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2010年09月27日

『徴兵制と良心的兵役拒否-イギリスの第一次世界大戦経験』小関隆(人文書院)

徴兵制と良心的兵役拒否-イギリスの第一次世界大戦経験 →bookwebで購入

 シリーズ「レクチャー 第一次世界大戦を考える」の1冊である。帯に、「兵役拒否者は、独善的な臆病者なのか?」と大書してあり、その上に、「未曾有の総力戦を背景に、史上初の徴兵制実施に踏み切ったイギリス。その導入と運用の経緯をたどりながら、良心的兵役拒否者たちの葛藤を描き出す。」とある。どうやら「良心的」ということばがキーワードで、それがイギリスの特異性をあらわすようだ。

 本題のイギリスの徴兵制の議論に入る前に、「はじめに」で恐ろしいことが書かれている。わたしたち日本人は、「第二次世界大戦」があるから、その前の世界大戦を「第一次世界大戦」と呼ぶようになったのだろう、くらいにしか思っていない。ところが、「イギリスの有力紙『タイムズ』には、早くも一九二〇年の段階で第一次大戦という表現が登場している」という。

 著者、小関隆は、その理由をつぎのように説明している。「ヴェルサイユ講和条約が締結されたほんの翌年にこのことばが用いられた事実から読みとられるべきは、ヴェルサイユ体制による平和構築に関する悲観的認識、すなわち、あれだけの犠牲を出した戦争をもってしても火種が消えたわけではない、再び世界的な規模の戦争が起こることはおそらく避けがたい、といった絶望的な諦念であろう」。「終戦からほどなくして「第一次」と呼ばれてしまったこの戦争は、うまく終わらなかった戦争、次なる大きな戦争の予感を漂わせながらひとまず終わったにすぎない戦争と見なすことができるかもしれない」という。そして、「第一次大戦を理解するうえでは、戦間期および第二次大戦との連続性を念頭に置くことが決定的に重要になってくる」と、本書を読むにあたってのポイントを指摘している。「第一次大戦」という未曾有の体験をし、「第二次大戦」を予感しながら、人びとは「第二次大戦」を回避できなかったのだ。なんと、恐ろしいことだろう。

 ほかのヨーロッパ諸国が、19世紀後半につぎつぎと徴兵制を導入していったのにたいして、イギリスは志願制を維持したまま第一次大戦に突入した。イギリス陸軍は、ヨーロッパ大陸諸国と比べて著しく弱体で、世界最強の海軍に頼り切っていた。大戦勃発直後は熱狂的に志願兵は増えたが、すぐに熱狂も冷め兵力不足に陥った。そのため、1916年1月27日に兵役法が成立した。が、「戦闘業務の遂行を拒む良心」にもとづく兵役免除の可能性を認める、いわゆる良心条項が含まれていた。「注目すべきは、ここでいう良心が宗教的なそれに限られず、思想・信条も含まれていること、そして、戦闘業務だけの免除のみならず、全面的な免除の可能性も留保されていることである」。

 この「良心条項に基づく兵役免除を申請した者はトータルで約一万六五〇〇人(入隊者数の〇・三三%)」にすぎなかったが、社会への影響はけっして小さくはなかった。それは、反徴兵論者が、「イギリスの自由の伝統」というレトリックを持ち出して、ナショナリズムを刺激し、「大陸諸国に比べて徴兵制をもたないイギリスはより高度なのだ」と主張したからである。戦中の世論の大勢は「無責任な臆病者」というものであったが、戦争を忌避する言説が世論に広く受け入れられるようになる戦間期には、「反戦・平和の灯を守った人々として、彼らは称揚の対象にさえなった」。しかし、いっぽうで「筋金入りの平和主義者の多くが、戦間期にはいっさいの武力行使を否定していては現実に対処できないという考えに傾き、絶対平和主義の無効性を認識するようになる」という奇妙な現象も起こった。

 戦間期の1920年4月にいったん廃止されたイギリスの徴兵制は、第二次大戦にあたって1939年4月に再導入の方針が打ち出されたが、反徴兵制運動は第一次大戦期ほどの広がりをみせなかった。その理由のひとつは、徴兵制の運用自体の寛容さにあった。そして、1960年に徴兵制は停止された。現実に大戦が起こらない限り、徴兵制が制定・維持されなかったイギリスで、志願制から徴兵制への移行が比較的すんなり実現した理由を、著者はつぎのように述べている。「志願入隊に任せていると、軍務に就くよりも国内での活動に従事する方が望ましい者たち、とりわけ専門的な知識や技能をもつ者たちが少なからず戦地に出てしまうことである」。「入隊率は社会的地位が上がるほど高く、しかも、士官の死傷率は兵卒のそれを上回ったから、人口比で見れば、階級が上であるほど犠牲者も多かった」。

 イギリスの徴兵制が特異なのは、すくなくとももうふたつ理由があるように思える。イギリスが連合王国(グレート・ブリテンおよび北アイルランド連合王国)であって、人びとが考えるナショナリズムがいくつかの層からなっていて愛国主義の捉え方が、そのときどきの状況によって変わったことが考えられる。このことについては、.著者のもうひとつのテーマである「大戦に際してアイルランドのナショナリストの多数派がとった戦争協力方針をめぐる諸問題」の研究に期待したい。もうひとつは、イギリス帝国がオーストラリアなどの自治領軍に加えて、インドなどの植民地軍、グルカなどの傭兵を抱えていたことだろう。現在、世界各地23,319ヶ所にあるイギリス連邦戦没者墓地委員会が維持管理する墓地には、これらさまざまな「イギリス兵」1,695,483人が眠っている。

 本書から、著者が「はじめに」で書いた「第一次大戦を理解するうえでは、戦間期および第二次大戦との連続性を念頭に置くことが決定的に重要になってくる」意味が、よくわかった。そして、著者は、つぎのような文章で、本書を終えている。「世界恐慌の勃発、ナチズムの台頭、国際連盟の権威失墜、といった条件が出揃ってくる一九三〇年代のイギリスでは、軍備の拡張と軍事同盟の強化を求める声が平和主義のそれを最終的に圧倒してゆくことになる。ウェルズのいう「戦争をなくすための戦争」、換言すれば「最後の戦争」だったはずの戦争は、「第一次」大戦、つまり「新たな三十年戦争の第一段階」となってしまうのである。「ラスト・ウォー」の「ファースト・ウォー」への転化、第一次大戦にかかわる最大のパラドクスないし悲劇はここにある」。

 因みに、戦争の呼称には注意を要する。国・地域や時代によって違い、意味があるからである。たとえば、日清戦争は中国では甲午中日戦争、日露戦争は韓国では露日戦争という。日本各地にある日露戦争記念碑で戦後すぐに建てられたものは、「明治三十七八年戦役」「明治三十七八年役」となっている。「支那事変」は1937年の廬溝橋事件が一般的になるが、28年の済南事件も事件後は「支那事変」とよばれた。中国では廬溝橋事件は七七事変、満洲事変は九・一八事変とよばれ、記念日には敏感である。

 もうひとつ気になることが、「むすびに代えて」で、つぎのように書かれていた。「選挙権の拡大だけでなく、大戦を経験したイギリスがさまざまな領域で民主化を進展させていったことは間違いない。しかし、それは兵役をはじめとする戦争遂行への献身に対する報償の性格の強い民主化、いわば血で購われた民主化であって、血を流そうとしない者たちを容赦なく排除した。イギリスが再び世界大戦への道を辿ることを促す力は、こうした民主化のあり方の中に胚胎されていたといえるかもしれない」。これでは、「民主化」はファシズムと変わりないではないか!「第二次大戦」を回避できなかった原因のひとつは、民主化された社会が未成熟だったことにある。さて、いまの「民主化された社会」は、新たな大きな戦争を防ぐことができるのだろうか。その成熟度にかかっている。

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2010年09月21日

『「クラシック音楽」はいつ終わったのか?-音楽史における第一次世界大戦の前後』岡田暁生(人文書院)

「クラシック音楽」はいつ終わったのか?-音楽史における第一次世界大戦の前後 →bookwebで購入

 「王様と戦争」の歴史にかわる、社会史や全体史の重要性が唱えられて久しい。しかし、ちょっと考えてみると、「王様と戦争」を中心に語ってもかまわない、いや語った方がいい時代や社会もあれば、そうでない時代や社会もある。「王様と戦争」より社会史や全体史のほうが、その時代や社会にとって重要な意味をもつことを理解しなければ、歴史学としては皮相なものに終わってしまう。本書で、著者、岡田暁生が音楽史を扱うのは、そんな皮相なものではなく、王様より市民・国民が主体となった第一次世界大戦の前と後の音楽を通して、時代や社会が見えてくるからである。

 長い19世紀を通して成立した市民社会が行き着いた先は、総力戦というなにもかもを「暴力」で打ち壊す大戦争であった。音楽も例外ではなかった。「この戦争で生じた社会の根底的な再編成が、一八世紀後半の啓蒙の時代以来のインテリ・ブルジョワ文化の没落をもたらし、さらにはファシストとボリシェヴィキ革命の温床になった」。そして、「一九世紀市民社会が作り出したクラシック音楽の語法・美学・制度とは決定的に違った音楽」が、第一次世界大戦前後に登場した。

 「第1章 戦争の「前」と「後」-音楽史の亀裂としての第一次世界大戦」の5つの節のタイトルをみれば、いったいなにがおこったのか想像できる:「1 アヴァンギャルドの誕生」「2 アメリカ・ポピュラー音楽の勃興」「3 録音音楽の時代」「4 音楽における国際主義」「5 国有化される音楽?」。そして、第2章で戦前、第3~4章で戦中、第5章で戦後について、もうすこし詳しくみていく。

 「第2章 モダニズムからアヴァンギャルドへ-大戦勃発前に起きたこと」では、伝統的な音楽が完全に否定された例として、「「ド」の音/「ドミソ」の和音」をあげている。従来、「曲の途中でどれだけ不協和音を使ったとしても、必ず最後はドミソという協和した響きに戻って終わる」ものが終わらない。著者は、「絵画とはキャンバスに絵具で様々な事物を描いたものである」とか「文学とは意味のあるセンテンスを組み立てて書くものだ」といったことと同じくらいに自明の法則だったものからの逸脱・解放だという。

 「第3章 熱狂・無関心・沈潜-戦中の音楽状況」では、戦争が長期化するに従って、音楽家たちの戸惑っていく様子が描かれている。「大戦が勃発したとき最も熱狂したのは、いわゆる知識人たち」で、「文化の力で現実政治を動かすことが出来ると、大真面目に信じ」、「精神文化によってこの未聞の大戦争を勝ち抜く」と、音楽に課された「国民を励ます」という役割を果たそうとした。しかし、現実には、知識人たちは「文化の絶望的な無力」、「偏狭なナショナリズムの愚かさ」を思い知らされることになり、「個人の刹那の感情を超えた客観性を追求する必要性」を感じることになる。

 そうしたなかで、「第4章 社会の中の音楽-パウル・ベッカー『ドイツの音楽生活』をめぐって」では、「音楽は社会が作る」というテーゼが議論される。ベッカーは、つぎのように嘆く。「音楽には常に社会的要素が不可欠であり、かつては音楽の注文主であった教会や王侯が、その役割を担っていた。だが今や音楽家と社会との間に、創造せず媒介するだけの、エージェントが割り込んできた。彼らは音楽を商品としてその利益を中間搾取しているだけであり、様々な娯楽音楽を人々のニーズに応じて提供することでもって社会の一体感を分断してしまい、社会全体に呼びかけるという音楽本来の使命を見失わせるに至った。社会は享楽を求める者、無関心な者、教養を求める者へ分裂し、音楽家は利益に関心がある諸グループへ解体し、仲介業者の支配は音楽家として本来の使命を忘れさせた」。そして、「大戦の最大の原因ともなった一九世紀ナショナリズムを克服する必要性」を説き、「音楽は社会が作る/音楽が社会を作る」「音楽は人々が作る/音楽が人々の絆を作る」を主張した。

 さらに、「第5章 音楽史における第一次世界大戦とは何だったか-戦間期における回顧から」では、「行動する音楽」の美学が議論される。戦後流行るのが、「ジャズやキャバレー・ソングだが、近代社会ではほとんど見られなくなった労働歌、あるいは中世のモテットなどにも同じ特徴が見られる。そもそも本来の音楽とは「する」音楽であって、近代芸術音楽のように身体も動かさず粛々と傾聴する音楽の方がよほど特殊なのだ」という「ブルジョワ資本主義批判としての一九世紀音楽批判」を取りあげている。戦争を通して、「人々を集団的な死に向かわせる程の力を音楽は持ち得る、ただしそれは国歌や軍歌であって、決してオペラや交響曲ではない」ことを、人びとは学んだ。著者は、この章を「この苦い事実に一体どういうスタンスを取るのか。これこそが、音楽と真剣に向き合おうとする人々に対して第一次世界大戦が突きつけた、最大のアポリアであったかもしれない」と結んでいる。

 そして、著者は最後に「あとがき」で、「第一次世界大戦と音楽」という主題への課題を、つぎのように述べている。「第一次世界大戦からの精神的武装解除として一九二〇年代の音楽を考えるとき、とりわけ重要になってくるのは、音楽家たちの「内面生活」を、第一次世界大戦をコンテクストとして、読み解く試みであるはずである。とはいえ、「内面」を推し量るためには、状況の「外面」の把握がやはり不可欠だ。第一次世界大戦中の各国における音楽生活の現実。前線においてはどうであったか。銃後においてはどうであったか。総動員体制の中で音楽はどう位置づけられていったか。そこで音楽家たちはどういう問題に向き合わねばならなかったか。しかしながら、これらの問いに答えてくれるような文献は、今のところ皆無だ。従来の二〇世紀音楽研究において第一次世界大戦は、やはり一種の盲点になっていたのであろう」。「本書は、「第一次世界大戦というコンテクストを組み込んでみると、一九一〇/二〇年代のヨーロッパ音楽史がどう見えてくるか」についての、試論にすぎない」。

 このヨーロッパ音楽史が見えてきたとき、第一次世界大戦の前と後でヨーロッパ社会がいかに変貌したかが見えてき、さらにヨーロッパを越えて世界の音楽史や新たな時代・社会が見えてくることだろう。それが今日の社会に、どうつながるのか、重要な研究であることがわかったが、先は遠いようだ。本書は、開戦100周年にあたる2014年に最終的な成果を世に問うことを目標としている、京都大学人文科学研究所の共同研究の中間的な成果報告として刊行されたシリーズ「レクチャー 第一次世界大戦を考える」の1冊である。シリーズ名に「レクチャー」と銘打っているのは、全学共通科目で実際に講義した内容と重なるものが多く、本シリーズが広く授業や演習に活用されることを期待しているからである。「中間的な成果報告」であるだけに、著者自身解決不可能と思われるような難題を覚書きしているものもあり、共同研究という性格上ほかのメンバーに問いかけているものもある。シリーズ全体で、第一次世界大戦の総合的理解がより容易になり、本書を含めそれぞれの仮説がいっそう深められ、洗練された最終的な成果となることを期待したい(わたしも共同研究のメンバーのひとりなのだが、こんな他人事のように書いていいのだろうか・・・)。

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2010年09月14日

『史学概論』遅塚忠躬(東京大学出版会)

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 歴史学とはやっかいな学問である。いくら説明しても、なかなかわかってもらえない。それは、だれもがよく知っている歴史の延長線上に、学問としての歴史学があると勝手に思って、わかろうという気もないからである。世間一般の人びとが認識している歴史と、学問としての歴史学は、似て非なるものであることに気づく者は、それほど多くない。そして、それをわかりやすく説明できる歴史研究者は、数少ない。そんな数少ないなかのひとりが、著者の遅塚忠躬である。

 冒頭の「はしがき」で、著者はつぎのように書き出している。「歴史学に従事している人びとは、その従事する学問の性質について、大筋では共通の見解をもっているかといえば、けっしてそうではない。そこには、雲泥の差が見られ、ときには正反対の見解が対立している。したがって、私には、「公平な」史学概論を書くことはできない」。だから、著者は、「はしがき」で「読者に対する私の学問的な自己紹介」をするという。

 歴史学は、扱う時代、地域、社会、テーマなどによって、「基本的な考え方(立場)」が違う。著者の専門は、膨大な史料があり、研究蓄積が豊富な「フランス革命」であることを、まず念頭においてから本書を読む必要がある。そして、本書を紹介するわたしは、文献史料に乏しく、研究蓄積がほとんどない海域東南アジア史を専門にしている。まったく「基本的な考え方(立場)」が違うはずだが、本書に書かれている多くのことに共鳴することができた。それは、学問としての歴史学の基本的性質を共有しているからではないだろうか。また、いまは違いを強調する時代でもないだろう。

 講義に基づいて書かれた本書は、繰り返しが多い。それは、重要なことは、毎時間それを確認して講義をすすめるからである。その繰り返しでもっとも多いのが、「歴史学は何の役に立つのか」、という問いかけである。そして、それが「歴史学に関する最初にして最後の問題」であり、「社会的な意味における自己認識」を深めるためであることを、伊藤貞夫氏のことばを借りて述べている。つまり、最初に「何の役に立つのか」を考えない歴史研究は、目標とするゴールのない自己満足だけのための研究になるということだ。著者は、その最重要課題を、最終章「第4章 歴史認識の基本的性格」の最終節「第6節 歴史学の社会的責任」で詳しく説明して、本書を終えている。

 歴史学が学問として理解されない理由のひとつは、文学との混同や曖昧さなどから、歴史学が科学と認識されないことにある。それにたいして著者は、「歴史学の出発点は過去ではなく現在である」ことを強調して答えようとしている。それは、尚古趣味としての歴史を学問としての歴史学と切り離すためであり、両者を分かつものとして「考証(ある歴史的事象が事実であるかどうかを吟味する仕事)」を加え、三者を比較・検討することによって、その違いを明らかにしている。三者の関係を図式化すると、大中小3つの輪があり、中心は歴史学、外側が尚古趣味で、そのあいだが考証となる。三者の相違は、つぎのように表された:「尚古趣味の場合: 価値観→過去の世界(事実性にこだわらない)」「考証の場合: 価値観→過去の事実へのこだわり→その事実の確定」「歴史学の場合: 価値観→問題関心・問題設定→確定された過去の事実を基礎とする諸事実の関連の想定・歴史像の構築」。

 そして、「第3章 歴史学の境界」「第1節 歴史学とその周辺」の結論として、歴史学の営みをつぎのように定義した。「歴史学は、個人的な価値観に基づく多様な目的をもって過去に問いかけ、その問いかけの仕方(問題設定)に適した過去の諸事実を取り扱うが、その際、さまざまな事実を確定するだけではなく、何らかの理論的枠組みに準拠してそれら諸事実間の関連を想定し、諸事実を論理的に組み立てて、その結果を仮説(ないし歴史像)として提示する営みである」。

 著者は、「歴史学は何の役に立つのか」という疑問にたいして第1章「歴史学の目的」と第3章「歴史学の境界」で答え、もうひとつの大きな疑問である「歴史家の言っていることはどのくらい確かなのか」にたいして第2章と第4章で答えている。その答えを理解するためには、つぎの5つの作業工程を経て歴史像が構築されていることを確認する必要がある。「①問題関心を抱いて過去に問いかけ、問題を設定する」「②その問題設定に適した事実を発見するために、雑多な史料群のなかからその問題に関係する諸種の史料を選び出す」「③諸種の史料の記述の検討(史料批判・照合・解釈)によって、史料の背後にある事実を認識(確認・復元・推測)する。(この工程は考証ないし実証と呼ばれる)」「④考証によって認識された諸事実を素材として、さまざまな事実の間の関連(因果関係なり相互連関なり)を想定し、諸事実の意味(歴史的意義)を解釈する」「⑤その想定と解釈の結果として、最初の問題設定についての仮説(命題)を提示し、その仮説に基づいて歴史像を構築したり修正したりする」。

 まず、著者は「第2章 歴史学の対象とその認識」で、「歴史的世界を構成しているさまざまな事実を認識する作業(事実の確認や復元)」を検討し、「歴史をよくできたお話なのだ」という物語り論をしりぞけた後、第4章で「認識された個々の事実を素材として、それら諸事実の間の諸関連を想定し、事実関係を解釈して、みずからの歴史像構築のための命題を提示する作業」を検討している。別のことばで言えば、前者の事実認識に関する見解を前提にして、後者の歴史認識の基本的性格を第4章で検討している、ということになる。

 これら2つの大きな疑問への答えは、第4章第6節へと収斂していく。この節は、「終章」あるいは「結語」ともいうべきものである。その冒頭で、著者はつぎのように述べている。「歴史学の目的と効用が、したがってまた歴史家の職分が、みずから思索を重ねることを通じて読者を思索に誘うことにある、と述べた。そのことについて、私は聊かの疑念も持っていない。しかしながら、そのことは、必ずしも、歴史家は、研究室で思索を凝らしてその結果を教室でまた著作で学生や読者に伝えるだけでよい、ということにはならない。歴史学の研究という営みは、その他の研究活動と同じく、われわれの文化的な営為の一環であって、経済学や法学が政策提言を目指すのとは異なっていようとも、その営為の遂行について社会的な責任を負うべきであろう」。

 最後の短い「むすび」の最後で、著者は「歴史学に限らず、おそらくは科学一般が、いま、パラダイムの転換を迫られているのではなかろうか」と述べ、「歴史学の新たな飛翔を若き世代に期待しつつ、本書をここで閉じることにしよう」と結んでいる。本書によって、確認させられたことの多くは、西欧を中心に発展した近代歴史学の成果である。それはそれで、歴史学の基本を学ぶために重要である。しかし、近代歴史学が扱った地域や社会、人びとがひじょうに限られていたことを考えると、グローバル化がすすみ複雑化する社会を念頭におかなければならないこれからの歴史学を考えるとき、フランス革命を専門とした歴史研究者が語る「史学概論」には限界がある。どこの大学でも「史学概論」を講義するのは、西洋近現代史を専門とする年配の研究者がふさわしい、と考えていること自体が、今日の歴史学の問題と言わなければならないだろう。本来、世界史学を専門とする者がふさわしいのだろうが、時代、地域、社会やテーマなどのよって、史料、研究者数、研究蓄積の多寡に大きなばらつきがある現在の状況では、とても世界史学にもとづいた「公平な」史学概論など講義できるわけがない。まずは本書を土台に、個々の歴史研究者が、現実の社会と向き合いながら、「社会的責任」を意識し、営為を遂行していくしかないだろう。

 そして、最後に確認しておきたいのは、本書の帯の裏に書かれている著者の意図がわからない者は、尚古趣味の歴史とはまったく時限の違う学問としての歴史学があることを少なくとも知ってほしい。「歴史学は、すでにできあがった知の体系ではなく、躍動し変貌し続ける生き物である。それは、新たな領域を開拓し、従来とは違った観点から対象を見なおし、また、新たな方法を編み出したり隣接諸科学から借用したりしながら、日々その相貌を変えつつある。しかし、それが一つの学問であり続けるからには、そこには変わらざる基本的骨格があるだろう。私は、この書物で、歴史学の骨格をなす基本的性質を検討しようとしている」。

 生き物である歴史学とつきあうには、日々躍動し変貌しつづける社会から目が離せない。歴史学とはまことにやっかいな学問であり、それだけに魅力があり、社会的責任をともなう。

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2010年09月07日

『新月の夜も十字架は輝く-中東のキリスト教徒』菅瀬晶子(山川出版社)

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 人口の99%以上がイスラーム教徒である中東において、キリスト教徒などとるに足らない存在にすぎなく、研究する価値などないように思うかもしれない。本来、まったく無視してもいい人はひとりもいないのだが、マイノリティのなかには、社会への影響という点において、マジョリティの人びとと大差なくあまり存在感のない人びともいれば、数において少数であっても大きな存在感のある人びともいる。中東のキリスト教徒は、後者である。

 著者、菅瀬晶子は、中東のキリスト教について、つぎのように紹介している。「ユダヤ教の一分派として誕生したキリスト教が、独自の聖典であるギリシャ語の七〇人訳聖書を掲げてユダヤ教から正式に分離したのが、イエスの死後およそ七〇年をへた紀元一世紀末のことである。その後教会は幾多の分裂を繰り返し、現在にいたっているが、とりわけ中東には初期の頃に分派し、ヨーロッパで発達したローマ・カトリック教会やプロテスタント教会諸派とはまったく異なる道を歩んだ教派が、数多く残っている」。

 本書は、3章からなる。著者は、「まず第1章では、じつは数多い中東のキリスト教の諸教派について、その歴史と特徴を簡単に紹介してゆく。続く第2章では、キリスト教徒が具体的にはどのような人びとなのかを、衣食住など可視的なものからアイデンティティをめぐる精神的なものまで、さまざまな実例をあげて説明する。彼らの隣人であるムスリムとの対比と、彼らのアイデンティティのあり方がおもなテーマとなる」。「第3章では、キリスト教徒たちが中東の近代化から今日にいたるまではたしてきた役割と、今後の展望について述べる」。

 アラブ人と言えば、アラブ語を話すイスラーム教徒だという印象が強いが、第3章のタイトル「アラブ・ナショナリズムとキリスト教」が示すとおり、近代ナショナリズムの形成にキリスト教徒が重要な役割を果たした。「アラブ・ナショナリズムは十九世紀中葉、オスマン帝国治下の東地中海地域で産声をあげ、二十世紀中葉に大きな飛躍をとげるが、じつはその初期段階でリーダーシップをとった者の多くがキリスト教徒であった」。キリスト教徒の知識人や政治家のなかには、ヨーロッパ式の近代的な教育を受けた者もおり、アラビア語復興運動などナショナリズムの担い手となった。

 サッダーム・フセインに率いられたイラク・バアス党は、イラク戦争後事実上解党されたが、「復興」を意味するバアスを最初に掲げて党を結成したシリアでは、現在も健在であり、そのシリア・バアス党の生みの親とされるミシェール・アフラクも、キリスト教徒であった。アフラクをはじめ、キリスト教徒のアラブ・ナショナリストは、「他者を拒絶する父系親族集団への執着心や、マイノリティとしてのキリスト教徒アイデンティティの負の側面、すなわち自宗教、教派至上主義とからみ合うことによって、ムスリムやユダヤ教徒、さらには他教派のキリスト教徒に対する拒絶」するという根深い問題を乗り越えて、パン=アラブ主義を主張した。

 また、プロテスタント諸派の付設学校を卒業した富裕層の子弟のなかから、多数の著名人が排出した。なかでも、『オリエンタリズム』『文化と帝国主義』などの著者として知られ、ポストコロニアリズム理論の第一人者となったエドワード・サイードが有名である。

 これだけ中東で存在感のあった人びとを生み出したキリスト教会も、衰退に向かっているとささやかれるようになった。それにたいして、著者はつぎのように単純に同意しない。「教会の礎が末端の一般信徒たちである以上、少なくとも中東のキリスト教会は続いてゆくであろう。なにしろ中東のキリスト教徒は、とにかく粘り強い。ビザンツ帝国による弾圧やイスラームの伝播によるマイノリティへの転落など、度重なる苦難にも耐えて生き残りつづけてきたのである。それどころか、中東史の重大な局面において、キリスト教徒たちはつねに時代を牽引してきた。そのような偉大な先人たちが、中東全体のよりよい未来をめざして活動しながら、一方でキリスト教徒としてのアイデンティティを強く意識し、そこに誇りを見出していたことは、すでに[本書で]述べてきたとおりである」。

 こうみてくると、「アラブ」が宗教より上位にあるかぎり、中東のキリスト教徒は存在感を示しながら存続することが予想できる。それも、キリスト教徒とイスラーム教徒とが互いにわかりあえる「近親関係」にあるからだろう。

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