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2010年04月27日

『「戦争経験」の戦後史-語られた体験/証言/記憶』成田龍一(岩波書店)

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 本書は、「序章 「戦後」後からの問い」で問題提起した後、時系列的に4つの章に分けて、「戦争そのものだけではなく、帝国-植民地関係をめぐっての体験/証言/記憶についても、考察」したものである。4つの時代区分は、実際に戦争状態だった「状況」(1931-45年)に続いて、「体験」(1945-65年)、「証言」(1965-90年)、「記憶」(1990-年)の3つをキーワードとしている。それぞれの章では、その時代を代表する出版物を紹介し、特徴をあきらかにしている。なじみのある著者名や書名がならび、読者はそれだけで安心して戦後日本社会論に入っていける。

 著者、成田龍一は、「おわりに」で、「「戦争責任」の自覚も決して充分とはいえないが、「植民地責任」はいっそう無自覚に検討されないままとなっている」とし、両者の関係をつぎのように述べている。「「戦争責任」と「植民地責任」は、まったく切り離されたものではなく、相互に規定しあい重なりあっていることに注意を促したい。「戦争責任」の議論が前面に出されるのは大日本帝国がアジア・太平洋戦争の敗戦とともに崩壊したためでもあるのだが、そもそもアジア・太平洋戦争はそれに先立つ植民地領有と切り離しては考えられない」。

 そして、「この二つの責任を包括する概念として「帝国責任」ということを考えたい」と主張し、つぎのように本書を結んでいる。「戦争責任と「植民地責任」-「帝国責任」という問題系から、「体験」-「証言」-「記憶」と推移してきている戦争経験の議論をいま一度合わせ鏡のようにして考察すること。このことが、あらたな課題として浮上するということができよう。一九三一年九月の「満州事変」により、アジア・太平洋戦争が開始されてから八〇年に及ぼうとしている。一九四五年八月の敗戦からでもすでに六五年がたつ。いまや、「戦争経験」が「記憶」からさらに歴史とされてゆく時期に差し掛かっており、アジア・太平洋戦争の戦争像をめぐる対抗や抗争はさらに続くであろう。戦後の過程を踏まえた「戦争経験の戦後史」を考察した理由はここにある」。

 「体験」「証言」「記憶」をキーワードとして、よく整理された議論は、「戦争経験」の語りの「変遷を通して、戦後日本社会の特質を浮き彫り」し、基本的知識を提供してくれている。その基本をもとに、さらに個別に見ていくと、戦後日本社会のなかで苦悩した個々人が浮かびあがってくるだろう。戦中の戦争論は、統制された集団としてのものが中心であるから、代表的な作品を通して議論することにあまり問題はない。ところが、戦後に書かれたものでは、集団としての「体験」と個々人の「体験」とがあまりに違いすぎる。とくに軍隊としての統制がとれなくなった敗残兵の個々人の体験は千差万別で、「公刊戦史」や「通史戦史」で取りあげられることはない。ましてや、教科書など共通の歴史認識となるものに記述されることはない。本書で代表的な作品として取りあげられ、議論されたものは、集団としての「体験」を語りやすい「引揚げ」「抑留」「沖縄戦」であり、知識人が書いたものである。フィリピン戦線だけですくなくとも1300はある「戦記もの」のほとんどは、このような知識人が書いたものではないし、集団としての「体験」に納得がいかないからこそ書かれたものである。それぞれの状況があまりに違い、とても集約して語ることのできない戦争体験と、それを引きずった戦後史は理解しにくく、論理的に議論することが難しい。そして、最大の問題は、このような知識人を代表とする戦争論が、「戦争責任」「戦後責任」をあきらかにする戦後処理のために充分でなかったことである。そのために、日本では「戦後」が終わらない状況が続き、いまだに「戦争責任」「戦後責任」が問題となっている。歴史化した単純・一面的な語りから抜け落ちるものの意味を考察の対象としなければ、日本の戦後は終わらず、新たな「戦前」がはじまる。

 本書では、「空間的には「国史」ではなく、アジア史の射程でアジア史を書き換える試み(「日本」を主語としないこと)、境界を越える動きの発掘(植民地研究のあらたな動向でもある)との連携を図ること」と述べながら、日本が植民地とした東アジア以外のアジアが、あまり念頭にないようである。海外で戦死した日本人は240万と推定されているが、大まかにいって地域は中国、東南アジア、南太平洋に3分される。日本人戦死者よりはるかに多くの戦争に巻き込まれた民間人の死者を出した東南アジアからの「語り」は、本書には現れない(たとえばフィリピンでの日本人戦死者10万ないし52万にたいして、民間人を含むフィリピン人は110万)。「空間」をいうなら、日本がつくりだした「戦争空間」(「大東亜共栄圏」)全体を見渡して考えねばならないだろう。シンガポールより南の地域のない「本書関連地図(1944年頃)」が「序章」の前にあるが、「空間」的にはこの地図が本書の限界をあらわしていることになる。

 帝国日本を中心に考察したためか、ヨーロッパ戦線や帝国ヨーロッパ諸国と植民地との関係がおろそかになったことが、日本の「アメリカ、イギリス、フランス、オランダなどへの宣戦布告」ということばにあらわれた。アメリカ、イギリスにたいする宣戦布告ははっきりしているが、フランス、オランダにたいするものは、日本がそれぞれ本国と途絶した植民地(インドシナ、現インドネシア)を戦場としたため、そう簡単ではない。フランス、オランダは日本の同盟国ドイツに1940年に占領されており、フランスはイギリスに亡命した政権と親独派のヴィシー政権に分裂した。日本は、同年6月のドイツのパリ占領をうけて、9月にインドシナに進駐し、フランス植民地政府と共同統治をはじめた。その状況は、1944年に連合軍によってフランスが解放され、翌45年3月に日本軍がクーデタを起こすまで続いた。いっぽう、オランダは中立宣言をしていたにもかかわらず、戦略的に重要な位置にあったことから1940年5月にドイツ軍に占領され、政権・王室はイギリスに亡命した。しかし、日本にたいしては、中立を破棄して宣戦布告をした。

 本書は、整理された議論が説得力をもって展開されているため、わかりやすかった。それだけに、わかりにくく収拾がつかないはずの戦争論が、このような理解だけでいいのかという疑問が浮かんだ。「戦争から遠ざかるにつれて変容していく「戦争経験」の語り」は、代表的な作品だけに語らさせると画一化していく。戦争体験者がいなくなり、画一化した語りが歴史化すると、個々人の体験は無視される。戦争の抑止力として「戦争」を語るなら、個々人の「戦争経験」から得られるものを大切にすべきだろう。なぜなら、戦争は、集団の利益を優先して個人に犠牲を強いることからはじまる。個々人を尊重しひとりの犠牲者も出してはならないと考えるなら、戦争ははじめようがないからである。

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2010年04月20日

『せめぎあう地域と軍隊-「末端」「周辺」軍都・高田の模索』河西英通(岩波書店)

せめぎあう地域と軍隊-「末端」「周辺」軍都・高田の模索 →bookwebで購入

 「軍隊が在駐している時に「軍都」は経済的に安定し、外征している時に「軍都」は危機に直面した」。つまり戦争のない平時に、多くの兵士をかかえる地方都市は、兵士の消費によってうるおうが、戦争になって兵士が戦場に行けば、とたんに経済は収縮して地方都市はさびれる。この軍隊と地域(地方都市)のパラドクスを、新潟県高田を例に考察しようとするのが、本書である。

 表紙見返しには、つぎのように書かれている。「一九二五年の第一三師団廃止の後、連隊区司令部以下の所在する「末端」「周縁」軍都となった新潟県高田市(現上越市)。満洲事変、廬溝橋事件を経て、一九四一年の対米英開戦に向けて社会における軍事の比重が次第に増してゆく中、軍からの自立と、軍による振興との間で揺れ動き続けた高田の模索を通じて、日本の軍都の特質を描き出す」。

 「日本近代史研究において、軍事史は近年、急速に活性化・拡大化を見せ」、「地域にとって軍隊とはいかなる存在だったか」という問題が提起され、軍事演習地論、連隊区司令部論、軍用地論、軍港論などがとりあげられている。こういった軍事史で、「<軍隊と地域>の関係性を、軍都や軍郷といった空間からより広域を対象にして有機的・構造的に把握しようとしている」のにたいして、著者の河西英通は「軍都にこだわってみたい」という。その理由を、3つあげている。第一に「「軍都」という用語が従来あまりに一般化しすぎて、それがいったいいついかなる文脈で誕生したかすら、ほとんど論じられてこなかったからである」。「第二に、その機能と実態からすれば、軍都は決して完結的な空間ではなかったからである」。「第三に、軍都における<軍隊と地域>の癒着・乖離関係を重視したいからである」。そして、「軍都論のこだわる地点から」、「「軍都社会」論とも呼ぶべき近代日本社会論の新しい地平を切り開いてみたい」という。

 「「軍都」という名称それ自体は、満洲事変期から一九四五年の敗戦までせいぜい十数年の寿命であったが、地域に「軍都」という自己認識が誕生・定着するまでのプロセスこそ重要である」というのは、「近代日本の主要都市のほとんどが早期に軍隊を抱えていたこと、とくに旧城下町の多くが市制施行後、あるいは明治末年までに都市になり、軍都を形成していった」からである。しかし、「日本の多くの都市は軍事的機能を付与・強要されることで、自立的な発展の可能性を抑えられ」、「国家からの付与・強要を払いのけて、自主的な近代化の道を歩もうとする模索も見られたが、構想・運動の域にとどまらざるを得ず、現実的な変革をもたらすことはなかった」。

 高田にとっても、師団廃止は大打撃であると「同時に自立的な地域振興策に舵をきる大きなチャンスでもあった」が、「非軍事的近代化・都市化の道は困難を極め」た。結局は、「<軍隊と地域>は互いにもたれあう関係、「相犯」関係であった。と同時に「共犯」関係でもあった。「共犯」関係というのは、<軍隊と地域>は加害者であり、被害者を生んだからである。言うまでもなく、最大の被害者はアジアの民衆である。しかし、地域民衆も共犯者であり、加害者であると同時に、共犯者である軍隊による被害者でもあった」。この絡み合った関係が、加害者としての責任を曖昧にすることになったということができるだろう。

 戦争が平時では解決困難ないろいろな問題の解決に繋がることが、しばしば指摘されてきた。だから、人びとは安易に戦争に走り、打開の糸口にしようとした。しかし、それは一時的な解決にはなるが、根本的な解決にならないことが、本書からもよくわかった。著者は、つぎのような結論を得て、本書を締めくくっている。「原理的に軍都における武力の存在が、軍都における他の産業部門への活性剤になることはない(略)。せいぜい「軍隊出動は打撃、滞在は安定、凱旋などの行事はかせぎ時」という関係性が成立するにすぎない」。「もちろん、こうした関係性自体が持っていた経済的魅力は大きく、期待されたことは間違いないが、「軍都」であることが地域社会を必然的に活性化するわけではなかった。軍工廠や軍需工場も本質的には国家や資本のものではあっても、地域社会や市民のものではなかった。逆に「軍都」であること、それに伴う軍事施設の存在、あるいは「軍都」であることのプライドとリスクが地域社会の自立的な発展を妨害・阻止し、足枷(あしかせ)・障害になった場合も多い。地域が自立するということは、外部から注入・強要されるシステムに頼るのではなく、みずから手持ちの歴史性と現実性と可能性を活かし切ることにほかならない。旧城下町の系譜を持つ戦前軍都の歩みと悩みは、あらためてそのことをわたしたちに教えてくれている」。

 「軍都」という名称が短命に終わったのは、「軍都」が戦争に協力する都市であったからであろう。ということは、戦争をしない自衛隊なら「軍都」は繁栄するが、戦争をするアメリカ軍基地をかかえることは戦前・戦中と同じ自立できない「軍都」となるということか? 沖縄のアメリカ軍基地問題だけでなく、与那国島のようなところでも自衛隊を誘致するかどうかで、住民間の対立がある。軍隊と地域の問題は、過去の問題ではない。

 本書は、「戦争の経験を問う-経験を切り口に戦争のリアルティに迫る」(全13冊)の最初に刊行された1冊である。このシリーズは、『岩波講座 アジア・太平洋戦争』(2005-06年、全8巻)の続編でもある。

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2010年04月13日

『自然災害と復興支援』林勲男編著(明石書店)

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 何気なく見た索引のトップが、「空き家」だった。通常、索引に取り上げられない「空き家」があることで、この本はこれまで読んだ本とどこか違うと身構えてしまった。

 全執筆者16人の専攻は、つぎのように紹介されていた(複数あげられたものは、最初のものだけにした):地域防災、人類学、都市防災計画、社会心理学、防災研究、文化人類学、タイ地域研究、人文地理学、都市社会学、東南アジア地域研究、防災地震学、南インド考古学、建築学、防災計画学、建築計画学、イスラム教圏東南アジア地域研究。似たものはあるが、まったく同じものはひとつもない。これだけ専門の違う人びとが、いっしょになって取り組んでいるのが、2004年暮れに起こったインド洋地震津波災害からの復興支援で、本書はその現地報告書である。

 本書は、また、国立民族学博物館の機関研究『文化人類学の社会的活用』「災害対応プロセスに関する人類学的研究」の一環として開催された研究フォーラムの成果をまとめたものでもあり、フォーラムは「災害や防災の研究者、地域研究や文化人類学の研究者、被災地支援に従事するNGO/NPO関係者や行政担当者、マスコミ関係者、そして被災地の現状に関心を寄せる一般市民など、非常に多くの方々の参加を得て計三回開催された」。したがって、本書の執筆者は、自分の役割を相対化したうえで書いている。また、執筆者のなかには、阪神・淡路大震災や新潟県中越地震後を経験している者もいる。しかし、本書全体を読んで、それらの経験がいかされているとあまり感じなかったことが、問題の難しさをあらわしている。

 本書は、第1章の総論の後、災害地域ごとにスリランカ3章、南インド1章、タイ3章、そして震源地に近いバンダアチェ8章からなる。それぞれが専門性をいかして、初期の人命救助・救援から復興・発展へと懸命の努力が伝わってくる。「総論」ではその連接をつぎのように説明している。「災害過程は、災害発生前の準備・警戒期、発生前後の緊急期、発生後の復旧・復興後の連鎖である。発災を受け、緊急・応急対応処置が被災地内で、あるいは被災地外の国内外から提供され、次の復旧・復興の段階に移っていく。「復旧」とは文字通り「旧に復す」、すなわち災害前の状態に復帰するための対応活動のことであり、災害によって破壊された施設や機能を元の状態に戻すことである。それに対して「復興」とは、災害前と同じ状態に戻すのではなく、それ以上の暮らしと環境を再建していく活動のことである」。

 わたしたち日本人の常識としては、まず災害前の状態に戻す復旧を優先的に考えてしまう。しかし、そう単純ではないことが、最後の東南アジア地域研究者による2章からわかる。「かつて海によって世界の人びとと繋がることで発展を遂げていたアチェの人びとは、紛争などによって長く外部世界から閉ざされていたアチェが人道支援を通じて再び世界各地と繋がったことを歓迎した」。その海を通じた流動性が高い社会は、元に戻ることより新たなコミュニティの形成・再編をめざすいっぽう、外部世界からの支援にも応えようとした。その結果が、「復興住宅の空き家」だった。日本での経験があまりいかされないのも、このあたりに原因がありそうだ。

 支援団体が戸惑っている様子は、つぎのように報道された。「外部からの支援団体が実施する住宅再建事業に対し、ジャワの人びとは自分たちも相互扶助によって労働を提供し、支援者に感謝の意を忘れないのに対し、アチェの人びとは人を雇い、しかも支援者に注文をつけるといった具合である。国連ハビタットが製作した映画『象の間で戯れる』でも、支援団体の意向どおりに動かないばかりか、支援団体に様々な注文をつけ、時に支援団体の足元を見透かしたような交渉を行うアチェの人びととそれへの対応に苦労する支援団体の様子が描かれている」。定住農耕社会のジャワの人びとの言動は理解できるが、流動性の高い海域社会に属するアチェの人びとの言動は理解できず、支援団体は振り回されたのだろう。さらに、被災者が被災地区から移動し、被災していない人びとが被災地区に流入してきて、支援団体はだれに支援していいかわからなくなったことだろう。

 ふたりの東南アジア地域研究者は、それぞれ「結び」の部分で、自分なりの回答を述べている。まず、山本博之は、「復興住宅に空き家があることにはさまざまな理由がある」が、最も大きな理由は、「被災前から土地と住宅を所有していた人かその家族や親戚にのみ復興住宅を供与するという復興事業の方針のためである。小中学生や遠隔地で暮らしている家族が住宅の所有者になっていたり、住宅を所有する若い単身者たちが共同生活を送っていたりするため、復興住宅が誰も住んでいない状態に置かれることになる」。「アチェの復興過程で特徴的なのは、被災前の居住場所に戻る復興や、被災前の職業に戻る復興という方向に必ずしも進んでいないことである。支援団体の多くは被災にのみ目を向けて、被災前に戻すという発想で支援事業を展開しようとする。これに対し、被災者は被災からの復興をいろいろな意味で変革の機会として捉え、被災前の状況に戻すことを唯一の選択とは見ていない。そのため被災者たちは、一面では自分たちが支援事業の対象とされるように支援団体が望む枠組みに自分たちを合わせながらも、別の面では支援団体やドナーの思惑を超えて、自分たちが被災前から抱えていた課題にさまざまな方法で対応しようとすることになる」。

 つぎに西芳実は、「研究者が被災前の社会の理解を持ち出したときに、社会を固定的に捉えて被災後の社会に適用しようとすると、再建・復興の方向を被災前の社会をモデルとしたものに固定化することにつながりかねず、被災前の社会が抱える問題を再生産することにもなりかねない」と指摘し、「同様に、被災社会の特徴を捉える際に、宗教や民族性、親族構造や慣習法といった文化的社会的要素をどのように扱うかについても注意が必要である。やや極端な言い方をすれば、宗教や民族性が人びとの行動を規定しているとするのではなく、宗教や民族性を掲げた語りを通じて人びとが何を表現しようとしているのかが重要である。アチェの社会・文化を十分に理解しようと努力した上で、一般的な理解とずれて見える人びとのふるまいに注目して、そこに彼らが込めた意味を読み解こうとすることが、降りかかった状況に対応しながら日々の実践の中で自分たちのあり方をよりよくしようとする人びとの創意工夫を汲み取ることになるためである。その意味で、アチェを研究対象としてきた地域研究者として、被災とそれへの対応を通じてアチェの人びとが世界に発信するメッセージを今後も受け止めていきたいし、そうすることで、二〇〇四年スマトラ島沖地震津波という未曾有の災害が人類史上に持つ意味についても考え続けることになるだろうと思う」と結んでいる。

 復興支援は、支援する側のためにあるのではないことは、だれもがわかっている。しかし、現実は、「支援合戦」をし、「実績」を残したと自負して、短期間で引き揚げる国・団体は少なくない。事後調査では、空き家が多いことなどが問題になったりする。だが、空き家をなくすことが成功ではないだろう。まったく同じ自然災害が起こることはない。たとえ起こったとしても、それを受けた地域社会の状況が違う。当然、災害後の対応の仕方も、千差万別になる。時間がたつにしたがって、必要なものも変わってくる。過去の経験はいかされるが、それにこだわることはできない。とすると、人命を救うために一刻も早く現地入りして救助・救援をおこなう体制を整えることのつぎにくる復興支援に必要なものは、現地の人びとの「声」を聞く「耳」だろう。それは、自分たちが被災したときに、だれになにを聞いて欲しいかにつながる。災害を他人事と捉えず、自分が被災したときのことを考えることによって、被災者の立場になれる。

 最後に、本書そのものについてひと言。本書はけっして読みやすいものではなかった。多くの章が、調査報告書に近い内容になっている。報告書は報告書として出版し、一般書として理解してもらおうとするなら、編著者が代表してひとりで書くべきだっただろう。いろいろな専門家が、それぞれに活躍していることはわかったが、全体像がいまひとつよくわからなかった。

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