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2009年03月10日

『インドネシアの歴史-インドネシア高校歴史教科書』イ・ワヤン・バドリカ著、石井和子監訳、桾沢英雄・菅原由美・田中正臣・山本肇訳(明石書店)

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 世界的に偏狭なナショナル・ヒストリーが否定され、日本の学界でも「国史」からより相対的に自国の歴史を観る「日本史」へと名称変更がおこなわれたのは、もう何年も前のことだった。しかし、自国史を相対化することはそれほど容易いことではないし、その基となる偏狭なナショナル・ヒストリーでさえ、充分に語られていない国がある。インドネシアも、そんな国のひとつであることが、本書からわかる。

 本書の基となったのは、1994年カリキュラムの施行に合わせて必修科目となった国史・世界史の教科書を、1999年学習指導要領補遺に合致させるために大幅に改訂したものである。本書は、全3巻からなる教科書のうち、インドネシア史関連記述のみを採用し、世界史記述すべてを省略したものである。

 本書を通読して、全3巻の第1~3章、第4~7章、第8章とは違う3つの区分があることがわかった。第1章「インドネシアの先史時代」から第4章「インドネシアにおけるヨーロッパ人支配の拡大」までは、インドネシアという枠組みで語ることへの戸惑いが感じられる。その戸惑いも、2つに分けられる。学術的成果を基本に事実関係が述べられている第1~3章にたいして、第4章はヨーロッパ中心史観を基本に断片的な抵抗を語ることで第5章以下につなげようとしている。いずれも、ナショナル・ヒストリーが充分に洗練されたかたちになっていないためだろう。しかし、どう語ろうとしようとしているのかがうかがえる記述もある。たとえば、第2章「インドネシアにおけるヒンドゥー教・仏教の影響」では、つぎのような記述がある。「インドネシア人はヒンドゥー教・仏教の教えをすべて鵜呑みにしたわけではなく、彼らの民族性に合わせて選択的に噛み分けて受容した。つまり、ヒンドゥー教的・仏教的な諸文化要素はインドネシア化され、しだいにインドネシア人独自のものになったのである」。第3章「インドネシアにおけるイスラムの発展」でも、その独自性が語られている。

 第5章「インドネシア民族運動の萌芽と発展」、第6章「日本占領とインドネシア独立準備」、第7章「インドネシア独立宣言と主権確立への努力」の3章は、インドネシア「国史」の核心となる部分で、もっとも生き生きとして語られている。インドネシア国民国家の形成に向かって、人びとが一致団結していかに闘い、勝利したかが、臨場感をもって伝わってくる。

 ところが、第8章「独立を完成させるための努力」となると、とたんに歯切れが悪くなる。「9月30日運動」や「東ティモール問題」などスハルト政権時代の評価が定まっていないために、事実が淡々と記述されているだけである。第5~7章にみられたような「物語性」はなくなっている。

 インドネシアの歴史教科書をめぐる問題は、「監訳者あとがき」にも書かれている。2002年に翻訳を完了していた本書は、2004年度カリキュラムにもとづく2005年刊行の新教科書によって、お蔵入りになるはずだった。それが、新教科書の翻訳が突然不許可になり、復活し、日の目を見た。新教科書から、インドネシア共産党の記述が消えたことが、問題とされたためである。

 国史・世界史が一体となった教科書は、世界史を理解することによって国史を相対化する意味がある。しかし、国史では語れないことを、世界史で語るということもある。それは、インドネシアに限られたことではなく、世界のどこの国でもありそうなことである。日本でも、とくに天皇制に関係する古代史などは、意識的・無意識的に学問的成果とは関係なく語られることがある。国史の教科書は、それぞれの国民のための歴史教育の基本である。世界史の教科書は、地球市民としての良識を考える基本であると言っていいかもしれない。その両方のバランスがうまくとれる歴史教育をすることを、世界規模で考える時代になった。

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