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2010年06月29日

『日本赤十字社と人道援助』黒沢文貴・河合利修編(東京大学出版会)

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 「日本赤十字社の歴史は、その高い知名度に反して、一般的にはあまりよく知られていない」という。その理由は、「第一に、人道援助そのものにたいする一般的な関心の高まりが、湾岸戦争以降の「国際貢献」をめぐる議論に触発された側面があり、それゆえ比較的近年に属する現象であること、第二に、戦前・戦後の日本赤十字社の歴史にたいする認識不足を背景とする日赤の活動自体への関心の低さ、第三に、とくに研究者にとっては、日赤の所蔵していた原史料への接近の困難さ(史料の消失・散逸のほか、非公開措置等に起因する)などの要因が、主としてあったためである」。

 しかし、「そうした研究状況を一変させうる史料上の変化が、二〇〇五年に起こった」。「博物館明治村が所蔵していた昭和初期頃までを主とする日本赤十字社本社関係の残存史料が一括して、日本赤十字豊田看護大学に移管され、研究者がそれを利用することが可能になった」のである。本書は、その新たに利用が可能になった史料を使った共同研究の成果の一部である。

 本書の特色は、つぎの3つにある。「第一に、これまで研究の乏しかった日本赤十字社を対象とする学術書であること、第二に、これまで利用されることのなかった日本赤十字社本社関係の原史料を利用した研究成果であること、第三に、博愛社・日赤の誕生から昭和初年までの主要な活動に力点をおきながらも、現在までを視野に収めた通史的研究であること」である。

 日本赤十字社の歴史が研究されなかった理由は、19世紀後半にあいついで設立されたヨーロッパなど世界各国の赤十字社の起源にもある。「一九世紀後半のヨーロッパ社会において、赤十字の掲げた戦時救護の人道理念は、国境と国益、政治的立場を超える普遍的な理念として承認されたものの、他方では、政府と軍との関係なしには成立しえないというジレンマのなかでしか現実のものとはならなかったのであり、またそうでなければ赤十字社は存立しえなかった」。

 ヨーロッパでこのような理念が出てきた背景には、「徴兵制を導入したナポレオン戦争以来、多くの国民の戦争参加が常態化し」、「傷病兵の増加と人道主義」とがあいまったこと、「西洋諸国が近代的な国民国家となり、国家間の戦争が絶対君主時代の傭兵や常備軍ではなく、国民軍同士の戦いとなるにつれて、増大する戦死者や傷病兵にたいして、政府としても大きな顧慮を払わざるをえなくなっていた」ことがあった。

 国際性という普遍的な側面をもちながら、国家性という個別的側面をもった赤十字社の活動は、近代において各国ごとにおこなわざるをえなかった。さらにオーストリアや日本のような君主制国家では、忠君愛国という要素が加わった。日本では、1887年に博愛社から日本赤十字社へと改称されたとき、「本社ハ皇帝陛下、皇后陛下ノ至貴至尊ナル保護ヲ受クルモノトス」と、「天皇・皇后による保護が明示されるまで強められることになった」。とくに皇室の女性による関わりが大きく、「戦時に際して包帯を作成することは皇后のつとめ」となり、「天皇が行幸せず皇后だけが行啓した場合の行き先は日赤、病院、慈善の順」となった。日本赤十字社の人道的活動は、「「報国恤兵」と「博愛慈善」の基礎をなす「国家」「天皇」「人道」の三要素」に基づいていた。そして、「赤十字にたいして保護を与えることで、近代における天皇・皇后、そして皇室のイメージが形成されていった」。

 第二次世界大戦中の日本は捕虜の取り扱いに問題があったことでよく知られているが、本書が主に扱う昭和初期まではジュネーブ条約をよく遵守していた。日清戦争でも日露戦争でも、日赤の活動は国際的に高く評価された。その背景には、「近代日本を文明国として欧米諸国に認知させるという、日本政府の大きな国家目標が内包されていたのであり、またそれにより日本が長年追い求めてきた欧米諸国との不平等条約の改正に役立てたいという外交的思惑があった」。

 それが、1929年の捕虜条約を日本が批准しなかったことから、国際赤十字の一員として活動していくことが困難になっていった。「日露戦争における日赤ほど称賛された赤十字社は他に例がなく」といわれた国際的評価は、わずか40年のあいだに劇的に変化し、「一九四一年から一九四五年の太平洋戦争中の同社ほどその失敗によって国際的な屈辱を味わった赤十字社もまたない」という事態に陥った。

 それは、「赤十字の掲げた人道は、政府と軍との関係なしには達成しえないというジレンマのなかで実現した」ことと深く関わっている。第二次世界大戦中の日本赤十字社の活動は、「愛国主義にからめとられ、同社が軍国主義的に組織化」されて、「非人道的行為を阻止したり抑止したりすることができなかった」。赤十字と愛国主義の関係は、歴史的につぎのように説明されている。「一九世紀人道主義の精華でもある赤十字運動の発足は、前近代的な慈善のありかたを問い直す素地ともなっていた。西欧諸国における中産階級の成長は、いわゆる慈善活動を、君主や貴族、大ブルジョワジーなど特定の富裕な個人による機会主義的で単発的で多額の寄付や贈与に依存する方式から、中産階級による、より少額ではあるが定期的で広範な寄付にもとづく方式へと移行させた。一九世紀半ばから第一次世界大戦期までに、ヨーロッパの主要国においては民間の拠出金による大規模な博愛団体の創設が可能となっていたのである。赤十字社は、前線においては自国軍に協力して傷病兵の苦痛を軽減し、銃後においては国民の不安を緩和し、この意味で前線と銃後をつなぐ役割を果たしたが、赤十字社の人道活動が国民の幅広い支持と年拠金の供出によって可能になればなるほど、赤十字と愛国主義の距離はますます近いものになっていった」。

 残念ながら、「日中戦争から太平洋戦争までの時期、とくに日赤がその全精力を傾けた太平洋戦争期の戦時救護関係の原史料は日赤本社に保管されており」、依然として非公開のままである。「あとがき」で、編者のひとりはこれからの主要な研究課題として4つあげているが、その3番目に日本側の史料の公開だけでなく「日中戦争・太平洋戦争期の日赤の活動を理解するためには、同時代の戦争を経験した各国赤十字社、とりわけ総力戦体制下の各国赤十字社の活動の実態との対比が必要不可欠な作業」であると述べている。

 赤十字社の活動は、日本の近代化と戦争を考えるうえで、ひじょうに重要な問題を含んでいるが、その前に世界史のなかでの把握が必要である。日本赤十字社の活動は、近代国民国家と国際社会との関係を抜きにして語れないからである。世界史学においても日本史学においても、本書は具体的な事例研究の第一歩となる基礎的情報を提供してくれる。

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2010年06月22日

『イスラーム銀行 金融と国際経済』小杉泰・長岡慎介(山川出版社)

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 現在イスラーム教徒が居住する地域は、もともと遊牧民、海洋民などが多く、イスラーム化以前からグローバルな経済活動をおこなっていた。それらの人びとが、このグローバル化の時代に手をこまねいているわけがない。イスラーム銀行の試みが、1970年代にはじまったのは偶然ではないだろう。著者たちは、それをつぎのように述べて、本書の目的としている。「総じていえば、イスラーム銀行の誕生と発展は、世界的な現象としての「イスラーム復興」と大きな関係をもっている。また、一九七〇年代以降に世界経済が大きく金融自由化に向けて舵を切ったこととも、深い関わりがある。これから、イスラーム復興と国際経済という二つの側面と関係づけながら、その実態に迫っていく」。

 当初「無利子金融」は「時代遅れの宗教的なドグマ」にすぎないと考えられ、「まもなくむなしい結末をむかえると思われていた」。しかし、その予測に反し、イスラーム銀行は、「各地で増殖し、多くの顧客のニーズを開拓することになった。その理由の一つは、「聖典で禁じられた利子を扱う銀行には行かない」という人びとが、イスラーム諸国に想像以上にたくさんいたことであった。利子を扱う銀行しかないときには、彼らは顧客ではなく、見えない存在であった。ところが、「無利子」を謳う銀行が生まれると、彼らがもっていた「タンス預金」とでもいうべき資金が大量にイスラーム銀行に流れ込むことになった」。

 イスラーム銀行がうまくいったことにたいして、つぎのような疑問が当初から投げかけられた。「「本当に利子を取っていないのだろうか」「たんに利子を手数料などの他の名前に言い換えただけではないのか」、あるいは「利子を取らないとしたら、どうやって経営が成り立つのか」「利子がなければ、預金者も損をするのではないか」」。

 これらの疑問にたいして、本書では6章にわたって答えている:「第1章 イスラーム銀行の誕生」「第2章 なぜ、利子はいけないのか」「第3章 イスラームの経済思想」「第4章 世界に飛躍するイスラーム金融」「第5章 イスラーム金融のつくり方」「第6章 イスラーム金融から世界経済が見える」。

 イスラーム経済の特徴をひと言でいえば、「公正、公平に非常に高い関心を示す」ことにあるといえよう。土地など公共性のあるものを、使用しないまま所有することは許されない。不労所得は、いうまでもない。そして、架空経済は許されず、サブプライム・ローン問題のようなことは起こりようがない。セイフティネットがしっかりしている。したがって、「イスラーム金融は、さまざまな問題を露呈させている現在の国際金融システムに対して、代替案や改善案を提示している」と注目されている。

 サブプライム・ローンは、従来のローンでは買えるはずのない人びとに、高級住宅の購入を可能にした。同種のローンで、高級自動車などを購入した人びともいた。人びとの生活を豊かにしたことは間違いなかったが、購入資金の裏付けが充分でなかった。イスラーム銀行が成功したのは、「タンス預金」で市場に出てこなかった新たな資金を利用することができたからだ。裏付けが確実でない架空の資金は危険性をともなうが、「タンス預金」を市場に出すことは、経済の活性化につながる。

 土地を使用しないで土地ころがしをすることは、イスラームでは許されない。資金を死蔵して社会の役に立てないことも、よくない話である。いま、日本で眠っている資金は、だれがもっているのだろうか。日本の将来に不安を抱え、自分たちの老後のために貯金をしている老人たちではないだろうか。老人たちが、老後に不安を感じなくなったとき、老人たちは手持ちの資金を社会にはき出すだろう。そうできる政策をすることが、いまの日本の政治に求められているのではないだろうか。

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2010年06月15日

『オランダ風説書-「鎖国」日本に語られた「世界」』松方冬子(中公新書)

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 著者、松方冬子の博士論文をもとにした『オランダ風説書と近世日本』(東京大学出版会、2007年)を読もう読もうと思いながら、延び延びになっているうちに、この新書が出た。

 本書は、1960年代まで支配的であった「江戸時代の日本は国を鎖していた」という、いわゆる「鎖国論」を訂正されるかたちで進んだ近世日本の対外関係史の研究成果のうえにある。「鎖国」と考えられたのは、外の世界としてヨーロッパとアメリカだけを想定していたためであり、その後、東アジアに力点を置いた対外関係史研究が進むと、「江戸時代の日本は「対馬口(つしまぐち)」で李氏朝鮮(イシチヨソン)と、「薩摩口(さつまぐち)」で琉球(りゆうきゆう)と、「松前口(まつまえぐち)」でアイヌと、「長崎口」でオランダ人や唐人(とうじん)(中国人が主体だが東南アジアの人々も含む)とつながっていた」ことが明らかになってきた。

 これらの「「四つの口」がどちらかというと中国と「つながる」ための装置だったのに対し、「鎖国」政策はヨーロッパ勢力から身を「守る」ためのものであり「仮想敵」をもっていた」のである。しかし、「一七世紀的なヨーロッパとは違う一九世紀のヨーロッパのあり方を、幕府は認識し」、オランダ風説書の役割も、違うものになっていった。著者が「西洋近代」と呼ぶ「一八世紀後半から一九世紀前半にかけて、恐れの対象はヨーロッパ諸国が起こしつつあるよくわからない何か」に立ち向かい、自分たちの体制を守るための情報を求めるようになった。

 「風説書は、オランダについての情報ではなく、オランダ人が持ってきた情報である。内容の主な部分は、ヨーロッパ、西アジア、現在のインド、東南アジアなどだけでなく、アフリカ大陸や南北アメリカ大陸に関する話も含まれていた」。「戦争や王位の継承だけでなく、盗賊の活動や自然災害などありとあらゆる種類の時事的な話題が盛り込まれた。なかでも重要視されたのは、ヨーロッパの国から使者が来るだろうとか、宣教師が日本に潜入しようとしているとかいう噂、つまり直接日本に関係する情報である」。

 本書で著者は、「オランダ語史料を用い、オランダ側の視点に立ってみることで、今までとは違う見方をしてみよう」としている。「現場密着型である」手法をとったのは、つぎのような理由による。「オランダ人にとって、風説書が作成されていく過程はつねに新鮮であり、時に苛立(いらだ)ちのもとであった。そのため、情報の受け渡しの現場に関しては、日本人よりもオランダ人のほうがよき観察者であり、記録者だったのである。そもそも、二者間で伝達された情報の研究に、受け手側の史料のみを用いたのでは不十分だろう」。

 本書は、ヨーロッパ中心史観の「鎖国論」から脱し、東アジアとの関係を重視した近年の日本の対外関係史研究のうえに、さらにナショナル・ヒストリーから脱して、日本史を相対化しようとしたものである。その結論は、「オランダ風説書は日本史にかくかくしかじかの重要な影響を及ぼした」というものではなかった。著者は、正直に「研究すればするほど、風説書の限界が見えてくるのも事実である。過大評価をする気にはなれない。あえて結論風に言うなら、風説書は、江戸時代の日本が聞いたオランダ人のささやきでしかなかった」という。

 このことは、著者がヨーロッパ中心史観からも、ナショナル・ヒストリーからも脱して、世界史のなかでオランダ風説書を読み解いたからにほかならない。しかし、世界史のなかで、理解することはそれほどたやすいことではない。オランダを取り巻くヨーロッパの情勢、バタフィアを取り巻く今日の東南アジアの情勢など、正確な知識が必要である。たとえば、本書にある「一八二四年にイギリスとオランダとの間でアジアにおける両国の勢力範囲に線引きがなされた」というのは事実だが、「今日のインドネシアのみをオランダ領東インドとして確保した」のは、その数十年後である。日本にとって一九世紀前半と後半ではずいぶん状況が違うように、東南アジアでも前半と後半ではずいぶん違った。同時代の世界のなかで、違う国・地域を理解するための世界史認識を、われわれはまだ充分にもっていない。

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2010年06月08日

『ナマコを歩く-現場から考える生物多様性と文化多様性』赤嶺淳(新泉社)

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 今年10月に名古屋で、生物多様性条約第10回締約国会議が開催される。「ラムサール条約やワシントン条約などの特定の地域、種の保全の取組みだけでは生物多様性の保全を図ることができないとの認識から、新たな包括的な枠組みとして提案」された「生物の多様性に関する条約」は、1992年に採択され、翌年発効して、2009年末現在、193の国と地域が締結している。その3つの目的は、「地球上の多様な生物をその生息環境とともに保全すること」、「生物資源を持続可能であるように利用すること」、「遺伝資源の利用から生ずる利益を公正かつ衡平に配分すること」である。

 本書の副題には、この「生物多様性」とともに「文化多様性」があり、著者、赤嶺淳は、その関係性について「終章 生物多様性の危機と文化多様性の保全」の最後の節で、つぎのように私見を述べている。「人間の営為を再評価することにより、圧倒的な存在感を誇る熱帯雨林も、都会の片隅に追いやられている里山も、貴賤なく、平等に人類の遺産となりうる」。もうひとつの副題のキーワード「現場から考える」は、地球環境主義の下に開催される国際会議で、あまりに現場を無視した(知らない)議論が展開されていることへの著者の怒りが表れている。著者は、「生活しているという現実をかえりみるとき、たんなる科学的な見地から環境問題を論じるのは無責任にすぎる、とする立場にある」。

 本書でもうひとつ重要なキーワードは、「保全」である。著者は、このことばに関連してつぎのように説明している。「日本語の「保護」には、保全(conservation)と保存(preservation)のふたつの意味が混在している[略]。後者はともかく、前者は日常生活で耳にすることの少ないことばだし、両者を区別していない日本語辞書もあるが、両者には人間の介在度において決定的な差異がある。保全は動詞としてconserve water(水を節約しましょう)やconserve energy(省エネしましょう)などと使用されるように、人間による利用を前提とし、「無駄なく利用」することを含意している。他方、保存は食品保存料(preservative)と同幹のpreserveからの派生語で、preserve historic landmarks(史跡を保存する)というように、なにかに壊されたり、傷つけられたりしないように原型を維持することを意味する。つまり、人間の介在をできるだけ排除することが前提とされているのである」。問題は、この人間の介在度が、人によって、状況によってさまざまで、なにを共通の前提として議論すればいいのかわからないことである。

 著者は、「本書では、自然と人間、あるいはグローバル・コモンズと地域社会の関係を考える一事例として、中国食文化圏で少なくとも四〇〇年にわたり珍重されてきた「ナマコ」を取り上げ、野生生物の利用と管理の問題点を検討してみたい」といい、ナマコに着目する4つの理由を述べている。さらに、具体的につぎのように希望している。「本書では、ナマコという野生動物をめぐって、資源利用者の漁民、資源管理の枠組みづくりの主体としての国家や国際機関、さらには豊富な活動資金のもとボーダーレスに環境保護運動を推進する環境NGOらが、さまざまに入りみだれて関係しあう動態を「エコ・ポリティクス」とよび、ワシントン条約という野生生物の国際貿易を規制する条約を舞台として展開されるエコ・ポリティクスの様相を検討してみたい。同時に野生動物の保全は、資源利用を含んだ地域社会と食文化の歴史性をふまえ、生産者のみならず流通業者など、さまざまな関係者を巻き込んだ、外部にひらかれた体制が望ましいことを提示したい」。

 1997年以来、ナマコ調査のために世界を飛びまわった著者の成長ぶりは、「終章」で語られている。「好事家的な事象ばかりに眼を向け、グローバルな視野をもとうとしなかった自分の研究姿勢」に変化をもたらしたのは、ある研究会で「文系の研究発表は、なるほどなぁ、と問題の分析視覚に驚かされるし、勉強にもなる。しかし、そのような分析をもとに、どのような助言を漁業者におこなえばよいのでしょうか」と質問されたことだった。それから、著者は、「ナマコ調査の際に漁業者や加工業者から一方的に情報を得るだけではなく、わたしが手持ちの情報を意識的に提供し、調査を情報交換の場としてきた」。

 著者は、20年前に『ナマコの眼』という名著を著した鶴見良行のアジア学を継承するひとりで、「ナマコという商品に着目して、過去四〇〇年ほどのアジア史のダイナミクスをとらえなおすことが、わたしの目下の研究課題であり、本書も、その作業の一環である」と、「未完のアジア学を継ぐ」スケールの大きな課題に挑戦している。

 鶴見良行のアジア学は、歴史学など東南アジアの基礎研究の発達と無縁ではなかった。欧米などの文書館での原史料の読解に基づく研究成果が出てくるようになり、1970年代には日本人研究者によって書かれた東南アジアの通史が読めるようになった。しかし、これらの机上の研究者が東南アジア現地を訪れ、調査するための研究費も時間的余裕もなかった。したがって、長期間現地を歩き、肌で感じたさまざまな問題を論じた鶴見の著作は、けっして机上の学問ではわからない人類の将来の問題を含めて、臨場感をもって伝え、魅力にあふれていた。しかし、根拠をあげることなく語られる「物語」は、大枠では正しいのであろうが、個々には基礎的間違いがあり、疑問も呈された。

 著者もその鶴見のアジア学の魅力にとりつかれたひとりで、本書はその長所を活かし、欠点を克服しようとした成果である。その試みはみごとに成功し、それを祝福するかのように門田修の写真が本書を飾っている。だが、ひとつ危惧がある。鶴見が基礎研究の成果を利用することによって、基礎研究では語れないことに挑戦したように、本書のような現場から考える研究は、基礎研究との相乗効果によって発展する。その基礎研究が、いまの日本の東南アジア研究では充分でないように思える。文献史学のような基礎研究は、考証した原史料を丹念に読んで、その背後にある時代や社会を理解したうえで、虚実ない交ぜの記述を考察・分析する。関係する史料の一部だけを取り出して、都合よく自分の論旨にあてはめるようなことはしない。「未完のアジア学を継ぐ」ためにも、基礎研究の発展は不可欠だろう。

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2010年06月01日

『聖なる家族-ムハンマド一族』森本一夫(山川出版社)

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 本書の目標とからめて著者、森本一夫は、つぎのように読者に問いかけている。「信徒の平等を標榜する宗教であると聞くイスラームに、どうやら特別な宗教的意味をもつ一族が存在するらしいことに興味を惹かれはしないだろうか。もし答えが「イエス」であるならば、ぜひこの本を読み進めてみてほしい。というのも、この一族のなんたるかを解き明かすことこそが、この小さな本の目標だからである」。

 本書は、まえがきにあたる「聖なる家族を知る意味」と4章、そして、あとがきにあたる「ムハンマド一族研究の将来に向けて」からなる。4章の概略は、まえがきにあたる部分の最後にある。「まず、歴史や地域を縦横に横切りながら、この「聖なる家族」に属したさまざまな人びとを紹介する(第1章)。ここに登場する多様な人びとの姿をつうじて、「聖なる家族」がどこにでもいるというその意味をつかんでいただければと思う。ついで、「聖なる家族」成立の歴史を振り返る(第2章)。ムハンマド一族というような考え方はどこから出てきたのか。ムハンマド一族とされる人びとの範囲はどのようにして決まったのか。ムハンマド一族はいつ頃から各地にみられるムスリムに身近な存在となったのか。こういった問題を考えてみよう」。

 「続けてあつかうのは、「聖なる家族」にたいする特別扱いのあり方である(第3章)。「聖なる家族」も、なにもしなければ皆から敬われるとは限らない。彼らの特殊性を訴える言説が再生産されつづけ、それを固定化する制度が作動しつづけることが、彼らの地位の維持に重要な意味をもってきた。そうした言説と制度にはどのようなものがあったのかをみてみたい。そして最後には、この「聖なる家族」が現在ではどこにでもみられる存在となった理由を解き明かす(第4章)。なかでも注目するのは、「血統」の社会性をあますところなく示す現象、すなわち、本来はムハンマド一族でもなんでもない人びとが、いつのまにかそうなっていった仕組みである」。

 海域東南アジアには、イスラーム諸国中最多のイスラーム人口2億以上を抱えるインドネシアがあるが、口述を含め多くの系図が残されている。流動性の激しい海域社会にあって、自分が何者であるかを示すことのできる系図は、死活問題になることさえある。系図を語れないことは、奴隷出身であることを示すことになるからである。その系図のなかには、イスラーム教徒であれば、ムハンマドに通ずるものがある。アレクサンダー大王やチンギス・ハンに通ずるものもあれば、バスコ・ダ・ガマなどポルトガル人やスペイン人、中国人や日本人漂着民に遡ることができるものもある。インドを通じてイスラーム化した東南アジアの人びとは、インド人の系図にムハンマド、アレクサンダー大王、チンギス・ハンが登場することから、それを引き継いだともいわれる。では、ヨーロッパ人や中国人、日本人は、どう解釈したらいいのだろうか。人口密度の低かった海域東南アジアでは、対人関係を重視して、よそ者を新しい知識や技術をもたらす有益な人びととみなし、自分たちの社会に招き入れた。その証しとして、系図に組み込まれた。血統とは違う論理が、そこにはある。

 本書で語られている「血統と世論」も、人びとが認めればいいということになる。事実よりも、どういう社会をつくるかが重要となる。しかし、受け取り手が多数になる年金と免税の特権がムハンマド一族にあることは、国家としては財政的に重い負担となる。それだから、著者は、「少しずつムハンマド一族たちにたいする理解、それをつうじたムスリム諸社会やイスラームにたいする理解、ひいては人間にたいする理解を深めていきたい」という。

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