« 2009年03月 | メイン | 2009年05月 »

2009年04月28日

『遣唐使』東野治之(岩波新書)

遣唐使 →bookwebで購入

 冬の嵐のなかを、長崎県五島列島福江島の三井楽町にある「遣唐使ふるさと館」を訪ねた。平日午前中ということもあり、わたしひとりで「史実を参考にして創作した三井楽オリジナルの映像ソフト「遣唐使ものがたり」」を鑑賞した。パンフレットには、つぎのような説明文があった。「様々な苦難を乗り越え、日本の国づくりのために遥か遠い唐の国まで"夢と希望と勇気"を持って旅をした遣唐使たち」「この遣唐使をテーマにした人形アニメーション「遣唐使ものがたり」は、遣唐使が三井楽の柏崎を日本最後の地として別れを惜しみつつ旅だったという歴史的史実をもとに創作した三井楽オリジナルの感動のものがたりです」「自らも遣唐使の一員となり、苦楽をともにして唐へと旅をした"空海"をモデルにした留学僧があなたをワクワク、ドキドキ、ハラハラの遣唐使の旅へと誘います」。

 「中学・高校の社会や歴史の教科書にも必ずのせらて」いる遣唐使については、だれでもが知っている。しかし、その実態については、ほとんどわかっていない。しかも、わかってきたのは最近のことだという。これまで学校教科書が依拠してきたのは、1955年に発行された一般読者向けの森克己『遣唐使』(至文堂)と知って驚いた。驚いたのは、古く、学術書ではないからだけではない。著者の森克己(1903-81)が敗戦時に満洲建国大学教授で、戦後教科書検定などにかかわっていた、「国史」の中心人物のひとりであったからである。「国史」は、学問とは別次元の、国民のための歴史である。したがって、学問的根拠が薄弱なまま、記述されることがままある。学校教科書が依拠した文献が、学術書ではなく、「国史」研究者が書いたとなると、わたしたちは遣唐使の実態を歴史的事実としてではなく、国民のための歴史ものがたりとして学んできたことになる。

 そのことについて、本書では「はしがき」でつぎのように説明している。「・・・問題なのは、遣唐使といえば友好やシルクロード経由の文化受容といった側面が強調されがちで、日唐の外交関係が、あまり話題にのぼらないことである。朝廷は推古朝以来、中国と外交上対等に接してきたと考えている人が多いのではないだろうか。研究者の間でも、そのような見方が長らく常識となり、日本からの国書は外交上の名分を争う種とならないよう、持参されなかったという考えも一般化していた。それが改められ、日本が唐に国書を差し出していたことが認められたのは、一九八〇年代も後半になってからである。これには、第二次大戦前からのナショナリズムが、冷静な認識を妨げてきたことも影響しているだろう。昭和戦前期以降、唯物史観による研究が芽生え、盛んになっても、その関心は国内史中心で、国際関係への注目は、いわゆる六〇年安保以後のことである。その反面、外交史や対外関係史の研究者には、戦後も右寄りの人たちが少なくなかった。国書持参の問題が、最初日本史の研究者ではなく、中国史の専門家から提起されたのも偶然ではないだろう」。

 「国史」研究者が根拠としている文書のなかには、当時の日本側の建前だけでなく、幕末にねつ造されたものもあることを、本書では紹介している。実態がはっきりしないだけに、それほど多くない文書の解釈も一定していない。著者の東野治之は、ひとつひとつ根拠を示しながら解読していく。遣唐使を、「国史」としてではなく「日本史」として学問的に理解しようとしていることが伝わってくる。当然「日本史」となると、東アジア史や世界史のなかで当時の日本や中国を理解することが必要になる。本書では、中国以外から遣唐使を介してやってきたインド僧やベトナム(林邑)僧、ペルシャ人、イラン人、インドシナ・インドネシア人の存在も紹介されている。雅楽の林邑八楽が、ベトナム僧らによってもたらされたこともわかる。

 著者、東野治之のように着実に研究成果を積みあげてきた研究者にとっては、流行の「海域史」は「危うい」ものにみえてしまう。つぎのように指摘している。「「開かれていた日本」という発想は、常識化した鎖国史観への批判として有効だし、耳を傾けなければならない点があるのは確かだが、歴史の大局から見れば、それに偏ると日本が本質的に持つ鎖国体質に目をつむってしまうことになる。歴史を将来に役立てる意味でも、むしろ日本の鎖国性こそが自覚されるべきであり、それはいくら強調してもし過ぎることはないだろう」。

 定着水稲農耕民が支配的な東アジア社会と、転作がさかんな畑作小麦のヨーロッパ社会では、当然「海域史」が意味するものは違う。ましてや流動性の激しい海域東南アジアのような社会の「海域史」は、別次元の話になる。本書を読んで、海路を利用した交流がもたらした影響について、冷静に学問的に考察することによって「実態」が少しずつみえてくることがわかった。そして、著者は、現代をみつめているからこそ、冷静に学問的考察ができたのだと、「あとがき」の最後を読んでわかった。こう書いてあった。「古代のロマンとして見られがちの遣唐使だが、近現代の異文化交流を見る鏡にもなることを、本書を通じて感じ取っていただきたい」。

→bookwebで購入

2009年04月21日

『アジア海賊版文化-「辺境」から見るアメリカ化の現実』土佐昌樹(光文社新書)

アジア海賊版文化-「辺境」から見るアメリカ化の現実 →bookwebで購入

 まず、タイトルに惹かれた。つぎに、各章のタイトル見て期待した。そして、カバー見返しの要約を読んで楽しみになった。

 各章のタイトルは、つぎのとおりだが、節や見出しからも、いろいろな現実を教えてくれるのではないかと期待はふくらんだ。
  第一章 アジアとアメリカ
  第二章 ミャンマーの海賊たち
  第三章 中国の海賊、そして文化とコピーの関係について
  第四章 ティーショップに霧深く-公共圏から見たアジア文化
  第五章 ポピュラー文化が切り開く通路-「韓流」が見せたアジア的交流
の可能性
  終章 空高く、あるいはビル群の隙間からアジアの明日を見つめる

 要約では、つぎのように書かれていた。「文化人類学者である著者は、ミャンマー、中国、韓国の内部へと分け入り、鳥の目と虫の目でフィールド調査する。そこで発見したものは、海賊版ネットワークによってハリウッド等のアメリカ文化が受容されている現実であり、ビデオショップや喫茶店に集う人びとの体制批判であった」。「それら、先進諸国からすれば「非合法」なものこそ、統制社会の中にグローバル化の風をもたらすものなのだ」。「今こそ、こうした事実をふまえて、古いアジア像を更新する時である」。

 その古いアジア像とされたひとつが、梅棹忠夫の「文明の生態史観」であった。具体的に、著者、土佐昌樹はつぎのように述べている。「「文明の生態史観」がもつ本質的な欠陥を克服しなければならない。それは、ユーラシアをあたかも完結した系のように取り扱い、その中での歴史的進展にだけ注目したところにある。南北アメリカ、オセアニア、アフリカとの相互作用がまったく図式から欠落している。とりわけ、北米との相互作用が抜け落ちているのは、二〇世紀以降の世界を語る上で致命的な欠陥であり、その点は著者も自覚していたことを後で語っている。しかし、アジアと日本の文化変容にとって、アメリカは副次的な要因として片付けるにはあまりに大きな存在である。端的にいって、アメリカを軽視したあらゆるアジア論は空論になるしかないだろう」。

 以上のことから、著者の意図はわかったが、読み終えて、わたしが期待したものとは違っていたことがわかった。わたしが期待したのは、アジア各国・地域で、「アメリカ化」がどのように具体的に受け止められ、そこからどのように独自の「発展」をしているのかという、きわめて近代的な発想からのものであった。しかし、具体的な事例は、要約にあるとおりミャンマー、中国、韓国が中心で、それも期待していたほど「内部へと分け」入っていなかった。著者が「あとがき」で述べている「過去一〇年くらいの間で大学の仕事や調査研究を目的として訪れた国と地域」としてあげている「韓国、中国、ミャンマー、モンゴル、香港、台湾、ベトナム、タイ、インドネシア、フィリピン、スリランカ、マレーシア、キルギス、カザフスタン、ウズベキスタン、インド、ドバイ、イランなど」は、とくに取りあげられているわけではない。

 そして、「古いアジア像を更新」するために、ハーバーマスの公共圏にはじまり、ターナー、グレーバー、コーエン、クリフォード、アンダーソン、アパデュライなどの理論を用いて説明している。著者は、「終章」の最後を、「途方もない創造性と途方もない矛盾を抱え込んだ相似形のようなアジアの諸都市が、活発な交流を展開しながらお互いの「文化」を競い合う時代に突入したわけであり、その未来に胸ふくらむばかりだが、放蕩の自己増殖による破局(カタストロフ)のシナリオも絶えずその出番を窺っているかのようである」と結んでいる。文化人類学者ではない者にとっては、近代を基本とした理屈より、近代の理屈では語れない具体的事例をたくさん挙げてほしかった。とくに「アメリカ化」の歴史が長く深いフィリピンを研究対象としている者にとって、「アメリカ化の現実」の意味するものが気になった。

 具体的事例をもっと知りたくなったのは、本書を読んで、つぎのような疑問が浮かんだからである。近代における「アメリカ化」とグローバル化時代の「アメリカ化」とは、どう違うのだろうか。アジアの「アメリカ化」とほかの地域の「アメリカ化」とは、違うのだろうか。アジアといっても東南アジアを含む東アジアとほかのアジアとの違いはあるのだろうか。「「公共圏」が生まれる」ということが、なにを意味するのか。近代を越えるという意味で、もっと具体的に知りたいと思った。


→bookwebで購入

2009年04月14日

『歴史和解と泰緬鉄道-英国人捕虜が描いた収容所の真実』ジャック・チョーカー著、根本尚美訳(朝日新聞出版)

歴史和解と泰緬鉄道-英国人捕虜が描いた収容所の真実 →bookwebで購入

 正直言って、この手の本はあまり好きではない。まず、主題の「歴史和解」は、いくらがんばっても無理だというのが、わたしの基本的な考えだ。つぎに、副題にある「真実」というものもないのが大前提で、ある一定の見方で「真実」だと思っていること、と理解している。「歴史和解」をしてほしい、そのために「真実」を伝えたいという新聞社系の出版社の本らしいタイトルだ。

 日本兵の目を盗んで描き、大切に隠しもっていた記録画は、どこかで見たことがあると思っていたが、「訳者あとがき」でカンチャナブリの泰緬鉄道博物館にあると知って、思い出した。この博物館はイギリス人が中心となって建てたもので、泰緬鉄道にかんする博物館は、このほかにオーストラリア人、タイの僧院、タイの財閥が建てたものがある。それぞれが、泰緬鉄道の「真実」を伝えている。

 イギリス人捕虜が描いた収容所の「真実」から、歴史和解は可能なのか? それは、だれのための、なんのための和解なのか、読む前に疑問をもたざるをえなかった。そして、本書を読み始めて、わたしの危惧は的中した。「家族が精妙で美しい日本の芸術に興味」をもち、自身「日本人の芸術分野での業績に、大いなる喜びと称賛の念を抱き続け」ていた著者が、「戦争に投げ込まれ、やがて日本軍の捕虜となり、日本人の残虐行為を目撃し、自分も残虐に扱われ、むごい目に遭わされ、友人たちが殺害されるのを見るようになり」、日本に裏切られたと思うようになった。その最初がシンガポールでの体験で、その記述から「和解」を感じることはできなかった。

 王立美術学校絵画学部を卒業した著者が描いた本書収載の100点超のカラー画を見ていると、日本兵の残虐性と捕虜の悲惨さがよく伝わってくる。と同時に、風景画からは戦争をまったく感じさせないのどかなタイの様子が伝わってくる。当時、タイ人が戦争とは無縁の日常生活を送っていたような錯覚に陥ってしまう。

 このわたしの違和感を、ビルマ史研究者の根本敬が、「鼎談 泰緬鉄道とアジア」でつぎのように代弁してくれている。「泰緬鉄道をめぐる和解ということになれば、一番の基本は泰緬鉄道の舞台となったビルマやタイ、それからもちろんマラヤ、シンガポールが、それぞれ単なる「風景」ではなくて、そこに人がいて、タイを除けばそこが列強の植民地だったこと、そこに日本軍が入っていったこと、そこに人が住み、その人たちがどうなったのかということを考えないといけないと思うのです。泰緬鉄道をめぐって、いくら日本とイギリスの関係者だけが和解に努力しても、実は大事なものを忘れてしまっているのではないかと私には感じられます」。

 同じような「和解」の試みは、ボルネオを戦場とした映画「最後の弾丸」(1994年)でも描かれていた。玉置浩二演じる日本兵とオーストラリア人歌手ドノバン演じるオーストラリア兵が、戦後年老いて再会して「友情」を暖めあっていた。しかし、戦場となったボルネオの住民は、無邪気な乙女がちょこっと出てくるだけである。

 「歴史学習の場で和解を考える」ことの難しさは、「鼎談」でも語られている「ショッキングな話や写真というのは諸刃(もろは)の剣」というだけでなく、帝国史観で戦争を語ることにもなってしまう危険性がある。日本人の戦争にたいする無知にかんしての逸話は、数えあげたらきりがないが、知ろうとしたときに、どのように学べばいいのか、歴史教育として重要な課題といえる。本書の日本語への翻訳は、「解説」と「鼎談」があってはじめて、意義があるものになったということができるだろう。ということは、原典の英語版が、この「手記」だけであるなら、問題としなければならない。

 冒頭で述べたとおり、「歴史和解」は無理だと思っている。しかし、「歴史和解」を試みることに異を唱えているわけではない。「歴史和解」を試みた結果、無理だということを知ることによって、戦争を起こすことが取り返しのつかないことだと認識できるようになる。「歴史和解のために、今できること」のひとつが、本書を読んで考えることである。

→bookwebで購入

2009年04月07日

『在留日本人の比島戦:フィリピン人との心の交流と戦乱』藤原則之(光人社)

在留日本人の比島戦:フィリピン人との心の交流と戦乱 →bookwebで購入

 光人社はといえば、多くの「戦記もの」を出版してきたことで有名で、かつてこれらの「戦記もの」は書店の1階に大きなスペースを確保していた。その光人社が、終戦50年を機に刊行をはじめたのが、NF文庫である。自費出版の復刻を含め低価格で読むことができることはありがたいが、フィリピンが戦場であってもフィリピン研究に役に立つものはあまりなかった。日本人兵士が、フィリピンについてあまりにも無知であったからである。

 ところが、本書は違う。著者、藤原則之は昭和5年(1930年)にフィリピンに渡航した在留日本人である。在留日本人といっても、皆が皆、フィリピン語を話し、日常的にフィリピン人と交流をもったわけではない。ダバオやマニラの日本人社会に埋没し、現地の人びとのことも社会のこともまったくわかっていない人も少なくなかった。

 著者は、昭和7年から日本人人口の少ない地方で暮らし、「まえがき」冒頭でつぎのように説明している。「私は、昭和五年三月から昭和二十一年十二月まで、フィリピン群島に居住していた。自由移民としてミンダナオ島に渡り、マニラ麻生産に従事していたが、世界的不景気のためルソン島に兄貴を頼って移住し、兄貴の経営していた陶器製造にたずさわり、焼物に必要な薪の切り出し作業を主な仕事として、伐採跡地に陸稲(おかぼ)を栽培し、パパイア、バナナなどを作り、野菜を蒔(ま)き付け、農業者として現地人(タガログ族)と一緒に熱帯の大地に生きてきたのである」。「私はピリピノ(タガログ語でフィリピン人のこと)が好きである」。

 戦争勃発後の履歴については、つぎのように記されている。「[昭和]17年1月、軍道路隊、長谷川部隊(安藤隊)に通訳要員として勤務。同年7月、軍政監部土木課、ロスバニョス砕石工場に転勤。19年3月、リパ憲兵分隊に勤務。同年9月、黒宮支隊に現役入隊。20年3月、リサール州アンチポロ町において、黒宮支隊玉砕。21年12月、名古屋港に引き揚げる」。

 本書のなかで、フィリピン研究として、もっとも資料的価値があるのは、ガナップにかんする箇所だろう。ガナップとは、1933年に結成されたサクダル党(右派民族主義運動団体)が38年に党名を変更したものである。サクダル党は、即時・絶対・完全独立などを唱え、アメリカ庇護下での独立を嫌い、党首のベニグノ・ラモスは日本に期待して、「亡命」し武器調達を図った。日本軍のフィリピン占領後、日本軍に協力し、形勢が不利になった後も日本軍と行動を共にした、といわれてきた。

 本書では、まず1935年のサクダル党の蜂起について簡単に語られ、45年3月の著者の所属支隊玉砕後に、なんどか避難中のガナップ党員・家族が在留日本人とともに、「特殊部隊と思われる部隊の指揮に従って」行動している様子を記している。そして、犠牲になった具体的な様子も書かれている。  そのほか、フィリピンで生活する者の視点で書かれた記述には、多くの「戦記もの」とは違う「戦争」が描かれている。カタカナ表記のフィリピン語会話が頻出し、フィリピン語のわかる者はその場の雰囲気が、より具体的にわかる。「戦記もの」を読むのは嫌だという人も、イメージが変わるかもしれない。

→bookwebで購入