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2010年08月10日

『十七世紀のオランダ人が見た日本』クレインス フレデリック(臨川書店)

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 本書の目的を、著者クレインスは、つぎのように述べている。「十七世紀オランダにおける日本観の形成過程を解明することである。日本観形成過程の解明に当たって、本書では特に日本情報の伝達経路に注目している。そのため、本書は時系列というよりも、日本情報の伝達経路を中心軸として構成している」。

 本書の表紙・裏表紙の京都・方広寺や江戸城を見ただけで、オランダ人の日本観の一端がわかり、その形成過程に興味を覚えるだろう。しかし、わたしにとっては、その説明背景となった「第一章 オランダの黄金時代と日本交易の独占」「第二章 洋上で出会った日本 初期の旅行記にみる日本情勢の萌芽」のほうが興味深かった。なぜなら、これらの2章では、17世紀の世界が、西洋中心史観でもなく、ナショナル・ヒストリーでもなく、素直にみえたからである。

 まず、ヨーロッパ勢力のなかで最初にアジアに本格的に進出したポルトガル人が、「アジアで目にしたのは、様々な品物で溢れる豊かな諸都市で」、「言葉で伝えられないほど様々な高価な品物や商品がある」ことに感嘆した。しかし、ポルトガル人には、その商品を手に入れるための資金も品物もなかった。したがって、「ポルトガル人は、アフリカで得た金の他に、アジア内で金・銀・銅を調達せざるを得なかった。銀は特に日本に存在しており、ポルトガル人は日本から銀を得るために、中国から生糸を運び、その生糸と交換した銀でインドネシアなどの香辛料を購入して、その香辛料を大きな需要の存在したヨーロッパに運んだ」。さもなければ、海賊行為によって品物を手に入れた。

 このヨーロッパ人による世界貿易に、日本も参入して品物が行き交っただけでなく、日本人がとくにアジア各地に出て行った。たとえば、「一六一二年に東インド会社の最初の定期船が日本に到着した時、新商館長ヘンドリック・ブラウエルは、七十人の日本人を日本のジャンク船で日本から出航させた。その中に六人の大工がいたが、残りのほとんどは傭兵であり、東インド会社の戦闘要員として雇われた。この日本人傭兵は一六一三年にティドレにあるスペイン人の城の攻撃に参加した」。日本人傭兵は、ティドレのあるモルッカ諸島(香料諸島)など各地で戦いに参加していた。また、自前の船で定期的に台湾と交易をしていた長崎代官の末次平蔵は、オランダ主導の台湾貿易に不満をもち、平蔵の部下は台湾の原住民を江戸に連れてきて、「台湾の全土を将軍に捧げると主張」させた。

 このように、日本は当時のヨーロッパのいうところの「東アジア」の重要な構成要素となっていた(東インド会社の「東インド」)。その日本をオランダがどのように見たかは、当然「東アジア」のなかで考えなければならないだろう。本国を出たオランダ人の多くは、アフリカ、南アジア、東南アジア、東アジアなどで交易し、滞在した。とくに日本に来たオランダ人は、バタフィアを経由した。かれらの日本観は、本国オランダだけの対比ではない。バタフィアなどアジアのほかの地での経験をもったうえでの日本観であったはずだ。第一章、第二章で、世界のなかの日本が見えたにもかかわらず、残る第三~六章ではそれが見えなかった。

 オランダ人の目を通した、当時の日本の風俗習慣などには、ひじょうにおもしろいものがあった。本書で使用した旅行記などが何度も版を重ね、ほかのヨーロッパ諸語にも翻訳されたことが頷ける。しかし、これらの本は、日本だけを扱ったわけではなく、「東インド」のなかで日本を扱っているものが多い。最後に「東アジア」に戻って、日本を相対的に語ることも必要だったように思う。

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