者、西尾漠は、つぎのように指摘している。「安全の業務にたずさわる人たちの価値が、現実には尊重されていないということです。企業の論理としてお金がもうからない安全の業務を軽視するということもありますが、研究者ら自身が開発推進は積極的でおもしろく、安全研究は消極的でつまらないと見ているようなのです。でも、「安全」イコール「消極的」という考え方のもとで放射能廃棄物のあと始末がおこなわれたらどうなるでしょうか。このままでは、原発が動いているときより廃止されたあとのほうがはるかにおそろしいとすら言えるでしょう」。

 いま原発が全廃されたら、わたしたちはたちまちに困るのか? 今年の夏はほんとうに暑かった。しかし、電力不足の話は出なかった。もちろん、そうならないように原発があり、電力会社は努力している。現状では、原発を全廃したら、1年のうち数十時間は停電するという。しかし、これくらいなら、つぎのような省エネを心がければ、なんとかなると著者は述べている。「夏になると防寒具がよく売れる過剰冷房社会の見直しはもちろん、クーラーをつかうとしても、その選び方、取りつけ場所などの考慮、機器の特性に合わせた使用モードの選択、扇風機の併用、フィルターの掃除、人体やオフィス機器から発生する熱の逃がし方の工夫、熱源でもある照明の省エネルギー化等々、最大電力を小さくするためにできることはいくらでもあるはずです」。しかし、もっと「必要なのは、省エネルギーが企業の利益になるような社会的なしくみであり、右肩上がりの「成長」に固執してきた企業の意識変革でしょう」という。

 「環境をこれ以上汚さずこわさずに、私たちがほんとうの意味で豊かな暮らしをしていくためには、当面は化石燃料を少しでも効率よくつかいながら、エネルギーの消費を小さくし、自然エネルギーをじょうずに利用する世の中に変えていくことが、どうしても必要なのです」。そして、最後の「50 私たちにできること」を、つぎのように結んでいる。「現在のようなエネルギー浪費構造と、それに基礎を置く経済のあり方が、国際的にも国内的にも変化を強いられないとはとうてい考えられませんし、すでにさまざまな局面で新しい事態を迎えています。そうした変化を積極的にとらえ、私たちにとって望ましい社会を準備していきたいものです」。

          *       *       *

 2010年5月6日に高速増殖炉「もんじゅ」が運転を再開した福井県で、反対運動を続けている棡山(ゆずりさん)明通寺(真言宗御室派)住職中嶌哲演(なかじまてつえん)さんの話を聞く機会があった。すぐにすべての原発を撤廃しろ、というようなことは主張していない。これ以上原発を増設しない、アジアへ原発を輸出しない、核廃棄物の後始末をする、被爆労働者の安全・救護対策をする、など現実に対応できることから原発をなくそうと提案している。

 そして、核の再処理施設などが集中する青森県六ヶ所村やアメリカ軍基地が集中する沖縄県と同じように、補助金に頼る地方行政の自立を考えている。かつて日本帝国陸軍・海軍の基地や施設を誘致した「軍都」で、今日発展している都市はあまりないことが、歴史的に検証されている。補助金に頼り自立の道を切り開こうとしなかったからだともいえるし、自立の可能性のないなかで一時的にでも繁栄したともいえる。問題は、だれが得しだれが損をするかという問題ではなく、放射能で汚染されたり、基地が攻撃されたりして、人命が失われたとき、だれも責任のとりようがないことである。

 806年に坂上田村麻呂が創建したと伝えられる明通寺の中嶌住職は、「討伐」され処刑された蝦夷のアテルイやモレらの鎮魂と平和を祈願して、六ヶ所村のある青森の人びとの痛みと願いを切実に共有せずにはいられないという[『-若狭の原発を考える-はとぽっぽ通信』]。

 原発による発電が、多くの人びとを危険にさらしてまで、いまのわたしたちの生活に必要なのか、はたまた、原発にともなう技術が将来の日本にとって必要なのか、広い視野と長期的な展望のなかで、ひとりひとりが考えなければならないことを、本書からも中嶌住職からも教えられた。

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2010年12月07日

『イギリス文化史』井野瀬久美惠編(昭和堂)

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 本書の英文タイトルは、British cultural history。日本では、国名として「イギリス」が一般的だが、正式名称は「グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国(United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland)」。ロンドンに手紙を出すとき、EnglandなのかGreat Britainなのか、はたまたUKなのか、よくわからなくなる。オリンピックは「イギリス」だが、ワールドカップなどはイングランド、スコットランド、ウェールズ、北アイルランドと別々に出場している。

 国名だけではない。「イギリス」という国は、よくわからなくなることがある。EUに加盟しても共通通貨のユーロを使用しない、傘は持っているのにささない、野菜はゆでる、・・・。そんな数々の疑問が、解けるのではないかと思い、本書を開いた。

 まず、「はじめに」で、「文化史」の重要性が「対象としての文化史」と「方法としての文化史」で説明され、続いて「イギリス文化を考える四つの時空間」がとりあげられる。「四つの時空間」とは、「連合王国としてのイギリス」「ヨーロッパ史という時空間」「環大西洋世界という時空間」「大英帝国という時空間」で、「「イギリス文化」とは、こうした四つの時空間が、共時的に、あるいは時間的なずれをともなって、多層的に組み合わさり、絡み合うなかで創造され、変化し、再創造されてきた」ものだという。

 さらに、つぎのように説明している。「それぞれの空間軸と時間軸が重なったところには、さまざまな力学が働く。階級、エスニシティ、人種、ジェンダーなどはその力学を生む代表的な要素であろう。それらが組み合わさるなかで、またそうした諸要素が醸し出す緊張感のなかで、イギリス文化が創造されるとともに、それを収める(あるいは規制する)制度もつくられた。その具体的な様子を動態的に検証していくことが、本書全体を貫くテーマである」。

 そして、「本書の構成」へと続く。本書は3部(「制度と文化」「「イギリスらしさ」を読み解く」「「悩めるイギリス」の文化的起源」)14章からなる。最後に、[エピローグ]「揺らぐアイデンティティ-「イギリス人」のゆくえ」がある。14章のなかには、「イギリス料理はなぜまずいか?」「イギリス人はなぜ傘をささないのか?」「なぜイギリス人はサヴォイ・オペラが好きなのか?」も含まれている。

 本書は、「読者に知のワクワク感をきちんと届けるために」、「文化というものを、表面的な現象のみならず、その奥にある構造的なものにまで踏み込んで議論」しようとしたものである。その編者のおもいに、それぞれの執筆者が応えている。たとえば、イギリス人がサラダを食べなくなったのは、議会囲い込みによって、農民の共有地がなくなり、「在地食材の利用可能性が大幅に低下した」結果、「どこの誰が作ったかわからず、それゆえ家畜・家禽の糞尿がかかっているかもしれない生野菜は生食可能なものではなくなった」ためだと説明されている。

 「イギリス国民の傘に対する思いは、ステイタス・シンボルとしての過去への懐旧の情から反発までの振幅を内に秘めたまま、結局持つも持たぬも、さすもささぬむ、個人の自由という落としどころを見いだす」となる。そして、19世紀後半のイギリスで生まれたサヴォイ・オペラは、「歌劇としても演劇としても二流、三流の扱いしか」受けないのに、「英米を結ぶアングロサクソン礼賛の賜物」として、アメリカでも人気を保っている。

 編者の「はじめに」を念頭において読むと、それぞれの章がよりわかりやすくなり、最後の[エピローグ]でイギリスの未来を見すえて、いまの問題が語られている。「はじめに」と[エピローグ]をつなぐ14の章が、「「イギリス文化史」という知のタペストリー」となって編みあがっている。

 だが、「イギリス文化」は、もはや「国民文化」でもなければ「民族文化」でもない。「文化」で語るということは、「政治」や「経済」で語ることとは違う「越境」があるはずだ。4つの時空間に含まれない日本の研究者が、イギリスの「魅力」をこのように語ることができるということは、第5の時空間のなかで「イギリス文化史」が語れるのではないか、とふと思った。

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