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2009年08月31日

『タイ 中進国の模索』末廣昭(岩波新書)

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 本書は、日本のタイ研究の高水準を示す誇るべき成果である。タイの現状を、これだけ詳細に深く、そしてわかりやすく書いたものは、タイ本国にもどこにもないだろう。本書のなかでは、ほかの日本人研究者によるいくつかの文献がしばしば参照されている。したがって、本書は著者個人の成果というより、これらの参照文献の著者たちとの共同研究の成果といってもいいだろう。そして、それらの共同研究をリードしたのが、著者の末廣昭であった。

 2004-05年に、『戦争の記憶を歩く 東南アジアのいま』(岩波書店、2007年)を執筆するためにタイを広く歩いた。そのときは、2005年2月に実施された総選挙でタックシン首相率いる政党が全議席の75%を占める圧勝をしたように、素人目にはますます政権は安定するかにみえた。翌2006年9月にクーデタがおこり、あっけなく政権が崩壊するなどとは夢想だにしなかった。

 著者は、本書執筆にあたって、いろいろ整理をしていることが、「はじめに」でわかる。まず、テレビ報道で映し出されるような「黄色のシャツ」と「赤色のシャツ」の対立というような単純なものではないことを、4つに分けて説明する(「第一に、国民の大多数は、「黄色のシャツ」であれ「赤色のシャツ」であれ、彼らのなりふりかまわない実力行使にうんざりしている」「第二に、「黄色のシャツ」を民主化の推進勢力と捉える議論には賛同できない」「第三に、「黄色のシャツ」(PAD)は王室擁護派、「赤色のシャツ」(UDD)は王室ないがしろ派と区分することもできない」「第四に、「黄色のシャツ」の活動を都市中間層、「赤色のシャツ」の活動を農村貧困層に代表させる見方にも疑問が残る」)。

 つぎに、2つの切り口、2つの課題をあげる。2つの切り口とは「政治の民主化」と「タイの中進国化」で、キーワードとして「民主化、現代化、そして王制」を選んでいる。2つの課題とは、「ひとつは、民主主義をどのように発展させ、王制との調和をどのように図るのかという政治的な課題である。もうひとつは、グローバル化時代の世界にどのように対応するのか、いいかえれば、グローバル化の流れの中でどのように「タイらしさ」(Thainess)を維持するのかという経済社会的な課題である」。これら「二つの課題は将来のタイ社会をどのように構想するか、その違いによって、それぞれいくつかの選択肢に分けることができる」という。

 本書は、前著『タイ 開発と民主主義』(岩波新書、1993年)の続編にあたるため、1992年から再開するのが筋であるが、著者はつぎの2つの理由から1988年を起点とした。「第一の理由は、一九八八年がタイにとって経済ブームの出発の年になったことにもとづく。その後の経済拡大や社会変化はすべてここから始まった。経済拡大はバブルを引き起こし、バブルの崩壊は通貨危機に発展する。そして、この通貨危機が、一方では「国の開発」より「国民の幸福」を重視する開発計画の転機となり、他方ではタックシン首相の「国の改造」の発想の源となった」。「第二の理由は、一九八八年が政党政治の本格的な開始年になったことによる。ただし、政党政治の開始は政治の腐敗のさらなる増殖でもあった。そのため、クーデタが勃発し、五月流血事件、憲法改正運動をへて、一九九七年憲法へと帰結する。ところが、「人民の憲法」と賞賛されたこの憲法は、タックシンという「強い首相」を創り出した。そして、二〇〇六年のクーデタ以後の政治は、タックシン体制の根絶か、それともその復活かを軸に、先行き不透明な政治抗争を繰り返している」。

 この政治抗争の根源は、2009年3月末にタックシン元首相が支持者の集会で、ビデオを通じて述べた「今回のクーデタの首謀者はプレーム枢密院議長とスラユット枢密顧問官である」という爆弾声明につきるかもしれない。王室に絶大なる影響力をもつこれら2人を中心とする勢力が、反タックシン運動の黒幕だというのだ。しかし、著者は、そのような表面的な対立構造だけではなく、タイの基層社会・文化のなかで現在の状況を理解しようとし、タイの現状をつぎのように総括している。「「黄色のシャツ」と「赤色のシャツ」の衝突は、一面ではタックシン元首相の政界復帰をめぐる対立の側面をもっているものの、両者が過激な実力行使に走る背景には、間違いなくタイ経済の悪化、失業者の増加、将来への見通しへの不安が存在した。経済の不安定が政治の不安定を増幅させ、政治の不安定が経済の建て直しの足をひっぱるという悪循環に、タイは陥っている」。

 著者は、今後の大きな課題として「王位の継承と今後の王制の在り方」をあげ、終章を「タイ社会と王制の未来」とした。日本の皇室とは違い、タイの王室は社会に影響を与えうるだけの内帑金(君主の所有に属する財貨)をもって経済開発や社会福祉事業などを行っている。日本の皇室やイギリスなどのヨーロッパの王室がおこなう政府とは別次元の外交などと違い、政府の政策と矛盾し対立することもある。今日の混乱の原因のひとつは、タックシンの「国の改造」政策が王室が目指した「足るを知る経済」と衝突したためである。そして、著者は、つぎのようにこの終章をむすんでいる。「結局のところ、中進国タイには二つの道があると言ったが、ありうる選択は「現代化への道」と「社会的公正の道」を折衷したものに行き着く。ただし、それは時代の流れに柔軟に対応し、バランス感覚を大切にするタイのひとびとにとっては、もっとも現実的な道と思えるが、どうであろうか」。

 たしかに、この20年間にタイ社会を取り巻く環境は大きな変貌を遂げた。にもかかわらず著者は、前著と同じくつねに「タイらしさ(Thainess)」を考えながら、本書を書いている。読者であるわたしも、ぶれない視点で本書を読むことができ、数々の疑問が解けた。しかし、わかりにくいことも多々ある。空港を占拠したり国際会議を妨害したりしても、本気で再発を防ぐ方策はとられていないようにみえる。しばしば変わる憲法に基づいた憲法裁判所による、もっともとも思えないような理由での首相解任や党の解散命令を、なぜ当事者たちがすんなり受け入れたのか。タイ人のいう「民主主義」とはどういうもので、あきらかに国益を損なうことがなぜ繰り返されるのか、そして「タイらしさ」とはなになのか。タイ人自身によるタイ研究の飛躍的な進歩に連動する日本人のタイ研究者の考察・分析に注目し、著者のいう3つのキーワード「民主化、現代化、そして王制」とともに、今後のタイの情勢をみていきたい。タイ人が微笑みを取り戻すことを願いつつ・・・。

(ロンドン行きの飛行機のなかで本書を読みはじめ、時差ぼけで眠れない「早朝」に書評を書いた。)

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2009年08月18日

『ヒューマニティーズ 哲学』中島隆博(岩波書店)

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 帯に、「哲学が問うてきた本質的な問題とは何か。呼びかけへの応答から、概念の創造へ。救済のための、平和のための、未来の哲学へ。他者との共生にむけた哲学の実践。」とある。

 著者、中島隆博は中国哲学が専門である。そして、「東西の哲学伝統における「共生哲学」構築の試み」などのテーマのもとに、世界を飛びまわり、議論しながら、本書を書いた。「共生哲学」は簡単にみえながら、そう簡単ではないことを思い知らされながら、「哲学とは何か」という常軌を逸した問いにも答えようとした。

 著者は、まず「一、哲学はどのように生まれたのか」で、「(一)哲学の始まり」と「(二)中国哲学の始まり」にわけて、ギリシャ哲学と中国哲学の誕生から、今日に及ぶ影響を考える。つぎに、「二、哲学と翻訳そして救済-哲学を学ぶ意味とは何か」では翻訳を通して哲学とは何かを問い、「三、哲学と政治-哲学は社会の役に立つのか」では「西洋によるロゴスの支配」と近代東アジアとがどう結びついていったのかを、西田幾多郎や台湾で活躍した新儒家とよばれる哲学者を通して考える。そして、「四、哲学の未来-哲学は今後何を問うべきなのか」では、つぎの見出しを列挙すれば、著者が語ろうとしたことが想像できるだろう。「奪われた声/被植民者の沈黙に言葉を返す/「新しい戦争」の時代なのか/正義の戦争の原光景/放にして祀らず/歓待と暴力/入植する者と国家を逃れる者/終末論とメシア的平和/近さと国家/他者と遭遇する戦争」。

 著者が、本書で語ろうとしたことは、「はじめに」の最後のパラグラフにつきる。「では、「哲学とは何か」と問うことはどうなのだろうか。やはり、それもまた、終焉に位置し、時代錯誤的であることが不可欠なのだと思う。調和・和解・完結に向けて哲学を整序することではなく、猛り狂って限界をはみ出す哲学の力を解放すること。しかし、それによって、何が実現するというのだろうか。本論で考えたいのはこのことである。それは、現在の哲学というよりも、未来の哲学、哲学の未来に関わることだ。わたしはそれを最終的には、救済もしくは平和だと考えたい。どちらも容易に口にすることのできない言葉であることを承知の上で、あえて猛り狂ったスタイルでそう述べてみたいのである」。

 そして、「四」の最後を、つぎのように締めくくっている。「来るべき哲学は、自らの暴力性に震撼しながらも、行為遂行的に、このことを他者とともに考え、他者とともに発明していく。そのとき、戦争で遭遇した他者の声を聞かずにすませてきた耳の体制は一新され、わたしたちは他者の声を聞くのである。他者との共生は、哲学の目標であると同時に、哲学のあり方、哲学の実践そのものである」。

 正直言って、具体的に議論されていることは、よくわからなかった。しかし、どういう姿勢で、哲学に取り組む必要が、今日そして未来にあるのかは、すこしわかったような気がした。

 哲学を学ぶことは、どうもだれにでもできることではなさそうだ。だから、純粋に哲学をテーマとした博物館はなかった。本書にも登場した西田幾多郎の故郷にある石川県西田幾多郎記念哲学館が、世界で初めてだという。この哲学館では3つの展示室「哲学へのいざない」「西田幾多郎の世界」「西田幾多郎の書」で、それぞれ工夫を凝らして解説しているが、それでもけっしてわかりやすいわけではない。さらに、わかりにくくしているのは、この博物館を設計した安藤忠雄の「工夫」である。建物のテーマは「考えること」で、丘の上に立つ建物の配置から建物内部の迷路や意味不明の空間まで、「おや?」と思ってくれればいいのだろうか。

 この哲学館は、それほど行きやすいところにあるわけではない。JR金沢駅から七尾線に乗って25分ほどで、宇野気駅に到着する。駅前には、西田幾多郎の像があり、歩いて20分ほどの哲学館の途中には、移築した西田幾多郎の書斎「骨清窟」(寸心園)があり、すぐそばのかほく市立宇ノ気小学校の校庭には頌徳記念碑がある。校舎の壁には意味不明のものが書かれてあるが、「無」である。「西田先生を讃えるうた」まである。ここには、西田が教鞭をとった京都大学近くの「思索の小径」とは違う、もうひとつの「哲学の道」がある。

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2009年08月11日

『よくわかる質的社会調査 技法編』谷富夫・芦田徹郎編著(ミネルヴァ書房)

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 文献だけでは充分に理解できない歴史研究をしてきた者にとって、歴史をつくり、守ってきた人びとの社会を理解することが、調査の第一歩となる。歴史を理解するための社会調査とはいえ、社会調査に変わりはない。これまで自己流に、いい加減にやってきたので、その自己流がどの程度社会学の調査としても通用するのか、またこのテキストから学ぶことによって歴史研究にどういかせるのかを知りたくて、本書を読んでみた。

 「なお、本書は一般社団法人社会調査協会(旧社会調査士資格認定機構)が定める社会調査士標準カリキュラムの「F.質的な分析の方法に関する科目」に対応」している。「また、専門社会調査士標準カリキュラムの「J.質的調査法に関する演習(実習)科目」でも活用」できるという。社会調査士なる資格があるということは、それだけ社会が必要としているからだろう。文学部の専門として心理学とともに人気のあるのも、高校生が社会学を学べば、社会が安直にわかると考えているからかもしれない。しかし、本書を読むと、そんな簡単なものではないことがわかる。

 まず、社会調査と言えば、アンケート調査を思い浮かべる人が多いだろうが、大きな壁にぶつかっていることが、「まえがき」でつぎのように説明されている。「近年、社会調査を取り巻く環境が非常に厳しくなってきました。とりわけ質問票を用いた大量調査(いわゆるアンケート調査)が大きな壁にぶつかっています」。「ランダム・サンプリングがそう簡単にはできなくなったし、配布した質問票の回収率もかなり低い。最近の学会報告で、回収率50%を超える調査報告にはめったにお目にかかれなくなりました。これでは大量調査の最大の強みであるサンプルの「代表性」がなかなか確保できず、データの信憑性も著しく低下します」。「社会学では長い間、量的調査こそ社会調査の王道であるとされてきました。しかし、もはやそういう時代は過ぎ去ろうとしています。もちろん量的調査が無意味になったわけではないし、質的調査が量的調査の機能を代替することも困難です。しかし、質と量とを問わず、さまざまな方法を研究テーマに応じて使い分けたり、組み合わせたりすることが、今後ますます重要になってくるでしょう。その意味で、質的調査の役割は相対的に大きくなっているとも言えます」。また、「情報(化)社会」は同時に「不知」を産出する「不知(化)社会」だという。

 「では、質的調査と量的調査はどこが同じで、どこが違うのでしょうか」。編著者のひとりは、つぎのように説明している。「違いを一例あげると、扱うデータの形態が違います。前者が文書、図表、音声、映像といった非数量的、すなわち質的データを扱うのに対して、後者は数量的データを統計的に扱います(「アンケート調査」をイメージして下さい)。違いは他にもいろいろあります。一方、社会調査としての共通点もあります」。ということで、4部からなる本書の第1部では、「そもそも社会調査と何なのか、質と量の違いを超えた社会調査の概説から始め」、「量的調査との違いや関連に目配りしつつ、質的調査の考え方を説明」している。そして、第2部では「質的な「調査技法」」、第3部では「分析技法」を学び、「「質的調査の現場」と名づけた」第4部では問題を立ててから報告書や論文を書き上げるまでのプロセスを解説している。

 本書を読むと、質的調査が現代の社会を理解するためにひじょうに有効な手法であることがわかる。だが、問題点もあることを充分にわきまえておかなければならないことが、つぎのようにまとめられている。「調査技法・分析技法を含め、質的調査がさまざまな強みをもっていることに気づかされただろう。特に、質的調査が具体的な人びとの生活のありように迫ることができること、量的調査で用いるサンプリング名簿が存在しないようなマイノリティの人びとの社会的世界を描くことができることは大きな魅力である」。「その一方、人びとの具体的な生活のありように迫ることができるからこそ、あるいはマイノリティの人びとの社会的世界を描くことができるからこそ、調査対象者との関係については倫理的な観点が必要とされる。したがって、調査者は調査を始める前に、その調査の倫理的側面について十分な配慮をもたなければならない。と同時に、調査研究を行うことによって生じる調査対象者やフィールドにもたらす社会的影響についても一定の責任を負わなければならない」。

 この倫理について、頭ではよくわかる。しかし、現場に入ると、それがわからなくなってしまう。現場でよき助言者を得ることができるかどうかが鍵になる。所詮、調査者は「よそ者」で、その社会の一員にはなれない。都合が悪くなれば、その社会から逃げて、二度と関係をもたなくてすむ。「一定の責任」とはそういうことで、最後まで責任を負うことができないことを銘記すべきだろう。

 歴史研究を目的とした調査でも、「フィールドにもたらす社会的影響」について、計り知れないものがある。それまで文字化されてこなかった歴史を文字化することは残すことにおいて長所はあるが、歴史の語りは語る人びとによって常に変化するという特性を失わせてしまう。そして、書き残されたものが「権威」をもって、「正統」とされる。とくに、わたしのような異邦人が、かってに文字化したものを残してしまう場合、その後の社会的影響については、まったく無責任になってしまう。考え出したら、研究することが恐ろしくなって、やめたくなる。このような問題は、量的調査より質的調査のほうが深刻だろう。だからこそ、現場でよき助言者をみつけることが重要になる。よき助言者は、異邦人の意図を翻訳して、その社会の人びとに伝えてくれ、負の社会的影響を最小限にしてくれる。

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2009年08月04日

『街場の教育論』内田樹(ミシマ社)

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 大学教育研究センターの兼任研究員をしている。こんな本があるので、読んで紹介してもらえないだろうか、といわれたのが本書である。以下のような紹介文を書いてみた。


 本書は大学院の授業を基にして書かれているため、読書対象ははじめ大学院生や聴講生であったが、加筆している段階で「学校の先生たち」になったという。しかし、著者、内田樹が読んでほしいのは、教育をネタにメシを食っている人たちだろう。だから、著者は、「まえがき」で「「政治家や文科省やメディアは、お願いだから教育のことは現場に任せて、放っておいてほしい」というのが本書が申し述べるほとんど唯一の実践的提言です」と言い放っている。そうしてくれれば、「学校の先生たちが元気になる」という著者の念いがある。

 著者は、神戸女学院大学文学部教授で、「フランス現代思想、映画論、武道論」を専門としているが、それよりブログが人気で、そのブログを基に出版した本がつぎつぎとベストセラーになるエッセイストである。

 本書は、「現代思想」「アメリカ論」「中国論」に続く「街場シリーズ」の4冊目である。全11講の多くは、自身の大学での経験にもとづいている。その経験は純粋な教育・研究だけではなく、著者が近年かかわった大学行政で得た「現場」からのものである。多少現場を知っている者なら、だれかに言ってほしかったことが多く含まれている。だから、学校の先生たちが読むと、「そうだ! そうだ!」と同意して、ストレス解消になり、「元気になる」ことだろう。

 著者の教育論のエッセンスは、第1講でつぎの4つにまとめられている。「(1)教育制度は惰性の強い制度であり、簡単には変えることができない。(2)それゆえ、教育についての議論は過剰に断定的で、非寛容なものになりがちである(私たちがなす議論も含めて)。(3)教育制度は一時停止して根本的に補修するということができない。その制度の瑕疵は、「現に瑕疵のある制度」を通じて補正するしかない。(4)教育改革の主体は教師たちが担うしかない。人間は批判され、査定され、制約されることでそのパフォーマンスを向上するものではなく、支持され、勇気づけられ、自由を保障されることでオーバーアチーブを果たすものである」。

 著者は、アメリカの教育システムの導入に反対する。というより、導入するなら、「アメリカの教育制度の最良の部分、つまり「中枢的に統御しないで、五〇種類の教育制度を並存させる」」を取り入れるために、「まっさきにやるべきことは「文科省解体」」だという。

 その文部科学省が、過去十数年間に「大学設置基準の大綱化、教養課程の改組、学部再編、独立行政法人化」などを大学に求めた結果を、著者はつぎのように総括している。「文科省に出すペーパーだけを書き続け、その間、ほとんど専門の研究ができなかったという人が日本全国に何十人、何百人といます。そういうエンドレスの作業に動員されるのは、どの大学でも、若手で、仕事が速く、要領のいい人です。面倒な仕事は結局同じ人のところに回される。彼らがそれらのペーパーを書かずに、研究教育に専念できていた場合に、どれだけのものを作り出したか、それを想像すると、私は深い徒労感にとらえられるのです」。著者自身、4年間自己評価委員長をやって、「文科省や大学基準協会に出すための「うちの大学はまっとうである」ということを挙証するための文書を山のように」書いた結果の発言で、「この作業が「終わりなき地獄」であることを全身の筋肉のきしみと、澱(おり)のようにたまった疲れに基づいて確言することが」できるという。

 著者の攻撃は、文部科学省だけでなく、財界・産業界にも向けられる。日本の大学の多くが、1990年代に教養課程を廃止したのは、「入学してから二年間を教養教育のような「無駄なこと」に費やしてもしょうがない。それより入学してすぐから専門教育を施した方がいいと」財界・産業界が強く要望したからだ。その結果、「大学生の学力が著しく低下してしまった」。教養教育を受けなかった者は、「自分自身を含む風景を一望俯瞰する力」がないから、自分が何の専門家だかよくわからず、専門性をいかせないのである。

 さらに、著者は、同僚の大学の教員、学生にも厳しい眼を向ける。「どの分野でも先端的な研究をしている人は、他分野の人に自分が今、研究していることを理解させるのが」上手だ。とくに理系の人は外部資金の必要性からうまいが、「人文系の専門家で自分がやっていることをわかりやすく説明できる人というのはきわめて希(まれ)」だ。本書では、著者の専門のフランス文学と社会学がやり玉にあげられているが、ほかの人文系の分野も例外ではないだろう。研究にお金があまりかからないので、「なかなか「身内だけのパーティ」から抜け出せない。社会の知的な編成の変化にも鈍感です。だから、気がつくと、その学界ごと「歴史のゴミ箱」に放り込まれてしまうことが起きる」。大学の予算が減り人文系の研究者にもさかんに外部資金の獲得を奨励するが、たいして必要もない研究費を獲得すると「身内だけのパーティ」にお金も時間も使い、肝心の教育・研究の時間が益々なくなってしまう。「他者とのコラボレーション」が必要なのは、そんな教員の指導を受けている学生についてもいえる。「協働」できない者は、就職試験の面接で「会って五秒」で落ちる。

 本書は、発行してから半年もたたない2009年4月で7刷り、累計4.5万部で、目標の10万部も夢ではないようだ。養老孟司、福岡伸一、児玉清、武田鉄矢、尾木直樹、祐保博美らが、雑誌の書評欄などでとりあげている。しかし、これだけ売れて、注目されているのに、やり玉にあがった人たちが読んでいるとは限らない。読んでも、自分たちだけの責任ではないと思っているだろう。教育論は、だれでもが自分の経験からなにか言いたいことをもっている。著者のように、「一望俯瞰する力」をもっている者は、いろいろな分野の専門家を納得させるだけの論陣を張ることができる。各論で批判されても、総合的な説得力をもつ。ベストセラーになる理由がわかる。

 本書を読んで、元気になった学校の先生たちもいることだろう。だが、残念なことに、現場に戻った学校の先生たちは、今日も教育・研究ではない「雑務」に明け暮れているだろう。教育・研究のための時間を奪うだけとしか思えないような文部科学省の「告示・通達」に従い、就職協定さえ守らず学生に勉学に集中する時間を与えない財界・産業界の要望を聞き、メディア・教育評論家の理想論に右往左往している姿が目に浮かぶ。不思議なのは、授業料を払っている保護者の顔がまったく見えないことだ。市場原理が成り立たない教育だからこそ、大所高所からどういう社会をめざし、どういう人材が必要であるかを考えたうえで、教育論を闘わせる必要がある。そのためには、まず現場での時間的ゆとりが必要である。時間的ゆとりがあれば、学校の先生たちは自分の教育現場にあわせて実践することだろう。それがうまくいかなかったとき、ほかの学校の先生たちの実践が参考になる。そして、それを仲介する機関が必要となる。「他者とのコラボレーション」でなりたつ教育のためには、他者の通達・要望・理想論に打ち勝つ現場の力がなにより必要だということを、本書は教えてくれる。


 ブログが本になり、ベストセラーになる。その理由が、すこしわかったような気がする。しかし、この書評ブログが本になって9ヶ月になるが、ベストセラーどころか初版第1刷が完売できるかどうかもあやしい。ブログを読んでいる人が、お金を払って本を買い再読したくなるかどうかの境目はどこにあるのだろうか。この書評ブログで紹介した本も、この書評だけで要点がわかり本は読まない人がいる。自分のための読書覚書として書いてきたが、もう4年以上、150以上書いてきたので、そろそろ読者を意識して書いてもいいのかもしれない。本になったら再読したくなる、紹介した本が読みたくなる、そんなことをすこし考えてみようと思う。紹介した本が紀伊國屋書店Webで買いたくなる、というのはちょっとむつかしいかも・・・。

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