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2009年06月30日

『さまよえる英霊たち:国のみたま、家のほとけ』田中丸勝彦著、重信幸彦・福間裕爾編(柏書房)

さまよえる英霊たち:国のみたま、家のほとけ →bookwebで購入

  序 章:戦歿将兵の霊の呼称 研究史 問題の所在
  第一章 戦歿英霊の喪葬 -喪葬儀礼の変化-
  第二章 英霊信仰の諸相 -御霊信仰の変移-
  第三章 公と死の相剋 -近代思想の変容-
  第四章 英霊祭祀の本質 -近代宗教の変質-
  終 章 正義の戦争

 残念ながら、これは本書の目次ではない。2000年に54歳で急逝した著者、田中丸勝彦が生前に公表した「英霊祭祀の研究」の「目次案」である。この「目次案」の副題をみると、民俗学者の著者が、英霊祭祀の「変化」「変移」「変容」「変質」に注目していたことがわかる。近代という時代のなかで、いかに「英霊」が生まれ、変遷していったかである。

 本書は、「十数年にわたって続けていた、英霊研究の論文ならびに覚書」を、友人の編者ふたりがまとめた遺稿集である。冒頭の「英霊と祖霊のはざまから」で、編者は著者の議論をつぎのように紹介している。「田中丸の議論は、民俗学が語った祖霊祭祀の逸脱形態としてしか英霊祭祀が出現せざるをえないということをめぐって展開する。そこでは、既成の民俗学の「祖霊神学」が批判的に解体されつつ、これまで民俗学が語ってこなかった、国家と「国民」の共犯関係のもとで作り上げられた英霊という近代があぶりだされることになるであろう」。

 著者は、まず最初の論文「「英霊」の発見」で、「英霊」の変遷を明らかにしている。「「英霊」という語句が初めて現れるのは、日露戦争後の明治三九年五月で」、靖国神社の合祀祭の記事のなかにある。「主や国のために一命を賭すことなどは、それまでの民衆の文化や世界観にはないことだった」のが、尋常小学校や教育を通して「英霊」は広く定着し、「あんなに立派な葬式をしてくれるのなら、死んでもいい」と、少年に思わせるようになった。まさに軍部と神社と学校が一体となって、軍国少年をつくりあげていた。

 しかし、そのような「立派な葬式」をあげてもらった戦歿者の死因は、「「無縁」や「怨霊」「御霊」に近い、非業の死であった」。そのために、「靖国神社の祭祀の基準は不明確であり、厳密さを欠いていて、雑多としか言いようがない。だからこそすべての基準を「聖慮」に求めるしかなかった」。靖国神社と各県の護国神社の関係もはっきりしない。著者は、つぎのように述べている。「靖国神社が単立の一宗教法人であるのにたいし、各県護国神社は、各県の神社庁に所属し、それぞれ創建のいきさつも違う。戦前において靖国神社の出先機関のように扱われたこともあり、戦歿者の霊は、靖国神社に合祀したのちでなければ護国神社への合祀は認められなかったこともある。しかしながら、祭神の扱いや宗教としての理念や教義の点では、齟齬がみられる」。

 本書では、日中戦争・「大東亜戦争」での立派な公葬だけでなく、第一次世界大戦の英霊の葬式が盛大であったことも紹介している。415名の戦死者を出した第一次世界大戦は、日本にとって「英霊」をどのように扱うかを充分に考えることができた戦争であった。それは同時に、本格的な総力戦となったヨーロッパで「英霊」がクローズアップされ、世界戦争とともに各国民国家で国のために殉じた「英霊」についての共通認識ができたことを意味した。

 日露戦争で「英霊」が誕生し、第一次世界大戦で「英霊」の公葬が制度化して、「怨霊」にならなかった日本の戦歿者は、戦争末期から「さまよう」ようになる。著者は、その状況をつぎのように説明している。「十五年戦争の死者は末期に集中しており、公報や遺骨(遺品)が届いたのは敗戦後といった例も少なくない。すでに公葬は禁じられていたので「部落葬」という近隣だけの葬儀となった。生死の確認もできないような不安定な状況のなかでも、けじめだけはつけなければならないという感覚があり、少ない物資をやりくりして葬儀と初盆だけは執り行なったという、無念の遺族もある」。「戦死者の霊が枕上に立ったり、夜中に戸を叩いた例は多い。すると間もなく戦死の公報が入ったという。霊が母親に会いに来たこともある。戦地にいるはずの息子の姿が、障子にはっきり映った。直後に、役場の職員が戦死公報の封書を持参した。しかし公報がどうしても信じられずに陰膳を続け、ミコドンやトウライキキ(祈禱師に死者の言い残したことなどについてお伺いを立てること)に行った人も少なくない」。

 このような遺族は、敗戦直後は生活苦から、「宗教色などかけらもなく、寡婦の職と遺児の生活を第一にした、経済更生」を求めたが、生活が落ち着くと「英霊に対する永遠の慰霊と顕彰」を求めるようになった。そして、「末期に立ち会えず、死に水を取れなかった悔いは、いまなお深い。最期の様子を知るために、日本の遺族たちは、今もさまざまな努力を続けている。戦友を訪ね歩いたり、巫女に尋ねたり、戦跡を訪れる人はひきもきらない」のである。

 著者は、さらに「いまなお出版されている、戦歿者の遺書や戦記物の語り口は、まだまだ変化するはずである」と考えていた。その変化の先にあるものはなにだったのか、もはや著者に訊くことはできない。「目次案」の「終章 正義の戦争」のふたつの見出し「経世済民の学という思いあがり」「卑屈な民間学」から、思いをめぐらすしかない。「目次案」を具体化する後継者が現れることを期待したい。

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2009年06月23日

『新編 日本のフェミニズム10 女性史・ジェンダー史』加納実紀代解説(岩波書店)

新編 日本のフェミニズム10 女性史・ジェンダー史 →bookwebで購入

 1994年に全7冊、別冊1冊で刊行された「日本のフェミニズム」が、増補新版され全12巻で刊行される。新たに立てられた2巻が「グローバリゼーション」と、本書「女性史・ジェンダー史」である。旧版になかったのは、「ジェンダー概念の女性史への導入は女性学より一〇年遅れ、九〇年代に入ってからだった」ことによる。

 旧版と新版との間の15年間は、「増補新版の編集にあたって」で、つぎのように説明されている。「日本においてジェンダー政策が主流化し、女性学が制度的な知の再生産のもとで若手の研究者を次々に送り出すなど、多様で多産な時期でした。その成果に脅威を感じるかのように、フェミニズムに対するバックラッシュすら登場しました」。

 本書の加納実紀代による解説「<近代>をひらく」を読むと、日本の女性史研究の特徴、課題がよくわかる。まず、日本の女性史は、「フェミニズムとともに研究が始まった欧米に対し」、「すでに厚い蓄積を持っていた」。そして、「女性史はたんにこれまでの歴史に女性を書き加えるだけでなく、近代知としての歴史学そのもの、その「科学」性に問い直しを迫るもの」であった。文献史料だけでは充分に書くことのできない女性史は、「オーラル・ヒストリーを位置づけることによってher-storyを発掘してきた。それはたんに文献史料の不足を補うというよりは歴史学そのものの問い直しでもあった」。したがって、本書は、「女性・ジェンダー視点による近代知としての歴史学批判を基本姿勢」とし、「<無告>の声を聴く」、「「大日本帝国」と女性」、「日本近代とジェンダー」の三本の柱を立てた」構成になっている。さらに、「本書は、男性排除という偏狭な姿勢」をとっている。その理由は、「まず、フェミニズムを当事者による自己解放と考えるということ。したがって最近研究の進展が見られる男性史ははずす。第二に「民間学」としての女性史を重視したいということだ」という。この「制度化されたアカデミズムの外で手弁当でなされる学問を指す」「民間学」としての女性史が、近代知としての歴史学を超える原動力になっているといえるだろう。

 いっぽう、解説者は、男性中心の近代史のなかで、女性が「主体」的に歴史にかかわっていた事実を語ることも忘れていない。「愛する夫や息子を失い家を焼かれ……といった被害者」としての女性が「生き生きと戦争協力する」姿や、「日露戦争にあたって「君死にたまうことなかれ」とうたい、女性の経済的自立を説いた与謝野晶子も、韓国併合に際して「韓国(からくに)に綱かけて引く神わざを今の現(うつつ)に見るが尊さ」と祝賀の歌を詠んでいる」と、「帝国主義とフェミニズムは共存する」ことを指摘している。

 本解説は、「日本の歴史学においてジェンダー概念はいまなお有効だとする」荻野美穂の考えをまとめるかたちで終わっている。「荻野によれば、ジェンダーをたんに性別役割や男女の関係としてでなく、権力関係の生成・維持にあたって動員される「差異化の実践」と考えれば、その研究対象はあらゆる「公的」世界に及ぶ。また性別は階級・人種などさまざまな差異化のカテゴリーの中でももっとも「自然」化されているが故に強靱であり、歴史家自身をも規定しているという。たしかに、実証の史料におけるジェンダー・バイアスだけでなく、それを解釈・叙述する歴史家自身の立場性を自覚化する上でも、ジェンダー史の意義は大きいといえるだろう」。

 いま、歴史学は近代に「つくられた」歴史像から脱しようと苦しんでいる。その歴史像は、近代的価値観のもとで、それなりに国民国家を支え、国民の生活を豊かにしたかもしれない。近代のいわゆる先進国は、温帯の定着農耕民社会を基盤とし、男性エリート中心の中央集権的制度の下で合理的な近代社会を築いた。しかし、この近代社会で「マイノリティ」とされた人びとは、歴史から抹殺された。そのひとつの集団が女性であった。本書を読むと、女性学が二項対立的に男性と対比しただけのものではないことは明らかである。女性学の発展が事例となって、近代に「マイノリティ」として歴史から抹殺された人びとが浮かびあがってくると、歴史記述はもっと多様になり、ナショナル・ヒストリーや西洋中心史観からも解放される。そして、現実に歴史学の成果をいまの社会にどう活かすか、これからの社会を築くためにどう活かすかが、明らかになってくる。そうなってくると、歴史学無用論も消える。その意味で、女性史・ジェンダー史に期待するものは大きい。

 女性史は、制度化されたアカデミズムから外されたことで、近代知としての歴史学を超える現代知をもたらしている。大学・研究所で女性史を研究・教育する女性研究者の数も充分とはいえないが増えた。現代のアカデミズムのなかで、歴史学のなかで、「バックラッシュ」にこたえながら、どう自律した役割を担うのか。まだまだ課題は多いが、本書を読み、先達たちとともに考えていきたい。

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2009年06月16日

『朝日新聞の秘蔵写真が語る戦争』朝日新聞社「写真が語る戦争」取材班(朝日新聞出版)

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 1年間余にわたって10日ごとに、「富士倉庫資料」のラベルの貼られたファイルが2冊ずつ、朝日新聞大阪本社から宅配便で届けられた。全72冊の点検が終わったとき、ホッとすると同時にがっかりした。東南アジアを専門とする者として、東南アジアにかんするものがもっとあると期待していたからである。とくに日本が占領した土地で、朝日新聞が担当・発行したジャワ新聞、ボルネオ新聞、香港日報との関連で。

 「富士倉庫資料」は、本書でつぎのように説明されている。「朝日新聞大阪本社には、通称「富士倉庫資料」と呼ばれる大量の写真資料が保管されている。撮影時期は1931(昭和6)年の満州事変の前後から第2次世界大戦敗戦までの時代が中心で、アジア各地へ派遣された特派員の撮影や通信社からの配信による写真からなる。その総数は、7万枚以上に及ぶ」。「本書は、2006年7月17日付から2009年3月27日付まで、朝日新聞紙面に月1回連載された「写真が語る戦争」を再構成し、加筆したものである」。

 7万枚余の写真の多くが中国戦線のもので、データベース用にとくに貴重な1万枚を選ぶ委員のひとりでありながら、それを判断するだけの知識をもっていなかったわたしにとって、本書はこれらの写真のもつ重要性を改めて認識させてくれるものになった。また、朝日新聞の連載を丁寧に読んで理解していた者にとっても、本書はさらに新たな発見ができるものとなっている。連載後の読者からの反響をふまえて、加筆しているからである。新聞記事が、このようなかたちでストックな情報として生まれ変わることで、新聞記事の信頼性はさらに高まる。そして、そのことをこの取材班は充分に認識しているからこそ、写真と裏に書かれた説明、各種スタンプなどの情報だけでなく、被写体となった場所を訪ね、人物を捜し、インタビューした。

 本企画は、朝日新聞の「歴史認識を問い直す06年度の年間企画「歴史と向き合う」に連動するかたちでスタート」したため、「富士倉庫資料」についてはすでに新聞連載を基に出版された朝日新聞取材班『歴史と向き合う2 「過去の克服」と愛国心』(朝日新聞社、2007年)の巻頭で紹介されている。あわせて読むと、写真が撮られた背景がわかることもある。

 写真を「選定」しているときから気になっていたことのひとつは、これらの写真が大阪本社が発行する朝日新聞のために撮られたものであるということである。当然、日本国内で撮られた写真の多くは関西のもので、母校の大阪の高校の写真も出てきたし、1942年2月15日のシンガポール陥落を祝う写真のなかには生まれ故郷の津山の幼稚園や小学校、現在住んでいる大津の近所の小学校が出てきた。大阪本社の写真が、当時の日本を代表するものとは限らないのは、大阪がアジアと特別な結びつきがあったからである。とくにアジアとの貿易額は、神戸・大阪の2港合計で半分を占め、横浜港は20%にも満たなかった。しかし、本書を見ると、その「大阪」らしさが出ていない。たしかに戦争は国がし、国民は一丸となっていた。いっぽうで、人びとの日常生活や人間関係のなかには、国家とは無縁に動いていたものもあったのではないか。「沖縄」だけでなく、戦時下で地方色があったのかなかったのか、「大阪府派遣吉本興業わらわし隊」の慰問などから考えることで、戦後の大阪の東京進出や大阪の衰退が、繋がるかもしれない。

 「選定」をはじめてしばらくは中国戦線の写真がほとんどで、具体的な戦況がわからないわたしは、人びとの日常生活のほかに慰霊活動に注目した。戦後、日本人がかつての戦場に建てた慰霊碑の数は、だれも把握していない。フィリピンだけでも数百はあるだろう。また、「紙碑」ともいうべき「戦記もの」の出版はフィリピン関係だけでも1,000を優に超える。これらの活動の原点が、戦前・戦中にあったと考えているわたしは、中国戦線で戦死した者にたいして、日本軍はどのような慰霊活動をしていたのか興味があった。日本軍は占領すると、忠魂碑などの記念碑、神社を建ててお参りをした。そんな写真が何枚もあった。そして、戦死者の遺骨が日本に帰ってくると、港や駅で丁重に迎えられ、故郷に帰って盛大に葬式がおこなわれている写真も何枚もあった。そんな光景も、戦争末期にはなくなった。遺骨・遺品どころか、生死もわからないままの者が、いったい何人いるだろうか。1991年に大爆発したフィリピンのピナツボ火山の灰に埋もれた日本兵の遺体は3万ともいわれている。「富士倉庫資料」を見ながら、遺族・戦友は「勝ち戦」のときのように戦死者を「英雄」として祀りたいがために、かつて日本軍に占領された戦地で地元の人の冷たい目にさらされながらも慰霊・巡拝をおこなっているのだろうか。「選定」を終えたいま、手元に残された72冊のファイルを改めて分析してみようと思う。

 本書には350点以上の写真・図版が収録されている。そして、「朝日新聞歴史写真アーカイブ」には、「富士倉庫資料」約1万点が収録された。これらの写真から何を読み取り、今後のわれわれの生活にいかしていくのかを考えることによって、かつての戦争が身近になり、未来の戦争が遠退いていくと信じたい。

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2009年06月09日

『スペインの黄金時代』ヘンリー・ケイメン著、立石博高訳(岩波書店)

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 「本書が扱う時代のほとんど」は「衰退の時代であった」と、著者のケイメンは、「第1章 序」で述べている。本書のタイトルから、「日の出から日の入りまで、その領土で太陽が輝かないときはない」「一世紀余りにわたって強大な一大帝国を誇ったスペイン」を想像すると、読者は裏切られてしまう。しかし、その「黄金時代」にスペインの植民地となったフィリピンを研究している者からみると、本書によっていろいろな謎が解けてくる。なぜフィリピンの植民地化はカトリック化と一体になったのか、なぜフィリピンは経済的に英米の植民地のようになったのか、そして、なぜフィリピンの独立運動は失敗したのか、などなど。

 「本書のねらいは、スペイン史学の現状について簡潔だがバランスのとれたガイドを示し、近年の関連文献と議論の主題となっている中心的諸問題に焦点を当てること」にあり、「第1章 序」と「第7章 結論」で要点が述べられてわかりやすい。「第1章 序」では、つぎのように説明している。「一六世紀に生きた人びとにとって「黄金時代」とは、問題を抱えた自らの生きる時代ではなく、むしろ過去に属する理想化された時代をさしていた。一六〇五年にセルバンテスは、自著の主人公ドン・キホーテに、過去の「あの幸福な黄金時代」を懐かしませているのである〔・・・〕。その後一八世紀まで、スペイン人たちはほぼ異口同音にカトリック両王期を「黄金」時代とみなした。だが啓蒙期の文学批評家たちは、一六、一七世紀の文化的成功もまた「黄金期」の名に値すると判断した。そして、これら批評家の見解がそれ以来、一般的に用いられている。必然的に、「黄金時代」は成功と、「黄金時代でないもの」は失敗と同一視されるようになった」。

 そして、「第7章 結論」では、つぎのように衰退の原因を語っている。「世界的王国の指導的地位にありながら、その指導力を維持するためにスペインは完全に外国の資金、外国の軍隊、外国の船舶に頼っていたのである。これは歴史上の他のどんな帝国にもみられない倒錯した状況であった。スペインは、アメリカ大陸の植民者だったが、ほとんど最初から、新世界の政治的・経済的運命をコントロールすることができなかった。西の商業交差路であったがその貿易から利益を得ることに失敗し、ヨーロッパ商人たちの植民地となった。インディアスの金銀の受け取り人たるその住民は貧困の苦しみを経験しはじめ、それが何世代も続いた。必然的に、一七世紀の著述家たちは帝国の経験全体を悲劇的失敗と断ずるようになった。いまにしてみれば、黄金時代は、もし存在したとすれば少数者にとってで、多くの人びとにとっては存在しなかったのだということが私たちにもわかる。文化に対して「黄金時代」という言葉を用いることにすら、疑問が生ずるかもしれない。帝国主義はカスティーリャの言語と文化を推進したが、それはアラブやカタルーニャといったイベリア半島のその他の伝統を犠牲にするものだった。その上、ヨーロッパに与えたインパクトはつかのまのものだった。それが一七世紀初頭に世界の他の地域に最も成功裏に与えたイメージは、ドン・キホーテの妄想とグスマン・デ・アルファラーチェ〔・・・〕のさすらい者的現実逃避というアンビヴァレントなものだったことは意味深い」。

 本書のねらいについては、「訳者解説」の著者の仕事を概観すれば、その意図がよくわかる。訳者の立石博高は、スペイン語の優れた翻訳で定評があるだけでなく、著者の「スペイン史のステレオタイプ的理解に対していかに批判的な姿勢を貫いているかを知るとともに、そうした姿勢を十分に汲み取るためには、それぞれの読者が一定のスペイン史に関する知識をもつことが必須である」と認識しているだけに、その「解説」には学ぶことが多い。

 訳者は、著者の仕事を4つに大別している。「一つは、寛容や良心の自由への思想的関心を出発点にして、スペイン異端審問制度の展開を社会的・政治的脈略の中で捉えようとする異端審問研究で、スペイン国立歴史文書館「異端審問セクション」の史料を駆使した最も実証的研究である」。「第二の仕事は、一五世紀末から一八世紀初めの時代についての総体的・包括的理解に向けての研究で」、「従来のスペイン近世史像を大きく修正することに力点を置いている」。「第三の仕事は、「スペイン帝国」の構造に関わるもので」、「スペインないしカスティーリャの繁栄と衰退は、西ヨーロッパのそれらに「従属」したもので」あり、「インカ帝国やアステカ帝国の征服もまた、一握りのスペイン人による偉業ではなく、これらに対抗していたインディオの協同がなければ不可能であったと断言」する。「第四の仕事」は「ごく最近の仕事」で、「国民国家の歴史神話の解体へと傾斜」したものである。「国民国家の形成過程の歴史学がいかなるかたちで近世国家=社会のイメージを創造し、一九・二〇世紀のスペイン・ナショナリズムへのイデオロギー的貢献をなしたかを鋭く指摘している」。

 欧米の植民地になった国・地域の歴史を研究する者にとって、欧米の歴史は欧米中心史観で描かれたもので、ひじょうに単純化したかたちで批判してきた。しかし、著者が描いたようなスペイン史像があらわれてくると、スペインを地方の連合体(複合王政)、ヨーロッパ史のなかのスペイン、植民地との関係史のなかのスペインなど、さまざまなかたちでとらえなくてはならなくなる。そうすることによって、スペイン史もヨーロッパ史も、世界史も、そして中南米諸国・地域史やフィリピン史も、近代に描かれたステレオタイプ的理解では充分でなく、現代に通用しないことが明らかになる。

 本書は、「ヨーロッパ史入門」シリーズの1冊であるが、現代に通用する「世界史入門」の1冊でもある。

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2009年06月02日

『政府系ファンド 巨大マネーの真実-なぜ新興国家が世界を席巻するのか』小原篤次(日本経済新聞出版社)

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 本書が出版されたこと自体が、経済の危機である。一般の人が「政府系ファンド」と聞けば、安定し、安心できるというイメージをもつ。ところが、「政府系ファンド」の定義もできなければ、実態もわからないという。だから、それをわかりやすく解説した本書が企画された。本来は、このような本が出版されないような、わかりやすく安心できる経済的環境であるべきだ。とくに影響力が大きく、公共性のある「政府系ファンド」は。

 著者、小原篤次は、そのわかりにくい政府系ファンドを、つぎのように定義している。「筆者なりに政府系ファンド(ソブリン・ウェルス・ファンド、SWF)を短く定義すれば、「政府が運用原資を掌握し、運用対象に外国株式などのリスク資産を含む公的投資機関(年金基金など伝統的機関投資家、通貨当局の外貨準備運用を除く)」となる」。また、著者は、「図1-1 政府系ファンド定義・批判の論理構成」で「批判される」ものと「批判されない」ものなどに分けて、わかりやすく考えようとしている。しかし、その原資、機関は国・地域によってさまざまで、この図ではとてもあらわすことができない。そんな恐ろしいものが、いま「世界を席巻」している。

 その恐ろしさは、本書の目次を見て、再確認できる。
 第1章 四兆ドルの「実力」-ヘッジファンドを超えた政府系ファンド
 第2章 国家・政府に奉仕するファンドマネジャー
 第3章 政府系ファンドの持つ意味
 第4章 金融グローバル化-無国籍化するマネー

 著者は、「サブプライムローン問題が二〇〇七年初めに顕在化した後、世界的な悲観ムードを変えた瞬間があった。それが、政府系ファンドなど新興国マネーの台頭だった」という。しかし、このような「不透明な」マネーが、問題の根本的な解決にならないことは、だれにでもすぐわかるだろう。そして、「世界金融危機は、経済学が単なるイデオロギーや研究者の知的冒険ではなく、政策のツールであることを教え」、「経済学の意義を高めている」。その経済学は、理論から遠く離れた動向分析と「予想」でしかなく、それも後手後手にまわり、現実に対応できていない。

 著者が、新興国と金融の関係を考える背景として、フィリピン大学の大学院生時代に「アジア、アフリカからの留学生と寝食をともにし、時間を気にせずに本音で議論する機会に恵まれた」ことがあるだろう。フィリピンのマルコス大統領やインドネシアのスハルト大統領の不正蓄財やタイのタクシン首相の退陣につながる問題など、東南アジアに目配りがきくのも、その影響だろう。

 本書は、著者が心がけたために読みやすいものになっている。しかし、けっしてわかりやすいわけではない。そのことは、「ゴシップ」をとりあげていることからもわかる。「不透明」でわかりにくい部分を、「ゴシップ」で補っている。今日の金融危機を克服するために、そして今後新たな危機を生まないために、金融制度を透明でわかりやすいものにすることが不可欠のように思える。なぜなら、オイルショックやアジア通貨危機などを乗り越えるたびに、金融制度が複雑、不透明になり、だんだん危機の深刻さが増してきているからである。

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