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2009年11月24日

『ムガル帝国から英領インドへ』佐藤正哲・中里成章・水島司(中公文庫)

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 本書は、1998年9月に出版された『世界の歴史』の文庫版である。口絵の建造物の写真や絵画は小さくなったが、それでも観ているだけで、このような建造物を建てた権力者や絵画の背景となった文化や社会とはどのようなものだったのだろうか、想像をかき立てさせるものがある。

 本書は、「ヒンドゥーとムスリムの相克と融和を課題とした諸王朝やムガル帝国の盛衰を描く第一部、西欧による植民地化と反乱の歴史を活写する第二部、南インドの伝統と英植民地政策の葛藤を詳説する第三部より成る激動の歴史」を3人の歴史研究者が、それぞれ独自の切り口で描いている。

 第1部「ムスリム王権の成立と展開」では、インド北部が、いかにトルコ、ペルシャ、モンゴルといった遊牧民の征服王朝によって支配され、文化的に融合し、独自の社会・文化を築いていったかがわかる。中国の歴代王朝のうち半分以上が、遊牧民に起源をもつことが知られるようになってきているが、インドも中国同様、帝国の成立と社会・文化の発展が、征服民のもたらした制度や文物によって支えられていたことがわかる。

 たとえば、1266年に「奴隷王朝」のスルターンになったバンバンは、「スルターンの不可侵性と神秘性を強調するために古代中央アジアのトルコ人の伝説上の英雄アフラーシアーブにその系譜を求め、孫たちと曾孫にはペルシアの神話・伝説上の王朝ピーシュダーディーの創始者カユーマルス、同じくカヤーニー朝の初期三代の王名、カイ・クバード、カイ・カーウース、カイ・ホスローの名前をつけて権威づけ、自らの立ち居振る舞いには厳粛さ、もったいぶった態度を維持した。宮廷の儀式はペルシア式に、その礼儀作法はセルジューク朝やホラズム王国にならい、スルターンへの挨拶には跪拝(ひざまずいて礼をおこなうこと)をおこなわせた。しかも、中央アジアや西アジアから亡命してきた支配者や貴族たちもその例外ではなかったから、スルターンにいっそうの権威と威厳をつけ加えた」。

 このデリー諸王朝の時代にはじまったペルシャ文化の影響は、ムガル時代に顕著になり、インド文化と融合して、多彩な文学芸術が発展した。その背景には、ムガル朝が、祖国を追われた多数のペルシャ人の貴族や文化人を保護したことや歴代の皇帝の后にペルシャの王族・貴族の出身者が多かったことがある。そして、ペルシャ語が公用語となり、それがイギリスの植民地化後もしばらく続いた。

 このようにインド北部にとって、現在のパキスタンからアフガニスタンは侵略者の進入する入り口となるとともに、文化・文明を吸収する入り口ともなった。現在でも戦略的に重要な地であることの歴史的意味がわかった。しかし、第2部「英領インドの形成」では、ヨーロッパ人は海からやってきた。そして、ムガルがインドを組織化していたのを利用して、進出してきた。

 第2部では、「イギリスがなぜ比較的容易にインドを植民地化できたのかを考える」数々の要因をあげている。まず、「ムガル帝国は、ポルトガルの活動にまったく無関心であった。年代記の類にもほとんど記録を残していない。当時のインドの支配層は陸の支配を志向していて、ポルトガルからほとんど影響を受けなかったから、関心をもたなかったものと考えられる」という。それは、「十七世紀のインド洋貿易においては、ヨーロッパへ輸出する商品の主役が香料とコショウから綿布へ、主要な輸出品の産地が東南アジアからインドへと大きく転換し」、イギリスが台頭してきても、たいして変わりがなく、「インド洋貿易がインドにとって持つ意味は、まだ周辺的でしかなかった」。「ヨーロッパとの関係の影響が本当の意味でインドに現れてくるのは、十八世紀半ば以降のことである」。

 第2部の執筆者である中里成章は、インドの植民地化を容易にした疑問を解くひとつの鍵は、地方都市にあるという。「というのは、イギリスがインドを経済的に搾取するシステムをスムーズに展開できたのは、地方都市に住む商人たちのネットワークがすでに存在し、それを利用することができたからだと考えられるし、また、急速に拡大する支配地域に行政機構を順調に整備できたのは、地方都市で行政経験を積んだ役人層を取り込むことができたからだと考えられるからである」。そして、ラムモホン・ライ(1774-1833)のような「改革派」の指導者が、「外国支配が悪弊を生むことは自覚していたが、それよりもイギリス支配から得る利益のほうが大きいと考え」、さらに「イギリス支配の下でのほうが、インド人はより大きな自由を享受しているし、裁判所では正義が実現していると考え、そのような方向にインド社会が変わっていくことに希望を見いだしていた」からである。

 この第2部では、半分近くのページを占める「都市の生活」「農村社会とその変動」「中間層と女性」で、人びとの生活が生き生きと描かれており、支配者側から見た「植民地化」ではなく、生活する人びとの目線で「植民地化」がとらえられている。それは、最初のほうで述べられた「植民地支配の捉え方」のつぎの記述を、納得させるものにしている。「イギリスの植民地支配は十八世紀から二世紀近くの間続き、インド社会のあらゆる方面に大きな影響を及ぼした。カルカッタやN家の例を引くまでもなく、このことは議論の余地のない事実である。だが、それでは逆に、インド社会に起きた大きな変化をすべてイギリスの植民地支配に帰することができるかというと、事はそれほど単純ではない。たとえ植民地支配の下に置かれていても、インド社会にはインド社会としての固有の変化が進んでいたと考えたほうがよいようなのである。このことも、インドが数千年に及ぶ長い歴史を持つ地域であることを思い起こしてみれば、自明のことであろう。イギリスによる植民地支配体制は、インドとイギリス、この二つの個性的な力がぶつかり合うなかで、徐々に形成されていったのである」。

 第3部「南インド史の舞台」は、ユニークな構成になっている。それは、南インド史では18世紀まで「ほとんど資料らしい資料がない」ことによる苦肉の策の結果である。執筆者の水島司は、「色々と思い悩んだ結果、全体を五幕に分け、大きな政治的・経済的な流れは幕間で概説する形でおさめ、外国人の記録から窺えるような細かい歴史の襞の方は劇中で描くというやりかた」をとった。つぎに列挙した目次を見れば、その苦労がわかるだろう:「祈る-チョーラ時代」「幕間」「鍛える-ヴィジャヤナガル時代」「幕間」「耽溺する-ナーヤカ時代」「幕間」「崩れる-植民地化時代」「幕間」「刻まれる-植民地時代」。

 この5幕には、「五人の進行役が登場する。進行役と言っても、いずれもそれぞれの時代において、ある意味で主役あるいは準主役をつとめた者たちである。個性的な生涯を送りはしたが、彼らすべてが幸せな最期を迎えたわけではない。体に突き刺さる何本もの剣を引き抜こうと、もがきながら散っていった人物、自分で築いたすべてのものが失われていくことを病床の中で思いつつ息をひきとっていった人物、あるいは破れた夢を想いながらインド洋へと旅立っていった人物も含まれる。しかし、いずれの人物も南インド、インド洋、あるいは世界という空間に確実に足跡を残した点では一致しており、中には世界史のその後の流れの角度を少なくとも何度かは変える役割を果たした人物も含まれている」。

 本書から、インド史がインド亜大陸という地理的空間におさまらないものであることが、よくわかった。インドに影響を与えた国・地域や人びと、インドの影響を受けた国・地域や人びと、それぞれの歴史を考察することによって、インド史はさらに奥深いものになっていくように感じた。それは、遊牧民が行き交う大陸性のインドと海洋民が行き交う海洋性のインドが、織り合わさって歴史をつくっていくことによって生まれるダイナミズムと洗練された文化に表されている。

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2009年11月17日

『フィリピン社会経済史-都市と農村の織り成す生活世界』千葉芳広(北海道大学出版会)

フィリピン社会経済史-都市と農村の織り成す生活世界 →bookwebで購入

 「本書は、情報、生産物商品、資本、労働力の連鎖がその範囲を拡大して強化されると同時に、植民地支配とそれへの対応がせめぎあうという世界史的状況に置かれた一社会を分析することを課題とする」。その一社会とは「マニラ地域経済圏」で、「マニラを中心とする都市部とその周辺の農村部となる中部ルソン平野の双方が埋め込まれた社会経済空間を意味する」。

 著者、千葉芳広は、この空間をつぎの3つの視点で理解しようとしている。「第一には、地域のまとまりの基礎的単位をどのようにして認識するのかという問題」、「第二に、上述の社会関係としてのまとまりを異にする各地域が、ネットワークによりさらに大きな地域的まとまりを形成するとの見方」、「第三に、地域的特性としての文化が伝播して、同質的な文化的まとまりとなる地域の範囲が拡張するという見方」である。

 本書は、「序章」、3部6章、「終章」からなる。はじめから1冊の本として構想されたわけではなく、ここ10年ほどのあいだに書いたものを、「序章」と「終章」で意味づけた論文集である。著者は、「まえがき」で各部の内容を、つぎのように要約している。「第1部では、人口成長の動向を踏まえながら、マニラ地域経済圏における労働力移動やエスニシティ・性ごとの労働力編成をみる」。「第2部では、マニラと中部ルソン平野の生産労働を分析する。すなわち、マニラ地域経済圏における労働力移動の背景にある、都市と農村の両地域における労働諸関係の考察を行なう」。「第3部では、マニラ地域経済圏における流通取引の展開を、とくに米の取引およびその市場の展開に焦点を当てて議論する」。

 そして、各部各章での議論を踏まえて、「終章 近代におけるマニラ地域経済圏の変容」では、「2つの視点からみた地域社会」「都市、農村双方における社会的結びつき」「マニラ地域経済圏の時期区分」の3つに整理して、まとめている。

 それなりによく勉強して数々の問題点をあげ、本書で取り扱った事例をそれぞれの問題の解決のために、あてはめようとしていることがわかる。しかし、それがいまひとつ、フィリピン研究や社会経済史研究を深めていくためのものを提供しているようには思えなかった。その理由は、それぞれの研究の核心であるフィリピン革命とその後のアメリカ植民統治や社会不安の温床となった中部ルソン地方の農村社会の考察へと収斂していかなかったためだろう。具体的に、これらの研究の核心に迫っていくと、事例がいっそう生きたことだろう。

 著者が、「あとがき」で嘆いているように、「北海道で東南アジアを研究することの難しさ」が影響したこともあるだろう。「北海道の地で東南アジアを研究することにいったいどのような意味があるのか」、「フィリピン経済史を研究することは孤独との戦いでもあった」という著者が、本書を出版したことを心から喜びたい。本書の出版は、同じように「孤独と戦い」ながら「マイナーな分野」の研究を続けている人びとに励ましを与えることになるだろう。また、「マイナーな分野」の研究は軽視されがちだが、「メジャーな分野」の研究にも少なからず影響を与えていることを力説したい。「メジャーな分野」で当たり前とされていることも、「マイナーな分野」からの素朴な疑問から、見直しのきっかけになることがある。本人は気づかなかっただろうが、著者が「フィリピン研究を曲がりなりにも続けてくることができた」のが、「多くの人々の支えがあってこそ」ならば、著者自身もその多くの人びとを支えてきたことを誇りに思っていいだろう。本書の出版を機に、著者自身の研究の発展とともに、北海道の地で東南アジア研究が発展することを期待したい。

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2009年11月10日

『東アジア資本主義史論Ⅰ 形成・構造・展開』堀和生(ミネルヴァ書房)

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 2008年6月17日のこの「書評空間」で、先に出版された『東アジア資本主義史論Ⅱ 構造と特質』をとりあげ、「本書の「総論」の「提起」以上の評価については、この単著[Ⅰ]の発行を待たねばならない。そこで、地域研究者の社会経済史とは違った「生産、貿易、消費の展開過程と現状」がみえてくるかどうか、期待したい」と結んだ。わたしの期待にはこたえてもらえなかったが、「学界の通説「アジア間貿易論」の歪みを正し、戦後の東アジア台頭を新しい視点から照射する」試みは、充分説得力をもって伝わってきた。

 その成功の基本は、貿易統計の整理にある。著者、堀和生は「あとがき」でつぎのように述べている。「本書の資料はほとんどが貿易統計であり、入手自体はそれほど困難ではない。であるから、研究作業の大部分はデータのコンピュータ入力と、入力ミスのチェック、誤植探しに充てられた。経済史研究者が誰でも使う『日本貿易精覧』のデータを全部入力してみると、価額のみで誤植が500以上もあり、数量の誤植数は計り知れないことがわかった。この『精覧』は品目データが国別データとクロスしないことがわかり、結局使うことができなかった。他方、『日本外国貿易年表』は1882-1943年間の国別と商品別の全集計においてわずか1銭1厘のずれもなく、その正確さに驚愕した。このことから貿易統計の魅力にとりつかれて、しだいに朝鮮、台湾、満洲の貿易統計の整理に没頭するようになった」。先行研究の成果に振り回されることなく、データ整理という地道な作業を通じて、自分自身の基本データをもったことが、著者の最大の強みになったことだろう。そして、なにより使い物にならなかったデータを含め、作業を行いながら、頭のなかで試行錯誤を繰り返したことが、著者の財産になったことだろう。

 本書の課題は、「序章」冒頭で以下のように明確に述べられている。「本書の課題は、東アジアにおける資本主義の成立発展の過程を、長い時間的スパンのなかで歴史的に解明してゆくことである。すなわち、まず19世紀末から第二次大戦にかけて、日本に勃興した資本主義は、一方で東アジアにおいては中国の国民経済形成と対抗しつつ非常に閉鎖的な帝国圏を膨張させていくとともに、他方で世界市場に対して工業製品を輸出することによって特異な発展を遂げた。このようにして、1930年代東アジア地域には日本を中心として一つの個性をもった東アジア資本主義が成立することになった。さらに、第二次大戦後から1950年にかけての日本帝国の解体と植民地の独立、社会主義の成立と東西冷戦の展開、等のドラスチックな政治構造の転換によって、戦前期に成立していた東アジア資本主義は大きな影響を受けた。しかしながら、それでもなお戦前期に成立していた非対称的な資本主義的分業関係の本質は強固に存続し続けたのみでなく、戦後的な条件によって1960年代以降に再編成されて新しい東アジア資本主義として再登場した。そして、この東アジア資本主義の発展こそが、戦後東アジア地域の経済台頭をもたらしたのであった。本書はこの長期にわたる東アジア資本主義の形成と発展について、経済史学の手法で解明しようとするものである」。

 本書の課題は、いまや近代アジアの国際経済関係に関する通説となっている杉原薫の「アジア間貿易」論への疑問から出発している。著者は、この学説をつぎのように理解し、要約している。「1980年代半ばに登場したこの学説は、本書が対象とする東アジアにとどまらず、東南アジアや南アジアまで含んだ広範なアジア地域について、その長期的な経済発展を「アジア間貿易」の形成と発展という枠組みで捉える。その要点は次のようである。まず、ウエスタンインパクト、とりわけアジアの対欧米一次産品輸出が起点となって、アジア内に必需物資の広域交易の連鎖が急速に形成されていく。この「アジア間貿易」と名付けた貿易環節の束の高い成長率こそが、ラテンアメリカやアフリカでは見られないアジアの特徴であったとする。そしてこの「アジア間貿易」のなかで、綿業基軸の工業化型貿易が生まれ、さらにアジアの工業化が推し進められたと結論している。雄大な構想を持つこの学説は、折からのアジアブームとあいまって広く受け入れられ、現在では近代アジアの国際関係に関する通説的な位置を占めている」。しかし、著者は「この杉原の提案は、戦後歴史研究が積み重ねてきた成果をまったく無視した側面が多々あるといわざるを得ない」とし、「長期にわたる各地の貿易統計の分析を通じて、東アジアにおける資本主義の形成と発展の過程を解明」し、「アジア間貿易」論に対置する見解を、本書を通じて主張している。

 本書は、「序章 課題と方法」、3部11章と「結論」からなり、それぞれの部の冒頭で課題を明確にし、各部の終わりで「まとめ」をしている。各章においても、「はじめに」と「おわりに」で課題と成果をわかりやすくしている。「本書は、誰よりも杉原氏に書評していただきたいと願っている」と、著者が「あとがき」に書いているように、杉原氏が書評しやすいように、構成し書いたということができるかもしれない。杉原氏だけでなく、「アジア間貿易」論を絶賛した研究者の書評も読んでみたい。

 本書の結論は、「結論」を読むまでもなく「序章」でだいたいのことは書いてあるが、著者はつぎのように締めくくっている。「19世紀末以来100年以上にわたる複雑でダイナミックな過程をへているのであり、それらの多様性を組み込んだ包括的な概念がどうしても必要である。これが東アジア資本主義という新たな歴史概念を提起する所以である」。

 本書の結論は明確だが、気になることが「はしがき」に書いてある。「かつて筆者が学会において本書の一部を発表した時に、韓国の著名な経済史研究者から、このような反動勢力に利用されるような研究は断じて許すことができない、と面罵されたことがあった。その時には、自分の研究の未熟さを残念に思い、さらに実証を深め説得力のある理論を構築しなければならないと痛感した」。正当な学問的成果であっても、日本が植民地にしたり、戦争に巻き込み占領したりした地域の人びとに不愉快な思いをさせ、「反動勢力」に変に利用されることがある。著者がいうように「さらに実証を深め説得力のある理論を構築しなければならない」以外に、われわれ研究者にはすることがないように思うのだが、それでも不安は消えない。東アジアや東南アジアの近現代史を研究する者にとって、微妙な問題がまだまだたくさん残されている。

 本書で明らかになった結論から、新たな研究課題がたくさん浮かびあがってくることだろう。そのひとつが、日本の経済界の帝国化である。著者のいうように、戦前の東アジア資本主義が日本帝国のもとで帝国内分業のうえに成立していたのであれば、その膨張性が日中戦争を泥沼化させ、「大東亜共栄圏」構想へと発展させていったと考えることができる。このことは、「大東亜戦争」勃発後の占領地において、日本の企業が積極的に軍からの受命を期待したことと結びつく。さらに、戦後は戦争責任を逃れることによって、再び日本企業主導の東アジア資本主義を復活させた。著者のいう「戦前と戦後を通じた長期にわたる経済発展をトータルに把握」するためには、戦中と敗戦直後の日本の企業の動向を追う必要があるだろう。

 「アジア間貿易」論が発表されて以降、それを前提とした個別研究が発展したように、本書によって提示された「新しい歴史像」に基づいた個別研究によって、東アジア近現代経済史研究は新たな段階に入ることだろう。そのとき、消費まで視野に入れた社会経済史研究も発展することを期待したい。

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