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2009年07月28日

『慰霊・追悼・顕彰の近代』矢野敬一(吉川弘文館)

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 冒頭で、著者の矢野敬一は、「本書の目的は、近代において慰霊、追悼、そして顕彰といった事象がどのような政治的力学をはらみ、またそうした力学を通して家あるいは郷土というローカルな次元での共同性がいかに構成、もしくは再構成されてナショナルな次元へと接合されていったのか、もしくはされていなかったのかということを論じることにある」と述べている。

 本書は「靖国問題」を念頭においていることは確かだが、政治化した問題に振りまわされることなく、民俗学という基礎研究をもとに、問題の根本を洗い出そうとしている。したがって、「靖国問題」に直接かかわるのは、最初の2章だけで、残りの4章は古代にまでさかのぼる祖先祭祀や郷土史像の編成について考察している。本書は、比較的長い「序」(41頁)で著者の目的意識を明確にし、各章で考察したことをもとに「家と祖先をめぐる知の成立と展開」を述べて「結」としている。各章には、それぞれ「はじめに」と「おわりに」があり、わかりやすい。

 「序」では、明治以降の近代国民国家日本の戦死者が、どのように位置づけられたかが検討され、つぎのようにまとめている。「明治末から登場した国民道徳論は、国家への貢献を通して国民誰しもが国民的祖先となりうることを説いていった。明治期の英雄への関心の高まりを、新たな形でナショナルな次元へと回収しようとする試みとして、国民道徳論は位置付けられるかもしれない。そしてその先には総力戦体制という形で国民を戦争に巻き込み、無数の「英雄」が生じてしまう事態が待ち構えていたのである」。

 「第一章 戦死者と新聞報道」では、公葬という形で戦死が位置づけられ、新聞報道を通して反論も疑問もできなくした様子が描かれている。「新聞は華々しい戦況だけではなく、郷土出身将兵が戦死したような場合はその情報を、さらに遺骨が帰還してからはその慰霊の状況を、大きく取り上げていく」。そして「公的な性格を帯びた戦死者の葬式では、遺族宅と公葬会場までと二度にわたって遺骨を中心とした行列を組むことが要請されていた」。「新聞記事は行列の盛大さを報道することによって、戦死者への処遇はどのようなものとすべきなのかについての規範を写真ともども読者に提示していった」。

 「第二章 郷土という次元での戦死者」では、「最初の節で従軍先である外地と郷土との双方がどのように切り結ばれていたのかという点を、新聞や雑誌が果たした役割から論じる。次いで戦死者への公葬の執行について、ナショナルな次元との関係から述べる。さらに戦死者の扱いが学校教育でどのようになされていたのか、あるいは戦死者への戒名付与の状況がいかなるものだったのかという点に言及し、郷土というローカルな次元での戦死の位置付けについて視点を変えて踏み込みたい」という。「戦死者を慰霊しあるいは追悼・顕彰する行為の内実には、靖国神社への合祀という局面にとどまらない多様な過程が含まれていた」。

 そして、著者は問題点を、つぎのようにまとめている。「戦死者の慰霊は所属部隊での慰霊式典、出身市町村での公葬という流れを経て靖国神社への合祀に至るまで、一貫した流れを持つように見える。だが繰り返していえば、そこには体系だった慰霊・追悼・顕彰のシステムが存在していたわけではない。靖国神社への合祀に収斂するナショナルな次元とは異なった位相にある慰霊・追悼・顕彰のシステムを、郷土というローカルな次元では試行錯誤しつつ模索せざるをえなかったのが実情である」。

 近代国民国家の成立とともに、徴兵制が敷かれ、国民誰もが国のために戦死する可能性が生じた。しかし、その死は、家族や郷土にとって身近なもので、それを近代的な論理でナショナルなものに結びつけ、靖国神社への合祀で完結させた。しかし、そのシステムは、大量死と敗戦で崩壊した。そして、近代に源がある「靖国問題」は近代的な論理で解決できずに、現代に持ち越された。前近代と近代とを結びつけた靖国神社への合祀の問題は、現代の「生と死とをめぐる問い」となって、われわれに降りかかっている。

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2009年07月21日

『からゆきさん物語』宮崎康平(不知火書房)

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 1960年前後に書かれた本書を、わたしたちはどのように読めばいいのだろうか。

 本書は、「からゆきさん」の実録を基に書き起こした小説である。「からゆきさん」といえば、1972年に発行された山崎朋子『サンダカン八番娼館』(74年に映画化)や76年に発行された森崎和江『からゆきさん』が話題になり、87年には『村岡伊平治自伝』が「女衒」というタイトルで映画化された。「からゆきさん」とよばれる海外の娼館で働いていた日本人女性は、明治から大正にかけて中国東北地方や東南アジアを中心に世界各地に広まった。1910年代後半からの廃娼運動や30年代前半のシンガポールや香港の公娼制度の廃止によって「からゆきさん」は激減したが、戦後も東南アジアなどに残っていた者がいた。日本に帰国して細々と暮らしていた老齢期を迎えた元「からゆきさん」ともども、1970~80年代にノンフィクションやドキュメンタリーの題材となった。折しも1960年代から世界中でウーマン・リブ運動が広まり、日本でも女性の地位向上を求めた。『サンダカン八番娼館』の副題は、「底辺女性史序章」だった。

 本書は、ウーマン・リブ運動が盛んになる前に書かれた。本書に登場する「からゆきさん」は、底辺に位置づけられ、虐げられた「かわいそう」な存在ではない。自分に与えられた境遇のなかで、たくましく懸命に生き抜いた人びととして描かれている。その点で、本書は森崎和江『からゆきさん』に近い。著者の宮崎康平は、本書を完成することなく、邪馬台国のほうに関心が移り、1967年に出版した『まぼろしの邪馬台国』がベストセラーになると、「からゆきさん」の出版を棚上げにし、そのまま80年に突然、脳卒中で死亡した。本書がお蔵入りした理由のひとつは、ウーマン・リブ運動にあったのかもしれない。それは、著者にとって、「からゆきさん」は特別な存在ではなく、著者の人生の日常生活のなかに自然に存在した人びとであったからである。それを「底辺女性」と位置づけられたことに戸惑いがあったのかもしれない。

 1917年生まれで、30代前半で失明した著者の口述を筆記した妻・和子さんの「「からゆきさん物語」の出版にあたって」には、著者が「「からゆきさん」に関しては絶対の自信を持っていた」背景として、「生い立ちが深く影響していた」と述べられている。著者が生まれる前後に、一家は父徳一がスマトラ横断鉄道敷設にあたっていたためにパダンに住んでいた。帰国後について、つぎのように書かれている。「スマトラでの鉄道事業は挫折し、止むなく一家は故郷島原に帰国したのだが、折にふれて母から聞かされた南洋の暮らし、現地のからゆきさんにまつわるエピソードなどが、追体験として強烈に康平の意識の中に育っていたのであろう。加えて、島原中学の同窓生にはからゆきさんを母に持つ混血の少年が居たり、英語教師はからゆきさんの夫として共に来日した英国人であったりといった、からゆきさんをめぐる濃密な環境も、どうしても「からゆきさん」の真の姿を畢生の作品として残したいという思いに駆り立てたのだと思う」。そして、「絶好のモデルを得た康平は、第一部「波濤」、第二部「花筵(はなむしろ)」、第三部「落日」、第四部「別離」と約八百枚に及ぶ大作を、島原鉄道の常務として多忙な中で一気に書き進んだ。深夜口述で走り書きしたものを、昼間、康平が会社へ出かけた後、私がざっと読めるように書き起こし」た。しかし、第二部の清書を仕上げた後、突然、棚上げにして、その後、完成を見ることはなかった。

 残された妻・和子さんが「出版に踏み切れなかった最大の理由は、未完ということにこだわったわけではなく、『まぼろしの邪馬台国』のヒット以来、あれほど熱中した「からゆきさん」に十余年も手を付けず放っていた康平の心情が何とも推し量れなかったからである」という。

 わたしは、本書の出版を歓迎したい。1970年代に出版できなかったものが、いま新たな読み方によって、現代の人びとに訴えかけるものをもっているからである。モデルとなった女性について、つぎのように略歴が述べられている。「かつて「からゆき」としてシンガポールに渡り、現地で大成功を収めて財をなした、からゆきさんとしては数少ない成功者の一人だった」。「第二次世界大戦が敗戦に終わり、収容所を転々とした彼女はやっとインドのカルカッタから引揚げ船に乗ったが、そのとき全財産を宝石に替えて隠し持って帰国した。たいした根性である。ところがその後、彼女はその莫大な宝石を二束三文に殆どだまし取られて、今は近所の子守りなどをしながら糊口をしのぐ日々となったのであった」。「だが、したたかな彼女は毎日のように市役所に押しかけて、この不当な境遇を何とかしてくれと訴えるので、役所ではほとほと持てあまし、記者室でも「ダイヤモンドなつを」と話題になっていた」。

 自殺や鬱病で悩む人が多い現代、「からゆきさん」から生きるとはどういうことかを学ぶことができる。そして、本書が未完で終わったことで、むしろその後の生き方がいろいろ想像でき、いつの時代でも、どのような社会でも受け入れられる作品になったということができるかもしれない。

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2009年07月14日

『ヒューマニティーズ-歴史学』佐藤卓己(岩波書店)

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 本書を読んで悲しくなった。この手の入門書は、著者が自分の読書歴にもとづいて書かれている。著者と同じ本や同種の本を読んだことのある者は、頷きながら、あるいは自分と違う読み方をしていると反発しながら、読み進める。しかし、本を読んでいない者は、この本に書かれていることの意味がわからない。本書で書かれている「パソコンを使う前にマニュアルを読むようなものだからである」。大学に入学してから読んだ本を訊ねると、授業で使った本しかあげない学生が読んでも、本書はわからない。だから、授業で使えない! 悲しい!

 本シリーズ、ヒューマニティーズ全11冊は、哲学、歴史学、文学、教育学、法学、政治学、経済学、社会学、外国語学、女性学/男性学、古典を読む、からなる。明らかに社会科学に属するものが半数ある。「歴史学は科学か?」と問われた近代と違い、近代科学だけでは明らかにできない現代の諸問題に対処するためには、近代科学を超える意味での人文学humanities的知識が必要である。それは、本シリーズの各章の統一された副題からわかる。歴史学なら、「歴史学はどのように生れたのか」「歴史学を学ぶ意味とは何か」「歴史学は社会の役に立つのか」「歴史学の未来はどうなるのか」。

 本書は、著者佐藤卓己の研究(読書)遍歴をたどりながら、「如何にしてメディア史研究者になったか」を語っている。著者の著書を読んでいれば、著者がどのような背景と意図をもって、それぞれの著書を書くにいたったかがわかっておもしろい。

 著者は、「はじめに」で、まず「「歴史学」を書く資格が、私にあるだろうか」と問う。そして、大学の学部・大学院と史学科・西洋史学専攻に属しながら、専任教員として歴史学科に属したことがないからこそ、「本書の執筆を引き受けた」と答える。歴史学を主観的にしかとらえられない「歴史学者」に、本書は書けないのか。「書けない」とわたしも思う。

 「「公共性の歴史学」に辿り着いた」著者は、つぎのように批判する。「歴史を学ぶ意味への問いを切実に感じるのは、歴史学科に所属する教員より、私のように社会学科や教育学部で歴史学を教えている教員だろう。歴史が好きで、それを学ぼうと志した学生が「何のための歴史的アプローチか」と問うことは少ないからである」。さらに、「日本では一九八〇年代以降ポストモダン思潮と並行した社会史ブームは、その唱道者の意図に反して、歴史学の印象を非政治的な雑学趣味にしてしまった感もある」、「「歴史は過去と現在との対話 」(E・H・カー)というフレーズは歴史家によって頻繁に引用されるが、その割にはあまり応用されていない」と手厳しい。

 「歴史家とは通史を書くことだと思っている学生」や「歴史」を「歴史学より歴史物語、あるいは歴史教育の略語である」と思っている世間一般の人びとに、「歴史学」とはなにかを説明することは、それほど難しいことではない。著者のいうように「史料に基づき「ここまではわかった」「そこから先はわからない」と明言」すればいいからである。しかし、その具体例である専門論文や研究書を読んだことのない者に、説明してわかってもらうことは不可能である。せめて大学で歴史学を専門にしようとする者は、どの本が通史で、どの本が歴史小説で、どの本が歴史学の研究成果に基づいた一般教養書であるのかを区別できるだけの読書を、すくなくとも大学に入った日からしてほしい。

 人文学は幅広い知識が必要で、本を読まない者が学ぶことができる学問ではない。ということは、本を読まない学生相手に人文学を教えること自体が、もはや無駄なことなのか。本書のような入門書の前に、学生に本を読む習慣をつける方法、あるいは本を読まない学生のための人文学の本が必要だ。情けない!

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2009年07月07日

『英霊-創られた世界大戦の記憶』ジョージ・L・モッセ著、宮武実知子訳(柏書房)

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 「戦後日本の「ねじれ」を解く鍵がここにある!」「欧州の「戦後」、すなわち第一次大戦後ドイツで展開された戦没者崇拝をめぐる左右勢力の攻防。靖国問題を読み解くためにも欠かせない一冊」。本書の帯に、こう書かれているが、その意味がわかり本書を手に取って理解しようとする日本人は、残念ながらそれほど多くないだろう。

 訳者、宮武実知子は、「訳者解題」で、つぎのように本書を読む時間と空間の背景によって、そのとらえ方が異なってくることを述べている。「原書の初版は一九九〇年である。ドイツ語訳は一九九三年、東西ドイツが統合されて間もない時期に刊行され、ドイツ語訳者は、冷戦終結後の気分を反映させた自分の文章を随所に挿入していた。だが同じ頃に日本語訳が出ていても、今[二〇〇二年]ほどの感慨をもって読めなかったかもしれない。「戦後」五〇周年頃から盛んになった歴史教科書論争は、二〇〇一年夏に決行された小泉純一郎首相の靖国神社公式参拝とあいまって、国際問題にまで発展した。さらに、その直後に起きた米国同時多発テロとアフガン空爆、パレスティナでの自爆テロとイスラエルの「対テロ戦争」は、死者の「記念」や「大義」のための闘いについて切実な問いを投げかけた」。

 わたしたちが本を読むとき、まず著者が書いた背景と意図を理解する必要がある。つぎに、読むときの時空を考え、なんのために読み、なにをその本から学ぼうとしているのかを明確にする必要がある。そうでないと、わたしたちは、とんちんかんな読み方をしてしまう。

 いまの日本人が、戦争について考えるとき、まず戦争とは「先の戦争」の第二次世界大戦(「アジア・太平洋戦争」「大東亜戦争」)のことである。しかし、本書を読めば、ヨーロッパでは戦争といえば第一次大戦(世界大戦ではない!)のことであり、第二次大戦はその延長線上にすぎないことがわかる。そして、国民国家のために戦死した人びとが、どのようにして「英霊」になったかがわかる。ちなみに、本書の原題を直訳すると、『戦没兵士:世界大戦の記憶の再形成 Fallen Soldiers; Reshaping the Memory of the World Wars』となる。

 本書の帯にある「靖国問題を読み解くためにも欠かせない一冊」として理解するためには、この問題を近代の世界史の問題としてとらえる必要がある。日本の「靖国問題」は、ナショナル・スタディーズのなかで、戦後の問題として議論されてきた。しかし、本書を読むと、「国民国家の防衛という神聖な任務を全うした」戦没者をどう祀ればいいのかという、近代ナショナリズムの共通問題があることに気づく。そして、問題を解決することは、つぎの戦争のために不可欠なことだったことがわかる。

 この戦没者祭祀の問題は、ヨーロッパではキリスト教信仰と結びついていったことが、つぎのように述べられている。「こうしたナショナリズムにおけるプロテスタントの機能は、死の問題に眼を向けた時に、最も明らかとなる。フランス革命戦争やドイツ解放戦争に始まる英霊祭祀の発展にともない、兄弟・夫・友人の戦死は生け贄となった。その際、少なくとも公的には、得られたものは個人が失ったものより重いとされた。祖国のための死を正当化する戦争目的が信じられたばかりでなく、死そのものが超越された。つまり戦没者は、キリストを模して、真に神聖なものとなったのである。戦没者の祭祀は国民に殉教者をもたらし、彼らが永遠の眠りにつく場所を、国民的崇拝の聖地とした。戦没者を記念する戦争モニュメントは、自国の青年の強さと男らしさをシンボル化し、後に続く世代への模範となった。そうした祭祀は平時においても、戦争の栄光と挑戦とを想い起こさせた」。

 こうした祭祀は、「近代的な戦闘行為の開始と新たな国民意識によって」変化していった。第一次大戦の大量死によって、戦争墓地や戦争モニュメントが国民的崇拝の聖地となり、兵士個人の身分にかかわりなく戦没者は英雄になっていった。そして、無名戦士の墓が戦没者祭祀の中心となって、群衆が参加できる式典が催されるようになった。軍人や志願兵、傭兵だけで戦っていた時代と違い、徴兵制によって兵士になることが国民の義務となった時代のなかで、国のために戦い死ぬことを躊躇しない国民を育成するために、戦没者祭祀は国民国家の重要な行事となった。

 ナショナリズムと結びついた「戦争の記憶の再形成」は、平和主義へ向かうことはなく、第二次大戦へと人びとを導いていった。1918年にベルリンで生まれ、33年ドイツのナチ化にともない国外に脱出した著者、モッセは、この戦間期をつぎのように説明している。「戦争体験の神話は、野蛮化の過程の中心を占めた。戦争の記憶を変質させ、受容しやすくしたからである。そうして、ナショナリズムに力を貸し、戦後状況に最も効果的な神話やシンボルを備えさせた。戦争体験の神話は、第一次大戦を第二次大戦へと媒介し、国民を刷新できる無傷の連続性を確立させようとした。だがこうした全てにもかかわらず、いかにナチが力を尽くしても、一九三九年の時点で、戦争への熱狂も新たな一九一四年世代の登場も、ほとんど見られなかった。それでもやはり、そうした神話が投影された政治意識や死生観は、多くの人に不可避な戦争を受け容れる覚悟を決めさせた。戦間期という時代は大部分、戦争の延長線上にあった。戦争体験の神話と対をなせるような、有効な平和主義運動は皆無であった」。

 ところが、第二次大戦後には、大きな変化があらわれた。「第一次大戦の戦没者記念碑は、戦争体験そのものを引き合いに出した。だが、第二次大戦後の警告記念碑(マーンマル)は、戦争の帰結をシンボル化した」。イギリスでは、第二次大戦末期に、戦没者祭祀について、大々的に議論された結果、「記念碑は集団よりも個人を記念し、あらゆる戦争への警告を含まねばならぬ、との見解が影響し」、「国民の大半が戦後も長く楽しめる公園や庭園のような記念施設を望むと立証され、実用案が支持された」。

 本書を読むと、日本の戦没者祭祀の問題が、近代国民国家の共通の問題であるとともに、日本独自の信仰と結びついた問題であることがわかる。「靖国問題」をはじめ近代に解決できず現代に先送りされた日本の戦没者祭祀の問題は、ヨーロッパでの第一次大戦後と第二次大戦後の戦没者祭祀のあり方の違いが顕著に示すように、なんのためのものかを明確にする必要がある。それは、二度と戦争をしないために、どのような記念碑を建て、どのように祭祀をおこなうかである。「軍国主義的伝統や軍事的事件を賛美するような」、つぎの戦争に国民を動員するためのものでは、断じてない。建立にかかわった政治家の名前が大書され、各種団体の資金源になるような記念碑は、論外である。日本の戦没者祭祀の問題は過去の問題ではなく、いまの日本が戦争にたいしてどのように考えているかを示す現代の問題である。

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