« 『原理主義の潮流-ムスリム同胞団』横田貴之(山川出版社) | メイン | 『聖なる家族-ムハンマド一族』森本一夫(山川出版社) »

2010年05月25日

『春の祭典-第一次世界大戦とモダン・エイジの誕生[新版]』モードリス・エクスタインズ著、金利光訳(みすず書房)

春の祭典-第一次世界大戦とモダン・エイジの誕生[新版] →bookwebで購入

 「イギリスの参戦により、一九一四年の戦争はヨーロッパ大陸における列強の覇権争いから、まぎれもない文化の戦争に変容した」。「はじめに」にあるこの一文が、本書のすべてを語っているように思えた。

 本書の概要は、「訳者あとがき」で適確に述べられている。全文を引用するわけにはいかないので、一部を抜き出してみよう。「十九世紀後半に統一を成し遂げたドイツは、一貫してヨーロッパの古い秩序に挑戦する。その流れは第一次世界大戦を経てヒトラーやナチズムの台頭を生み、やがてドイツを次の大戦での破滅へと導いていく。著者はこの一連の流れを文化の側面から解き明かそうと試みる」。

 もっと具体的なことは、裏表紙でまとめられている。「<幕が上がり、踊り手が登場し、高く飛び跳ねてトウダンスのステップを踏むが、彼らは伝統を無視し、外足で踏むべきステップを内足で踏む。たちまち客席に怒声が飛びかい、非難の声が上がる、…… 観客の高尚な趣味と自尊心は手酷く傷つけられた。客席の抗議はそこに発していたのだ。侮辱されたと感じた者は踊り手をなじったが、逆に『祭典』の支持者からは喝采がわき起こり、こうして戦いがはじまった。>」

 「1913年5月29日、パリのシャンゼリゼ劇場を大混乱に陥れたバレエ『春の祭典』の初演から、第一次世界大戦の西部戦線での塹壕線と新しい兵器、1914年のクリスマスイヴに行われた<敵兵との交歓>、リンドバーグの大西洋単独横断飛行への興奮、空前のベストセラーとなったレマルクの『西部戦線異状なし』、そしてヒトラーへの賞賛とナチス崩壊まで、兵士の実像とトラウマ問題に着目し、大戦後のヨーロッパの絶望と熱狂を追った、壮大かつ読みごたえのある文化史」。

 世界大戦といえば、1941~45年の第二次世界大戦のアジア太平洋戦線を思い浮かべる日本人にたいして、ヨーロッパ人は1914~18年の第一次世界大戦のヨーロッパ戦線を思い浮かべる。その根本的な違いが、「文化」と「時代」にあったことを、本書は気づかせてくれる。また、なぜ第二次世界大戦のヨーロッパ戦線が起こったのかも文化史の文脈で理解させてくれる。同時に総力戦という意味で、アジアもヨーロッパもない20世紀の戦争の意味も気づかせてくれる。日本人が本書を読むことによって、世界史のなかでの世界大戦の一端が理解できるようになる。ということは、ヨーロッパ人にもそのことに気づかせるものを、アジア人は書く必要がある。そうすることによって、両世界大戦を通した共通の歴史認識をヨーロッパでもアジアでももつことができる。

 「ドイツ人にとっては世界を変えるための戦争であり」、「未来への展望に駆られ」た戦争が勃発したとき、「一九一四年八月の歓呼のなかでドイツ国民はこの願いがまちがいなく実現したと確信した。戦争は逆に彼らの内部に安らぎと<克服>をもたらした。対立と意見の相違は捨てられ、ドイツはついに精神的にも物理的にも統一をなし遂げた」。そして、「ドイツは、まずベルギーで、続いてフランスとロシアの占領地で<恐怖政策>の実施を宣言」し、「ドイツ人は<ゲルマンの恐怖>という言葉を誇らしげに口にした」。その統一に恐怖を感じた連合国は、反ドイツ意識を高めるためにドイツの残虐性を強調し、ドイツ兵は「赤ん坊をかたっぱしからレンガ塀に投げつける、修道女を選び乱暴したあと殺害する、老人を四つん這いにさせて射殺する」などと宣伝した。

 レマルクの『西部戦線異状なし』は、戦後10年を過ぎた1929年に「戦争に破壊されたある世代について語ろうとするにすぎない」という意図で書かれた。「四年間に及ぶ死と苦闘と恐怖のあとで、ふたたび仕事と進歩が支配する平和な世界に戻ることがどれほど困難かを知った世代のことを」。と同時に、連合国側の人びとにドイツ人も同様の戦争体験をしていたことを気づかせた。賞賛と非難、さらには「反戦主義者の巧妙なプロパガンダ」と評された話題作は、戦間期を代表する作品となった。

 それは、歴史研究者にとっても重い課題を突きつけるものになった。「無名の一兵士の運命をあらゆる者の運命に普遍化した」ことによって、「戦争は集団的解釈の問題ではなく個人的体験の問題」となり、「それは芸術になり、歴史にはならなかった」。著者のエクスタインズは「芸術が歴史より重い意味をもつようになった」といい、つぎのように歴史家に警告した。「歴史は十八世紀からとりわけ十九世紀という合理主義の時代のものであった。十九世紀、人々は歴史家に限りない尊敬を払った。ギゾー、ミシュレ、ランケ、マコーレー、アクトンという歴史家の著作が大いにもてはやされ、とりわけ発展と統合を心から望んだブルジョワたちがそれらを熱心に読んだ。だが二十世紀は一貫して反歴史の時代であった。ひとつには歴史家自身がこの世紀の気運に適応できなかったためもあるが、より大きな原因は二十世紀が統合より分裂の時代であったことだ。その結果、歴史家より心理学者がもてはやされた。さらにこの両者より尊敬されたのが芸術家であった」。

 「大戦争(グレート・ウオー)をあつかった厖大な著作のなかで意味ある仕事の多くは詩人、小説家、あるいは評論家の手になるものであったことは注目に値する。反面、歴史家の書いたものは概して狭い専門分野に限定され、それとて文学のもつ喚起力や説得力に較べて大いに見劣りがした。歴史家は実際に戦争を体験した者の悲惨な現実を語れなかった。大衆は二〇年代に出たおびただしい数の歴史的文献にほとんど関心を払わなかった」。

 「戦争のほとんどを前線と後方の参謀部を往来する伝令兵として過ごした」ヒトラーは、「戦場での経験に情熱と勇気と無条件の忠誠を注ぎ込み、かわりにそこから目標と所属意識、受容されているという感覚、そしてドイツ軍兵士であればだれもが熱望する不屈の精神を称賛され、優秀な兵士であるとの評価を手に入れた」。「ヒトラーにとって戦争は一九一八年に終わりはしなかった」。「戦後の十数年間、ドイツ国民は敗戦を現実として受け入れる以外になんら手立てはなかったが、それでも心のなかでは、あの戦争にかけた努力は決して無駄ではなかったと声高に叫ぶ過激グループに共感を抱いていた」。「ドイツ国民は、一九三九年の戦争が民族の生存をかけた戦いであり、一九一四年から四年余にわたって戦われたあの戦争の免れ得ない継続であると固く信じていた」。

 ヒトラーが指導する「ナチスが早くから着目していたのは儀式とプロパガンダの重要性」であった。「書き言葉より話し言葉が優先され、文学よりも演劇、音楽、舞踊、(そしてのちには)ラジオと映画が重んじられた」。だから、「一九三九年から四五年の戦争のさなか、激しさを増す連合国の爆撃でドイツの諸都市が次々に破壊されたとき、ヒトラーがただちに再建を指示したのは劇場やオペラハウスであった」。

 本書を読むと、ふたつの世界大戦を結ぶ、ドイツがイギリス、フランス、ロシアにたいしてもつ民族性の問題、言い換えるとヨーロッパの「文化」の問題が浮き上がってくる。これを東アジア世界のなかの日本に置きかえると、どうか。さらに、「大東亜共栄圏」に組み込まれた東南アジアとの関係はどうか。戦争と文化の問題を考えることを教えられた。すると、戦争は歴史学ではなく、表現文化学などの学問分野で考えるのがふさわしいのか。歴史学が、戦争とどう向き合うのかが問われているように感じた。
            *      *      *
 本書を読んで、第一次世界大戦西部戦線の戦跡巡りをした。ベルギーのイープルからフランスのソンム、ペロンヌなどの激戦地跡を駆け足で巡った。はじめは、博物館や記念館の展示、戦死者ひとりひとりの名前を刻んだおびただしい数の墓碑・慰霊碑に圧倒され、総力戦のむごたらしさに押しつぶされそうになった。しかし、時間がたつにつれ、戦争は戦後も引き続いていることに気づいた。イギリスを中心とした連合軍側は、勝利したことで正義の戦争であったことを前提として戦争の悲惨さを訴えているように思えた。イープルは、早くからイギリス人相手の戦跡ツアーの中心となり、現在もイープルを基点とした多くの戦跡ツアーがある。とくにオーストラリア人、カナダ人などを相手としたものもある。イープルでは、1928年以来毎日午後8時、遺骨が発見されていない戦死者の名を刻んだメニン門行方不明者記念碑で、埋葬時の黙祷のためのラッパとともに追悼式がおこなわれ、遺族のほか慰霊のために訪れた高校生などが献花をしている。戦争博物館、墓地などを維持・管理しているのがイギリス連邦戦没者墓地委員会などで、同委員会は現在も年間100億円近い予算で活動しており、その8割近くをイギリスが出している。

 ヨーロッパをドイツの「脅威」から救ったイギリスが旧秩序を守り、帝国の威信を保つために、戦後の活動をしていると感じられたのにたいして、敗戦国ドイツの戦後の「戦い」は数少ない墓地のひとつであるベルギーのランゲマルクで見ることができた。エミール・クリーガー制作の4人の兵士が黙祷する立像は、数と規模で圧倒される連合軍側の慰霊施設に負けないメッセージを投げかけていた。戦争をたんなる過去のものにするのではなく、現在を生きる者に生とはなにかを問いかけていた。

 本書から、ヨーロッパにおいて第二次世界大戦が引き続くヨーロッパ大戦であったことがわかる。それにしても、同じく激戦地であったはずの「西部戦線」での第二次世界大戦の記憶は掻き消されている。第二次世界大戦がヨーロッパの「敗北」、アメリカ合衆国による新たな世界観の登場という結果に終わったためだろうか。第一次世界大戦においても、歴史的研究成果に基づいたペロンヌの大戦歴史博物館(アンリ・シリアーニ設計、1992年竣工)の展示は、ヤンキー娘が男たちに勝利を告げ、アメリカ兵の誇らしげな行進を子どもたちが見つめているところで終わっている。

 イギリス連邦戦没者墓地委員会の活動は、全世界150ヶ国におよび、東南アジアでは少なくともシンガポールに1ヵ所、タイに2ヵ所、ミャンマーに3ヶ所、連合軍墓地公園がある。タイの2ヶ所とミャンマーの1ヶ所は、泰緬鉄道関連のもので、タイのカンチャナブリーには2003年開館のイギリス系の博物館と1998年開館のオーストラリア系の博物館がある。映画「戦争にかける橋」(1957年)で有名になったこともあり、今日でも多くの白人観光客で賑わっている。第一次世界大戦西部戦線観光は、第二次世界大戦のアジアの戦跡観光にも影響を与えたようだ。両世界大戦は、ヨーロッパとアジアという地域を越えて考えることによって、世界史のなかで連続性をもって語ることができる。

 本書が、戦争そのものだけでなく、戦前、戦後を語ることによって戦争の文化・思想などの連続を明らかにしたように、戦後の慰霊活動は、戦勝国であれ敗戦国であれ、その国の連続する「総力」を物語っている。さて、日本の戦後の慰霊活動は、どうであろうか?

→bookwebで購入

トラックバックURL

このエントリーのトラックバックURL:
http://booklog.kinokuniya.co.jp/mt-tb.cgi/3768