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2010年03月30日

『陵墓と文化財の近代』高木博志(山川出版社)

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 2008年、歴代の皇室関係の墓所である陵墓への立ち入り調査がおこなわれた。明治維新以来の画期であった。いっぽう、陵墓指定がされていないが、継体天皇陵であることが確実視されている今城塚古墳の調査が、1997年以降おこなわれている。幕末から明治期にかけて近代の祖先観から「捏造」された「万世一系(ばんせいいつけい)の陵墓体系」は、世界遺産への登録というグローバル化もあって見直しを迫られている。

 すでに「歴史化」し治定(ちてい)(陵墓決定)困難な巨大古墳群を陵墓として、文化財として扱わない方針に疑問を感じてきた著者、高木博志は、本書で「近代の天皇制形成とともに、皇室財産に乏しかった皇室への宝物や文化財や陵墓などの「秘匿された財」の集積過程、来世(らいせ)観の希薄な非宗教の国家神道の問題から説き起こして、近代日本の陵墓と文化財の特質を広い視野から考えてゆきたい」という。

 「万世一系」の考えは、「十七世紀の儒学(じゆがく)において、一〇〇代を超える天皇が一筋につながるイメージができて、それが十八世紀の本居宣長(もとおりのりなが)の「古代」の発見につながって」いった。それが、「一八六七(慶応三)年十二月の王政復古(おうせいふつこ)の大号令以降、「神武創業」が公論となり、奈良や大阪そして鹿児島などの古代の陵墓群が公に天皇家の「祖先」となる、あらたな近代天皇制の系譜論が生じ」、「公論においても宮中の祖先祭祀において、神代(じんだい)の祖先に続いて神武天皇以来の天皇が「皇祖皇宗」になった。そして立憲制(りつけんせい)の形成過程において、天皇の人格をも含み込んだ「万世一系ノ天皇」という大日本帝国憲法(だいにつぽんていこくけんぽう)の規定につながる用例があらわれる」ことになった。

 「万世一系」に基づく古代史観について、専門家は早くからその矛盾を指摘してきた。たとえば直木孝次郎は、「実際は四~六世紀のあいだ、王朝(おうちよう)交代というか、政権交代というか、権力の中心が何度か移っているので、前政権の王の墓をつぎの政権が大切に保存・維持したとは思われない」と述べている。古代律令制形成期に記紀神話を具現化するためにつくられた古代の陵墓が、近代天皇制で復活し、いままで「凍結」されてきたことに疑問をもたないほうがどうかしている。本書では、さらに陵墓の問題を、「広く文化財をめぐる歴史認識」の問題としてとらえる。

 中世・近世から明治維新、第一次世界大戦への歴史認識の変遷は、つぎのように説明されている。祖先祭祀においては、平安京の仏教的な世界観が江戸後期まで引き継がれ、仏式でおこなわれ、「在位の天皇とその父や祖父の法要といった、一対一の関係であったのが、近代では「皇祖皇宗(こうそこうそう)」というマス(集団)としての天皇たちを、在位の天皇一人が神式で引き受けることになった」。陵墓の景観も変わった。「近世の仁徳天皇陵や崇神(すじん)天皇陵のような桜の名所ではなく荘厳常緑の憤丘が近代の陵墓景観としてふさわしいとされ」、「鳥居と灯籠、参道、前方後円墳、二重濠、といった景観が近代のあらまほしき姿」となった。そして、「一九二〇年代以降になると、公園とは峻別された内苑を有する神社が荘厳な常緑の植生のもと、国民道徳の対象でありながら、宗教性をおびつつ国民崇敬の対象となって」、「全国の村々の神社の景観も画一的なものに」なった。「荘厳な国家神道の神社景観の成立である」。また、「陵墓の「万世一系」を支えるものとして、記紀の無批判な考証、「口碑流伝」の採集といった十九世紀以来の学知が一九四五(昭和二十)年まで社会に通底していた」。

 著者は、最後に「二十一世紀の陵墓問題」という見出しを掲げ、つぎのように問題の本質をとらえ、見直しを主張している。「陵墓は、近代天皇制によりつくりだされる。さまざまな物語や信仰のもとにあった近世までの王墓群は、明治維新(めいじいしん)をへて選択され、「万世一系(ばんせいいつけい)」の系譜神話のなかの画一化した語りと価値のもとに「陵墓」として囲い込まれてゆく。しかし文献と「口碑流伝(こうひるでん)」をもって考証する方法論で治定(ちてい)された「十九世紀の陵墓体系」は、当時の学知の水準で決められた。しかも陵墓のみならず、古墳をはじめとする史跡などの文化財をめぐる国民の学知においても、その方法論は広く社会に通底した。その後、大正期以降に登場した考古学・津田(つだ)史学などの近代学知が示す古代像との乖離(かいり)が生じるが、「十九世紀の陵墓体系」は「凍結」されたまま記紀(きき)批判を棚上げし今日にいたったというのが、現代の陵墓問題の本質と考えられる」。「少なくとも六世紀初めの継体(けいたい)朝以前の「陵墓」となった巨大古墳群については、本来、歴史化した文化遺産であることを確認して、宮内庁が天皇家の祖先の墓としてのみ管理することなく、「万世一系」のイデオロギーから自由になり、文化財保護法のなかで「保存」「公開」「文化的活用」のありようを考えてはどうだろうか。「十九世紀の陵墓体系」は「二十一世紀の学知」のなかでみなおすべきであろう」。

 古代史にロマンを求め、関心をもつことは悪いことではない。しかし、本書から明らかなように、断片的にしか事実がわからない古代史は、政治的に悪用される危険性がある。あるいは、観光資源として史実とは無縁に利用されることがある。根拠がなくても一度「治定」されると、100%それを覆す資料などの証拠が出てくることはまずないので、やっかいである。著者が、「広く文化財をめぐる歴史認識」の問題として議論したいというのも、もっともなことだ。

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2010年03月23日

『フィリピンと対日戦犯裁判 1945-1953年』永井均(岩波書店)

フィリピンと対日戦犯裁判 1945-1953年 →bookwebで購入

 「日本のフィリピン占領(一九四二-四五年)の帰結として、一九三九年の国勢調査人口約一六〇〇万人に対し一一一万人余りという膨大な数のフィリピン人の人命が失われ、家畜と重要産業の精糖工場の各六割が灰燼に帰した。国内全体の損害総額が八〇億ドルとも見積もられるなど、フィリピンは文字通り壊滅状態に追い込まれた」。その惨状は、世界的に見ても異常で、「一九四六年五月にマニラを訪れたアイゼンハワー将軍は廃墟となったマニラの光景を見て啞然とし、「ワルシャワ以外に、このような最悪の破壊を目にしたことがない!」と叫んだと報じられた」。

 本書は、のちの大統領で1953年に日本人戦犯に恩赦を出して、全員の帰国を許したエルピディオ・キリノが、1945年2月のマニラ市街戦で家族7人のうち、妻、次男、長女、三女の4人を同時に失った場面からはじまる。妻と長女の遺体を数日間道端に放置せざるを得なかった計り知れない悲しみを感じると、なぜこのような寛大な恩赦を出すことができたのか、まず最初にその謎を知りたいと思った。その謎は本書である程度は理解できたが、そのフィリピン人の寛大さを理解し、戦後の日本とフィリピンとの関係にいかせなかった日本人に憤りを感じた。わたしの個人的な感想は後にして、まず本書の学問的価値をみていこう。

 本書の概略は、表紙見返しにつぎのように適確にまとめられている。「フィリピンにおける日本軍の残虐行為の捜査が本格化した一九四五年から、国交が回復されない中、モンテンルパのBC級戦犯全員が釈放された一九五三年までの八年間、アジア・太平洋戦争をめぐって日比両国は何を考え、どのように向き合ったのか。膨大な一次資料とインタビューに基づいて、戦後日比関係の出発点となった対日戦犯裁判のプロセスを明らかにし、その歴史的な意味を再考する」。

 著者、永井均は、従来の対日戦犯裁判の歴史研究を「自国中心の戦争観・裁判観に基づく一国史的な見方」ととらえ、それを乗り越えるために、「すでに忘れられ、風化しつつあるフィリピンによる対日戦犯処理への取り組みの軌跡を日比両方の視点から見つめ直し」たいという。著者は、本書の特徴をつぎのように説明している。「従来の対日戦犯裁判の歴史研究では、米英等、戦犯裁判を実施し、これを主導した大国(宗主国)の政策や大国間の政治力学の解明が精力的に進められ、多くの成果を上げてきた。その一方で、日本軍に侵略・占領され、国土が戦場となったアジアの側から描く研究はやや取り残された感がある。前述のように、日本軍の残虐行為が多発したフィリピンを分析の軸に据えた研究蓄積は、日本はもとより、フィリピン、米国においても、あたかも死角をなすが如く極めて乏しかった。以上のような研究史の中で、本書は従来の日比関係史や戦犯裁判研究で看過されてきた主題に関する萌芽的な研究と位置づけることができよう。その特徴は、第一に、東京裁判論、あるいはBC級裁判論として、従来の戦犯裁判研究で個別に研究されてきた二つの対日戦犯裁判を、フィリピンの視座から、捜査、裁判、赦免、釈放に至る対日戦犯処理の全体を視野に入れて系統的に考察を加えたところにあり、第二に、分析に際しては一国中心的な見方を排し、戦犯問題をめぐるフィリピン側の政策動向に日本側の立場と対応-認識・戦略・行動-を交差させ、フィリピンの旧宗主国で対日占領を主導した米国の関わりも視野に入れるなど、フィリピンと戦犯問題について多面的な検討に努めたところにある」。

 著者が控えめにいう「萌芽的な研究」としては、ひとまず成功したといっていいだろう。「国際社会の視線を意識しつつ、そして何よりも自国民の強い反日感情に囲まれて対日戦犯裁判を遂行することになった」「フィリピン軍による戦犯裁判は一九四七年八月一日から四九年一二月二八日まで実施され、七三のケース、被告一五一名が主に現地住民の殺害、虐待、強姦等の廉で裁かれた。米軍から移管された容疑者の半数以上がその容疑を「解除(cleared)」される一方で、起訴された戦犯の約九〇%が有罪を宣告され、その約半数に当たる七九名に死刑判決が下され」た。しかし、その「死刑判決を受けたフィリピン戦犯のうち、実際に刑を執行されたのが約二割(一七名)にとどまったという低い執行率は、他国(米国、英国、中国、フランス、オランダ、オーストラリア)が実施したBC級裁判での高い執行率(約八割)と比較した時、著しい対照をなしていた」。この著しい対照を、本書はまだ充分に説明し切れていない。それは、他国のそれぞれの戦犯裁判の研究を相対化する研究が、まだ充分でないからである。

 たとえば、いろいろと曲解されるインドのパル判事については、フィリピンのハラニーリャ判事の選出のいきさつを知り、「パル判決」を批判するハラニーリャの「同意意見」を読むと、従来とは違った評価が出てくるだろう。ハラニーリャ判事は、パル判事と同様、第一候補ではなく、第一候補が辞退した後、有力候補を差し置いて、定かな理由なしに選ばれた。しかも、当時62歳と高齢で、その5年前に軍人としてはかなり高齢の57歳の時にバタアン戦敗戦後の「死の行進」を経験していた。多くの部下を失い、自身日本軍による虐待を受け、収容所で病気と栄養失調のために死線をさまよった。

 ハラニーリャ判事は、東京裁判の判決(多数判決)を作成した多数派判事のひとりであったが、「われわれ多数意見の者は、すでにわれわれの決定を書き上げ、本官はそれに同意するのであるが、卑見によれば、さらに論議と説明を必要とするいくつかの点があるので、本官はこの同意意見を書かないわけにはいかない」と、1948年11月1日付で「同意意見」を裁判所に提出した。11項目からなる意見書のなかには、東京裁判の正当性に根本的疑義を呈したパルを批判したものが含まれている。そして、一部の被告について、より厳しい量刑を求めた。東京裁判には、BC級戦犯裁判を実施した7ヶ国のほかにソ連、カナダ、ニュージーランド、インドが加わり、検事、判事を指名し派遣した。これらの検事、判事のそれぞれについて、あまり知られていない。

 著者は、日比関係史や戦犯裁判研究の新たな展開の基礎となる研究を試みている。ともに、本書を従来の研究の主題にどうからめていくかが、ポイントとなる。日比関係史であれば、賠償問題を含め、戦前からの人脈を辿って多くの日比両国の人びとが水面下で動いた。敗戦直後から、日本の商船はマニラに入港していた。また、戦犯裁判にかかわった欧米人は、第一次世界大戦後のことが念頭にあった。たとえば、天皇の戦争責任をめぐっては、ドイツ皇帝の戦争責任の問題を意識せざるを得なかっただろう。アジア・太平洋戦争の戦後処理は、第一次世界大戦から引き続く第二次世界大戦の戦後処理の一面ももっていた。

 日比関係史にかんして、本書には新たな展開を期待させるものが多く含まれている。そのひとつが、戦後認識が日本とフィリピンとで大きく違ったことであり、それが戦後の日比関係に大きな負の影響を与えた。本書から、いくつかの具体例を拾ってみよう。  まず、敗戦時に、「フィリピン人と交流を深めていた在留邦人も含めて、大多数の日本人は敗北するやいなや、フィリピン社会のどこにも身の置きどころがなく、フィリピン人から文字通り石をもって追われた。そして、少なからぬ日本人たちが「二度ともうフィリピンなんかに来るものか」と、恨みに近い感情を抱いてフィリピンを後にした」。

 先にとりあげた「ハラニーリャの「同意意見」は日本では一部新聞に論評なく、小さく報じられただけだった」のにたいして、「フィリピン国内では多くの新聞がハラニーリャの「同意意見」を取り上げ、その見解を肯定的に報じ、彼の見解がフィリピン国民の感覚にも沿ったものだったことを示唆」した。「日本国民は、戦争の主たる責任は指導者にある」とし、「傍観者的な態度で裁判を他人事と見なし、次第に裁判自体にも強い関心を向けなくなった」。その要因のひとつは、新聞各紙が裁判に充分な紙面を割かなかったためで、「東京裁判の判決を見つめる日本国民の視界から、フィリピンなどアジアの被害者の存在は外れていた」。「日本側は東京裁判で裁きが終わり、過去の問題が一応の決着を見たと感じ、その関心と視線を将来の平和構築に移そうとしたが、フィリピン側はこれを拒否した」。「このように、東京裁判が終結を迎えた時、戦争と占領をめぐる両国の立場の隔たりは余りに大きく、日本のフィリピン占領で生じた日比間の亀裂が修復に向かうきざしは全く見えなかった」。

 日比間の隔たりを埋める絶好の機会は、フィリピンのモンテンルパ刑務所に服役していた日本人戦犯が恩赦され、日本に帰国する時に訪れた。その前に、フィリピンでの戦犯の待遇についてみてみよう。「モンテンルパの獄窓でフィリピン人看守と会話を交わし、あるいは友達のような関係を築いていく者もあった。他国の戦犯(容疑者)収容所で私的制裁(リンチ)が横行したとの伝聞が少なくない中(とりわけ英軍が管理するシンガポールのチャンギー刑務所とオートラム刑務所に顕著だったという)、モンテンルパで虐待を受けたという回想はほとんどなく、むしろ寛大さを評価する向きが多いように見受けられ」た。食糧、衣糧、嗜好品についても、「「品種その他についても殆ど制限を設けなかった」ように、フィリピン当局は救恤品の件についても「非常に寛大」で、その後も、復員局の救恤品に加え、来訪者の差し入れなど「正規のルート以外」の救恤物資(金銭も含む)などもモンテンルパに流入した」。

 そして、自分の家族を日本人に殺されたキリノ大統領と弟を殺されたり虐待されたりしたエリサルデ外務長官は、苦渋に満ちた決断をした。エリサルデの弟を虐待した「下手人」を含む日本人戦犯全員(再審の結果、死刑を確認された3名を含む)に恩赦を与えたのである。しかし、その交渉にあたった日本人は、その「苦渋」を日本国民に伝えることなく、詳細は報じられなかった。吉田茂首相からキリノ大統領宛への恩赦を求める書簡にも「キリノの妻子の死を悼む、あるいは謝罪にまつわる文言はメッセージに含まれていなかった」。恩赦発表後の岡崎勝男外相の談話は、敗戦直後にマニラ市街戦時の日本軍の残虐行為を知って、「嗚咽し、顔面蒼白となり、倒れてしまうと思われるほど」の体験をしていたにもかかわらず、たんに「キリノの「キリスト教的精神からでた寛大な措置」に「感謝」するとの表現にとどまり、それ以上踏み込むことはなかった」。その結果、「当時の日本の新聞論調は、フィリピン国民の対日感情がすでに好転し、日本人に赦しを与えたとの見方が中心」になっていった。

 しかし、現実は違っていた。帰国の途につくためにマニラ港埠頭に向かった戦犯たちは、「沿道の人達からあらゆるば声を聞いた」。取材のために来ていた新聞記者も、「戦犯たちの乗ったトラックがモンテンルパからマニラの港まで走る間、これを見送る路傍のフィリピン人たちの大部分は白い眼を向けて、「ドロボー」と叫んだ」と書いている。戦犯のひとりは、「比島人全体の対日感情をよくするためにはまだ日がかかると思う」と語り、記者は、フィリピン人の恨みや憎しみは、「生きているうちに消える日が来るかも知れない。しかし、それでも少くとも、十年、二十年の歳月はかかるにちがいない」と、一種のあきらめを感じた」ほどであった。

 そして、著者は、本書をつぎのように結んでいる。「キリノ大統領による戦犯恩赦は、日本側が隣国との歴史を顧みる一つの契機となりえたものの、当時の日本の国内論調はフィリピン国民の対日感情について主観的な楽観主義に傾き、過去の具体的内実を深く見つめ、そこから教訓を学ぶという公的規範の形成の転機とはならなかった。日比両国民の相互不信の悪循環を断つために、被害者側(フィリピン)が先んじて譲歩した「赦しの先行」は、日本側に過去を直視するよう促す問いかけとも見ることができるが、この問いかけは完結することなく、戦争をめぐる認識ギャップの最小化への努力を喚起するように、今なお未完の問いであり続けているのである」。

 日本人戦犯にたいする「赦しの先行」や賠償をめぐる問題の具体的なことについては、充分な証拠がなく、このような研究書に書けないことが多々ある。したがって、単純にフィリピン人の「寛大さ」でかたづけられないことがあるのは確かである。しかし、そういった「寛大さ」であっても、日本人はそれを真摯に受け止め、「未完の問い」に向き合う必要がある。わたしが本書を読み終えて憤りを感じたのは、本書から日比関係においては戦後処理が失敗であったと読み取ったからである。戦後処理失敗の「戦犯」は、日本占領下でフィリピン人が味わった痛みを知りながら、それを国民に伝えなかった人びとである。当時の状況から言えない、書けないことがあったとしても、フィリピン人の「寛大さ」を身をもって体験した人びとは、機会をみてそれを伝える責任があったはずだ。それをしなかった、あるいはできなかったのは、知ろうとしなかった国民にも原因がある。つまり、日本国民すべてに、日比間にかんして戦後処理に失敗した責任がある。それが、戦争を知らない世代にも、今日まで重くのしかかっている。なぜこれほど、日本人は敗戦後、とくに戦場としたフィリピンを含む東南アジアにたいして鈍感になったのか。本書のように、その原点を問い続けなければ、フィリピン人の痛みを理解し、わだかまり抜きの友好関係を築くことはできない。「十年、二十年」どころか、65年たってもフィリピン人のわだかまりは消えず、戦争を知らない世代にも着実に受けつがれていることを、日本人はもっと深刻に受け止める必要がある。

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2010年03月16日

『グローバル・ヒストリー入門』水島司(山川出版社)
『グローバル・ヒストリーの挑戦』水島司【編】(山川出版社)

グローバル・ヒストリー入門
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グローバル・ヒストリーの挑戦
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 『グローバル・ヒストリー入門』は、「近年さかんに成果が出されているグローバル・ヒストリーについて、ヨーロッパとアジア、環境、移動と交易、地域と世界システムという項目を便宜的に分け、いくつかの研究の紹介」をしたものである。「グローバル・ヒストリーには文字情報をおもにあつかう歴史学者だけではなく、多くの自然科学者も参加し、これまでになかった斬新な手法と多様な情報が駆使された成果が続々と生み出されてきている。これらの研究は、今後の歴史学のありかたを大きく変えるもの」で、著者、水島司は、「本書によって、グローバル・ヒストリーの概要が伝えられ、歴史学のいっそうの広がりと深まりと魅力がもたらされ」ることを期待している。

 『グローバル・ヒストリー入門』の原型は、2007年4月から7月にかけておこなわれた東京大学教養学部連続講義などを基に、著者が編集した『グローバル・ヒストリーの挑戦』の「序章 グローバル・ヒストリー研究の挑戦」にある。そこでは、世界システム論、人類史、環境史、疫病史、人やモノの動きの歴史、生活、地域史・地域システム、アジアとヨーロッパ、帝国といったテーマが、おもな文献とともに紹介されている。

 『グローバル・ヒストリー入門』は、元々の企画では『グローバル・ヒストリー』というタイトルであったが、「入門」が付け加えられた。この「入門」が付け加わったことが、グローバル・ヒストリーの現状をよくあらわしている。本書で紹介されているように、グローバル・ヒストリーの必要性が唱えられ、志ある研究者がそれに挑戦している。その成果は、『グローバル・ヒストリーの挑戦』で「第Ⅰ部 グローバル・ヒストリーの方向」と「第Ⅱ部 グローバル・ヒストリーの試み」の2部に分けて、12人の日本人と1人の外国人によって語られている。各部の「方向」「試み」が示すように、グローバル・ヒストリー研究が進展することによって、どのような歴史観が登場し、未来を切り開くための考察・分析をすることができるのか、まだ定かではない。

 したがって、『グローバル・ヒストリー入門』では、最後に「グローバル・ヒストリーの課題」が取りあげられ、「グローバル・ヒストリーは、現在にいたる人びとのさまざまな共同性のあり方、人びとが生きてきた空間のあり方を、個のレベルからと地球全体のレベルからの二つの視点が交差するなかで描き出すとともに、近代という時間的限定性のなかで地球をおおうことになった国民国家の相対的位置づけをそこにおいておこなうという課題を担うことになる」とした。さらに、「グローバル・ヒストリーと日本における歴史教育のあり方についてふれ」、つぎのように締めくくっている。「もちろん、どのような歴史教育がなされるべきかという問題は、たんに教育の場のみが背負うものではない。ありうべき歴史認識、世界認識の形成に資する教育のあり方は、自身の立つ時間的位置と空間的位置、そして社会的位置を明確に認識しつつ、人と人との新たな繋がりを求めて模索する人びとすべてに資するものであるからである。そうした人びとの期待にこたえることが、グローバル・ヒストリーの課題であり歴史学の課題ではなかろうか」。

 『グローバル・ヒストリーの挑戦』全13章をみると、具体的な事例に基づいて論じているものとそうでないもの、その具体的事例でもそのデータに疑問をもちながら論じているもの、議論の枠組みをつくろうとしているもの、グローバル・ヒストリーの成果をどのように研究・教育に活用できるかを論じているものなど、さまざまである。はっきり言えることは、グローバル・ヒストリーという考え自体が、まだ確固たるものになっていないことである。具体的な事例の積み重ねと豊かな想像力が相まって、「試み」がおこなわれ、「方向」が定まってくるのだろう。「入門」で得たことを確認しながら「挑戦」を繰り返すことで進展していくグローバル・ヒストリー研究のゆくえを見守りたい。


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2010年03月09日

『「沖縄核密約」を背負って-若泉敬の生涯』後藤乾一(岩波書店)

「沖縄核密約」を背負って-若泉敬の生涯 →bookwebで購入

 2009年12月22日、沖縄核密約文書の原本を故佐藤栄作首相の遺族が保管しているニュースが大きく報じられた。その「密約」の「黒子」を演じたのが、若泉敬(本名「たかし」、外国人には「けい」で知られる)であった。本書は、無告の民や歴史の脇役を通して、時代や社会の本質に迫る研究書で知られる後藤乾一の新刊である。個人的にも大学1年生の時から交流があり、「密約」を明かした遺著の「最初の読み手」(?)となった著者が、「若泉氏との「墓場までの沈黙」の約束を反古にする形」で出版したものである。

 本書の概要は、表紙見返しにある。「一九六七年から七二年にかけ、佐藤首相の特命を帯びてロストウ、キッシンジャー補佐官と沖縄返還に関わる「核密約」交渉に当った若き国際政治学者・若泉敬(一九三〇-一九九六)。彼は九四年に著書『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』を公刊し、国家機密の守秘義務を犯すことを承知で、有事核再持ち込みについての「秘密合意議事録」作成の全容を告白する。晩年は核持ち込みという〝代償〟を強いた沖縄への自責の念から、末期ガンの病軀をおして沖縄への慰霊の旅を重ね、仏門に帰依し、蔵書を焼き、家族と義絶する。若泉はなぜ密命を受任し、凄絶な生涯をたどらなければならなかったのか。現代史家が活写する、ある「国際的日本人」の同時代史」。

 著者は、先行研究における若泉敬像をつぎの3つに大別し、類型化している。「第一は、若泉を私利私益を顧みず、沖縄返還交渉という重要な外交課題に一身を擲(なげう)った「国士」として位置づける、またより積極的には「神話化」する立場である。第二はそれと対照的に、戦後日米関係を畸形(きけい)的なものとした数々の密約の内、もっとも重大な一つに深く関与し、従属的「日米同盟」を民間の立場から補完的に支えてきた親米派知識人の典型とみる見方である。そして第三は、そうした正負の評価は別にして、日米関係、ひいては国際関係における知識人の果たした役割の事例として、若泉を位置づける立場である」。

 著者は、これら3類型を参考にしながらも、「いずれの立場にも軸足を置くことなく、「後期戦中派」知識人の一人である国際政治学者若泉敬の思想的、学問的、政治的足跡を辿りながら、その人間像と彼の生きた同時代史を、著者なりに描いてみたいとのささやかな思いから執筆」した。そして、「若泉敬という人物についての「価値的評価」は努めて避けることを心掛けた」。

 陸奥宗光の回想録『蹇蹇録(けんけんろく)』の一節をタイトルとした畢生(ひつせい)の著は、1980年50歳のときに故郷福井に「隠棲(いんせい)」してから94年の出版までの決意を、「筆硯(ひつけん)を焼く」をいうことばであらわした。しかし、若泉は「公刊から死去までの二年二ヵ月の間、二つの深い思いに苛まれ続けた」。「第一は、「国事犯」として告訴されることを覚悟しつつ、「国家機密(密約)」を明るみに出すことを通して彼が訴えた〝信念〟が、理解されなかったとの絶望的なともいえる思いである」。「第二は、近現代史上「本土」との関係でさまざまな負荷を背負わされてきた沖縄とその地に住まう人々に対する、若泉の贖罪(しよくざい)意識のよりいっそうの先鋭化である」。

 若泉は、那覇から定期購読で取り寄せていた沖縄二大紙を読み続け、「施政権返還は、沖縄にとって良かったのか」を問い続けた。そして、1985年那覇で弁護士としての仕事を終えた最愛の妻は、その途次心臓発作を起こし、6月23日の「沖縄慰霊の日」に急逝した。55歳であった。沖縄での戦跡めぐりをしたことのある者ならわかるが、多くの人が亡くなった地下壕やガマ(洞窟)に入ると異様な気配を感じる。晩年の若泉が、沖縄への慰霊に旅にこだわり、「国立沖縄戦没者墓苑において自裁」する決意にいたった理由は、沖縄の歴史と現状を知っている者なら、容易に想像できるだろう。

 著作公刊から死去までの2年余、「歴代政権は「秘密合意議事録」の存在自体を否定し」続けた。若泉の最後の願いは、英訳版の出版であった。その序文を死去5ヵ月前から沖縄最南端の与那国島で書き、英訳本刊行の契約が完了した直後に青酸カリで「自裁」した。

 「若泉敬という人物についての「価値的評価」は努めて避けることを心掛けた」著者の姿勢は正しかっただろう。そして、「ただ「歴史の闇の奥深く」に若泉を〝置き去り〟にしてしまうことは、現代日本にとって大きな損失であるとの思いは、筆者の中に牢固(ろうこ)としてある」というのも、よくわかる。いまになって「他策」があったかどうかを問うことは、あまり意味がないだろう。沖縄の現実に眼を向け、状況を改善する努力をすることが、残された者のつとめだろう。そのとき、「若泉の生涯を通して、その凄絶な晩年の謎に迫る」本書は、その「つとめ」の意味をよりいっそう理解させるものになる。

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2010年03月02日

『在郷軍人会-良兵良民から赤紙・玉砕へ』藤井忠俊(岩波書店)

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 「矛盾に満ちた在郷軍人会の全貌を描き出す」。著者、藤井忠俊は、すでに『国防婦人会-日の丸とカッポウ着』(岩波書店、1985年)や『兵たちの戦争-手紙・日記・体験記を読み解く』(朝日選書、2000年)などの著書があり、民衆の視点で戦争に荷担していく実像を明らかにしてきた。戦争は、一部の軍国主義者が暴走しただけではなく、それに追随した多くの民衆がいたから起こった。それらの民衆に戦争責任がなかったとは言い切れないとともに、民衆がなぜ追随していったのかを検証する必要がある。なぜなら、それらの民衆は、いまのわたしたち同様、「侵略戦争」に荷担していくとは思いもよらなかったにもかかわらず、いつの間にか荷担していったからである。

 本書の概要は、表紙見返しにある。「「国体明徴運動」を主導し、戦前のファシズム体制を代表する組織としてのイメージが強い在郷軍人会。しかし、その実態はあまり知られていない。総力戦にそなえた社会の軍事的再編をも射程に入れた陸軍による組織運営は、地域秩序の中で生きる民衆でもある在郷軍人たちを前にしてどこまで貫徹されたのだろうか。軍隊的価値観と民衆的価値観との間で揺れ動き続けた在郷軍人会の歴史を、日露戦争後の発足からアジア・太平洋戦争敗戦による解体までを通して描く」。「国体明徴運動」とは、議会政治の役割を強調する美濃部達吉の天皇機関説を排撃するために、1935年に在郷軍人や右翼などは起こした政治「粛清」運動である。

 1910(明治43)年11月3日に発足した帝国在郷軍人会は、日露戦争後、将来の総力戦を見据えた軍部の思惑から設立された。しかし、著者は、「もっと基本的な問題として、在郷軍人自身にどのような主体的な動きがあるのか」を問い、「在郷軍人会の前身ともいえる在郷軍人団の共同体内での統合過程を性格づけるもっとも重要なファクターとして帰還兵と尚武会の関係、その戦後の動きに最大の注意を払っておきたい」という。尚武会とは、町村「共同体内の資産家有志による救済システム」である。

 在郷軍人会の設立とともに、市町村単位で分会が設立され、選挙で分会長が選ばれ、自治制的よそおいを見せた。分会事業としては、大正改元記念に各町村で忠魂碑が建てられた。しかし、大正デモクラシー影響下での軍備縮小論、軍隊批判のなか、在郷軍人会は米騒動、労働争議、小作争議、参政権運動に関与し、その風潮にのっていく。「民衆力の突出とその社会的再編、それに市民的価値の上昇」に危機感をおぼえ、「国民の後援なしには戦争はできない」と考えた軍部は、国家主義を主張し、在郷軍人会を総動員体制下に組み込もうとした。

 そして、1931年9月18日に起こった満洲事変を契機として、在郷軍人会は「銃後」の責任を負い、国防思想普及運動、慰問金運動、軍用飛行機献納運動などに積極的にかかわっていった。さらに「非常時を駆ける国家主義郷軍団」として、「戦争を強行する軍部の支援に、あるいは代弁者として日本国内と銃後に向かって発言し、宣伝役にのり出し」、「無制限の軍備拡張時代へ、さらに戦争の時代へと突入する」「非常時の流れにのった最大の国内団体」となっていった。

 このような「非常時」のなかで、人びとの感覚が麻痺していった例を、本書のなかに2つ見いだすことができる。ひとつは、日本人が「匪賊」とよんだ反満抗日軍に関連する。「匪賊」は、「当初は中国軍隊の残存兵だったが、やがて、日本人移民が極めて安い土地代を与えて収奪した土地で農業を営んでいた現地農民、生業を奪われたものたちが主体的になっていた」パルチザンである。日本人移民のすべてが荒野を開拓したわけではなく、収奪した土地に入植することに罪悪感はなかった。

 もうひとつは、満洲事変後、「皇軍」とよばれるようになった日本兵の「徴発」という名の略奪行為である。「兵たちが行軍中の小休止で、鶏や豚や羊をとったり、芋や野菜をとり、分隊で調理」する行為は、「ほほえましいエピソード」として、当時ベストセラーになったルポルタージュに描かれ、検閲にひっかからなかった。この「徴発への甘さ、時にはその奨励ともいえる態度が内部的には風紀にかかわり、外部、とくに戦地住民に対しては悪い印象を与えている。しかも、徴発は日本兵の戦地での強姦に結びつくことが多い」。

 「良民良兵を標榜して兵と農民を結合した」在郷軍人会のメンバーは、「農民から市民へと変化し」、やがて「赤紙召集を待つ立場の市民へと変貌していく」。「その行きつく先に玉砕が待っていた」。

 著者は、「終章」の最後で、「明治・大正・昭和にまたがる在郷軍人会は本当に必要だったのかとあらためて問いただすことは無駄ではない」とし、つぎのように結論している。「徴兵制を維持し、日本軍隊を強兵化することは、徴兵検査と入営までの教育制度に依存する国民教育だけでは無理であった」。「在郷軍人会の運営原理は、①まず良兵良民主義。それは明治期の軍国主義を構築する最良の方途と思われた。ところが大正デモクラシーにさらされて、②国民皆兵原理を反動的に導入する。そして新しい戦争を始めてみると、③総動員予備軍そのものになる。その間にはデモクラシー退治が必要であり教育の助けを得て国民の皇民化が必要になるのだった。だが、その時でも明治の原理が底を流れて、国民の支持を得るには良兵良民の地域社会に頼ってムラから送り出さなければならなかった」。「在郷軍人会は徴兵制を維持し、国民の支持を得るための最大の地域組織だったと結論できるであろう」。

 軍部は、「国民の後援なしには戦争はできない」ことを、よくわかっていた。国民が後援しなければ、戦争は起こせなかったのだ。ということは、近代に起こった国民国家の戦争の責任は、国民にあることになる。それを国民が認識することによって、新たな戦争は起きない。その認識のためにも、「明治・大正・昭和にまたがる在郷軍人会は本当に必要だったのかとあらためて問いただすことは無駄ではない」。

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