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2009年09月29日

『ヤシガラ椀の外へ』ベネディクト・アンダーソン著、加藤剛訳(NTT出版)

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 まず、訳者加藤剛はじめ、著者アンダーソンのコーネル大学での日本人の教え子たちに感謝したい。著者自身が「必ずしも積極的でなかった」本書の執筆を引き受けた背景には、「本書を日本の若い人-研究者を志し大学や大学院で勉強している人、教職・研究職にある若い大学人のために書いてほしい」という編集者のことばに、かつて自身が指導した日本人学生の姿があったからだろう。日本語出版のためだけに書かれ、イギリス語での出版予定のない本書を読む幸運に恵まれたことに感謝したい。

 『想像の共同体』で知られる著者は、本書の主題として「私の幸運」を考えた。本書を読むと、たしかに幸運だったことがわかるが、それを幸運だと思うこと自体、著者の能力だろう。著者自身も、最後のほうで、たんなる幸運だけではないことをつぎのように説明している。「幸運は、学問の場においても日常生活においても、説明することができない。これが、研究者ならびに知識人としての自分の人生を語るに当たって、私が一連の幸運をことさらに強調した理由だ。私の生まれた時代と場所、私の両親と祖先、私の言語と教育、私のアメリカへの移動、そして私の東南アジアでの経験」。「好機というのは、しばしば予期せぬ偶然としてやって来るものであり、それがさっと目の前を通り過ぎる前に、勇敢にあるいは無謀に、これを捕まえなければならない。思うに、冒険精神ほど、本当に生産的な学問生活にとって決定的に重要なものはないだろう」。

 本書のタイトルとなった「ヤシガラ椀の外へ」は、「井の中の蛙」になりがちな「日本の若い読者へのメッセージの意味を込めて」決まった。言語学上まったく別の語族に属するインドネシア語でもタイ語でもある「ヤシガラ椀の下のカエル」「ヤシガラ椀の中のカエル」という意味の慣用句がもとになっている。「これが言わんとするのは、独りよがりの地方気質(プロヴィンシヤリズム)だ。ヤシガラ椀の下のカエルは、椀から這い出すことが叶わず、やがてカエルは、頭上にある椀の天井が天空だと思い込むようになる」。

 本書では、「ヤシガラ椀の外へ」出ることの意味や方法が、具体的に語られている。まずもって、「ディシプリン的近視眼と国粋的な自己中心主義の組み合わせほど、学生が創造的に考えることを妨げるものはない」という。したがって、著者は「ディシプリンの壁を崩す」必要性を述べるが、その解決策のひとつである「学際的(インターディシプリナリー)であるためには、まずディシプリンが存在しなければならない」という。また、「歴史学は時代と国によって分けられたが、この二つのカテゴリーに科学的な根拠は存在しない」と言い切る。そして、著者は、「第五章 ディシプリンと学際的研究をめぐって」を、「学際的研究の意味も、最終的には、この創造性と革新性にいかに貢献できるかとの関係で問われなければならない」と結んでいる。

 本書は、「著者と訳者の私たち二人の共同で仕事をする」ことの成果であり、日本の若い読者を想定したことから、訳者による補足説明が本文に挿入されている。そのひとつがアメリカと日本の教育研究機関における地域研究の位置づけの違いで、訳者はつぎのように説明している。「アメリカでは、東南アジア研究にしろ、どの地域の研究にしろ、地域研究は教育と不可分に結びついている。地域研究の創生からして、目的は当該地域の研究を促進すると同時に、その地域について専門知識を身に付けた人材を養成することにあった。しかし、日本の地域研究的な機関の嚆矢(こうし)であり現在でも代表的機関・・・においては、少なくとも当初の創設の目的は、大きな財団が存在しなかったこともあって公的資金に依存した研究組織の設置であり、学生の教育は含まれていなかった。共同研究が強調されるのも、アメリカとは異なる伝統である」。

 このことは、アメリカでは若い研究者を教育者として育てることが重視されたことを意味し、著者は自身の体験からつぎのように説明している。「若手教師が、東南アジアとは何の関係もない学部授業をたくさん担当するように仕向けることだった(私の場合でいうと、「社会主義の伝統」「イギリス連邦の政治」「軍の政治的役割」「政治と文学」といった授業を担当した)。これは、若手教師にとっては多くの負担を意味したが、東南アジア・プログラムが学内で孤立することや、オリエンタリズム的視野狭窄に陥ることを防ぐ役割を果たした。何よりも重要だったのは、プログラムの全ての教授陣がディシプリンに確固とした足場を持ち、単なる「東南アジア」以上のことを教授できることだった」。

 「比較」においては、なんでもかんでも比較すれば、それなりの結果が得られるとは限らないことが、「第四章 比較の枠組み」からわかる。まず、著者たちが学んだ「比較は、主として西ヨーロッパの比較」で、それが「容易であり、かつ妥当でもあった」ことが、つぎのように説明されている。「ヨーロッパ諸国の間には何世紀にもわたる相互交渉や相互学習があり、さらには相互競争があった。それも、これら諸国は、ギリシャ=ローマの古典古代(アンティクウィティ)とユダヤ=キリスト教に基づく文明をお互いに共有していると信じていた」。

 そして、第四章の最後に「比較とは何だろうか?」と自問し、つぎのように答え、さらに3つの留意点を挙げている。「それは、基本的には方法(メソツド)ではなく、学問的テクニックでさえないと認識することが重要である。むしろ、それは、語りのための戦略、どのように問題を設定しそれを語るかの戦略だ。比較を行なうに当たっては、この戦略をどのように用いるかをめぐりいくつか留意すべき事項が存在する」。「まず、第一に、どのような研究においても主として類似点を追求するのか、それとも相違点を追求するのかを決めなければならない」。「二番目の留意点は、最も啓発的な比較(類似、相違のいずれの比較であるかにかかわらず)は、「妥当な議論が展開できる範囲内で」との条件つきだが、意外性や驚きのある比較だということだ」。「三番目の留意点は、同一の国を長い歴史の中で見る時間軸(ロンジテユーディナル)の比較は、少なくとも複数ネーションを横切る形の空間軸(ラティテユーディナル)の比較と同じほど重要だということだ。その理由のひとつは、教科書風のある種の国民の歴史(ナシヨナル・ヒストリー)が持つ力である。それは神話を厭(いと)うことがなく、ネーションの永続性と往古に遡る「ナショナル・アイデンティティ」に既得権益を見出すような歴史である」。

 これらのほかにも、数々の成果を発表してきた著者だけに、「ヤシガラ椀の外へ」出ることが、どういう意味をもち、学問の発達に通ずるのかが、具体的事例とともに語られ、説得力をもつ。「フィールドワークに内在する根源的な意味に気づき始めた」著者は、「自分の「調査プロジェクト」にだけ集中するのは無益」で、「むしろ全てに対して不断の好奇心を持ち、自らの目と耳を研ぎ澄ませ、そして何についてであれ、それこそあらゆることについて書き留めておくべきだ。そうすることによってこそ、フィールドワークから大きな恵みがもたらされることになる。何か違う、何かが変だという経験は、私たちの五感を普段よりも鋭くし、そして比較への思いを深めてくれる」ということが、わかるようになった。

 そして、つぎのような方法で、書きとめていった。「当時ラップトップのコンピューターはなく、電動タイプライターさえなかった。フィールドワークにテープレコーダーを持って行ったとしても、それを使うことは率直さや寛(くつろ)いだ場の雰囲気を壊すことに繋がりかねない。私自身はテープレコーダーを使うことはまったくなかった。したがって、二つのことをしなければならなかった。インタビューの内容を全て記憶することと、終わった後は「自分の家」にすぐさま戻り、手動タイプライターないし手書きでそれを記録することだ。記憶と記録のために工夫したことは、尋ねることをトピックごとに事前に考え、聞いたことの簡単なメモをインタビュー中にさりげなく手帳に書き留めることだった。例えばオランダ人の習慣、善良な日本人、金銭、武器、ラジオ、汚職等々である。耳と記憶の訓練に、これほど優れもののやり方はなかった」。

 本書を読めば、「ヤシガラ椀」のなかにいることに気づいていなかった人にそれを気づかせ、「ヤシガラ椀」のなかにいることに気づいていながら、それに安住しそこから脱出できない者に、脱出するきっかけを与えるだろう。これまで著者が書いてきたものが難しく、理解できなかった者は、本書を読むことによって著作の背景がわかり、理解しやすくなったことだろう。なにより、学問をするということが、どういう意味なのかがわかったことだろう。本書を読んだ後、著者が書いたものを、また読みたくなった。でも、「アンダーソン語」で書かれた原書を読むのは、まだまだしんどいだろうが・・・。

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2009年09月22日

『比島から巣鴨へ-日本軍部の歩んだ道と一軍人の運命』武藤章(中公文庫)

比島から巣鴨へ-日本軍部の歩んだ道と一軍人の運命 →bookwebで購入

 本書を読むと、A級戦犯として死刑に処された軍人にも戦争責任はないと錯覚してしまう。「解説」では、東京裁判で死刑判決を受けた理由をつぎのように説明している。「検察側が武藤について重視したのは一九三七年以降の役職、すなわち中国戦線の参謀副長、陸軍省の軍務局長、フィリピン戦線の参謀長であった。検察側の報告書には、武藤は「最も狂信的」な軍人であり、東条の政策を支持、実行した「主要な軍国主義者の一人」、「中国問題の最大の責任者」でもあり、軍務局長として「軍の政治活動、宣伝、検閲」を担い、フィリピンの残虐行為にも関与した、とある」。

 いっぽう、多くの非武装の市民の犠牲者を出し、物心両面にわたって甚大な被害を被った国や地域の人びとからみれば、「フィリピンは例えば武藤を殺すと。それ以外はどうでもいいと。支那は板垣と土肥原、松井……」といったように、日本人のだれかが責任をとらなければおさまらなかった。武藤本人は、敗戦後3年がたった1948年8月16日の日記に、「米国の挑発によって勝算なき無謀な戦をやった」と記している。

 ここで問題としなければならないのは、だれにも責任がないのに、なぜ「勝算なき無謀な戦」に突入したのかということである。もし、それをきちんと清算しておかなければ、ふたたびだれの責任でもないのに、戦争がはじまってしまう。本書前半の手記「経歴の素描」のなかに2箇所、なぜ「軍国主義」が加速したのかを考えさせる記述があった。

 ひとつは、「軍国主義」化前の世相である。「大正九年(一九二〇)十二月卒業まで三年間、私は陸軍大学に学んだわけである。当時の私を回顧すると全く煩悶懊悩時代であった。第一次世界戦争の中頃から世界をあげて軍国主義打破、平和主義の横行、デモクラシー謳歌の最も華やかな時代であって、日本国民は英米が軍国独逸の撃滅に提唱した標語を、直ちに我々日本軍人に指向した。我々軍人の軍服姿にさえ嫌悪の眼をむけ、甚しきは露骨に電車や道路上で罵倒した。娘たちはもとより親たちさえ軍人と結婚しよう又はさせようとするものはなくなった。物価は騰貴するも軍人の俸給は昔ながらであって、青年将校の東京生活はどん底であった」。その後の軍国主義化、そして戦後「日本軍閥を攻撃し、その罪を責める」といった無責任な世相があった。近代国民国家にとっての軍隊の役割について国民が充分に考えなかったことが、世相の流れが変わると、どちらに流れようと加速化することになった。

 いまひとつは、軍国主義化を止めるどころか、積極的に加担した日本人についての記述である。「戦線が進むにつれて日本人がついて来る。これらの日本人は、内地でも支那でも港々や国境の停車場やで取締っている筈に拘らずやって来る。この種の日本人は男も女も非常に勇敢である。軍隊の行くところは弾の飛ぶ戦場にまで突進する。軍隊でも一応は取締るが矢張りそこは日本人同志である。事情を聞けば寛大な処置を採ることになる。それに何かと便宜もあるのでつい大目に見てやる。瞬くまにおでん屋が出来る。カッフエーが出来る。慰安所が出来ると云う次第である。それでもこれらは別に大したことはないが、次に来る連中となるといけない。この連中は軍服まがいの服を着ている。戦闘帽を頂いている。時としては軍刀が佩いている。身分は特務機関、連絡事務所、憲兵隊等の重要なる任務を帯びていると称する。威厳ある態度を以て支那人に接する。自分の欲しいものは軍の御用に役立てねばならぬと申渡す。これらの中には朝鮮人の通訳と云うものが多数含まれる」。「この次に来るものが経済人と称する紳士である。彼等の多くは国策に貢献せんとする熱意か、或は反対に他に重要な仕事があって忙しい身分であるが、御上の命令でやむを得ずやって来たと云う。そして不思議と敵産の家や工場や鉱山を手廻しよく発見する。そしてこれが管理を受諾する」。「これらの日本人が中支でも北支でも実に多数であった。私はこの種日本人が何をなしたか詳しく知りもせず又記述する考えもないが、結論的に云えば全く日本人の面汚しであった。彼等は日本人たるの矜持を持っている。而しそのなすところは無教養の無作法で支那人の蔑視を買うのみならず、利己的経済活動は国策に寄与するどころか、日支親善、東洋平和の根本国策に救うべからざる禍根を残した」。

 この記述から「侵略」に積極的に加担する日本人を、武藤が「邪魔」に感じていたことがわかる。しかし、これらの「邪魔」になっていた日本人を、軍は排除できなかった。そして、これらの日本人は流れが変われば臨機応変に対処したが、軍は容易に方向転換できず責任を負わされることになった。軍人としては、やりきれない気持ちになる。

 武藤の手記や日記を読む限り、戦場でも一般民衆や捕虜、在留邦人に、軍は気配りしていたことがわかる。いっぽう、武藤自身、ひじょうに差別的な考えをもっていたことが、朝鮮人にたいする蔑視や「日本人を、黒人か比島人位にしか考えていない」といった記述などからわかる。結局は、劣勢になり、食糧や兵站に事欠き、自軍の兵士だけでなく、戦場となった地域の人びとに悲惨な結果をもたらした。それぞれ言い分はあるだろうが、誰かが責任をとらなければ、戦争の清算はできない。

 他方、だれがどうのこうのというのではなく、当時の日本人や社会がなぜ「勝算なき無謀な戦」に突入することを許したのかを考える必要がある。そのためには、なぜ「積極的」になったのかがポイントになるだろう。「消極的」であったならば流れは変わったかもしれないが、「積極的」であったからこそいったん流れはじめると止めることができなかった。「積極的」な方向に導いたのが、教育やメディアなどであったことは間違いないだろう。戦争と教育、戦争とメディアとの関係が問われるのも、理由あってのことだ。

 本書の手記や日記は、「一片の記録も、一葉の地図もない」獄中で、「記憶にのみ拠らなければならぬ」状況下で書かれた。挿入された数葉の地図は、妻の武藤初子の「あとがき」によると、「元参謀栗原[賀久]氏、元副官稲垣忠弘氏」の助力によったという。すでにレイテ戦がはじまっていた1944年10月にマニラに着任した武藤が、レイテ島がどこにあるのかも知らなかったことを考えると、フィリピンの地名がかなり正確に書かれていることは驚くべきことである。本書の初版が1952年12月であることを考えれば、助力を得たのは地図だけではなかったのだろう。

 本書初版の出版は、1952年4月28日にサンフランシスコ講和条約が発効し、日本が主権を回復して、戦争について自由に書けることになったことと、その2~3年前からレイテ戦や山下裁判についての本が相次いで出版されたことと無縁ではないだろう。戦争当事者の手記や証言は、語られた時代背景のなかで読み解き、「だれにも責任がない」のに戦争がはじまることの意味を考え、未然に戦争が起こらないようにする力にしなければならない。

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2009年09月15日

『東部ジャワの日本人部隊-インドネシア残留日本兵を率いた三人の男』林英一(作品社)

東部ジャワの日本人部隊-インドネシア残留日本兵を率いた三人の男 →bookwebで購入

 「第二次大戦後、オランダとの独立戦争中のインドネシア・東部ジャワで発生した残留日本兵による特別遊撃隊。この部隊を率いた三人の男たちは、いかなる思想を持ち、いかなる来歴を経てそこにたどり着いたのか。彼らの等身大の生と死を追いかけながら、「帝国」以後の日本とアジアとの関係を再検証する、新進気鋭の長篇評論」と、帯にある。

 インドネシア独立戦争に参加した残留日本兵は903人、その内訳は戦没243人(27%)、生存324人(36%)、日本に帰国45人(5%)、行方不明288人(32%)である。また、残留元日本兵による互助組織「福祉友の会」会員が死後に埋葬された場所は、英雄墓地65人(29%)、国民墓地148人(66%)、火葬8人(4%)、その他3人(1%)である。このふたつの資料だけからも、残留日本兵の1945年の敗戦後がみえてきそうだ。

 著者、林英一は、「序章 <スカルノ>の日本人部隊?」で、本書の「主題」をつぎのように説明している。「本書においては、一九九〇年代以降、日本社会の中で英雄視されてきたインドネシア残留日本兵が、一九四八年七月に東部ジャワという地域で日本人部隊として集団化したことの意味を、史実を通して明らかにしつつ、国民国家の論理に翻弄され、排除/包摂されてきたインドネシア残留日本兵の典型像に例外と一般の双方から迫る。そのことによって「残留」という現象を帝国解体をめぐる複合的な人の移動の一環の中で把握し、現代の日本社会に生きる私たちに引揚者と残留者は実は表裏一体の存在なのであり、ゆえに引揚者の末裔も残留者の末裔も歴史という時空を超えて現在につながっているのではないかという問いを投げかけ、「アジアの中の日本」を目指すことを促すものである」。

 そして、著者は「終章 離散者-帝国解体と脱植民地化の展開」で、つぎのように結論する。「残留日本兵とは、「逃亡兵」、「棄民」、「英雄」ではなく帝国の離散者であった。そして東部ジャワの日本人部隊とは、インドネシア軍の再編合理化計画が進み、インドネシアの「内戦」が最高潮に達する時期に、残留日本兵の例外と一般が融合することで誕生した組織であり、それは脱植民地化を志向するインドネシア・ナショナリズムの仲介者と妨害者という二つの社会的機能を内在していたというのが、本書の結論である」。

 1945年8-9月の日本の敗戦後、日本への帰国を望まず、「戦場」に残った日本兵は、「大東亜共栄圏」内の各地に存在した。そのなかで、なぜジャワ島とスマトラ島では日本人部隊にまで発展したのか、著者はつぎのように考えている。「そもそも、独立戦争の主戦場となり、オランダ植民地時代と独立戦争期との間にダイナミックな変化が起こったジャワとスマトラでは日本人が残留し得たが、オランダによる連邦国家政策の要諦として、東インドネシア国(一九四六年一二月樹立)の一部となったバリ島にみられるように、主戦場とならなかった地域では、日本兵は残留しにくかったと推測される」。「つまり、戦闘が展開され、戦場が生じることが、残留日本兵たちが異国で生き残る上での前提条件だった」。

 本書では、日本人部隊を率いた3人のライフ・ヒストリーを中心に物語が展開している。3人のうちの2人は、それぞれ1928年、32年にスマトラ島に渡り、30年代の南進論の国策化の影響を受けた「「渡南第二世代」として、「国難に尽くす」という共通の時局認識をもっていた。平凡な生活に魅力を感じず、放浪癖があり、新婚早々の新妻を残して独立戦争の渦中に飛び込んで徹底抗戦路線を主張してやまなかったのも同じだ。ゆえに、「体験的アジア主義者」として相通じ合うことができたのである」。かれらは、帝国日本の南進論に積極的に加担し、自らの生き方(死に方)を追求していった。それは、日本の敗戦によっても変わらなかった。

 いっぽう、3人目は軍人で「大東亜戦争」の開戦とともに憲兵隊員としてジャワ島にやってきた「渡南第三世代」で、「日本人部隊に参加した背景には、「内戦」と同時進行で起こっていたインドネシア国軍の再編合理化計画への危機感があったと考えられる」。かれらは、「自らの名誉と生命が保証される「最も安全な集団」」をめざした。このように、「渡南第二世代」と「渡南第三世代」のあいだには、「部隊結成当初、時局認識や情勢判断能力、インドネシアでの人脈という点で」大きな隔たりがあった。  本書は、帝国日本とインドネシアの民族独立運動、さらに戦後の歴史観に翻弄された日本人のライフ・ヒストリーをみごとに描いている。その点で、読みごたえのある作品である。しかし、読み終えて、まず思ったのは、なぜこんなに書き急ぐのだろうか、ということであった。「あとがき」に書かれている何度も「御話をお聞かせいただき」、「貴重な資史料をご提供いただいた」人が急逝された後、「何があっても本書を書き上げなければならないと誓った」というようなことが、急がせたのだろう。本書は「長篇評論」であるから、それでいいのかもしれない。だが、本書はそのスタイルをとっていない。

 文学的表現の多い「序章」を読んでいて、物語として楽しめる作品と思っていた。ところが、突然「主題」としてこ難しいことを語りだし、各章の終わりには多くの文献註と長い説明註が並んでいた。読み物として楽しむための文学的表現が、これらの文献から読みとれたということなのだろうか。学問的に考察するなら、書けない部分が多い。たとえば、海軍支配地域の東インドネシアについては、これまで多くの研究者が史料の不足などから書くことをためらってきた。インドネシア研究と銘打ちながら、現実には史料が比較的豊富なジャワ・スマトラ研究であると揶揄されてきたのも、理由があってのことである。そういう学問的に語ることをためらうようなことも書けるのが、評論でありノンフィクションである。本書が新しいスタイルで、従来の学術書・論文あるいは評論・ノンフィクションでは充分に書くことのできなかったことを書こうと試みたのであれば、その試みには拍手を送りたいが、「序章」を読み終えて、本書をどのように読めばいいのか、混乱してしまった。

 本書に推薦文を寄せている中島岳志の著作についても、同じことが言える。評論ならともかく、学術的には史料や考察に問題があるという指摘が、旧来のスタイルで研究をおこなっている者からだされている。日本の女性学のように、近代アカデミズムにかかわらないことによって、独自の発展を遂げた分野もある。ところが、いまはその女性学もアカデミズムのなかで考えようとしている。近代のアカデミズムを超えるという意味で、本書のような試みはひじょうに大切で、批判的なことは書きたくなかった。ただ、書き急ぐことのマイナス面も考えてほしかった。

 書き急ぐ必要があるものないもの、評論でも学術論文でもある。残留元日本兵と深いつながりのあるトラジャ・コーヒーでも、ゆっくり飲んで考えてみましょうか。

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2009年09月08日

『皇軍兵士の日常生活』一ノ瀬俊也(講談社現代新書)

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 「あとがき」冒頭で、著者一ノ瀬俊也は、つぎのように書いている。「本書の執筆中、第三章の「応召手当」の項では、現在社会問題となっている「派遣社員切り」のことを、第四章の戦死者「死亡認定」の項ではいわゆる「宙に浮いた年金」問題のことをそれぞれ想起せざるをえなかった。われわれの住む国も社会も、じつは六十数年前から変わっていないということがわかったように思う」。

 著者が、このように書くことができるのは、「はじめに」の終わりで、つぎのように書いているからだろう。「どうか読者諸賢におかれては、もし自分があの時代に生まれて戦争に行くことになったらどうなっただろうか、あるいはどう思っただろうかを考えながら読んでいただきたい。私も自分がそうだったら、と思いながら書いている」。そして、「おわりに」の最後は、つぎのような言葉で締めくくっている。「戦争の時代を考えるとき一番大切なのは、その時自分だったらどうしたかを思うことではないだろうか。それができていない発言や思考法がいまの日本にはあまりにも多い」。

 60年以上前のことから学ぶことのできる人は、自分とは関係のない遠い昔のことととらえず、いまの自分と密接に関係する問題ととらえることができる。たとえば、学生ならおばあさんの戦争体験を時代の違うものとしてではなく、自分と同じ年齢のときのものとして考えると、おばあさんの話を真剣に聞き、いろいろな質問ができる。

 本書では、ふたつの課題を設定ている。第一の課題は、「昭和の人びとが徴兵され、兵士になっていく過程を、自ら志願して兵となった少年たち-その意味で彼らはもっとも純粋な「兵士」だったはずである-もふくめ、制度と心情の両面から、戦後書かれた「従軍体験記」やさまざまな史料にもとづき明らかにすることである」。第二の課題は、「戦時下の日本社会には徴兵制がもたらした人びとの生と死をめぐる「不平等」、「不公平」が蔓延(まんえん)しており、誰もそれを助けようとしなかったことを再確認することである」。

 著者が4章にわたって描いてきた「生と死をめぐる「皇軍」兵士たちの群像」や「そのかたわらで呻吟(しんぎん)する家族や遺族たちの姿」から、ふたつの課題はクリアできただろう。本書を読んで、もうひとつ明らかになったのは、戦争にかんする話は都合のいいように脚色されたり、捏造されたりしただけでなく、とても話すことができないこと、話しても信じてもらえないことなどから、それぞれの体験が戦後に充分伝わっていないことである。

 たとえば、「死没者の遺族へ差出す戦闘詳報なるものを書く」功績係を命じられた者に、「上官は「兎(と)に角(かく)、遺族の気持ちになれ。その為に多少の誇張は認めるが、要はお前の書く文章一つで参列者を泣かせるか否かだ」といい、彼がここはどう書けばいいのかと聞くと、「文章は勝手に考えて書け」と叱咤した。遺族にとってはそれが本当に「正しい」状況報告であるのか知るすべはない。この遺族向け作文にかんしては、日露戦争以来の伝統(?)が守られていたのである」。

 また、生還者が遺族に話せないことから苦悩する様子が、つぎのように語られている。「あんなに嘆かれるには私の話しに物足りなさがあったのではないか? 私は三人の昏睡状態に入る前の断末魔の苦悶と遺体を水葬にしたことを話せなかった」。遺族は、生還者から肉親の最期の状況を聞きたがったが、実際に聞くと生還者を「おめえはよかったなー」と恨むこともあった。大量死という事実が、生還者に負い目を抱かせたのである。

 戦争について学ぶ前の学生は、戦前・戦中の日本人と自分たちは違うと思っている。しかし、戦争について学んだ後の学生は、すくなくとも戦前・戦中の日本人と自分たちが違うことを、日本から被害を受けた中国や東南アジアの人びとに説明できないことに気づく。説明できなければ、日本の再軍備、軍国主義化に警戒する東・東南アジアの国々との友好関係は築けない。戦争を学ぶことが、自分たちの将来に役に立つことをわかってくれるといいのだが・・・。

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