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2009年04月28日

『遣唐使』東野治之(岩波新書)

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 冬の嵐のなかを、長崎県五島列島福江島の三井楽町にある「遣唐使ふるさと館」を訪ねた。平日午前中ということもあり、わたしひとりで「史実を参考にして創作した三井楽オリジナルの映像ソフト「遣唐使ものがたり」」を鑑賞した。パンフレットには、つぎのような説明文があった。「様々な苦難を乗り越え、日本の国づくりのために遥か遠い唐の国まで"夢と希望と勇気"を持って旅をした遣唐使たち」「この遣唐使をテーマにした人形アニメーション「遣唐使ものがたり」は、遣唐使が三井楽の柏崎を日本最後の地として別れを惜しみつつ旅だったという歴史的史実をもとに創作した三井楽オリジナルの感動のものがたりです」「自らも遣唐使の一員となり、苦楽をともにして唐へと旅をした"空海"をモデルにした留学僧があなたをワクワク、ドキドキ、ハラハラの遣唐使の旅へと誘います」。

 「中学・高校の社会や歴史の教科書にも必ずのせらて」いる遣唐使については、だれでもが知っている。しかし、その実態については、ほとんどわかっていない。しかも、わかってきたのは最近のことだという。これまで学校教科書が依拠してきたのは、1955年に発行された一般読者向けの森克己『遣唐使』(至文堂)と知って驚いた。驚いたのは、古く、学術書ではないからだけではない。著者の森克己(1903-81)が敗戦時に満洲建国大学教授で、戦後教科書検定などにかかわっていた、「国史」の中心人物のひとりであったからである。「国史」は、学問とは別次元の、国民のための歴史である。したがって、学問的根拠が薄弱なまま、記述されることがままある。学校教科書が依拠した文献が、学術書ではなく、「国史」研究者が書いたとなると、わたしたちは遣唐使の実態を歴史的事実としてではなく、国民のための歴史ものがたりとして学んできたことになる。

 そのことについて、本書では「はしがき」でつぎのように説明している。「・・・問題なのは、遣唐使といえば友好やシルクロード経由の文化受容といった側面が強調されがちで、日唐の外交関係が、あまり話題にのぼらないことである。朝廷は推古朝以来、中国と外交上対等に接してきたと考えている人が多いのではないだろうか。研究者の間でも、そのような見方が長らく常識となり、日本からの国書は外交上の名分を争う種とならないよう、持参されなかったという考えも一般化していた。それが改められ、日本が唐に国書を差し出していたことが認められたのは、一九八〇年代も後半になってからである。これには、第二次大戦前からのナショナリズムが、冷静な認識を妨げてきたことも影響しているだろう。昭和戦前期以降、唯物史観による研究が芽生え、盛んになっても、その関心は国内史中心で、国際関係への注目は、いわゆる六〇年安保以後のことである。その反面、外交史や対外関係史の研究者には、戦後も右寄りの人たちが少なくなかった。国書持参の問題が、最初日本史の研究者ではなく、中国史の専門家から提起されたのも偶然ではないだろう」。

 「国史」研究者が根拠としている文書のなかには、当時の日本側の建前だけでなく、幕末にねつ造されたものもあることを、本書では紹介している。実態がはっきりしないだけに、それほど多くない文書の解釈も一定していない。著者の東野治之は、ひとつひとつ根拠を示しながら解読していく。遣唐使を、「国史」としてではなく「日本史」として学問的に理解しようとしていることが伝わってくる。当然「日本史」となると、東アジア史や世界史のなかで当時の日本や中国を理解することが必要になる。本書では、中国以外から遣唐使を介してやってきたインド僧やベトナム(林邑)僧、ペルシャ人、イラン人、インドシナ・インドネシア人の存在も紹介されている。雅楽の林邑八楽が、ベトナム僧らによってもたらされたこともわかる。

 著者、東野治之のように着実に研究成果を積みあげてきた研究者にとっては、流行の「海域史」は「危うい」ものにみえてしまう。つぎのように指摘している。「「開かれていた日本」という発想は、常識化した鎖国史観への批判として有効だし、耳を傾けなければならない点があるのは確かだが、歴史の大局から見れば、それに偏ると日本が本質的に持つ鎖国体質に目をつむってしまうことになる。歴史を将来に役立てる意味でも、むしろ日本の鎖国性こそが自覚されるべきであり、それはいくら強調してもし過ぎることはないだろう」。

 定着水稲農耕民が支配的な東アジア社会と、転作がさかんな畑作小麦のヨーロッパ社会では、当然「海域史」が意味するものは違う。ましてや流動性の激しい海域東南アジアのような社会の「海域史」は、別次元の話になる。本書を読んで、海路を利用した交流がもたらした影響について、冷静に学問的に考察することによって「実態」が少しずつみえてくることがわかった。そして、著者は、現代をみつめているからこそ、冷静に学問的考察ができたのだと、「あとがき」の最後を読んでわかった。こう書いてあった。「古代のロマンとして見られがちの遣唐使だが、近現代の異文化交流を見る鏡にもなることを、本書を通じて感じ取っていただきたい」。

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