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2010年08月31日

『ガリツィアのユダヤ人-ポーランド人とウクライナ人のはざまで』野村真理(人文書院)

ガリツィアのユダヤ人-ポーランド人とウクライナ人のはざまで →bookwebで購入

 ドイツとロシアの2つの大国に挟まれたポーランドの悲劇は、一般によく知られている。しかし、そのポーランドが逆の立場に立っていたことを知る日本人はそれほど多くはない。そして、そのことを知ることによって、ヨーロッパの歴史と社会が、よりよく理解できるようになる。わたしは、本書を読んで、世界史を語ることの難しさを再認識した。

 本書の帯の裏に、本書の概略と問いかけがつぎのように書かれている。「現在は西ウクライナと呼ばれる東ガリツィア。かつてそこでは、ウクライナ人が多数者でありながら、政治的、経済的支配者は少数者のポーランド人が握っていた。ウクライナ人とポーランド人のはざまにあって、彼らに嫌われる原因となる事柄がしばしば生き抜くための唯一の選択肢であったユダヤ人。やがてこの地でウクライナ人の民族独立運動が立ち上がり、スターリンのソ連とヒトラーのドイツが衝突するなかで、ユダヤ人はいかなる運命をたどったのか」。その答えは、帯の表にあった:「ホロコーストによるガリツィア・ユダヤ人社会の消滅」「東ガリツィアの民族混住に終止符を打った民族的心情の力学をたどる」。

 著者、野村真理が自分に課した課題は、つぎの2つだった。「嫌われる原因となる事柄が、しばしばその地で自分たちが生き抜くための唯一の選択肢であるような、そんなユダヤ人マイノリティがポーランド人、ウクライナ人と切り結んだ関係のあり方を描ききること、そのユダヤ人という存在がホロコーストで抹殺されたことの意味を考えることだった」。

 前半の課題にたいして著者は、「ポーランド語やウクライナ語の史料や文献を使いこなしていない不十分さを承知の上でなお、先駆的な情報提供の役割を果たすことができたのではないか」と自負している。が、後半の課題にたいしては「当事者ではない日本人の私が、何の権利があってウクライナ人やポーランド人やユダヤ人の民族的心情に手を突っ込み、あれやこれやと腑分けし、肯定したり否認したりするのか」と自問し、「外国史の研究者に本質的につきまとう越権者の「ためらい」から逃れることができないでいる」と吐露している。

 本書を読んで、まず、わたしは、ヨーロッパの基層を流れるものを、具体的事例でもって教えてくれた著者に感謝した。つぎに、著者を生んだ日本の西洋史研究の幅広さと奥深さを再認識させられ、本書のような内容を日本語で読むことのできる幸せを感じた。

 本書のような研究が、いかに困難なものであるかは、序文の最後にあるつぎの「呪文のように繰り返さざるを得ない断り」から明らかである。「多言語地域であった東ガリツィアで、地名はポーランド語、ウクライナ語、ドイツ語、イディッシュ語で微妙に、もしくは著しく異なる。・・・現在の地図でリヴィウ(ウクライナ語)と記される街は、ポーランド語ではルヴフ、ドイツ語およびイディッシュ語ではレンベルクである。おまけに第二次世界大戦後、一九九一年にウクライナが独立するまで、地図上、この街の名はロシア語でリヴォフと記されており、知識がなければ、これらの四つが同じ街の名前だとはわかりにくい」。

 さらに、説明がつづく。「本書では、本書が扱う時代に鑑みて、旧東ガリツィアの地名の読みはほぼポーランド語に従い、適宜(  )でドイツ語読みを補った。ただし、オーストリア帝国領時代を対象とする場合には、場面に応じてドイツ語の読みを優先してポーランド語読みを補い、第二次世界大戦後から現在のことを述べる場合は、現在の地図で使用されているウクライナ語読みを優先してポーランド語やドイツ語読みを補った。キエフのように日本で定着した呼び名がある場合は、それに従った。地名と同様の煩わしさは、ユダヤ教徒の自治的組織であるカハウ(ポーランド語)とゲマインデ(ドイツ語)といった組織名や人名等でも生じるが、これらも強引に一言語に統一することはせず、適宜、両語を併記した」。

 これらは、たんなる凡例ではない。それぞれの歴史的、社会的背景に加えて、民族的心情を考え、「適宜」記述することが必要だから、こういう「呪文」を自分自身でつくる羽目になるのだ。ここに至るまでの著者の葛藤を思うと、気が遠くなる。

 著者の「後半の課題」に戻ろう。著者は、日本の近未来を想像しながら、つぎのように自分を納得させている。「ヨーロッパ型の近代国民国家の古典的なひとつの定義を「ある程度の民族的均質性を備えた国民が国家の担い手とされる体制」であることに求めるなら、かつてその定義を体現してきた西ヨーロッパのイギリス本国、フランス、ドイツといった国々は、現在、自国籍をもつ国民のなかに民族的出自を異にする多数の人びとを抱えている。そして法の下での全国民の平等とは裏腹に、民族的出自の違いによって厳然たる社会的差別、経済的格差が存在する。皮肉にも現在、先の近代国民国家の古典的定義が実現されているのは、第二次世界大戦まで多民族国家であった東中央の諸国である。日本の近未来であるかもしれないこれら多民族国家化した西ヨーロッパ諸国の行く末を見据えようとするとき、かつての東ガリツィアにおいて民族の混住に終止符を打った民族的心情の力学とでもいうべきものを検証する作業は、無駄ではないだろう」。

 多民族を抱えた近代帝国主義国家とグローバル化が進んだ現在の多民族国家とでは状況が違うが、近代の多民族国家も帝国主義だけでは理解できないことがわかった。また、第一次世界大戦末期に、アメリカ合衆国大統領ウィルソンが提唱した「民族自決」を西ヨーロッパ諸国がどのように受け取ったのか、まったく理解していなかったことにも気づかされた。その「民族自決」がヨーロッパ内部だけの限定で、アジアなどにはおよばなかった意味もすこしわかった。このガリツィアというまったく知らなかったヨーロッパの片隅で、ユダヤ人におこったことから、ヨーロッパ世界だけでなく、世界情勢まで思いをはせることができる。「民族自決」のもとで、それをいろいろに解釈して、当時世界各地で民族運動が起こっていた。その意味でも、わたしは近代の世界史がわかっていないことを、思い知らされた。

 本書で語られた「ガリツィアのユダヤ人」の歴史から、ヨーロッパの人びとが学んだことが、「おわりに」の冒頭にある1944年8月の「ユダヤ人の姿が消えた」街の声であるなら、悲劇はふたたび起こることを危惧せざるをえない。しかも、グローバル化し多民族化した世界中の街、いたるところで起こるかもしれない。その街の声とは、「ドイツの占領は耐え難いが、少なくともひとつだけ利点もある。やっとのことでわれわれは、ユダヤ人どもから解放されるんだから。これについては、ヒトラーは銅像に値する」であった。

 本書は、第一部「第一章 貴族の天国・ユダヤ人の楽園・農民の地獄」からはじまる。ポーランドの貴族領主は、農民から搾取するためにユダヤ人を使った。何度も迫害、追放を経験しながら、ユダヤ人は支配者にとって都合のよい手先となって、一時の「楽園」を享受した。そして、第二次世界大戦中に「ボリシェヴィキ支配体制の最も顕著な支え手」となったユダヤ人は、ウクライナ民族主義を弾圧し、ドイツ軍の東ガリツィアの制圧とともに街から姿を消した。その時どきの支配者にとって、責任を転嫁できる使い捨ての「協力者」は便利だった。ユダヤ人がいなければ、ヨーロッパの歴史は確実に違ったものになっていただろう。歴史を動かしたマイノリティーが、確かにここにいた。しかし、いまは、もういない!

 現代に悲劇を起こさないようにするためには、多様な文化を受け入れることのできる多文化共生社会を築いていかなければならない。そのためには、とくに国家や組織といった後ろ盾をもたない人びとの歴史や文化を尊重しなければならない。それは、絶滅しようとしている小人の世界を描いた映画「借りぐらしのアリエッティ」にも通ずるものがある。

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2010年08月24日

『イスラームへの回帰-中国のムスリマたち』松本ますみ(山川出版社)

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 「そんなテーマなんてそろそろやめて上海の近代史研究にでも本腰をいれなさいよ。大体、沙漠ばかりの貧しい西北の研究なんかして何かいいことでもあるんですか」と、「中国の民族・宗教問題を研究している」著者、松本ますみに、「ご親切に」忠告してくれる人がいるという。本書で取りあげる「中国のさいはて西北」のイスラーム教徒(ムスリム)の女性は、「イスラーム(宗教)、ジェンダー、エスニシティ、伝統、貧困という階層の問題が複雑にからみあっている」社会で生活している。現代社会のさまざまな問題を考察する事例として「好条件」が揃っている。ということは、当事者である人びとは、その苦悩に喘いでいるということである。

 「本書ではとくに、女性のためのイスラーム宗教学校(本書では「女学」と略す)とそこに集うムスリム女性たち(ムスリマ。アラビア語でムスリムの女性形)に注目して、現代中国におけるイスラームへの回帰現象と、女性の能力開化、自信回復・自立について考えていく」という著者は、具体的につぎのような疑問に答えていく。「女学は誰がどのような動機でつくったのか。公立学校とはどう違うのか。なぜ女性たちは女学を選んだのか。彼女たちはなぜイスラーム信仰を心の拠り所にしているのか。なぜ彼女たちはヴェールをかぶっているのか。現政権の政策との矛盾はあるのかないのか。また女性たちは女学をどう考え、どう自らの権利拡大に利用しているのだろうか」。

 これらの答えは、「現代中国の民族政策、宗教政策、教育政策のあらましとその問題点について」説明する「第1章 中国の民族政策とイスラーム政策」と「第2章 中国のさいはて西北」につづく、「第3章 女学という選択」と「第4章 女学の学生、教師に今」で詳しく述べられている。とくに今日の問題については、第4章のつぎの見出しから想像できる:「二十一世紀の女学の隆盛」「イスラーム的女性をめざす教学内容」「ヴェールとイスラーム知識のリンケージ」「再解釈されたイスラーム主義」「女性のエージェンシー」「ジェンダー、宗教、エスニシティ、貧困、モダニティ」「女学 その脆弱さと周縁性」。

 そして、最後の「イスラーム・フェミニズムの実験」で、総括している。「西北の女学は一九八〇年代以降、公立学校に行けない失学女児の補助教育機関として誕生した」。その後、「政府の世俗主義にもとづく義務教育の整備が達成され」たにもかかわらず、「女学は生き残り、それどころか数をふやしている」。「現在の女学は九年間の義務教育修了者や義務教育中退者まで受け入れている」。「女学は周縁化されたムスリマのためのセーフティネットであり、職業訓練校でもあり、アイデンティティを確認する場所でもある。そこで彼女たちは思いもよらないジェンダー観を与えられる。それは無条件に厳しい競争を勝ち抜くように貧困女性を駆り立てる公的男並みジェンダー平等を否定する。この「新しい」ジェンダー観はアッラーの教えを家庭で次世代に伝えるべく「賢妻良母」になることを教える」。そして、「彼女たちはあえて男性への服従をよしとし、家のなかの妻と母の役割を重視するイスラームの体系のなかにとどまる。とどまることによって女性への差別を解消し、同時に男女平等が保障された中国国内の法秩序のなかで経済力をつけ、発言力をつけ、家父長制と社会主義的無神論の原則を当然視する風潮に抵抗していく」。「イスラームに篤い信仰心をもつこと、そして宗教的にも実利的にも役立つアラビア語の知識は、ムスリマたちに自信を取り戻させ、自存の念を与える」。

 最後に、著者は力強く、「本質的属性である「性」を逆手にとって、差別を解消し、今世と来世でのよりよき生を求める女性弱者たちの姿がここにある。そして、これこそが世俗主義と市場経済、グローバリゼーションの狭間でムスリマたちが交渉しつつ生きる道である」とエールを送っている。それは、「そんなテーマなんてそろそろやめて」と、「ご親切に」忠告してくれる人への著者自身の応えでもある。

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2010年08月17日

『日中戦争期中国の社会と文化』エズラ・ヴォーゲル・平野健一郎編(慶應義塾大学出版会)

日中戦争期中国の社会と文化 →bookwebで購入

 8月6日、9日の広島、長崎の「原爆の日」の前あたりから、テレビでは連日、戦争特番が組まれる。この毎年8月に集中して繰り返される報道が当たり前のようになっているが、これらの番組のうち、いったいいくつが国際的に耐えられるものだろうか。日本人が受けた戦争被害を強調することによって、戦争の悲惨さを伝え、反戦を呼びかけるものになっている番組を、日本に居住している韓国・朝鮮人47万、中国人35万、フィリピン人13万(2005年国勢調査)などは、どのように観ているのだろうか。

 日本の国が関係する博物館も同じ傾向にある。1999年にオープンした昭和館、2000年にオープンした平和祈念展示資料館、2006年にオープンしたしょうけい館(戦傷病者史料館)は、補償が充分でない人びとの労苦を中心に戦争の悲惨さを伝えている。昭和館の今夏の企画展は「銃後の人々と、その戦後」、1993年にオープンした東京都江戸東京博物館の企画展は「東京復興-カラーで見る昭和20年代東京の軌跡」で、ともに戦後の日本の「がんばり」を強調し、日本人としての自信と誇りを感じさせるものになっている。ちなみに、江戸東京博物館の常設展示では、関東大震災と空襲があたかも同じ自然災害のように扱われている。

 このような戦争被害にもとづく「反戦」は、繰り返し繰り返し唱えられても、なかなか戦争の抑止力にはならなかった。なぜなら、戦争は正義を唱え、勝つと思うことからはじまるからである。加害者がなぜ、どのようにして生まれるのか、自分自身が加害者にならないためにはどうしたらいいのか。積極的に加害者になった人、知らぬ間に加害者になった人、嫌々加害者になった人、・・・、それぞれ「加害者」となった「被害者」のことを考えなければ、いつかまた正義のための戦争がはじまる。被害者は、「加害者」になった人びとの苦しみを知って、自分自身が「加害者」になることからいかにまぬかれることができるかを学ぶ。大多数の一般民衆にとって、加害者と被害者は対極にあるのではなく、同じ位置に立っている。

 このような戦争報道や博物館展示を観て育ったせいだろうか、学生の多くが原爆、空襲、疎開といった被害者の面でしか、アジア太平洋戦争をみられなくなっている。拙著『戦争の記憶を歩く 東南アジアのいま』(岩波書店、2007年)をテキストとして授業をすると、学生は一様に加害者としての日本人を知って驚く。「学校教育でもっと教えるべきだ」「日本の戦争報道は間違っている」、あるいは「先生は日本が嫌いですか?」「知らないほうがいいこともある」などと意見・感想を述べる。本も雑誌も新聞も読まない多くの学生が、授業をきっかけに読むようになることもまずない。知識・情報量が絶対的にすくない学生に、誤解や偏見をもたないように戦争を理解してもらうことは至難の業だ。

 今年も多くの戦争特集がある。NHKだけでも、「夏の「戦争と平和」関連番組」特集一覧http://www.nhk.or.jp/war-peace/summer/program03.htmlを見れば、驚くほどたくさん組まれていることがわかる。しかし、世界標準の第二次世界大戦の終結の日で、連合軍側の対日戦勝記念日である9月2日には、なにもない。そのような状況のなかで、ぜひとも報道や博物館関係者に読んでもらいたいのが、本書だ。

 「侵略者・加害者」日本にたいして、「被害者」中国が戦時下でどのような社会や文化を築こうとしたのかを知ることによって、「侵略者・加害者」の意味がわかってくる。戦争であるから、軍事、政治、経済といった面は、従来から直接かかわることとして研究されてきた。しかし、総力戦となった第一次世界大戦以降、文化が軍事、政治、経済に勝るとも劣らない重要な要素になった。編者のひとり、平野健一郎は、つぎのように戦時下の文化の重要性を述べている。「生きるための工夫とは文化であり、文化を変えることである。文化を変えれば、社会が変わる」。「人々の、その時その場での悪戦苦闘は、その時代に取捨選択され、集積されて、生き残るための社会制度と文化を創り出す。そのように考えれば、戦時下に創り出された「新しい」社会と文化から、当時の人々が戦争をどのように生きたかを推し量ることが可能となるであろう。これが本書の方法論的仮定である」。

 その仮定を立証するかのような論文が、最初からある。「抗戦期中国国民党の教育政策とその効果」では、戦時教育について、教育部高等教育局局長は、「教育とは百年の大計である。戦時の要請については若干の臨時措置に留めるべきで、根本的に転換すべて(ママ)きではない。百年の大計である教育を中断させてはならない」と主張し、「国防教育とは非常時の教育ではなく、平常の教育である」としたことをとりあげている。当時一握りのエリートであった学生が、たんなる一兵卒として参戦する無意味を説き、戦中も戦後も必要な人材であることを強調したのである。必死の思いで、社会基盤を守ろうとしたことが伝わってくる。

 また、中国人研究者のなかにも、日本軍の残虐行為について、冷静に分析する者が現れていることが、つぎの文章からわかる。「中国での戦争期間中、日本軍は「燃、殺、奪、姦」に象徴される暴行を普遍的に、大規模に、そして残酷に行っていたという特徴があるが、事後的にみて常に一つの問いが生じる。相対的に言って、いったいなぜ日本軍は戦争期間中にかくも残虐なことをしたのだろうか?」その答えは、「戦争……それは私の人間性のいっさいを奪い去った」という一日本兵の証言に凝縮される。

 本書は、日中間の歴史問題をめぐる対立に強い関心と憂慮を示した、もうひとりの編者であるエズラ・ヴォーゲルの呼びかけに、日中の第一線の研究者がこたえるかたちでおこなわれた「日中戦争の国際共同研究」の成果のひとつである。ヴォーゲルは、「日中戦争の研究にあたり次の4つの視点を提示した。①日中戦争における地域政権、②軍事史、③社会と文化、④外交と国際関係がそれである」。本書は、その3番目の視点の下で開催された国際会議に基づいている。すでに1番目と2番目の視点に基づいた国際会議の成果は出版されている。4番目の国際会議は、2009年に重慶で開催された。日本語、中国語、英語の3言語で出版される成果は、日中の歴史問題をめぐる対立を解決する基盤となることは間違いない。

 日中の研究者は、この歴史問題を深刻にとらえた。それは、組織委員長のつぎのことばからわかる。「歴史観の相違は避けられないにしても、共有し得る資料に基づいた歴史的事実の検証と討論は、歴史認識問題をめぐって日中両国が政治的に対立する状況のなかで、研究者に課せられた社会的使命である」。そして、ヴォーゲルの「二つの当事者の間に緊張関係があるときには、第三者に会合を呼びかけさせることが有効なことがあります」という提案から、「両国間の緊張に巻き込まれている度合いが少ない欧米人」が会議を招集した。

 日本が戦場とした東アジア・東南アジアの人びとが経験した戦中・戦後の労苦が日本人に伝われば、どのような状況にあろうとも、大多数の一般民衆は戦争で同じような経験をすることに気づくだろう。同じ認識をもてば、連帯感が生まれ、共通の報道や展示のあり方が見えてくる。そうすると、日本人だけを対象とした報道や展示とはまるで違う、より深くより豊かに戦争を考えることができるようになる。本書を読めば、「反戦」の共通認識が生まれる報道や展示について考えることができるようになるだろう。

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2010年08月10日

『十七世紀のオランダ人が見た日本』クレインス フレデリック(臨川書店)

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 本書の目的を、著者クレインスは、つぎのように述べている。「十七世紀オランダにおける日本観の形成過程を解明することである。日本観形成過程の解明に当たって、本書では特に日本情報の伝達経路に注目している。そのため、本書は時系列というよりも、日本情報の伝達経路を中心軸として構成している」。

 本書の表紙・裏表紙の京都・方広寺や江戸城を見ただけで、オランダ人の日本観の一端がわかり、その形成過程に興味を覚えるだろう。しかし、わたしにとっては、その説明背景となった「第一章 オランダの黄金時代と日本交易の独占」「第二章 洋上で出会った日本 初期の旅行記にみる日本情勢の萌芽」のほうが興味深かった。なぜなら、これらの2章では、17世紀の世界が、西洋中心史観でもなく、ナショナル・ヒストリーでもなく、素直にみえたからである。

 まず、ヨーロッパ勢力のなかで最初にアジアに本格的に進出したポルトガル人が、「アジアで目にしたのは、様々な品物で溢れる豊かな諸都市で」、「言葉で伝えられないほど様々な高価な品物や商品がある」ことに感嘆した。しかし、ポルトガル人には、その商品を手に入れるための資金も品物もなかった。したがって、「ポルトガル人は、アフリカで得た金の他に、アジア内で金・銀・銅を調達せざるを得なかった。銀は特に日本に存在しており、ポルトガル人は日本から銀を得るために、中国から生糸を運び、その生糸と交換した銀でインドネシアなどの香辛料を購入して、その香辛料を大きな需要の存在したヨーロッパに運んだ」。さもなければ、海賊行為によって品物を手に入れた。

 このヨーロッパ人による世界貿易に、日本も参入して品物が行き交っただけでなく、日本人がとくにアジア各地に出て行った。たとえば、「一六一二年に東インド会社の最初の定期船が日本に到着した時、新商館長ヘンドリック・ブラウエルは、七十人の日本人を日本のジャンク船で日本から出航させた。その中に六人の大工がいたが、残りのほとんどは傭兵であり、東インド会社の戦闘要員として雇われた。この日本人傭兵は一六一三年にティドレにあるスペイン人の城の攻撃に参加した」。日本人傭兵は、ティドレのあるモルッカ諸島(香料諸島)など各地で戦いに参加していた。また、自前の船で定期的に台湾と交易をしていた長崎代官の末次平蔵は、オランダ主導の台湾貿易に不満をもち、平蔵の部下は台湾の原住民を江戸に連れてきて、「台湾の全土を将軍に捧げると主張」させた。

 このように、日本は当時のヨーロッパのいうところの「東アジア」の重要な構成要素となっていた(東インド会社の「東インド」)。その日本をオランダがどのように見たかは、当然「東アジア」のなかで考えなければならないだろう。本国を出たオランダ人の多くは、アフリカ、南アジア、東南アジア、東アジアなどで交易し、滞在した。とくに日本に来たオランダ人は、バタフィアを経由した。かれらの日本観は、本国オランダだけの対比ではない。バタフィアなどアジアのほかの地での経験をもったうえでの日本観であったはずだ。第一章、第二章で、世界のなかの日本が見えたにもかかわらず、残る第三~六章ではそれが見えなかった。

 オランダ人の目を通した、当時の日本の風俗習慣などには、ひじょうにおもしろいものがあった。本書で使用した旅行記などが何度も版を重ね、ほかのヨーロッパ諸語にも翻訳されたことが頷ける。しかし、これらの本は、日本だけを扱ったわけではなく、「東インド」のなかで日本を扱っているものが多い。最後に「東アジア」に戻って、日本を相対的に語ることも必要だったように思う。

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2010年08月03日

『抵抗と協力のはざま-近代ビルマ史のなかのイギリスと日本』根本敬(岩波書店)

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 1989年にビルマの軍事政権が、対外向けの英語の国名をBurmaからMyanmarに変更した。その後に生まれた学生のなかには、ビルマとミャンマーが同じ国であることを知らない者がいる。このワープロも、「ビルマ」と入力すると、毎回赤字で「《地名変更「→ミャンマー」》」が表示される。この地名変更のころまで、ビルマと日本は「特別の関係」にあった。それは、なぜか。本書が、その問いに答えてくれる。

 本書の内容は、表紙見返しにつぎのように適確に述べられている。「植民地期のビルマに生きた政治・行政エリートは、宗主国イギリス、占領者日本にどう向き合い、いかに独立を達成したのか。初代首相バモオ、国民的英雄アウンサン、その「暗殺者」ウー・ソオ、そしてコミュニストやエリート官僚たちの歩みをたどり、「抵抗」か「協力」かではとらえきれない、彼らのしたたかなナショナリズムから、近代ビルマ史を論じなおす」。

 著者、根本敬は、従来「抵抗」か「協力」かという二項対立的に単純化したかたちでとらえられてきた、イギリスの植民地から日本の占領、そして独立へのビルマ近代史を、「抵抗と協力のはざま」で政治・行政に携わったビルマ人が、どのように判断し行動していったか、一次資料を渉猟して明らかにすることによって、新たな視座で理解しようとしている。

 歴史的な流れは、「第一章 強制された国家のなかで-植民地ビルマの特徴とナショナリズムの展開」と「終章 独立後の英国・日本との関係-軍の政治的台頭のなかで」を読めばわかる。本書の特徴は、第二~六章で「抵抗と協力のはざま」で、具体的に考え行動した人びとや集団を考察したことだ。その「抵抗と協力のはざま」を、著者は「序章」で、つぎのように説明している。「「抵抗と協力のはざま」とは、英国や日本に対し抵抗と協力を上手に使い分けながら行動するという意味も含まれてはいるが、より本質的には、協力姿勢を見せることによって相手の信頼を獲得し、その立場を利用して本来のナショナリストとしての要求をしぶとく実現させていく政治的バーゲニング(取り引き)のことを意味する。これはこれで抵抗を貫く場合の危険性とは異なるリスクを背負うことになる。なぜなら、この場合の政治的バーゲニングは圧倒的な力を持つ植民地支配権力に対する相当な妥協を伴うため、常に自国のナショナリズムに対する「裏切り」として周囲に受け止められてしまう可能性がついてまわるからである」。圧倒的な力を持つ権力にとって、短期的な支配は容易であっても、長期的な支配となると支配される側の協力が不可欠となる。それを利用して、支配される側は微妙な匙加減をしながら「取り引き」をすることになる。本書では、その微妙な匙加減を描こうとしている。

 第二~六章のうち、「第三章 アウンサン-国民的英雄への道」と「第五章 ビルマ人コミュニスト-反日と「苦渋の親英」のはざま」は、著者自身の単行本(『現代アジアの肖像13 アウン・サン-封印された独立ビルマの夢』岩波書店、1996年)を含め、先行研究があり、書くのにそれほど困難はなかっただろう。アウン・サンは独立への道筋を整えた後、32歳の若さで暗殺された国民的英雄である。以前、この「書評空間」でも述べたように、志高く若くして「殉死」し、実際の統治を経験せず汚点の少ない志士は、神格化された英雄として後世いろいろな逸話とともに語り継がれる。アウン・サンもそのひとりで、研究もすすんでいる。共産党は、イデオロギーが明確で議論しやすく、ほかの国・地域との比較も容易なため、内外の研究者の関心を集めやすい。

 本書でもっとも評価されるのは、残りの3章(「第二章 バモオ-知識人政治家の光と影」「第四章 ウー・ソオ-ナショナリストと暗殺者のはざま」「第六章 ビルマ人高等文官-対英協力者とナショナリストのはざま」)で、研究蓄積に乏しく「抵抗」とも「協力」とも判断しがたい人びとの言動を、一次資料にもとづいて詳細に検証したことだ。これらの人びとの「抵抗と協力のはざま」の実態が明らかになることによって、アウン・サンやコミュニストを含む政治・行政エリートの英国と日本に対する対応の全体像が、よりわかりやすく深く理解できるようになる。

 著者は、「二一世紀初頭の現代の視点から、よりいっそう歴史的な奥行きをもって」、近代ビルマ史を理解しようとしている。その背景には、「本書を書き進めながら、現在のビルマの状況を思わないではいられない」状況がある。著者は、「民主化運動指導者アウンサンスーチーの状況についてはもちろん、少数民族が難民となってタイやバングラデシュに流出している現状、軍による抑圧から逃れるため村を捨てて避難生活を余儀なくされている国内避難民の存在などが気になって仕方がなかった」。「一人のビルマ史研究者として、「社会」が身の危険を感じることなく「国家」に対して「物がいえる」状況に、ビルマが少しでも変化することを祈らずにはいられない」という。この括弧付きの「社会」「国家」「物がいえる」の異常さだけでも、著者の思いが伝わってくる。そして、その思いは、ビルマとかかわったご両親の思いを引き継いだようにも感じられた。

 第一章で独立までの歴史的流れをつかんだ後、第二章以下5章にわたって、繰り返しイギリス植民地時代に戻って、個々の人物・集団の行動に則して検証していくのは、いささか疲れたが、なぜ1980年代まで日本はビルマと「特別の関係」にあったのかが理解できた。「抵抗と協力のはざま」で行動したビルマの人びとが、戦後のビルマを支え、イギリスからの独立を期待させた日本をまったく否定できなかったからで、日本もかれらの「歴史的正当化」に応えなければならなかった。それが、多額のODA供与になった。ビルマだけではない。東南アジア各国の戦後史をみていくと、日本に対する戦争中の「抵抗と協力のはざま」が見え隠れする。アジア太平洋戦争中の日本の存在は、日本人が想像する以上に大きな影響を戦後も東南アジア各国に与えていた。

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