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2010年03月23日

『フィリピンと対日戦犯裁判 1945-1953年』永井均(岩波書店)

フィリピンと対日戦犯裁判 1945-1953年 →bookwebで購入

 「日本のフィリピン占領(一九四二-四五年)の帰結として、一九三九年の国勢調査人口約一六〇〇万人に対し一一一万人余りという膨大な数のフィリピン人の人命が失われ、家畜と重要産業の精糖工場の各六割が灰燼に帰した。国内全体の損害総額が八〇億ドルとも見積もられるなど、フィリピンは文字通り壊滅状態に追い込まれた」。その惨状は、世界的に見ても異常で、「一九四六年五月にマニラを訪れたアイゼンハワー将軍は廃墟となったマニラの光景を見て啞然とし、「ワルシャワ以外に、このような最悪の破壊を目にしたことがない!」と叫んだと報じられた」。

 本書は、のちの大統領で1953年に日本人戦犯に恩赦を出して、全員の帰国を許したエルピディオ・キリノが、1945年2月のマニラ市街戦で家族7人のうち、妻、次男、長女、三女の4人を同時に失った場面からはじまる。妻と長女の遺体を数日間道端に放置せざるを得なかった計り知れない悲しみを感じると、なぜこのような寛大な恩赦を出すことができたのか、まず最初にその謎を知りたいと思った。その謎は本書である程度は理解できたが、そのフィリピン人の寛大さを理解し、戦後の日本とフィリピンとの関係にいかせなかった日本人に憤りを感じた。わたしの個人的な感想は後にして、まず本書の学問的価値をみていこう。

 本書の概略は、表紙見返しにつぎのように適確にまとめられている。「フィリピンにおける日本軍の残虐行為の捜査が本格化した一九四五年から、国交が回復されない中、モンテンルパのBC級戦犯全員が釈放された一九五三年までの八年間、アジア・太平洋戦争をめぐって日比両国は何を考え、どのように向き合ったのか。膨大な一次資料とインタビューに基づいて、戦後日比関係の出発点となった対日戦犯裁判のプロセスを明らかにし、その歴史的な意味を再考する」。

 著者、永井均は、従来の対日戦犯裁判の歴史研究を「自国中心の戦争観・裁判観に基づく一国史的な見方」ととらえ、それを乗り越えるために、「すでに忘れられ、風化しつつあるフィリピンによる対日戦犯処理への取り組みの軌跡を日比両方の視点から見つめ直し」たいという。著者は、本書の特徴をつぎのように説明している。「従来の対日戦犯裁判の歴史研究では、米英等、戦犯裁判を実施し、これを主導した大国(宗主国)の政策や大国間の政治力学の解明が精力的に進められ、多くの成果を上げてきた。その一方で、日本軍に侵略・占領され、国土が戦場となったアジアの側から描く研究はやや取り残された感がある。前述のように、日本軍の残虐行為が多発したフィリピンを分析の軸に据えた研究蓄積は、日本はもとより、フィリピン、米国においても、あたかも死角をなすが如く極めて乏しかった。以上のような研究史の中で、本書は従来の日比関係史や戦犯裁判研究で看過されてきた主題に関する萌芽的な研究と位置づけることができよう。その特徴は、第一に、東京裁判論、あるいはBC級裁判論として、従来の戦犯裁判研究で個別に研究されてきた二つの対日戦犯裁判を、フィリピンの視座から、捜査、裁判、赦免、釈放に至る対日戦犯処理の全体を視野に入れて系統的に考察を加えたところにあり、第二に、分析に際しては一国中心的な見方を排し、戦犯問題をめぐるフィリピン側の政策動向に日本側の立場と対応-認識・戦略・行動-を交差させ、フィリピンの旧宗主国で対日占領を主導した米国の関わりも視野に入れるなど、フィリピンと戦犯問題について多面的な検討に努めたところにある」。

 著者が控えめにいう「萌芽的な研究」としては、ひとまず成功したといっていいだろう。「国際社会の視線を意識しつつ、そして何よりも自国民の強い反日感情に囲まれて対日戦犯裁判を遂行することになった」「フィリピン軍による戦犯裁判は一九四七年八月一日から四九年一二月二八日まで実施され、七三のケース、被告一五一名が主に現地住民の殺害、虐待、強姦等の廉で裁かれた。米軍から移管された容疑者の半数以上がその容疑を「解除(cleared)」される一方で、起訴された戦犯の約九〇%が有罪を宣告され、その約半数に当たる七九名に死刑判決が下され」た。しかし、その「死刑判決を受けたフィリピン戦犯のうち、実際に刑を執行されたのが約二割(一七名)にとどまったという低い執行率は、他国(米国、英国、中国、フランス、オランダ、オーストラリア)が実施したBC級裁判での高い執行率(約八割)と比較した時、著しい対照をなしていた」。この著しい対照を、本書はまだ充分に説明し切れていない。それは、他国のそれぞれの戦犯裁判の研究を相対化する研究が、まだ充分でないからである。

 たとえば、いろいろと曲解されるインドのパル判事については、フィリピンのハラニーリャ判事の選出のいきさつを知り、「パル判決」を批判するハラニーリャの「同意意見」を読むと、従来とは違った評価が出てくるだろう。ハラニーリャ判事は、パル判事と同様、第一候補ではなく、第一候補が辞退した後、有力候補を差し置いて、定かな理由なしに選ばれた。しかも、当時62歳と高齢で、その5年前に軍人としてはかなり高齢の57歳の時にバタアン戦敗戦後の「死の行進」を経験していた。多くの部下を失い、自身日本軍による虐待を受け、収容所で病気と栄養失調のために死線をさまよった。

 ハラニーリャ判事は、東京裁判の判決(多数判決)を作成した多数派判事のひとりであったが、「われわれ多数意見の者は、すでにわれわれの決定を書き上げ、本官はそれに同意するのであるが、卑見によれば、さらに論議と説明を必要とするいくつかの点があるので、本官はこの同意意見を書かないわけにはいかない」と、1948年11月1日付で「同意意見」を裁判所に提出した。11項目からなる意見書のなかには、東京裁判の正当性に根本的疑義を呈したパルを批判したものが含まれている。そして、一部の被告について、より厳しい量刑を求めた。東京裁判には、BC級戦犯裁判を実施した7ヶ国のほかにソ連、カナダ、ニュージーランド、インドが加わり、検事、判事を指名し派遣した。これらの検事、判事のそれぞれについて、あまり知られていない。

 著者は、日比関係史や戦犯裁判研究の新たな展開の基礎となる研究を試みている。ともに、本書を従来の研究の主題にどうからめていくかが、ポイントとなる。日比関係史であれば、賠償問題を含め、戦前からの人脈を辿って多くの日比両国の人びとが水面下で動いた。敗戦直後から、日本の商船はマニラに入港していた。また、戦犯裁判にかかわった欧米人は、第一次世界大戦後のことが念頭にあった。たとえば、天皇の戦争責任をめぐっては、ドイツ皇帝の戦争責任の問題を意識せざるを得なかっただろう。アジア・太平洋戦争の戦後処理は、第一次世界大戦から引き続く第二次世界大戦の戦後処理の一面ももっていた。

 日比関係史にかんして、本書には新たな展開を期待させるものが多く含まれている。そのひとつが、戦後認識が日本とフィリピンとで大きく違ったことであり、それが戦後の日比関係に大きな負の影響を与えた。本書から、いくつかの具体例を拾ってみよう。  まず、敗戦時に、「フィリピン人と交流を深めていた在留邦人も含めて、大多数の日本人は敗北するやいなや、フィリピン社会のどこにも身の置きどころがなく、フィリピン人から文字通り石をもって追われた。そして、少なからぬ日本人たちが「二度ともうフィリピンなんかに来るものか」と、恨みに近い感情を抱いてフィリピンを後にした」。

 先にとりあげた「ハラニーリャの「同意意見」は日本では一部新聞に論評なく、小さく報じられただけだった」のにたいして、「フィリピン国内では多くの新聞がハラニーリャの「同意意見」を取り上げ、その見解を肯定的に報じ、彼の見解がフィリピン国民の感覚にも沿ったものだったことを示唆」した。「日本国民は、戦争の主たる責任は指導者にある」とし、「傍観者的な態度で裁判を他人事と見なし、次第に裁判自体にも強い関心を向けなくなった」。その要因のひとつは、新聞各紙が裁判に充分な紙面を割かなかったためで、「東京裁判の判決を見つめる日本国民の視界から、フィリピンなどアジアの被害者の存在は外れていた」。「日本側は東京裁判で裁きが終わり、過去の問題が一応の決着を見たと感じ、その関心と視線を将来の平和構築に移そうとしたが、フィリピン側はこれを拒否した」。「このように、東京裁判が終結を迎えた時、戦争と占領をめぐる両国の立場の隔たりは余りに大きく、日本のフィリピン占領で生じた日比間の亀裂が修復に向かうきざしは全く見えなかった」。

 日比間の隔たりを埋める絶好の機会は、フィリピンのモンテンルパ刑務所に服役していた日本人戦犯が恩赦され、日本に帰国する時に訪れた。その前に、フィリピンでの戦犯の待遇についてみてみよう。「モンテンルパの獄窓でフィリピン人看守と会話を交わし、あるいは友達のような関係を築いていく者もあった。他国の戦犯(容疑者)収容所で私的制裁(リンチ)が横行したとの伝聞が少なくない中(とりわけ英軍が管理するシンガポールのチャンギー刑務所とオートラム刑務所に顕著だったという)、モンテンルパで虐待を受けたという回想はほとんどなく、むしろ寛大さを評価する向きが多いように見受けられ」た。食糧、衣糧、嗜好品についても、「「品種その他についても殆ど制限を設けなかった」ように、フィリピン当局は救恤品の件についても「非常に寛大」で、その後も、復員局の救恤品に加え、来訪者の差し入れなど「正規のルート以外」の救恤物資(金銭も含む)などもモンテンルパに流入した」。

 そして、自分の家族を日本人に殺されたキリノ大統領と弟を殺されたり虐待されたりしたエリサルデ外務長官は、苦渋に満ちた決断をした。エリサルデの弟を虐待した「下手人」を含む日本人戦犯全員(再審の結果、死刑を確認された3名を含む)に恩赦を与えたのである。しかし、その交渉にあたった日本人は、その「苦渋」を日本国民に伝えることなく、詳細は報じられなかった。吉田茂首相からキリノ大統領宛への恩赦を求める書簡にも「キリノの妻子の死を悼む、あるいは謝罪にまつわる文言はメッセージに含まれていなかった」。恩赦発表後の岡崎勝男外相の談話は、敗戦直後にマニラ市街戦時の日本軍の残虐行為を知って、「嗚咽し、顔面蒼白となり、倒れてしまうと思われるほど」の体験をしていたにもかかわらず、たんに「キリノの「キリスト教的精神からでた寛大な措置」に「感謝」するとの表現にとどまり、それ以上踏み込むことはなかった」。その結果、「当時の日本の新聞論調は、フィリピン国民の対日感情がすでに好転し、日本人に赦しを与えたとの見方が中心」になっていった。

 しかし、現実は違っていた。帰国の途につくためにマニラ港埠頭に向かった戦犯たちは、「沿道の人達からあらゆるば声を聞いた」。取材のために来ていた新聞記者も、「戦犯たちの乗ったトラックがモンテンルパからマニラの港まで走る間、これを見送る路傍のフィリピン人たちの大部分は白い眼を向けて、「ドロボー」と叫んだ」と書いている。戦犯のひとりは、「比島人全体の対日感情をよくするためにはまだ日がかかると思う」と語り、記者は、フィリピン人の恨みや憎しみは、「生きているうちに消える日が来るかも知れない。しかし、それでも少くとも、十年、二十年の歳月はかかるにちがいない」と、一種のあきらめを感じた」ほどであった。

 そして、著者は、本書をつぎのように結んでいる。「キリノ大統領による戦犯恩赦は、日本側が隣国との歴史を顧みる一つの契機となりえたものの、当時の日本の国内論調はフィリピン国民の対日感情について主観的な楽観主義に傾き、過去の具体的内実を深く見つめ、そこから教訓を学ぶという公的規範の形成の転機とはならなかった。日比両国民の相互不信の悪循環を断つために、被害者側(フィリピン)が先んじて譲歩した「赦しの先行」は、日本側に過去を直視するよう促す問いかけとも見ることができるが、この問いかけは完結することなく、戦争をめぐる認識ギャップの最小化への努力を喚起するように、今なお未完の問いであり続けているのである」。

 日本人戦犯にたいする「赦しの先行」や賠償をめぐる問題の具体的なことについては、充分な証拠がなく、このような研究書に書けないことが多々ある。したがって、単純にフィリピン人の「寛大さ」でかたづけられないことがあるのは確かである。しかし、そういった「寛大さ」であっても、日本人はそれを真摯に受け止め、「未完の問い」に向き合う必要がある。わたしが本書を読み終えて憤りを感じたのは、本書から日比関係においては戦後処理が失敗であったと読み取ったからである。戦後処理失敗の「戦犯」は、日本占領下でフィリピン人が味わった痛みを知りながら、それを国民に伝えなかった人びとである。当時の状況から言えない、書けないことがあったとしても、フィリピン人の「寛大さ」を身をもって体験した人びとは、機会をみてそれを伝える責任があったはずだ。それをしなかった、あるいはできなかったのは、知ろうとしなかった国民にも原因がある。つまり、日本国民すべてに、日比間にかんして戦後処理に失敗した責任がある。それが、戦争を知らない世代にも、今日まで重くのしかかっている。なぜこれほど、日本人は敗戦後、とくに戦場としたフィリピンを含む東南アジアにたいして鈍感になったのか。本書のように、その原点を問い続けなければ、フィリピン人の痛みを理解し、わだかまり抜きの友好関係を築くことはできない。「十年、二十年」どころか、65年たってもフィリピン人のわだかまりは消えず、戦争を知らない世代にも着実に受けつがれていることを、日本人はもっと深刻に受け止める必要がある。

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