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2009年08月04日

『街場の教育論』内田樹(ミシマ社)

街場の教育論 →bookwebで購入

 大学教育研究センターの兼任研究員をしている。こんな本があるので、読んで紹介してもらえないだろうか、といわれたのが本書である。以下のような紹介文を書いてみた。


 本書は大学院の授業を基にして書かれているため、読書対象ははじめ大学院生や聴講生であったが、加筆している段階で「学校の先生たち」になったという。しかし、著者、内田樹が読んでほしいのは、教育をネタにメシを食っている人たちだろう。だから、著者は、「まえがき」で「「政治家や文科省やメディアは、お願いだから教育のことは現場に任せて、放っておいてほしい」というのが本書が申し述べるほとんど唯一の実践的提言です」と言い放っている。そうしてくれれば、「学校の先生たちが元気になる」という著者の念いがある。

 著者は、神戸女学院大学文学部教授で、「フランス現代思想、映画論、武道論」を専門としているが、それよりブログが人気で、そのブログを基に出版した本がつぎつぎとベストセラーになるエッセイストである。

 本書は、「現代思想」「アメリカ論」「中国論」に続く「街場シリーズ」の4冊目である。全11講の多くは、自身の大学での経験にもとづいている。その経験は純粋な教育・研究だけではなく、著者が近年かかわった大学行政で得た「現場」からのものである。多少現場を知っている者なら、だれかに言ってほしかったことが多く含まれている。だから、学校の先生たちが読むと、「そうだ! そうだ!」と同意して、ストレス解消になり、「元気になる」ことだろう。

 著者の教育論のエッセンスは、第1講でつぎの4つにまとめられている。「(1)教育制度は惰性の強い制度であり、簡単には変えることができない。(2)それゆえ、教育についての議論は過剰に断定的で、非寛容なものになりがちである(私たちがなす議論も含めて)。(3)教育制度は一時停止して根本的に補修するということができない。その制度の瑕疵は、「現に瑕疵のある制度」を通じて補正するしかない。(4)教育改革の主体は教師たちが担うしかない。人間は批判され、査定され、制約されることでそのパフォーマンスを向上するものではなく、支持され、勇気づけられ、自由を保障されることでオーバーアチーブを果たすものである」。

 著者は、アメリカの教育システムの導入に反対する。というより、導入するなら、「アメリカの教育制度の最良の部分、つまり「中枢的に統御しないで、五〇種類の教育制度を並存させる」」を取り入れるために、「まっさきにやるべきことは「文科省解体」」だという。

 その文部科学省が、過去十数年間に「大学設置基準の大綱化、教養課程の改組、学部再編、独立行政法人化」などを大学に求めた結果を、著者はつぎのように総括している。「文科省に出すペーパーだけを書き続け、その間、ほとんど専門の研究ができなかったという人が日本全国に何十人、何百人といます。そういうエンドレスの作業に動員されるのは、どの大学でも、若手で、仕事が速く、要領のいい人です。面倒な仕事は結局同じ人のところに回される。彼らがそれらのペーパーを書かずに、研究教育に専念できていた場合に、どれだけのものを作り出したか、それを想像すると、私は深い徒労感にとらえられるのです」。著者自身、4年間自己評価委員長をやって、「文科省や大学基準協会に出すための「うちの大学はまっとうである」ということを挙証するための文書を山のように」書いた結果の発言で、「この作業が「終わりなき地獄」であることを全身の筋肉のきしみと、澱(おり)のようにたまった疲れに基づいて確言することが」できるという。

 著者の攻撃は、文部科学省だけでなく、財界・産業界にも向けられる。日本の大学の多くが、1990年代に教養課程を廃止したのは、「入学してから二年間を教養教育のような「無駄なこと」に費やしてもしょうがない。それより入学してすぐから専門教育を施した方がいいと」財界・産業界が強く要望したからだ。その結果、「大学生の学力が著しく低下してしまった」。教養教育を受けなかった者は、「自分自身を含む風景を一望俯瞰する力」がないから、自分が何の専門家だかよくわからず、専門性をいかせないのである。

 さらに、著者は、同僚の大学の教員、学生にも厳しい眼を向ける。「どの分野でも先端的な研究をしている人は、他分野の人に自分が今、研究していることを理解させるのが」上手だ。とくに理系の人は外部資金の必要性からうまいが、「人文系の専門家で自分がやっていることをわかりやすく説明できる人というのはきわめて希(まれ)」だ。本書では、著者の専門のフランス文学と社会学がやり玉にあげられているが、ほかの人文系の分野も例外ではないだろう。研究にお金があまりかからないので、「なかなか「身内だけのパーティ」から抜け出せない。社会の知的な編成の変化にも鈍感です。だから、気がつくと、その学界ごと「歴史のゴミ箱」に放り込まれてしまうことが起きる」。大学の予算が減り人文系の研究者にもさかんに外部資金の獲得を奨励するが、たいして必要もない研究費を獲得すると「身内だけのパーティ」にお金も時間も使い、肝心の教育・研究の時間が益々なくなってしまう。「他者とのコラボレーション」が必要なのは、そんな教員の指導を受けている学生についてもいえる。「協働」できない者は、就職試験の面接で「会って五秒」で落ちる。

 本書は、発行してから半年もたたない2009年4月で7刷り、累計4.5万部で、目標の10万部も夢ではないようだ。養老孟司、福岡伸一、児玉清、武田鉄矢、尾木直樹、祐保博美らが、雑誌の書評欄などでとりあげている。しかし、これだけ売れて、注目されているのに、やり玉にあがった人たちが読んでいるとは限らない。読んでも、自分たちだけの責任ではないと思っているだろう。教育論は、だれでもが自分の経験からなにか言いたいことをもっている。著者のように、「一望俯瞰する力」をもっている者は、いろいろな分野の専門家を納得させるだけの論陣を張ることができる。各論で批判されても、総合的な説得力をもつ。ベストセラーになる理由がわかる。

 本書を読んで、元気になった学校の先生たちもいることだろう。だが、残念なことに、現場に戻った学校の先生たちは、今日も教育・研究ではない「雑務」に明け暮れているだろう。教育・研究のための時間を奪うだけとしか思えないような文部科学省の「告示・通達」に従い、就職協定さえ守らず学生に勉学に集中する時間を与えない財界・産業界の要望を聞き、メディア・教育評論家の理想論に右往左往している姿が目に浮かぶ。不思議なのは、授業料を払っている保護者の顔がまったく見えないことだ。市場原理が成り立たない教育だからこそ、大所高所からどういう社会をめざし、どういう人材が必要であるかを考えたうえで、教育論を闘わせる必要がある。そのためには、まず現場での時間的ゆとりが必要である。時間的ゆとりがあれば、学校の先生たちは自分の教育現場にあわせて実践することだろう。それがうまくいかなかったとき、ほかの学校の先生たちの実践が参考になる。そして、それを仲介する機関が必要となる。「他者とのコラボレーション」でなりたつ教育のためには、他者の通達・要望・理想論に打ち勝つ現場の力がなにより必要だということを、本書は教えてくれる。


 ブログが本になり、ベストセラーになる。その理由が、すこしわかったような気がする。しかし、この書評ブログが本になって9ヶ月になるが、ベストセラーどころか初版第1刷が完売できるかどうかもあやしい。ブログを読んでいる人が、お金を払って本を買い再読したくなるかどうかの境目はどこにあるのだろうか。この書評ブログで紹介した本も、この書評だけで要点がわかり本は読まない人がいる。自分のための読書覚書として書いてきたが、もう4年以上、150以上書いてきたので、そろそろ読者を意識して書いてもいいのかもしれない。本になったら再読したくなる、紹介した本が読みたくなる、そんなことをすこし考えてみようと思う。紹介した本が紀伊國屋書店Webで買いたくなる、というのはちょっとむつかしいかも・・・。

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