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2009年12月22日

『変わるバリ 変わらないバリ』倉沢愛子・吉原直樹編(勉誠出版)

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 「本書は、グローバル・ツーリズムの中で大きく変容し、さらに多様化しつつあるバリを、新しい視点で捉えなおしてみようという発想から始まった」と、「はじめに」の冒頭で書かれている。そして、わたしは本書から、今日のバリの姿は、グローバル化の波にもまれ多様化するバリが、外からの開発にたいして「文化」で対抗し、世界の平準化・国民国家形成下のインドネシア化のなかで、「バリ化」を推し進めた結果であると読んだ。しかし、その「文化」「バリ化」が、これからも自主性をもって進めていくことができるのかどうか、不安も感じた。

 本書は、6つの視点をもって編集されたことが「はじめに」で書かれている。「第一の重要な視点は、バリの多様性である」。「第二に、掲載されたいずれの論文においても共通して提示されているもうひとつの視点は、常に変容しさらにいっそう多様化するバリを描く事である」。これら、「「変化」と「多様性」という前記のふたつの軸を論ずるにあたって第三に、その論議の前提になる問題が」「「伝統」そのものも捉えなおさねばならないということである」。「バリ人のバリ人たるゆえんの根幹になっているヒンドゥー教も、今のように教義が整備され、信仰形態も画一化されてきたのは、ようやく一九六〇年代のことである」。「第四に、既存の研究で余り表面だって論じられる機会が少なかった視点として、インドネシアという国家の中で、どのようにバリを位置付けるかという問題」である。「以上の点とも関連して第五の視点は、バリの独自性、あるいはバリとしてのアイデンティティーを、バリ人自身がどのように意識し、どのように表現し発信しているかという問題である」。「第六の視点は、「調和と平安に満ちた神々の住む島」という楽園イメージに対する再検証である」。そして、「以上のような様々な視点を基調に本書は、「外に広がっていくベクトル」と「内に閉じていくベクトル」とがせめぎあう、「混沌」と「自己確認」のなかのバリを描こうとしている」という。

 このような視点をもって、それぞれの執筆者が、「多面的な光をあてながら、そこから「いくつもの姿態」を描き出すことに腐心し」「「いくつものバリ」を浮かび上がらせ」ようとした試みは、かなり成功したといっていいだろう。その成功には、「バリといえば文化人類学者の金城湯池」という背景がある。そのことは、「むすびにかえて」の冒頭でつぎのように説明されている。「実際、夥しい数のモノグラフが累積されており、しかもどれをとっても後発の研究者にとっては燦然と輝くものばかりである。当然のことながら、そうした研究集積の結果、バリについて何らかの定型化された像ができあがっているとしても不思議ではない。この定型化された像は、いうまでもなく一朝一夕にしてできあがったものではない。長年にわたる博捜な資料解析と地を這うフィールドワークが幾重にも積み重ねられて織りなされたものである」。

 本書は、たんなるバリ紹介本ではない。本書の基層をなしているのは、現在社会科学においてもっとも大きな争点となっている「グローバルとローカル」という問題である。「グローバルな世界におけるバリの立ち位置が問われ、またその中でバリ的世界の出自と変容の位相が問い込まれ」、バリから世界や日本、ジャワが見えてくる。また、植民地支配を経験したバリにとって、「コロニアルとポストコロニアル」という問題も重要であった。「旧宗主国の植民地経営がジャワとは異なった社会文化構造をこの地に埋め込」み、「それは独立後のバリにも基底部分として引き継がれ、暴力的なまでの集権化をうながした開発独裁体制下でもしたたかに生き残った。そしてポスト・オルデバルの地方分権と民主化過程においても形を変えながら持続しているようにみえる」という。オルデバルとは、スハルト体制下の「新秩序」のことである。

 人類学者、社会学者を中心とする十数名の執筆者が、自分の専門性をいかして、現在のバリに切り込んで「変わるバリ」と「変わらないバリ」を考察した本書は、確かな分析視座の下にフィールドワークに基づく具体的な事実が語られており、読んでいて楽しかった。ただ、2点、気になることがあった。1点は、地図がまったくないことだ。バリ島と周辺の島々、行政区画が示してあるバリ島全図、とくに観光産業が盛んな地域と、すくなくとも3枚の地図がほしかった。

 もう1点は、さらに深刻な問題である。「はじめに」のおわりのほうに、つぎの記述がある。「いわゆる「癒し」の場として語られることが多かった。このイメージは、まず一九三〇年代にバリに長期滞在した欧米人によってつくられ、その後現代にいたるまで、「癒しの旅」を求めるよそもの達によって絶えず再確認されてきた」。「しかし歴史をみていくと、水平的には王国間の争い、垂直的にはカスト間の対立が絶えず、またインドネシア独立のための闘いの時期や、その後の国民国家形成の時代をみても、血みどろの争いがバリ人の社会内部で常にみられた」。そして、「むすびにかえて」で「コロニアルとポストコロニアル」が議論されている。にもかかわらず、本書は1942年の日本軍のインドネシア侵攻ではじまっている。

 19世紀はじめに存在した8つないし9つのヒンドゥー王国の成り立ち、1840年代の3度にわたるオランダとの戦争(バリ戦争)、そして20世紀に入ってオランダ植民地軍の力による植民地化、それにたいして「死への厳粛な行進」で対抗した王・貴族・女性や子どもを含む人びと、1908年にバリ島全島を植民地化したとはいえ、旧王国の領域ごとに行政区画をつくり、自治を与えざるを得なかったオランダ植民地政府、これらのことがわかってはじめて、「変わるバリ」「変わらないバリ」の本質がわかるのではないか。このグローバル化の時代にバリの歴史を本格的に語ることができる日本人歴史研究者がいなければ、どんなバリ研究をしても無駄だとはいわないが、これだけの日本人バリ研究者がいながら、その研究を支える基礎研究の歴史研究者がいないというのは、なんとも残念なことだ。

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2009年12月08日

『フィリピン関係文献目録(戦前・戦中、「戦記もの」)』早瀬晋三(龍溪書舎)

フィリピン関係文献目録(戦前・戦中、「戦記もの」) →bookwebで購入

 研究分野の発展には、専門研究書・論文だけでなく、研究・教育工具の充実も必要である。歴史学のような基礎研究では、とくに重要な意味をもつ。研究・教育工具が充実している分野は、研究をはじめやすく、研究者の数も多い。そして、研究・教育工具をつくるときは、多くの研究者の協力を得てつくられる。しかし、近現代フィリピン・日本関係史のような分野では、研究者はほとんどおらず、本文献目録の編集にあたってもひとりでせざるをえなかった。それだけに、国会図書館に勤めていた吉久明宏さんには、多くのことを教えられ、勇気づけられた。感謝の言葉もない。

 本文献目録は、目録を作成することを目的とした成果ではない。近現代フィリピン・日本関係史では、近代文献史学の手法が有効な制度史のような研究はできない。市井の人びとの言動に耳目を傾け、断片的な文献や口述史料に頼らざるをえないが、なかなか自信がもって論文を書くことができなかった。そこではじめた作業が、資料や刊行物を丸ごと理解することだった。フィリピン行き渡航者名簿、日米比貿易統計、「領事報告」、月刊誌『比律賓情報』の記事などから、データを整理したり、目録や索引をつくったりして、研究・教育工具、さらに大学の授業で教科書として使えるものを出版してきた。すべて、単編著でさみしいが、これらの研究・教育工具を利用して、卒業論文を書いている学生がいると聞くとうれしくなる。

 本文献目録の前半は、戦前・戦中に日本で発行されたフィリピン関係図書の目録である。30年間以上にわたって収集した成果であるが、とくに旧高等商業学校の所蔵図書を求めて全国を歩いた。小樽商科大学、山口大学、大分大学などで、収穫は多かった。雑誌記事とページ数ではほとんど変わらないパンフレット類が整理されて並んでいる書棚を見たとき、思わず図書館員の人たちに手を合わせたくなった。いっぽうで、無造作に段ボール箱に詰め込まれているだけのものもあった。ひとりで目録を作成したようなことを書いたが、これらの地道に図書を整理している人たちがいて、この目録も作成できた。その人たちからよく言われたのが、あまり使われない文献を遠路遙々訪ねてきて、使ってもらえて文献も喜んでいる、という言葉だった。もちろん、喜んでいたのは整理した人たちで、それを利用できたわたしも喜んでいた。そして、この文献目録を出版したことで、喜んでくれる人がいることを願っている。

 後半は、フィリピン関係の「戦記もの」の目録である。寄贈された「戦記もの」を、国会図書館や地方の公共図書館で見ることができる点数は限られている。現在もっとも多く、まとまって開架式で閲覧できるのは、奈良県立図書情報館の戦争体験文庫コーナーである。募集して集めた「戦記もの」など約5万点の資料が閲覧できる。靖国神社にある靖国偕行文庫や厚生労働省が戦没者遺族の援護施策の一環として1999年にオープンした昭和館の図書室にも、戦友会や遺族から寄贈された自費出版の「戦記もの」が書庫に多く所蔵されている。2006年にオープンしたしょうけい館(戦傷病者史料館)にも所蔵されている。大学では、立命館大学国際平和ミュージアムの国際平和メディア資料室に集められている。これらの図書館・図書室を何度も訪ね、フィリピン関係だけで1300点ほどの「戦記もの」を確認した。これだけの点数が書かれた意味と背景を、じっくり考えたいと思っている。

 こういう工具を作成するには、多くの時間が必要だった。しかし、その時間はけっして無駄ではなかった。文献ひとつひとつと対話しながらの作業だったからである。そして、その対話は広がり、繋がっていった。資料や刊行物は、自分の研究と直接関係のある部分だけをつまみ食いして利用しがちである。だが、丸ごと理解することによって、研究テーマを相対化することができた。なにより、資料や刊行物が書かれた時代や社会の息吹を感じることができたような気がした。同じ体験をすることができる若い研究者が現れることを願っている。
            *        *        *
 これで終わりにしようと思ったが、ひとつ重要なことを書いておかなければならないと思い直した。みなさんのなかには、1300点ほどの「戦記もの」の現物確認に、なぜこれほどこだわったのか、疑問に思った人がいるかもしれない。わたしの趣味や性格からと思っている人がいるかもしれない。だが、そんな単純なものではないことを知ってほしい。戦争について、日本人が書くことの重みが、そうさせたのである。

 わたしも、はじめ戦争のことにかかわりたくなくて、日本・フィリピン関係史は1941年までと決めていた。東南アジアを研究する者にとって、どうしても東南アジア側の視点で書くことが優先され、戦争については公平に書くことなどとてもできないと思っていた。それが、いつしか日本人として書くことを避けては通れないものであると認識するようになった。でも、なかなか書けなかった。書けば、東南アジアの人びとからは日本人の自己弁護のようにとられ、日本人のなかには「自虐史観」ととらえる人もいるだろう、と思った。

 そんななかで大切なことは、いかに客観的な事実に基づいて語るかだった。しかし、「戦記もの」のようにいろいろな経験、立場から書かれたものは、より扱いが難しい。とにかく、全体像を把握しなければと思い、ひとつひとつ現物確認をしていった。予想をはるかに超える数が出版されていたため、手間取ったがなんとかここまできたというのが実感である。現物確認できていないが、情報としてもっているものがまだまだある。「もう勘弁してください」という思いで、打ち切った。本文献目録を見て、これも抜けている、あれもない、と気づく人がいることは承知している。「全体像」ではないが、これである程度「客観的」に語ることができるものは提供できたと思う。それでも、日本が戦場とした地域の人びとのなかには、日本人が戦争について語ることを許さない人がいるだろう。日本人のなかには、恣意的にとって、都合のいいように戦争を語る人がいるかもしれない。危惧すれば切りがないが、避けて通れば時代が前に進まない。戦後が終わらない。この文献目録の出版を通して、日本人が戦争を語ることの重みを、感じとってくれる人がひとりでも増えることを願っている。そうなることで、戦後の終わりが一歩近づく。そう信じたい。

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2009年12月01日

『川辺川ダムはいらない-「宝」を守る公共事業へ』高橋ユリカ(岩波書店)

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 ものごころついたときから川べりを歩き、泳いだり、釣りをしたりした川は、もうない。瞼を閉じれば、川面は浮かび、石の形まではっきりと思い出される。1957年に、突如、新聞報道でダム計画を知らされ、37年余の反対運動は95年に「終わった」。ダムは2005年に完成し、500戸近くが移転を余儀なくされた町の人口は700余世帯、2000人余まで減少し、町村合併で町の名は消えた。人生の大半を反対運動に捧げた人びとのほとんどは、解体されたわが家を地中に埋められ、町内に残ることなく散り散りになって、見知らぬ土地でさみしく人生を終えようとしている。

 この水没地区には、尺鮎もいなければ、急流下りもない。全国的に知られた子守歌もない。人びとは自分の食べる米を自分で作り、味噌も醤油も自家製で、四季折々に川で漁をし、すこしでも時間があれば山に入った。造り酒屋もあった。コンニャクをつくる者もいれば、ミツマタを栽培する者もいた。そこには、たしかに「ふるさと」があった。その「ふるさと」を、納得のいかない理由で失った。建設省や県の説明を聞けば聞くほど、調べれば調べるほど、合点がいかなかった。やれることは、なんでもした。活動家がやってきて、「なにをしてあげましょうか?」と「親切に」言ってきたこともあった。やがて訳のわからぬ住民を離反させる工作がおこなわれ、ひとの和も失った。

 本書に書かれている以上のことが、全国各地で巨大公共事業の名の下に、おこなわれてきた。わたしは、母の実家で、その様子をずっと見聞きしてきた。そして、ダム建設がたんに「ふるさと」を失った以上に、深刻な問題であることに気づいた。本書の著者、高橋ユリカも、そのことに気づき、「エピローグ」でつぎのように書いている。「地方への富の分配手段であった必要な土木公共事業が、その役割を終えても、政策転換できず、自然を壊し続けた十数年だった。宝を壊す莫大な公共投資は、生産性に結びつかないゆえに明らかに日本経済失速の原因にもなり、ことに地方に暮らす人々から幸福感を奪っている。土木公共事業については、地方自治体にも中央と同じ構造的課題があり一筋縄ではいかない」。

 問題は、日本にとどまらない。世界銀行や日本のODA(政府開発援助)は、世界各地でダムを造ってきた。無駄な公共事業が世界に「輸出」されるだけでなく、世界の自然や環境問題にも悪影響を及ぼす虞れがある。すべての公共事業が悪いわけではない。助かった人もたくさんいる。しかし、時代や社会によっては、住民にも、国にも地球にも必要のないものがある。巨視的な眼でみることが必要な時代になった。だから、外国の日本研究者も黙ってはいない。日本の公共事業の論理が世界中に広まり、自分たちの生活を脅かすかもしれないから。

 本書の内容については、カバー見返しに、つぎのように要領よくまとめられている。「二〇〇八年九月に発表された蒲島郁夫熊本県知事による劇的な「川辺川ダム計画白紙撤回」宣言。しかしここに至まで、四二年前に国が決めた、無駄な公共事業の象徴ともいわれる巨大ダム計画に住民たちは翻弄され続けた。人々が川を財産として生業としてきた漁業や観光を立ち行かなくさせ、ときに生命と生活すら脅かす巨大ダム。受益者である洪水体験者も農家もいらないといったダム計画にあくまで固執したのは、国交省・農水省だった。清流の流れる故郷を未来に残すため、誇りをかけて闘った多くの人々に長年にわたって寄り添い、その声を伝えながら、地域を再生させるこれからの公共事業のあり方をさぐる渾身のルポルタージュ」。

 政権が民主党に移り、早速八ツ場ダム問題がとりあげられた。事業仕分けでも、ほかの公共事業にメスが入れられた。ひとつ気になるのは、「はじめに結論ありき」で、一方的に説明されることだ。八ツ場ダムもはじめから中止が前提であり、事業仕分けも廃止・削減が前提のようだ。そもそも採算性や効率性が悪くても、しなければならないことをするのが税金ですることで、それをいいことに必要もないものに多額の税金を使ってきたことが問題で事業仕分けをする必要がでてきたのだから、調査すればどの公共事業も採算性や効率性が悪いはずだ。大所高所に立って、判断するだけの力量があるかどうかが、民主党に問われている。「はじめに結論ありき」で一方的に決定し、状況が変わっても力ずくで押し通そうとするのであれば、旧自由民主党政権と同じことをしていることになり、民意は離れていくだろう。官僚に訊くのではなく、受益者に訊くことも必要である。官僚いじめで英雄に見える「仕分け人」も、受益者が相手だと「弱い者いじめ」に見えるかもしれない。

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