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2009年03月24日

『新南島風土記』新川明(岩波現代文庫)

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 1881年1月をもって、宮古・八重山諸島は、清国の領土となる条約が発効されることになっていた。清国側が提案していた琉球3分案(奄美諸島の帰属は日本、沖縄本島は王国再興、宮古・八重山諸島の帰属は清国)にたいして、日本は宮古・八重山諸島を清国に割譲することと引き替えに日支通商条約を改修することを提案していた。いずれにせよ、宮古・八重山諸島は清国の領土になることになっていたが、清国皇帝が裁可をのばしていたために正式調印にいたらず、ウヤムヤになってしまった。そのときは、日本領土に組み込まれたが、1951年のサンフランシスコ講和条約では、沖縄本島とともに宮古・八重山諸島は日本領土から切り離された。辺境の地の悲哀と言っていいのだろうか。

 1964年8月から65年9月まで『沖縄タイムス』に連載された本書は、78年に単行本として刊行され、87年に文庫化されて、2005年に岩波現代文庫の1冊となった。著者、新川明の「あとがき」、単行本出版にさいしての島尾敏雄の「跋」、そして、現代文庫の池澤夏樹の「解説」、それぞれ本書の内容を的確に紹介している。

 著者は「あとがき」で、つぎのように述べている。「この本の特色を言うとすれば、島の人びとの生きざまと、それを育てた歴史的土壌に真摯に向き合うことで、みずからの存在を本源のところでたしかめたいとねがうひとりの人間の、島から発したメッセージとでも言うことができようか。」

 連載後、十数年を経て出版をためらう著者を「挑発」した島尾敏雄は、「跋-新川明との出合い」でつぎのように評価している。「私は今度全体を読み返し、文章の行間から波の音がきこえてくる思いを抱いた。八重山の島々が、実に程よくとらえられている。土地勘は言うまでもなく柔軟で適確であり、底に流れているしっかりした歴史観が、平易な文章で綴られていて誠に興味深かった。それに八重山の、すぐれて文学的な歌謡を以って点綴されているから、一面八重山文学或いは南島文学手引きとしても読むことができることに驚いた。引用された歌謡は、足で歩いて感受した甚だ具体的な風景描写の支えの中で、イメージ豊かに息づき、中には新らしい歌詞の発見やテキスト校勘への示唆などをさりげ無く呈出している箇所さえ含まれているのだ。」

 イスロマニア(「四方を海に囲まれた小さな陸地にいるというだけで異常な喜びを感じる精神的資質」をもつ者)と自称する池澤夏樹は、「解説 島への階梯」で、「この本には三つの柱がある。」「まずは島の生活。次が被収奪の歴史。そして歌。」と簡潔に述べた後、「被収奪の歴史」の説明で、つぎのように問いかける。「ヤマトによる収奪は琉球王国が沖縄県になってから更に苛烈になった。薩摩藩がいかに強欲でも敗戦を引き延ばすために十数万の民間人を敵の戦車の前に立てはしなかった。強権的な他国の軍事基地を六十年に亘って島に据えさせもしなかった。東京に向かってその不当を訴える本島人と、八重山に行って人頭税の不当の歴史を聞き取る本島人はどう重なるのか」。そして、つぎのようにいって、納得してしまう。「そう、歌だ!」「この本に歌の話がなければ、ぜんたいの印象はいかにも殺伐たるものになってしまっただろう。八重山に歌がなければ、ここに生まれて暮らして死んだ人々の日々はなんと味気ないものになっていたことだろう。それを新川は正しく見てとり、ほとんどそこに救いを求めた」。

 たしかに八重山諸島は、琉球王国の辺境であり、近代日本の国境に位置する。閉じた王国、国民国家から見ればそうであるが、そこから外へ開くという視点に立てば、最先端で、外への玄関口となる。そういう時代が一時だがあったことを、本書ではつぎのように記されている。「終戦直後、まだ世情が混乱して定まらなかった頃は、泡沫に似た密輸景気で島[与那国島]は活気に溢れていた。島の西端にある久部良港は、台湾・香港・沖縄を結ぶ密輸船の中継基地として、かつてない賑わいをみせ、二百戸余の部落に、料亭が三十余も軒を並べ日夜密輸成金たちの乱痴気騒ぎがつづいたものだという」。

 八重山諸島など沖縄には、神社がほとんどない。祖霊信仰が基本だからだ。しかし、同じ国境の島々である対馬や隠岐諸島には、記紀神話につながる神社が、古来からの日本領土であることを主張するかのように存在している。沖縄は、近代の国家神道にも包摂されることはなく、割譲の対象となった。日本にとって沖縄とは、沖縄にとって八重山諸島とはなんなのだろうか。それは、これからも変わらないのだろうか。どこが中心でどこが辺境か、という時代ではもはやないように思うのだが・・・。

*         *         *

 本書を携えて、与那国島、西表島、竹富島、石垣島をめぐった。西表島、石垣島では、フリーパスをフルに活用して定期バスでめぐった。1週間、毎日雨が降ったお蔭で、体力をさほど消耗せずに歩くことができ、「幸運」だった。これまで沖縄本島に行っても、先島諸島に足を伸ばすことはなかった。戦前にフィリピンに渡った移民のほとんどが、本島出身だったからである。しかし、それが間違いだったことに、本書を読み、歩いてわかった。18世紀前半に琉球王国の立て直しのために石垣島や西表島に周辺の島々から強制移住させられたり、終戦後にアメリカ軍基地のために土地を奪われた人びとが政府による計画移民で石垣島北部や西表島に入植したりして、古くから琉球諸島内での移住が繰り返されていた。その移住の結果は、しばしば悲惨な結果に終わった。マラリアのために死者が続出し廃村に追い込まれたり、台風や津波のために全戸が壊滅したりした集落もあった。そして、集落ができるたびに御嶽をつくり、カミに祈った。御嶽の由来を聞けば、その集落の歴史がわかってくる。こういう歴史と文化のなかで、沖縄の海外移民を理解しなければと思った。

 その御嶽は、戦争中に出征兵士が参詣する場として利用され、おもな御嶽には鳥居がある。その鳥居の多くは、戦後建て直されていた。また、竹富島には彌勒奉安殿があり、石垣市街地の登野城小学校校門横には奉安殿が残されている。奉安殿には、天皇のご真影などがあったはずだ。沖縄にとって、天皇制国家、日本とはなんだったのだろうか。沖縄本島からだけでは見えてこない沖縄の姿が、八重山諸島にはあった。学ぶことの多い旅であった。

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