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2009年03月31日

『砂糖のイスラーム生活史』佐藤次高(岩波書店)

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 『山川 世界史小辞典 改訂新版』(2007年発行の第2刷)の「砂糖」の項目をみると、つぎのように書かれていた。「サトウキビを原料とする砂糖生産は、原産地のインドあるいは東南アジアから中国をへて、17世紀初め頃琉球に伝わった。一方インド以西の砂糖生産は、7世紀初め頃にイラン、イラクの低地に導入され、8世紀にはエジプトでもサトウキビ栽培が開始された。10世紀以降、イスラーム世界の砂糖(スッカル)はヨーロッパ向けの重要な輸出商品となり、その消費の拡大につれてシュガーの呼称が定着した。イスラーム世界の製糖技術は、大西洋を越えて西インド諸島や南アメリカに伝えられ、16世紀以降、黒人奴隷を用いた砂糖プランテーションが行われるようになると、ヨーロッパでは砂糖入りのコーヒーや紅茶を楽しむ習慣が定着した。ヨーロッパなど冷涼な地域でビート(砂糖大根)を原料とする砂糖生産が開始されるのは、18世紀以後のことである。」

 わたしたちは、ヨーロッパに広まった後の「砂糖の世界史」は知っていても、ヨーロッパに伝えたイスラーム世界でいかに普及し、またいかなる役割を果たしたのかほとんど知らない。「本書は、この重要な問いに答えるため、膨大なアラビア語史料を駆使して、砂糖きび栽培、砂糖生産と交易、政治権力の関与、医学・食との関わり、などを解明する。ひとつの<もの>を通してえがくイスラーム社会史であり、従来の「砂糖の世界史」に新局面をひらく貴重な実証研究である」。

 具体的に、著者、佐藤次高は、根拠が曖昧なまま書かれてきた「「製糖業といえば奴隷労働」と考えるヨーロッパでの固定観念にもとづく誤解」を指摘したり、製紙法や火薬、あるいは羅針盤が中国からイスラーム世界に伝えられたのに対して、「製糖技術については、先端的な製糖業の中心であったマムルーク朝期のエジプトから中国へ伝えられた可能性は、きわめて高いとみるべきであろう」と技術の相互交流を指摘したりしている。こういう実証研究の成果がでてくると、いままでの「世界史」とはなんだったのだろうかと疑問に思ってしまう。

 著者が「膨大なアラビア語史料を駆使」していることは、巻末の文献目録だけでなく、本文からもよくわかるが、それでも著者が読み切れていない史料として、1889年にユダヤ教会から発見された「カイロ・ゲニザ文書」があることを紹介している。大半がヘブライ文字のアラビア語で記されたユダヤの砂糖商人の記録を含むこの文書に取り組む日本人研究者は、まだいないという。新たな資料の発見があまり望めない分野や同じようなテーマ設定しかできない分野に多くの研究者が群がるようでは、「新局面」は望めないし、「固定観念にもとづく誤解」に気づかず、一方通行的な歴史観から脱却することはできない。本書は、「イスラーム生活史」の一端を明らかにすることによって、ヨーロッパ史や中国史の見直しにも貢献し、「世界史」の全体を展望して歴史研究を進めることの重要性をも教えてくれる。

 それにしても、著者の苦労は、並大抵ではなかった。まず、「年代記、都市史、百科全書、地理書、旅行記、伝記集、医学書、薬事書、薬膳書などから、砂糖関係の記事を少しずつ拾い集め」るために膨大なる時間を費やし、さらに「ふだん慣れ親しんでいない専門用語の解釈や翻訳」に苦労している。そして、文献に出てくる円錐形の素焼き壺を求めてイスラーム世界の博物館を渡り歩き、考古学者の助言を得ている。また、粗糖から白砂糖をつくる過程で牛乳を加えるという疑問を解くために、農学部農芸化学科の畜産物利用学研究室を訪ねたりしている。もう、「文献からわかること以上は、わかりません!」と開き直る文献史学の時代は終わったことも、本書からわかる。

 本書は、著者の単著としてちょうど10冊目にあたるという。こういう具体的なお手本を示してくれると、素直に学ぶことができる。後進の者としては、ひじょうにありがたい1冊である。

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2009年03月24日

『新南島風土記』新川明(岩波現代文庫)

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 1881年1月をもって、宮古・八重山諸島は、清国の領土となる条約が発効されることになっていた。清国側が提案していた琉球3分案(奄美諸島の帰属は日本、沖縄本島は王国再興、宮古・八重山諸島の帰属は清国)にたいして、日本は宮古・八重山諸島を清国に割譲することと引き替えに日支通商条約を改修することを提案していた。いずれにせよ、宮古・八重山諸島は清国の領土になることになっていたが、清国皇帝が裁可をのばしていたために正式調印にいたらず、ウヤムヤになってしまった。そのときは、日本領土に組み込まれたが、1951年のサンフランシスコ講和条約では、沖縄本島とともに宮古・八重山諸島は日本領土から切り離された。辺境の地の悲哀と言っていいのだろうか。

 1964年8月から65年9月まで『沖縄タイムス』に連載された本書は、78年に単行本として刊行され、87年に文庫化されて、2005年に岩波現代文庫の1冊となった。著者、新川明の「あとがき」、単行本出版にさいしての島尾敏雄の「跋」、そして、現代文庫の池澤夏樹の「解説」、それぞれ本書の内容を的確に紹介している。

 著者は「あとがき」で、つぎのように述べている。「この本の特色を言うとすれば、島の人びとの生きざまと、それを育てた歴史的土壌に真摯に向き合うことで、みずからの存在を本源のところでたしかめたいとねがうひとりの人間の、島から発したメッセージとでも言うことができようか。」

 連載後、十数年を経て出版をためらう著者を「挑発」した島尾敏雄は、「跋-新川明との出合い」でつぎのように評価している。「私は今度全体を読み返し、文章の行間から波の音がきこえてくる思いを抱いた。八重山の島々が、実に程よくとらえられている。土地勘は言うまでもなく柔軟で適確であり、底に流れているしっかりした歴史観が、平易な文章で綴られていて誠に興味深かった。それに八重山の、すぐれて文学的な歌謡を以って点綴されているから、一面八重山文学或いは南島文学手引きとしても読むことができることに驚いた。引用された歌謡は、足で歩いて感受した甚だ具体的な風景描写の支えの中で、イメージ豊かに息づき、中には新らしい歌詞の発見やテキスト校勘への示唆などをさりげ無く呈出している箇所さえ含まれているのだ。」

 イスロマニア(「四方を海に囲まれた小さな陸地にいるというだけで異常な喜びを感じる精神的資質」をもつ者)と自称する池澤夏樹は、「解説 島への階梯」で、「この本には三つの柱がある。」「まずは島の生活。次が被収奪の歴史。そして歌。」と簡潔に述べた後、「被収奪の歴史」の説明で、つぎのように問いかける。「ヤマトによる収奪は琉球王国が沖縄県になってから更に苛烈になった。薩摩藩がいかに強欲でも敗戦を引き延ばすために十数万の民間人を敵の戦車の前に立てはしなかった。強権的な他国の軍事基地を六十年に亘って島に据えさせもしなかった。東京に向かってその不当を訴える本島人と、八重山に行って人頭税の不当の歴史を聞き取る本島人はどう重なるのか」。そして、つぎのようにいって、納得してしまう。「そう、歌だ!」「この本に歌の話がなければ、ぜんたいの印象はいかにも殺伐たるものになってしまっただろう。八重山に歌がなければ、ここに生まれて暮らして死んだ人々の日々はなんと味気ないものになっていたことだろう。それを新川は正しく見てとり、ほとんどそこに救いを求めた」。

 たしかに八重山諸島は、琉球王国の辺境であり、近代日本の国境に位置する。閉じた王国、国民国家から見ればそうであるが、そこから外へ開くという視点に立てば、最先端で、外への玄関口となる。そういう時代が一時だがあったことを、本書ではつぎのように記されている。「終戦直後、まだ世情が混乱して定まらなかった頃は、泡沫に似た密輸景気で島[与那国島]は活気に溢れていた。島の西端にある久部良港は、台湾・香港・沖縄を結ぶ密輸船の中継基地として、かつてない賑わいをみせ、二百戸余の部落に、料亭が三十余も軒を並べ日夜密輸成金たちの乱痴気騒ぎがつづいたものだという」。

 八重山諸島など沖縄には、神社がほとんどない。祖霊信仰が基本だからだ。しかし、同じ国境の島々である対馬や隠岐諸島には、記紀神話につながる神社が、古来からの日本領土であることを主張するかのように存在している。沖縄は、近代の国家神道にも包摂されることはなく、割譲の対象となった。日本にとって沖縄とは、沖縄にとって八重山諸島とはなんなのだろうか。それは、これからも変わらないのだろうか。どこが中心でどこが辺境か、という時代ではもはやないように思うのだが・・・。

*         *         *

 本書を携えて、与那国島、西表島、竹富島、石垣島をめぐった。西表島、石垣島では、フリーパスをフルに活用して定期バスでめぐった。1週間、毎日雨が降ったお蔭で、体力をさほど消耗せずに歩くことができ、「幸運」だった。これまで沖縄本島に行っても、先島諸島に足を伸ばすことはなかった。戦前にフィリピンに渡った移民のほとんどが、本島出身だったからである。しかし、それが間違いだったことに、本書を読み、歩いてわかった。18世紀前半に琉球王国の立て直しのために石垣島や西表島に周辺の島々から強制移住させられたり、終戦後にアメリカ軍基地のために土地を奪われた人びとが政府による計画移民で石垣島北部や西表島に入植したりして、古くから琉球諸島内での移住が繰り返されていた。その移住の結果は、しばしば悲惨な結果に終わった。マラリアのために死者が続出し廃村に追い込まれたり、台風や津波のために全戸が壊滅したりした集落もあった。そして、集落ができるたびに御嶽をつくり、カミに祈った。御嶽の由来を聞けば、その集落の歴史がわかってくる。こういう歴史と文化のなかで、沖縄の海外移民を理解しなければと思った。

 その御嶽は、戦争中に出征兵士が参詣する場として利用され、おもな御嶽には鳥居がある。その鳥居の多くは、戦後建て直されていた。また、竹富島には彌勒奉安殿があり、石垣市街地の登野城小学校校門横には奉安殿が残されている。奉安殿には、天皇のご真影などがあったはずだ。沖縄にとって、天皇制国家、日本とはなんだったのだろうか。沖縄本島からだけでは見えてこない沖縄の姿が、八重山諸島にはあった。学ぶことの多い旅であった。

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2009年03月17日

『豚と真珠湾 幻の八重山共和国』斎藤憐(而立書房)

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 舞台は、1945年11月の沖縄の石垣港近くの料亭で始まる。登場人物は、「サカナヤー(料理屋)「オモト」の主人」「武部隊。海南新報記者」「小学校教師」「中学校の歴史の教師」「密貿易業者」「台湾人の元暁部隊隊員」「日系二世の兵士・通訳」「戦災孤児」「海人」「予科練あがりの特攻隊員」「警察官」「戦災孤老」などで、これらの人びとの口を通して、沖縄の歴史、沖縄と本土の関係、沖縄本島と八重山諸島の関係、八重山諸島の歴史と文化が語られる。多少八重山諸島のことを知っている者なら、よくぞここまで凝縮して語ることができるものだと感心してしまう。しかし、知らない者には、ちんぷんかんぷんの別世界のお話だろう。

 主題の「豚と真珠湾」は、ハワイに移住した沖縄人が、豚を飼う野蛮人だといわれてバカにされたところからきている。副題の「八重山共和国」は、終戦後マラリアが蔓延するなか無政府状態に陥った八重山諸島で発足した自治会(1945年12月15日~46年1月24日)の俗称である。

 台詞の端々から、八重山諸島の人びとが、その歴史と文化を背景に、終戦直後をいかに「助け合いながら、自分たちの生きる方向を模索」したかが伝わってくる。その一部を、つぎに抜き出す。
 「この島だけで年寄りが百人も残された。」「戦災孤児じゃなく、戦災孤老か。」
 「台湾に疎開した六千人が基隆埠頭で、引き揚げ船を待っとるさあ。」
 「若い人たちが自治会作ってね。部落から芋を集めて、身寄りのない家に配ってるさ。」
 「俺に人殺しをさせたヤマトの兵隊が、学生に化けてんのか!」
 「もし日本が特攻基地を作らなかったら、石垣島は爆撃されていなかったでしょう。」
 「我々は日本国国民として生きることを望んでいない! 平和に生きてきた琉球民族の国家を再建し、海洋の民として生きることを望む!」
 「沖縄にはたくさんの島があり、別々の方言を喋っています。黒島の小学校を出て石垣の中学に進んだ子どもは、初めて電灯というものを見ますが、石垣の言葉がわからず馬鹿にされました。沖縄本島の県立高校に進むと首里言葉がちんぷんかんぷん。大学のある東京では、地下鉄が走っとった。……町には「朝鮮人と琉球人お断り」って張り紙。方言は文化ですが、共通語は文明です。私はウチナーグチの教科書を作ることには反対です。」

 最後の舞台は、1950年9月になっている。著者は、「あとがき」で、「千三百頁を超える講談社の『昭和史全記録』の「沖縄」「琉球」の項には五年の空白がある。敗戦直後に日本の新聞が取り上げたのは、一九四六年六月一日「GHQが、琉球列島の日本の行政権を停止した」という小さな記事だけだ」と書いている。著者は、歴史から消されたその空白を語りたかったのだろう。

 その著者、斎藤憐の略歴は本書に記されていない。劇作家として、あまりにも有名だからだろう。本書では、略歴のかわりに巻末に20冊あまりの著書の広告が載っている。1940年に朝鮮の平壌で生まれた著者は、1980年に「上海バンスキング」で岸田國士戯曲賞を受賞し、その後菊田一夫演劇賞、紀伊国屋演劇賞、鶴屋南北戯曲賞を受賞している。平壌生まれの影響か、港と港から繋がる外の世界を描いたものが目につく。

 それにしても、「あとがき」の最後の4行は、さらりと読みすごすには、あまりに重い現実を言い表している。「ロケーションを沖縄本島に採らなかったのは、本島はあまりに悲惨すぎ、僕のようなヤマトの人間には贖罪の気持ちが先行し、人々の生活をありのままに描けなくなるからだ。」「それに、サバニ(小船)を操って、この列島に米も豚も芋も運んできた海洋民の楽天性とアナーキズムをぜひ描きたかった。」気持ちよく聞いている沖縄の歌の意味に気づいて、ドキッとすることがある。「楽天性とアナーキズム」に潜む現実を著者は知っているから、この戯曲は書けた。

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2009年03月10日

『インドネシアの歴史-インドネシア高校歴史教科書』イ・ワヤン・バドリカ著、石井和子監訳、桾沢英雄・菅原由美・田中正臣・山本肇訳(明石書店)

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 世界的に偏狭なナショナル・ヒストリーが否定され、日本の学界でも「国史」からより相対的に自国の歴史を観る「日本史」へと名称変更がおこなわれたのは、もう何年も前のことだった。しかし、自国史を相対化することはそれほど容易いことではないし、その基となる偏狭なナショナル・ヒストリーでさえ、充分に語られていない国がある。インドネシアも、そんな国のひとつであることが、本書からわかる。

 本書の基となったのは、1994年カリキュラムの施行に合わせて必修科目となった国史・世界史の教科書を、1999年学習指導要領補遺に合致させるために大幅に改訂したものである。本書は、全3巻からなる教科書のうち、インドネシア史関連記述のみを採用し、世界史記述すべてを省略したものである。

 本書を通読して、全3巻の第1~3章、第4~7章、第8章とは違う3つの区分があることがわかった。第1章「インドネシアの先史時代」から第4章「インドネシアにおけるヨーロッパ人支配の拡大」までは、インドネシアという枠組みで語ることへの戸惑いが感じられる。その戸惑いも、2つに分けられる。学術的成果を基本に事実関係が述べられている第1~3章にたいして、第4章はヨーロッパ中心史観を基本に断片的な抵抗を語ることで第5章以下につなげようとしている。いずれも、ナショナル・ヒストリーが充分に洗練されたかたちになっていないためだろう。しかし、どう語ろうとしようとしているのかがうかがえる記述もある。たとえば、第2章「インドネシアにおけるヒンドゥー教・仏教の影響」では、つぎのような記述がある。「インドネシア人はヒンドゥー教・仏教の教えをすべて鵜呑みにしたわけではなく、彼らの民族性に合わせて選択的に噛み分けて受容した。つまり、ヒンドゥー教的・仏教的な諸文化要素はインドネシア化され、しだいにインドネシア人独自のものになったのである」。第3章「インドネシアにおけるイスラムの発展」でも、その独自性が語られている。

 第5章「インドネシア民族運動の萌芽と発展」、第6章「日本占領とインドネシア独立準備」、第7章「インドネシア独立宣言と主権確立への努力」の3章は、インドネシア「国史」の核心となる部分で、もっとも生き生きとして語られている。インドネシア国民国家の形成に向かって、人びとが一致団結していかに闘い、勝利したかが、臨場感をもって伝わってくる。

 ところが、第8章「独立を完成させるための努力」となると、とたんに歯切れが悪くなる。「9月30日運動」や「東ティモール問題」などスハルト政権時代の評価が定まっていないために、事実が淡々と記述されているだけである。第5~7章にみられたような「物語性」はなくなっている。

 インドネシアの歴史教科書をめぐる問題は、「監訳者あとがき」にも書かれている。2002年に翻訳を完了していた本書は、2004年度カリキュラムにもとづく2005年刊行の新教科書によって、お蔵入りになるはずだった。それが、新教科書の翻訳が突然不許可になり、復活し、日の目を見た。新教科書から、インドネシア共産党の記述が消えたことが、問題とされたためである。

 国史・世界史が一体となった教科書は、世界史を理解することによって国史を相対化する意味がある。しかし、国史では語れないことを、世界史で語るということもある。それは、インドネシアに限られたことではなく、世界のどこの国でもありそうなことである。日本でも、とくに天皇制に関係する古代史などは、意識的・無意識的に学問的成果とは関係なく語られることがある。国史の教科書は、それぞれの国民のための歴史教育の基本である。世界史の教科書は、地球市民としての良識を考える基本であると言っていいかもしれない。その両方のバランスがうまくとれる歴史教育をすることを、世界規模で考える時代になった。

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