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2010年10月26日

『皇族-天皇家の近現代史』小田部雄次(中公新書)

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 2007年に成立した国民投票法案、多くの人が憲法9条の問題を想定した。しかし、ほかにもある。たとえば、天皇制にかんしてである。この国民投票、タイミングがひじょうに重要で、なにかをきっかけにその時のムードでおこなわれると、将来に禍根を残すことになる危険性がある。その前に、充分に考えておく必要がある。

 2006年に悠仁親王が誕生し、ひとまず継承問題は棚上げされているが、問題が解決したわけではない。日本の天皇家の問題より先に、皇室と深いかかわりのあるタイとイギリスで、深刻な事態が起こるかもしれない。タイは、明治天皇と同じ15歳のときに即位し、ほぼ同じ在位期間(1868-1910年)のチュラーロンコーン王(ラーマ5世)のときに近代君主制の基礎ができ、近年では秋篠宮家を中心に交流が密である。現在のプミポン国王(ラーマ9世)は1927年生まれ、1946年以来の長期の在位が続いており高齢である。イギリスについては、もっと大きな問題があるかもしれない。日本の天皇制をめぐる問題は、国内より先に海外からの影響によって巻き起こるかもしれない。

 イギリスにせよタイにせよ、近代に王制が生き残り、現在まで続いているのにはそれなりの理由があり、生き残り戦術があった。そして、第一次世界大戦の敗戦国ドイツでは王制が廃止されたが、第二次世界大戦の敗戦国日本では天皇制が存続した。天皇制が存続し、今日に至っている理由の一端が、本書からわかる。

 近代天皇制は、男子皇族の軍人化によるところが大きい。1945年の帝国軍隊崩壊までの72年間に、陸軍に18名、海軍に10名の計28名が配属され、大元帥である天皇のもとで軍事的役務を担った。軍人とならなかった皇族男子は、神宮祭主となった2人と健康上の理由があったひとりだけであった。その軍人化は、イギリス王室に学んだことが、つぎのように書かれている。「ロンドンに着いた[東伏見宮嘉彰]親王は、欧州文明を学び、英国の儀式に参加し王室との交流を結ぶ。日本の皇族としてはじめて海外の君主であるヴィクトリア女王に対顔、握手をしたりする。また、エドワード七世の平癒感謝会などに参列もした。こうした経験から嘉彰親王は、欧州の王族が年少時より「海陸軍に服事し勉強せざるはなし」との見解を持ち、帰国後、自ら望んで陸軍少尉となり、皇族軍人の道を開いたのである。当時、華頂宮博経親王はアメリカ海兵学校、北白川宮能久親王はプロシア(ドイツ)の陸軍大学校で、それぞれ学んでおり、皇族の軍人化への環境は整えられていった」。

 いっぽう、女性は、後方支援の日本赤十字社の活動に従事した。「皇后は毎年行われる本社での総会にかならず出席し、皇族妃は戦時の繃帯(ほうたい)巻や傷病兵慰問を担った。昭憲(しょうけん)皇太后(明治天皇の皇后美子(はるこ))基金など、皇室からの財政援助もなされた」。因みに、現在、名誉総裁は皇后陛下、名誉副総裁は皇太子殿下・同妃殿下 秋篠宮妃殿下、常陸宮殿下・同妃殿下、三笠宮殿下・同妃殿下、寬仁親王妃信子殿下、高円宮妃殿下である。

 戦後、国民とともに軍事的に国を守るというもっとも重要な皇族の役割のひとつは終わった。それは、1947年10月14日、伏見宮邦家の子孫である11宮家51人の皇籍離脱というかたちでもあらわれた(伏見宮家は北朝第3代崇光天皇1348-51を祖とする)。残されたのは、昭和天皇の皇后、皇太后、実子、実弟とその家族だけだった。この皇室の危機に際して、軍事的役割にかわる役割を見出したのは、昭和天皇の実弟の高松宮だった。「高松宮はスキーや競馬、駅伝などのスポーツ杯に関わったり、ハンセン病予防事業団である藤楓(とうふう)協会の初代総裁に就任した。また、かつての海軍関係の集まりにもよく出席した。国際親善のため海外に渡航することも多かった。一九七一年には硫黄島での戦没者碑の除幕式に出席、一九七三年には皇族として戦後はじめて沖縄を訪問した」。このように、スポーツ・文化振興、皇室外交、「戦後和解」などが、皇室の重要な仕事になっていった。

 著者、小田部雄次は、本書を終えるにあたって、「あとがき」で本書の特色を3点あげている。「第一は、維新前と後の皇族の違いを明確にする前提として、古代から現代までの皇族を網羅的かつ実証的にまとめたことにある。その法令上の変遷などは本文で説明した」。「第二は、天皇と皇族との確執を描いたことである。皇族は、天皇の血族でありながら、天皇との反目も多く、そうした両者の対立が近代史に深刻な影響を与えてきた。とりわけ、昭和初期以後の戦争の問題では、天皇と皇族との政治認識や軍事判断の違いがしばしばみられ、混迷する政局や戦局の主要要因ともなっていた。大元帥昭和天皇と、参謀総長閑院宮載仁(ことひと)親王、軍令部長(のち軍令部総長)伏見宮博恭(ひろやす)王の三巨頭体制は、常に齟齬(そご)が目立ったのである。従来の研究ではこの二人の皇族総長は軽視されがちだったが、自らの権威を背景に、天皇と対抗するほどに軍事的影響力を持っていたのである」。「第三は、皇族が負った戦後和解の問題である。天皇と皇族とでは戦争や戦後処理に対する意識に大きな落差があった。戦後の昭和天皇と高松宮との間の亀裂は、その反映であった。そして、天皇家の負った戦後責任の処理のあり方は、戦後の皇室や外交の歩みを左右した」。

 そして、「皇位継承問題のみならず、民主主義社会における天皇家存立の可能性」の議論は、「皇室のみならず、社会を構成する我々の問題でもある」と読者に問いかけている。

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2010年10月19日

『低炭素経済への道』諸富徹・浅岡美恵(岩波新書)

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 帯に「選択の余地はない」「CO2大幅削減がもたらす新たな経済成長戦略とは」とあり、その答えは表紙見返りにつぎのようにあった。「刻一刻と進行する地球温暖化。この未曾有の環境変動を前に、従来型の経済発展はもはや許されない。いま必要なのは、CO2の排出を大幅に削減し、なおかつ経済を向上させる、新たな成長戦略だ。困難な課題を克服する鍵は、産業構造の転換にある。低炭素化による経済の大いなる可能性と将来ビジョンを示す」。

 そして、本書はつぎのように結論して、終わっている。「以上、低炭素経済への移行期の問題について論じてきた。重要なのは、「技術的に困難だから」、あるいは「費用が莫大だから」という理由で低炭素経済への移行を止めよう、あるいはできるかぎり後回しにしようという発想から決別することである。本書を通じて、低炭素経済への移行が不可避ならば、早期に移行することにメリットが多いことを強調してきた。技術はいずれ進歩し、費用は低下するのである。後回しにすることで得になることは何一つない。われわれが停滞すれば、アジア諸国が追いつき、抜き去っていくだけである。したがって、まずは低炭素経済への本格的な移行に大胆に舵を切ることを決定し、次に、どのような困難が横たわっているのか、そして克服すべき課題は何かを確定したうえで、それらを解決する方途を見出すという発想に立つべきであろう。その最大の問題の一つは、低炭素経済への移行が人々の生活に大きな影響を与える点にある。われわれは、移行過程の痛みをできるかぎり和らげ、そのプロセスを平和で、公平で、円滑なものにする必要がある。いずれ、各国の政府はどこも、低炭素経済への移行に本格的に踏み込んでいくことになる。政府の手腕をめぐって真に明暗が分かれるのは、この仕事をうまくやり遂げることができるかどうかにかかっているといえよう」。

 本書を読むと、それなりに納得できる。しかし、本書の提言を実行するにあたって、基本的で決定的な不安が2つある。まず、技術的な問題である。本書で例示されているような、かつての技術的優位が日本のあるのだろうか。企業の技術力、とくに中小企業の技術力は、かつてほどないのではないだろうか。日本が誇った技術力は、特別優れた少数の人によって担われていたのではなく、共同作業による集団の力が大きかったのではないだろうか。つまり、裾野の広い技術力に支えられていたのではないだろうか、ということである。それが、現在は理系に進む者がすくなく、学力が低いために大学で高校までに学習の補講をしなければ、大学の授業ができなくなっている。単位さえ取れればいいので、必要以上の点数を取ろうとしない。知識や技術でなにをしたいかが、思い浮かばない学生が少なくない。

 もうひとつは、国家が低炭素経済への移行を明確に国民に示し、技術力向上のために中長期的な財政支援をすることができるだろうか、ということだ。目先の人気取りのばらまきばかりで、中長期的な財政計画が立てられない政府に、本書のような話が通じるのだろうか。

 学生にせよ、国家指導者にせよ、未来を展望する力が、いまの日本に欠けているのではないだろうか。この「選択の余地のない」状況で、ひとりひとりの現実への認識が大きな力となるのだが、その切迫感をいだいている者は多くない。自分自身のために、社会のために希望を見いだせるようにするにはどうしたらいいのか、わからない!

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2010年10月05日

『開発援助がつくる社会生活-現場からのプロジェクト診断』青山和佳・受田宏之・小林誉明編著(大学教育出版)

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 本書の各章のタイトルを見て、時代は変わったと思った。開発援助といえば、先進国の発展モデルがあって、援助する側はそれに沿って着実に実行すればよく、失敗すればそれは援助される側に原因があると、一方的に解釈されてきた。そんな考えは、本書では全面的に否定されている。まず、各章のタイトルを見てみよう。

 序章 社会生活に埋め込まれる開発援助-複眼的視点からのプロジェクトを診断する試み
 第1章 きこえるのは誰の声-ラタナキリ州の先住民と土地問題を支援する人たち
 第2章 「見える」ものだけが援助の成果か-変化の媒体としての石川プロジェクト
 第3章 誰が受益者だったか-インドネシアのNGOによる小規模援助プロジェクト
 第4章 フィールドワークを生きる-フィリピン・ダバオ市の「バジャウ」とわたしたちの10年
 第5章 都市の先住民であることと援助-メキシコ市のオトミー移住者と開発NGOの10年
 第6章 「失敗」したプロジェクトのその後-ボリビア農村部の貯水池建設
 終章 開発援助ではつくれない社会生活-なぜ複眼的視点が求められるのか

 本書は、日本学術振興会・人文社会科学振興プロジェクト研究事業「資源配分メカニズムと公正」の下にコア研究のひとつとして組織された「貧困・格差グループ」の研究成果であるが、「政策提言という形で成果を社会に還元することは難しい」という結論で終わった。しかし、それは従来のような政策提言をしていては、社会の役に立たないという結論でもあった。

 では、著者たちが本書でめざしたものは、なんだったのだろうか。「はじめに」で、つぎのように述べている。「本書ができるささやかな貢献があるとすれば、そもそもの研究課題であった「開発援助プロジェクトの過程」に加え、「共同研究プロジェクトの過程」という苦しみそのものを生かした作品を作ることであろう。わたしたちにとって学際・学融的研究がどのように難しかったのかという問題は、そのまま開発援助をめぐる各学問分野の思想の違いを反映している。この難しさや矛盾を小手先で昇華させず、丁寧に整理して見せることで開発援助を題材に社会科学というものを再考することができるのではないかと願う」。

 著者たちのそれぞれの苦悩は各章で書かれているが、「一人ひとりが書きたい内容を全体として特定の学問分野で括ることは難しい、特定の論点で括ることも難しい、特定の地域で括ることも難しい」という本書の「致命的な問題点」は、「序章」でかなり補われている。それは、「互いのディシプリンから文献を持ち寄り比較するなど努力を重ねた」成果であり、「現場」を知っているからこそ書けたのだろう。とくに、「Ⅱ.「捉えどころがない」援助の効果をいかに捉えるか」の「1.重層的な「眼」から援助を見る-視点の設定-」「2.援助の当事者の「立ち位置」を特定する-座標軸の設定-」「3.社会をまたがる「つなひき」として援助を「捉える」」で、よく整理された議論が展開されている。

 著者たちが試みたのは、近代的な発想で単純化してわかりやすくするのではなく、つぎのような複眼的な視点で診ることだった。「本書は、フィールドにおける援助される側の当事者である「かれら」の視点、ホームグランドにおける援助する側の当事者としての「わたし」の視点、さらに“客観的”な「神」の視点という複数か所の視点を移動させることによって、「捉えどころのない」援助の効果を捉えようという実験的試みである。援助という事象そのものに内在する当事者間の視点のズレ、そしてそのズレを客観的に観察しようとする研究者の視点とのズレをそのまま取り込む形で、援助という複雑な事象を複雑なままに捉えてみたい」。

 著者たちが「複雑な事象を複雑なままに捉えてみたい」と思うようになったのは、第2章でとりあげた「石川プロジェクト」の過程を見ればよくわかる。1995~2001年にJICAによってベトナムにおいて実施された知的支援である「石川プロジェクト」は、試行錯誤の連続だった。「当初、ベトナム自らが理想とする開発モデル(Rモデル)と、日本から見てベトナムに適切と思える開発モデル(Dモデル)との間には大きな溝が広がっていた」。その溝を埋めるために、なにをしたのかが、「Ⅳ.対話を通じた相互作用-開発モデルをすり合わせる努力-」「1.双方向から歩み寄るための仕掛け」「2.互いに足りないものを補い合う姿勢」「押し付けにならない援助のあり方」で説明され、その成果は、「Ⅴ.石川プロジェクトが生み出したもの-社会の相克を超えて-」「1.つぎにつながる効果」「2.社会に浸透する効果」で語られている。

 本書の著者たちは、1968~78年の生まれで、ちょうど「石川プロジェクト」の時期に大学・大学院教育を受けた人たちである。すでに先進国主導の開発モデルの問題点が指摘されていた時期で、その後それぞれのディシプリンにもとづいて「現場」を見てきた成果が、本書に現れている。とりあげられた6つの事例は、つぎのように総括されて、終章へとつながっている。「このようにどの事例を見ても、援助のプロセスは、意図せざる結果の連続であり、援助する側の意図によってコントロールできるものではないことは明白である。援助とは、いかに計画しようと、現実には制御しえないような複雑な社会過程となることがわかった。そして、そのようなダイナミズムが生まれたとしたら、それ自体が援助の成果といえよう。最終章において、「援助を設計すること」の不可能性について論じよう」。

 その終章では、「開発援助業界で主流をなすアプローチの功罪と、それとは異なるアプローチの意義とを検討」している。前者は経済学、後者は人類学である。そして、つぎのように本書を結んでいる。「経済学的アプローチと人類学的アプローチの違いは、価値前提や世界観という深い次元にある。このため、すり合わせを試みたり、同化や一致を望んだりすることは建設的ではない。むしろ大切なことは、違いを認めながらも、互いの考え方に耳を傾け、「複眼的な思考」の存在を許し合おうとすることだろう。1人の人間の中に、援助目標を定め、そのための優れた手段を設計しようとする人間と、そうした枠組みの限界に敏感であり、さまざまな現場を行き来しながら先入観からできるだけ自由であろうとする人間とが、共存することも不可能ではない。組織としてあるいは個々人のレベルで、矛盾や曖昧さを排除するのではなく許容することにより、わたしたちは大きな過ちを犯すことを防げるほか、自分とは異なる人びととの何気ないやり取りの中に喜びを見いだすことができる」。

 いまわたしたちにとって大切なことは、この地球上に生きている人間を含むすべての動植物が、互いに共生しているという認識である。個々の問題は、すぐさまほかのすべてへと影響する。援助される側の問題解決は、援助する側の社会の安定と繁栄をもたらす。そう考えると、まず援助される側の「現場」を知ることが大切になってくる。問題は、「現場」の人びとがもっとも状況をわかっているわけではないこともあるということである。ましてや、「現場」の代弁者に任せるととんでもないことになることがある。本書で「複眼的視点」が強調されるのも、善悪はともかく、いろいろな視点からの総合的、長期的視点が必要だからである。

 本書を読んで、改めて、わたしにはとてもできないことを、未来を見据えて研究している人たちがいることを知った。わたしにできることは、これらの人たちが「現場」で臨機応変に対処できるための基礎的知識となりうる、たしかな歴史的事実と歴史観を提供することだろう。問題が複雑になればなるほど、基礎研究の成果がものをいう。その基礎研究のためにも、本書ような「現場」の知はなくてはならない。

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